影よ去れ
相手からの宣戦布告。しかし、アニカは動かなかった。
〈英雄〉としての素養を呪いながらも、同時に縛られた。この相手は戦う前から己の勝利を宣言し、敗北を受け入れろという。そんな屈辱こそ受け入れられない。
敵はこちらのデータを知悉している、いや知悉したらしい。だがそれは所詮ただの文字の羅列に過ぎない。確かに影追人は支援型に分類される能力だが、単体でも十分に戦闘が可能だ。縛った後で加える暴力の恐ろしさなど、戦いの経験が無いものでも分かるだろう。
しかし不安要素も大きいことは認めざるを得ない。この男は自分の能力が〈最善〉という呼称であることを、自分から白状した。わざわざ能力を明かすというのは、正真正銘のバカか、既に勝利が確定した後か、もしくは……バラしても全く問題のない能力だということになる。
おそらくは最後者だろう。そもそも〈最善〉という名称が意味不明に過ぎる。口からでまかせという線も無いではないが……
「長考は結構だが、もう戦っても良いかな。俺の〈英雄特性〉について考えても意味はない。流石に全部は明かさないが、勝てるなら勝てる。負けるなら負ける。そういった類の力だからな」
「なによそれ……当たり前じゃない」
「俺に言われても困る。事実だからな。まぁこういう能力もあるのだと、食らって学んでくれ」
来る。
男は奇妙な拳法の構えを取った。それがカートゥーンを真似した子供のように、デタラメで不都合な格好なので思わず笑ってしまいそうになる。
伸び切った左手、硬く肘を固めた上に頭の横まで持っていっている右手。どこからどうみても素人のソレだ。
護身術を齧った程度の自分の方がまだマシだろう。だが、影を引きちぎった以上その性能だけは侮れない。異能によって作り出された影は相手の奇跡を無効化するタイプでも無ければ破れないはずなのだ。
影絵芝居はまだ起動している。自身の影を察知されない程度にたわませて、攻撃に備える。それと同時に敵の背後にある瓦礫の影を対象に設定して、単独による挟み撃ちを準備した。
男が拳を近づけてきているのをアニカは視認した。
確かに速いが見えている。アニカとて〈英雄〉である以上、通常の弾丸程度の速度なら十分に視覚で追える。奇妙な構えの割に威力よりは当てることを重視している。連撃へ繋げるための初撃であろうと推測し、自己の対応を決定する。
多少無理にでも初撃を躱せば、相手に致命的な隙を作れるだろう。影絵芝居にはまだ他の使いみちがあることを相手は知らない。そのためにも、これを避けて反撃を……
「ガッ!?」
しようとしたアニカは腹部に猛烈な打撃を受けて仰け反った。吐き気を堪えつつ顔を上げたアニカの目に今度は肘が迫ってくる。避けられる、というより当たるはずがない軌跡を描いている。
再びアニカは避けたはずが衝撃を浴びた。頭蓋を揺らされて、視界に星が見えた気さえする。
……衝撃波の操作? もしくは透明化で実は武器を振っている? 〈英雄〉の異能はどれもが理不尽だが、この相手の能力は極めつけのようにアニカは感じていた。うまく言語化できないが、考えられるどの能力も違う気がしてならないのだ。
その疑念が決定的となったのは相手の前蹴りを受けた時だ。一度目はガードの上から強かに打ち付けられた、アニカは腕に影を纏わりつかせての防御であったのに、骨が砕ける音を聞いた。信じられないほどの威力だ。
そして二度目は無防備になった脇腹に、再度の蹴撃。どんな鉄より硬い肉が押しつぶされ、鉄柱より強固な肋骨が割れた。ここまでの攻防は一分にも満たない時間だったが、一瞬で決定的に痛めつけられて勝負がついた。
そこでようやくアニカは敵の能力の端を掴んだ気がした。脇腹に感じた衝撃の威力が、一撃目と全く変わらなかったのだ。ガードした一撃目と無防備に食らった一撃の威力が変わらない。
「……〈最善〉。ようやく分かりかけてきたけど、本当なら理不尽にもほどがある能力ね」
「加減するつもりだったのだが、どうにもうまく行かなかった。すまなかったな……俺の能力はこうした場合では制御がかえって難しい。必要以上に痛めつけてしまった」
その徹底した上から目線こそが気に入らない。ゆえに全てをさらけ出すが良い。コイツのような強者にこそ、精神には意外にも裏道があるものだ。大抵の場合、何かがきっかけとなって精神的にも強くなったからだ。
魂の影を見る影追人。しかし、これは賭けでもある。単純に影絵芝居に付随する精神干渉の成功確率が低いためだ。それでも構わないとアニカは覚悟を固めた。
この男は殺意が薄い。覚悟の問題ではなく、何かしらの意味があるのだろうが……それを利用する。
手段は単純に影の対象を相手へと切り替えるだけ。自身の影はどこまでもついて回る。さぁ、一か八か。
「沈めぇぇぇぇっ!」
影絵芝居の力が発揮される。それは実にあっさりと敵の中に潜り込むことに成功した。
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過去に幾度か見た景色。他人の精神には〈英雄〉であろうと只人だろうとさして変わらぬ宇宙があった。きっと自分にもあるのだろう。
拍子抜けしたことに、あるいは意外に。敵の心中は戦闘時の淡々さを裏切る印象であった。
責任感や使命感を軸に、無力感や劣等感。後悔とコンプレックスが渦巻いていた。自罰的で真面目な人間に見られるありきたりな傾向だ。
この時、アニカは気付くべきだったのだ。なぜこんな真っ当な精神構造をしている男が、〈英雄〉でありながら鳥のように渡り歩いて生きているのか……そして、これほどの実力者がなぜ恐怖や劣等感を覚えているのか。
精神の銀河に触れて相手の精神を乱そうとするアニカ。無形の自分から手をイメージして星々に触れた時、それは応えた。
「……っ!? ひっ! ……あああぁああがぁああああ!」
それは赤。そして炎だった。精神に異物が挟み込まれている。
理解できたのはそこまで。ただひたすらに伝わる熱は、太陽に直接手を触れたかのよう。あまりの熱量に痛覚で感じていられる域を飛び越し、イメージでしかないはずの精神体の手が焼ける。
赤、赤、赤、朱。離れなくてはならないという思考すら生まれない。
なんだってこんなものが精神の中にあるのか? と、問えるような理屈も浮かばない。
幸いにして常軌を逸した熱によって、イメージの腕が消滅したことに救われて、アニカは現実へと帰還することができた。
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侵入したことによって心折れたアニカと、侵入に気付いてもいない男。何もかもが分からない一瞬の間に決着はついてしまった。
精神世界で完全に疲弊させられ、肉体的にも骨と内臓まで痛めつけられたアニカに逆転の目はもう無い。幾ら影を振るおうとも相手を打ち倒すビジョンが全く見えない。
負傷も一瞬で完治するほど浅いものではなかった。そこに〈最善〉に対する推測を加えれば尚更だ。
生まれたての動物のように震えながら二足で立つのが精一杯。それとてアニカに残った最後の矜持という精神力に過ぎない。
「これから意識を奪う。最後に聞いておこう……なぜ、こんな無謀を起こした。最高の結果ですら、この内乱は成功しない。〈中央〉がその気になれば、俺でなくとも別の〈英雄〉が派遣されて終わりだ。民を盾にしたのなら、あそこは尚更躊躇をしない。支配しての独立なぞ絵空事以下だ」
「ハハ……貴方、〈中央〉の飼い犬だったの? なら分からないでしょうね……独立じゃなくて自立したかったのよ。私達は……」
カイにはたしかに理解できない。カイは強者であり、体制側に寄っている。しかもその上で自由に動き回れる正真正銘の特権階級だった。
しかし、実現不可能でも賭ける心情だけは汲み取った。
「ならば尚更、俺に勝てないようでは話にならないだろう」
「ハ。どこまでも嫌なやつ……捕まる前に聞くけど名前は?」
「カイ。コードネームはジークフリード・β。俺も近々〈中央〉に戻る身。話の続きはその時に」
カイの手が容赦なくアニカの首を掴むと、いかなる技か。一瞬で影追人は昏倒した。
倒れた敵手に、ポケットから出した薬剤を摂取させると、カイは次に向かう場所を睨んだ。
この街の市庁舎。そこから右手側にある建造物……水質管理施設を。
目標を定めると振り返らずに、〈英雄〉は跳躍した。
 




