夢のような日々に。
明晰夢、というものをご存じだろうか。
一言でその意味を説明するのであれば、ずばり“夢の中でこれが夢だということを認識した上で自由に動ける夢”のことである。
夢夢等と繰り返しすぎて、一見何のことだかわからなくなりかけているので少しかみ砕いて説明すると、まず普通の夢の中では、その夢を見ている当人はそれが夢だと気づくことができない。それこそ「夢の中で殺人鬼に追われて死ぬかと思った」なんて感想が時たま飛び出すのは、それが夢であると気づいていないからに他ならない。夢だと気づいていたのなら、それはフィクションだと知りながら見る映画のようなものであり、本気で焦ったり死にかけたと思ったりはしないはずだ。
だがその反対に明晰夢とは、夢の中でふと「これは夢だ」と気付くことができた場合に見ることができる夢なのだ。夢というのはそもそも、自分が自分に見せている幻のようなもので、言ってしまえばその仕組みにさえ気付いてしまえばその内容など思うがままであり、明晰夢の中では自分の思い描く通りのお話をいくらでも体験することができるのだ。
ちょっとしたことで言えば空を飛ぶもよし、魔法を使うでも、好きに街のものを破壊して歩くでもよし、少し大きな話をするのであれば勇者になって国を救うもよし、逆に魔王になって悪逆非道の限りを尽くすもよしの、文字通りなんでもありの夢の世界がそこには広がっているわけだ。
だが、あいにくと明晰夢というものはそう簡単に見られるものではない。
人によっては訓練を積んで自在に明晰夢を見られれるようになった、なんて話を聞いたりもするが、基本的に凡人が明晰夢を見るチャンスなどそうそうなく、あったとしてもごくまれに何かの拍子に「あ、これ夢だ」と気付けたときくらいのものだろう。
──もし、日常的に明晰夢を見ることができるのなら──
そんな願いは、一度でも明晰夢を見たことのある人間ならば誰しもが抱く想いであろう。
何しろ普通の人間にしてみればただ眠っているだけの時間に、文字通り夢のような体験をすることができるのだ。そんなもの、できたら楽しいに決まっている。
ああ、俺にもそんな力があればなぁ。
……と、ふとそんなことを考えた俺は、その日の朝、通学路で偶然一緒になった後輩の九条に明晰夢を知っているかと尋ねてみた。
「明晰夢っスか? また随分と唐突っスね」
「俺の話が唐突なのはいつものことだろ? それで、知ってるか?」
「ええ、まあ。夢の中でこれが夢だとさえ気づけばやりたい放題できる、ってやつっスよね?」
「いや言い方よ……あってるけどさ」
あっけらかんと言い切る九条に俺は苦笑いを浮かべる。
「いやいやいや、でも実際そうじゃないっスか! どうせ先輩のその明晰夢を見たい理由とやらだって、エロいことをしたいからとかそんなところでしょうに」
「なななななな何を言ってるんだお前ははははは」
「めっちゃ動揺してるじゃないっスか」
「いいいいいいや、これはアレだ……えっと、寒くて震えてるだけだ!」
「今夏ですけどねー」
じとーっとこちらを軽蔑したように見つめる視線から逃れるように、俺はああ暑い暑いと襟をぱたぱたと仰いでみせる。
やれやれ、危ない危ない。
隠したはずの話の核心にいきなり踏み込まれ、思わず口が震えてしまったぜ……。
「……なんでわかったの?」
まさかうら若き乙女に、男子の見るに堪えない欲求の奥底を見抜かれるとは思わなかったので、平静を装ってそんなことを聞いてみる。
「だって、先輩ですもん」
「うーん、簡潔かつ一番俺が傷つく答えをありがとう」
「いえいえ」
「駄目だこいつ皮肉が通じてねェ」
「今更私に皮肉なんてものが通じると思ったら大間違いっスよ、セーンパイ?」
にちゃあっと口を大きくゆがませて笑う九条に、俺は参ったとばかりに両手を上げて降参する。
「で、先輩はその明晰夢を見られるようになったとして、一体どんなエロい夢を見てみたいんスか?」
「えっ、今の降参でこの話って終わったんじゃないの……⁈」
「甘いっスね。こんな面白そうな話から逃がすわけないじゃないっスか!」
「うっ……いや、まあお前はそういう奴だよな……」
人が嫌がる表情を見せたら、そこをこれ以上ない笑顔で掘り返す。
九条くれはという後輩は、そういう人間だ。
「っていうか、先輩は実際に見たことあるんスか? その明晰夢ってやつを」
「あー……まあ、ここまで見抜かれてるのに今更誤魔化しようがないか。ご明察の通り、あるよ」
「その内容は……って、まあ聞くまでもないっスよねぇ! 話の流れ的に、えっちい夢を見たんスよね?」
「一気に生き生きとするなよ…………その通りだけどさ」
まあ、正確には空を飛ぶだとか、そういう明晰夢も見たには見たので、何も全部が全部ピンクというわけではないのだが……そこを説明して納得してくれる後輩じゃないからな、こいつは……。
諦めて素直に頷くと、九条は「へェ……?」とニコニコとしながら俺の顔を覗き込んでくる。
「その明晰夢の中で、カワイイ私は先輩に一体どんないたずらをされちゃったんですかねェ……?」
「なんで相手がお前な前提で話が進んでるんだよ……」
「え、違うんスか⁈」
「マジでびっくりしたって顔やめてくれる? 違うわ!」
もしそうだったら、流石にこの話を当の九条に振ったりはしないわ。
そんなどうでもいいことを考えて自己を正当化していると、ふと九条が引き気味に「あの」と口を開く。
「いや、あの、だとしたらあまり誰相手だったとか、そういう生々しい話を聞かされるのは私としても不本意なんスけど……」
「さっきまでノリノリで聞いておいてこの仕打ちか……」
「っていうか、夢とはいえ、自分で体験したことないことまで体験できるもんなんスか?」
「ん? というと……ああ、空を飛ぶ感覚も知らないのにどうやって飛ぶのか、みたいな話か?」
「いえ、先輩童貞なのにどうやって経験したこともないえっちい体験を夢の中で実現させているのかな、と」
なるほど、疑問に見せかけた悪口だったか……。
あまりに予想外で、そしてあまりに彼女らしい罵倒に思わず頬が引きつる。
あのさ、話振っておいてあれなんだけど、一応ここパブリックスペースだからね? そういうことを大声で言うのはやめようか?
さっきから周りの視線が酷いことになっていることに、鈍感な俺でさえようやっと気付き始めたので、とりあえず九条に「その疑問は置いておいて……」と一息入れさせる。
「いや、結構大事な話だと思うんスけど」
「あのな、周りの視線がな?」
「だって先輩童貞じゃないっスか?」
「俺が嫌いなら嫌いって言ってくれるかな?」
ため息と共にそう漏らすと、九条はいったい今の会話のどこに満足したのか「まあそれならそれでいいです」と話を終えてくれた。
「で、先輩は夢の中でその“自称”私じゃない誰かと、どんなことをしたんスか?」
「話が戻ってる……まあ、まだそっちの話題の方がマシか……」
ニコニコと良い笑顔を浮かべる九条に「実はな」と俺は切り出す。
「へ? 何もしてないんスか? 夢なのに?」
「ああ、そうなんだ。なんていうか……これが本当に夢なのかどうか、自信がなくて」
つまり、そういうことだった。
俺が見たたった数回の明晰夢の中で、俺はそれが夢であるということに確信が持てず、さほど何をするでもないまま目が覚めてしまったのだ。
しかし少し考えてみればそれも当たり前の話で、如何せん普通の夢とは違い、身体が自分の思う通りに動くのだ。となれば、それが本当に明晰夢なのか、それとも現実なのか判断がつかなかった俺を一体誰が責められようか。
水を得た魚のように、俺はたった今思いついたそんな舌触りのいい理屈を九条に語って聞かせる。
すると、それを聞いた九条はにやりと、今日一番の笑顔を見せて
「要はチキンだったってことっスよね?」ととんでもないことを言ってのける。
「お、おま……話聞いてた?」
「聞いてましたよ? “これが夢か現かわからなくて、目の前の女の子に手出しできませんでした”ってことっスよね? チキン以外のなんだって言うんスか?」
「うっ……そう言われてしまうと返す言葉がない……」
一瞬偏向報道だと怒ろうかとも思ったが、質の悪いことに彼女の言うことには何一つウソが入ってなかったので、静かに口をつぐむ。
うぬぬ……このままでは俺が明晰夢でエロいことをしようとした挙句チキった変態ヘタレ野郎みたいになってしまう……。
どうしたものかと色々思案していると、隣を歩く九条がふと「まあ、先輩ですもんねー」と言ってさらに笑ってみせる。
「さっきから何なんだよそれ……地味に傷つくんだが……」
「いえいえ、これでも私なりに褒めてるんですよ? 夢であろうと常識をわきまえ、目の前に無抵抗の女の子がいようとも手を出さない紳士──と、そう言い換えれば、さもいい人っぽく聞こえません?」
「ぽくとか言ってる時点でって気はするが……物は言いようだよな」
「ええ、そうでしょ?」
「でも、世間一般には食わぬ据え膳はとも言うからなぁ」
「そんな前時代的な考え、無視しちゃっていいと私は思いますけどねー」
「うーん……そんなもんか」
「ええ、そんなもんですよ。目の前に無抵抗でいて、先輩が手を出していいのなんて、私くらいのものですよ」
「そうか…………ん? 今なんてった?」
聞き間違いかと思い慌てて彼女の方に向き直ると、九条は「二度は言わないっスよー」とケラケラと笑ってみせる。
まったく……掴みどころのない後輩だ。
どう受け取ったものか頭を抱えていると、不意に九条に手を取られる。
「く、九条?」
「ですから、先輩。次に明晰夢を見た時は、他の誰でもなくこの私を召喚してくださいと、私はそう言ってるわけです」
「そ、それってどういう……」
「私は夢であろうと現であろうと、先輩に何をされても文句は言いませんから、ね?」
そう言ってにっこりと手を絡めてきた彼女に、俺は何と返せばよかったのだろう。
その答えは今でもわからない。
困惑と嬉しさでパンク寸前の頭でふと、ああ、夢じゃなかろうかと、そんなことを考えた。
*
どのくらい時間が経っただろう。
体感では1日にも10日にも感じる時が過ぎた。
そうして、ようやく集中治療室からお医者さんが出てきた頃には、私は肉体的にも精神的にも酷く参ってしまっていた。
足音に気付き顔を上げると、そこには素人目にも暗く映るお医者さんの顔があった。
「……我々の方でも手は尽くしましたが……残念です……」
その言葉を聞くや否や、私は静止の声も聞かずに先輩のいる部屋へと飛び込む。
「──意識が戻らず──今は眠っているような状態で──見込みはもう──」
断片的に聞こえてくる情報に耳を塞ぎ、私は彼の側に駆け寄る。
「セン……パイっ……!!」
まるで今にも目を覚ましそうなその顔は、まさに眠っているようで。
それでもその肌に触れると、この先目を覚ますことなどないのだと実感してしまうその感触は、あまりも残酷だった。
私の中の全てが、順番に音を立てて崩れていくような感覚に陥りながら、私はただその場に立ち尽くしていた。
ああ、これが夢ならばどれほど良かっただろうと、そんなことを想いながら。