勘当
待つことには慣れているし、慣れなければならない。
それが訪れるのはいつの日か、計測はできず、推測はできず、いついかなる時でも〈最善〉を保ち続ける他はない。
迂遠な旅路を続け、警告を鳴らす。来たるべき日に敗北を喫さぬために……カイという名の〈英雄〉にできることは他にない。体勢を整えるのは同胞達の仕事。その一助となるために、慣れぬ伝令神の役割を演じ続ける。
目を瞑れば、あの日の炎が蘇る。あの赤に対抗するため、あの赤から逃れ続けるため、平静を装い旅を続ける。見えぬ恐怖は見える驚異より恐ろしい。夜闇に視界を上げれば、常に見える戦乙女の笑顔。さぁ、お前はいつ死んでくれるのかと期待を込めて待っている――
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近付いてくる足音に敵意はない。そして、エルフの住処において、異種族であるカイに対して警戒を持たない者は1人しかいない。カイは静かに声をかける。
「……母君の様子はどうだった?」
記憶から蘇ってきた赤色から目を逸し、カイは瞑っていた目を開いた。
時刻は既に夜。空には月と監視人が登っている。まさか、薬一つ飲ますのにこれだけの時間をかけていた訳ではあるまい。
荷車から背を話し、組んだ腕を解く。
目線をやれば、何かバツの悪そうな顔をしたケレブイエルが大樹の入り口から近付いてくるところだった。顔は明るくないが、足取りは軽い。ユニコーンの角が無意味で無かったことは想像がついた。
「ああ、ユニコーンを一体丸ごと貰えたからな。霊薬は無事作れた……飲んで貰うまでが長かったがな」
「まさか、薬が嫌いというようなことでは無いよな?」
「母上にそんな可愛げがあるものか。殺生をして作った薬ということに、どうも引っかかりがあったようだ。まぁ結果を言えば母上は無事に快復された。お前のおかげだ……ありがとう」
まさか本当に薬を飲ませるのに時間がかかっているとは思わなかった。文化や価値観というのは本当に面倒なものだと思う。だからこそ、面白いのだが……そうした視点で見ればケレブイエルは柔軟に過ぎて、仲間内で浮いているのだろう。エルフが排他的というのはお約束だ。
ケレブイエルは少なくとも人間に礼を言える程度には、他種を尊重している。
「取引だから、礼を言われる筋合いも無ければ、恩に思う必要も無い。それにしても……世界に馴染めずに体調を崩すということがあるものなのだな。お前たちもこの世界にいたと言えば、元からいたのだろう?」
〈神話奔流〉は別に異世界と繋がる訳ではない。人間と他種族は元々同じ場所に暮らしていたが、生きている層が違った。それが重なり合って統合されたのが〈神話奔流〉だ。
エルフの住処がこうして何かの建物と融合しているのだ。環境も統合されているだろうに。
「母上ほど長く生きると、エルフの中でも精霊に近い存在となる。物質的な環境よりも、霊的な環境に影響を受けやすくなるのだ」
「ふん? となるとその霊的な環境とやらが乱れているのか。どうしようもないな……ともあれ無事ならなによりのことだ。」
それが薬で治るというのだから、奇妙な話だ。確かに伝承ではユニコーンの角には様々な解毒作用や浄化作用があるとされている。人間側の世界ではユニコーンの存在自体無かったので、出回ったのは偽物の類。しかし、考えてみれば現在ではユニコーンの部位が実際に高値で取引されている。
効果はあるのかもしれない。後で調べてみよう。カイは毒や病気に対してひどく無頓着に生きてきたので気にしたことがなかった。ユニコーンにしろ単なる路銀ぐらいにしか考えていなかった。しかし、これは案外に他種族との接触において役立ちそうだった。
「ところで、取引の件なのだが……私に支払えるものは特に多くないぞ?」
ケレブイエルの方からその話を切り出してきた。取引の対価に何が請求されるか分からない、という不安に耐えかねたのだろう。律儀なやつだ、カイは表面的な感想を抱いて口を開いた。
「ここのエルフ……ああ、自分たちではそう呼ばないんだったな。まぁ代表者と話したい。かなわないならば、伝言や手紙でも良い。頼めるか?」
奇妙な報酬だった。話がしたいというのは分かる。有力者の伝手を欲しがるというのは、どの種族にもあることだ。だが、伝言や手紙でも構わないというのはどういうことなのか。そのまま解釈すれば伝えられればそれで良いというような、一方的な行いに思える。
恩にきるなと言われてもケレブイエルは恩だと思っていた。できるならばその奇妙な願いも出来る限り叶えたい。しかし、よりによってそういう願いか、できるかどうか……
「母だ」
「あ?」
「我らの長は母上だ。一応話してみるが……直接会えるのは期待薄だ」
「それでいい。面倒なようだが、よろしく頼む。念の為、手紙も用意はしてあるから無理はしなくていい」
「面倒なものか。ただ難しいだけだ」
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この住処の中では数少ない陶器が割れる音が響いた。
ケレブイエルの母、ケレベエスが水差しを叩き落としたことで起きた音だった。
「人間に会えと、なぜ、この私が……そのような約束を勝手にするなど、お前という娘は……!」
予想はできていたはずだ。大丈夫だ。辛くはない。
ケレブイエルは膝を付き、頭を垂れながら、あの男に恩を返そうと硬い言葉を絞り出した。
「しかし、母上様。先の薬もその人間が提供してくれた物。決して私利私欲のために動いているとは……」
「人間程度の裏、母が読めないと思うてか!」
先程まで霊薬が入っていた玻璃の瓶が投げつけられ、ケレブイエルの額から血が流れた。周囲の護衛はそれを見て僅かに動いたが、結局は元の姿勢を崩さなかった。
力関係、親子関係が見える有様だな。なんとも情けない。内心で自嘲するケレブイエルの顔は、仮面のようだ。
「鉄臭い、油臭い、ああ……何という娘……しかも、人間の寄越した物で作った薬を私に飲ませたと? 愚かしい! 救いがたい! 知っていれば飲みなどしなかった。例え木が朽ちるまで伏せようと、枯れ死のうと、人間の世話になどなりたくはない! その者が奸計を腹に隠していると、お前も、お前たちも、なぜ分からないのです!」
母は美しい。だからこそ勘気のままに顔を歪め、自分はおろか、部下にまで苛立ちをぶつける様は見ていられるものではなかった。ケレブイエルはじっと床を見ている。母の顔を見て、醜いと、悍ましいなどと思いたくない一心だった。
「では最低限の礼として……この手紙を読んで頂くよう、我が首にかけてお願いいたします」
その言葉に木の中のエルフがざわめいた。純粋にこの姫を思いやるものもいれば、なぜ人間ごときにそこまでと、反応は半々だ。ケレブイエルは唇を噛み締めた。母は知らぬだろうが、私は母を知り尽くしている。
「……良いでしょう。その封書だけ置いて、去りなさいケレブイエル。いいえ、ただのケレ。お前はもう我らではない」
「は。お聞き届き、ありがとうございます。では……」
母は周囲の耳目が集まる中で、長らしい態度を見せようとするだろう。娘より、周りの者から見える威厳を気にして。エル……己の娘を意味する名を剥奪しようとも。
立ち上がり、できるだけ堂々とした歩みで動く。視界は滲んでいない。大丈夫だ。
「姫様……これを」
「ありがとう。皆に感謝と別れを」
見かけはケレブイエルとさして変わりないが、歳は幼い子が銀の布の包みを持ってきた。その中身が何であるかは分かる。
ケレブイエル……もはやただのケレは自分と共に生まれた木を受け取った。己が追放されるのだから、己の半身もここにとどまることはできない。
「何をしているのです。もはやその者は姫ではない。皆、元の仕事へと戻りなさい」
伝えられる決定。エルフはという種族は長命で変化が無い。感情が大きく動いた時を忘れることが無い。それは娘の処遇が永遠に変わらぬことを示していた。
最後に、同じ場所で暮らしていた者たちに目線だけ合わせて、ケレは大樹から立ち去った。
全て無くしてしまった。これからどうしよう。
幼い頃に戻ったような気がする。ああ……でも、これで良かったのかも知れない。母も私に煩わされること無く、私も母に忠誠を捧げなくていい。
今は目の事態にだけ対処すればいい。そのときの気分で。
彼はどうなのだろうか。変わり者だが、周囲と上手くやって行けているのだろうか。
彼と目があった。何も言わない。自分の依頼がどうなったかさえ。
とりあえず、この男が何なのかを知りに行こう。
「すまないが、乗せてくれないか」
「構わんが、乗り心地は悪いぞ。まぁ既に体験済みだから、大丈夫だろうとは思うが」