プロローグ・奔流の始まり
“神話の奔流”と呼ばれる日を境に世界は一変し、全ての地に人間が住まう時代は唐突に終わりを告げた。
唐突……そう、その通り。本当に何の前触れもなく世界は変わってしまった。最初がどこから始まったのかもわからない。記録は散逸して断片的だ。多分、どこからとかそういう発想自体が間違っているんだろう。
だから、ちょっとだけ思い出してみようと思う。
ゴブリン、オーガ、マイコニド、コボルト、オーク……ああ、数え上げれば切りがない。ともかく世界中で一斉に、それまでお話の中にだけ住んでいた連中が溢れ出した。理由? そんなものは俺が教えて欲しい。俺が思うに理由は無かったんじゃないだろうか。少なくともこの時は。
最初にこれらと遭遇した連中は気の毒という他はない。近づいて来ても呑気にスマホで撮影なぞしていた連中にしても、死ぬほど悪いわけではあるまい。連中はどういうわけか人間と敵対したがっているようで、多くの国でパニックになった。
それでもこの段階では対岸の火事ならぬ、モニタ越しの火事と見れなくも無かった。
いくらファンタジーな見かけだろうが、生き物は生き物。群衆が避難したり……あるいは誰もいなくなったり! ……すれば軍隊がご到着してまるっと解決してくれた。
テレビゲームに出てくるような雑魚モンスターめいた姿の怪物達は、バッタバッタと銃でなぎ倒された。ファンタジー生物らしく剣と魔法で倒されたかったかは知らないが、進歩した人間の技術の前には無力らしい。
戦局が一方的になり過ぎると、今度は虐殺ではないか? だとか 彼らを保護すべきだ! とか言ういつもの意見がぼつぼつ出始めた。
またか、と思うと同時に仕方ないかな、と思ったのを覚えている。魔物らしき生物の中には随分と可愛らしいのも居れば、人語を解する存在もいたので、こうした論争はどこまでも加熱する。
軍隊は軍隊で割合あっさりと引き下がった。
当時は意外だったが、今思えばこの生物たちを調べたりする時間が欲しかったのだろうと思う。勿論、被害をこれ以上出さないようにするため、幾らかの戦闘は起こった。幾らか、というのはきっと控えめな表現だろうが、対外的なポーズは取ったわけだ。
この時期に各国はこぞってこれらの生物群の研究に取り掛かり、一説によると軍事目的にも使用すべく、おぞましい実験が影で行われている……という噂も出回った。俺も結構信じている。
それなりに被害は出たものの、神話生物恐るに足らず……と世間が思ったのも当然の流れだった。
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その状況が一変したのはそれから一年後のことだった。
奴らは再び現れた。それも前とはまるで違う形で、“神話の奔流”の第2段階は襲いかかってきた。
大多数は以前と変わらぬ顔ぶれだったが、その有象無象を率いるように……いわばボスキャラが現れたのだった。それはドラゴンであったり、グリフォンだとか、巨大蜘蛛であったりもした。まるでゲームのような展開には最早笑うしか無い。
暫定的に〈指揮官級〉と呼ばれた存在は、ゴブリンのような存在とは桁が違っていた。
そう。存在の桁が違ったのだ。恐ろしい、本当に恐ろしい存在であった。
この連中には銃・爆弾などなどの人が培ってきた兵器群が有効では無かったのだ。
有効……という表現なのは全くの無意味ではなかったからだ。例えば翼獅子の類なら対空ミサイルでの撃墜例もあった。逆に言えばミサイルをもってしても一箇の生物を殺す程度しかできなかったのだ。
翼獅子ならばまだ良いが、ドラゴンのような存在になると、機関砲で毛筋程度の傷しか負わなかったらしい。
らしい、らしいの話で全く申し訳ないことだ。だがこの時点では俺は戦う側にいなかった。全く平凡な一般市民だったのだから仕方もないことだ。なので許してほしい。
俺が登場するのはこれからになるので、ここまでは伝聞でしか知らないことだった。
それでも世間全てがパニックになった日々は覚えている。
いっそあの敵たちに何もかもが通じなかったのなら、それほど混乱しなかっただろう。半端に取れる手立てがある……ということがかえって人々の恐怖心を煽り立てたのだ。
もう駄目かもしれない――かもしれないが人々を恐慌に追いやった。略奪、乱暴の類があらゆる国に溢れた。明日が本当に無いのなら、やれることはなにもない。うずくまってしまえばいい。だが、もしかすると自分だけ生き残れるかもしれない……となると今のうちに何かを手に入れようという発想になったのだ。
怪物達は神出鬼没だ。街なかに突然出現することだってあった。
銃で倒せるような存在ならば良いが、〈指揮官級〉が街中に登場したら? 軍や警察は大きく動きを制限されるだろうことは、誰にでも想像がついた。
個々人では自衛のための武装。組織は積極的防衛のための武装。そして国はより大掛かりな手段を用いるしかなく……世界は混沌と暴力へと落ちていく。
かくいう俺も闇市で密造銃を買ってポケットに忍ばせていた。そうでもしないと一歩も家から出られない。人も怪物も恐ろしいからだ。
世界中の人間は混乱の中で死ぬのだろう。だれもがそう思っていた時、“神話奔流”の第3段階が開始された。
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“神話の奔流の第3段階……これは災害や天変地異に分類して良いだろう。
それまでどこにあったのか知らない建物や地形が出現。人間製の建造物と融合したり、あるいはどちらかが崩壊したりと忙しなかった。こうなると、人間社会は終わりだろうと思われた。インフラはズタズタに切り裂かれ、公的機関は麻痺した。
だが、大きな希望が現れたのもこの段階だ。
それは前線で戦う軍人の中からまず現れた。
人でありながら壁を走り、岩を砕く。どういう理屈によるものか、彼らの攻撃だけは〈指揮官級〉にも効果があった。
人々は科学文明に浸るうちに忘れていた。“人間”もまた、神話の住人だということを。
――すなわち、人の規格を超えた人。〈英雄〉の復活であった。
兵器の効果が〈指揮官級〉に、想定した威力を発揮しないのは既存の兵器に神話的、幻想的な要素が欠けているからだ。これも〈英雄〉が登場したことによってわかったことだ。
観測ができないために、実証は困難ではあった。研究と呼べるものでは無かったかも知れないが、ともかく分かったのだ。なにせ〈英雄〉の岩や鋼程度しか砕けない拳が、山すら穿つミサイルすら効かない存在を苦しめるのだ。
……ここから、らしいと言う表現は少なくなる。
なぜなら俺もまた……〈英雄〉になったからだった。
前線の軍人から見いだされた〈英雄〉の素養。それは病気かなにかのように、伝播するがごとく発現していったのだ。人体実験めいたことも当然に行われたが、あまり成果が出ないことが分かると〈英雄〉達は兵器のように戦場に投入されて行く。
その中で俺も戦った。戦果をあげた。そしてあの決定的な瞬間を迎える日まで生き残ったのだ……
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異世界のような洞窟で、焦げた空気を吸う。違う、これは俺の肺が焦げているのか?
どちらにせよ俺は死ぬことが無いから、誰も駆け寄って来たりはしない。ただ自分が苦しいだけだ。それに今に限ってだけ言えば、誰かが助けに来ることを俺も期待していない。俺よりも戦いを優先して欲しい。
誰かが倒れても、先に進む。戦いを優先する……事前にそう打ち合わせたのだ。大体、こうやって苦しむのが俺の役割なのだから気にとめるバカはいないはずだ。
ここに来る前でさえ多くの仲間が死んだ。遺体さえ置き去りにしてここまで来て、さらにこの戦いだ。ここで俺を優先するような奴がいたら、そいつこそ敵だった。
立ち込める炎と煙。地盤ごと揺らいでいるような振動。
数秒間意識を失っている間に戦いはどうなった? 俺はあの瞬間、完璧に役割をこなしたはずだ。だから倒れているはずなのだ。タイミングもコレ以上は無かった。ならば戦いは――
『……――! ――……!』
転がっている通信機が何かを傍受している。この灼熱地獄で機能が生きているとは奇跡的だ。その奇跡に向かって芋虫のように這って近づく……次第に音が鮮明になってくる。
『信号の――失を確……! 作戦――成功! 繰り返す――〈ファーヴニル〉を撃破!』
湧き上がる歓声を聞いた気がした。
ヨーロッパ全土の怪物を統治下に置いていた最強の幻想生命体。それをここまでたどり着いた“最強の10人”が撃破したのだ。その中に自分が含まれていることが恥ずかしくも誇らしい。
煙が段々と晴れてきた。火炎の灰からファーヴニルの巨体が崩れたことによるチリへと変わる前触れだろう。うっすらと誰かの足が見えた。女性の足だ。
「生きてるかい? 君は死なないだろうから、喋れるか? という意味でだよ」
「ああ……なん、とか。の、ども……もどって、きた」
「呆れた能力だね。不死身じゃないらしいけど、どうやったら君を倒せるのか……ともあれ、大金星だ。トドメは彼女で、君はキルアシストだよ。対外的にも英雄いうわけだ」
言葉遣いは中性的だが、声は色っぽさを含んだ大人の女性。それでこれが誰かは分かった。巨体を相手取るに向いた能力を持つこいつが、こちらに来るということは本当に終わったのだ。
それにしてもやはりトドメは彼女か……
「体を、起こしてくれ。MVPの姿が見たい」
「はいはい。もっと近づいた方が良いんじゃ無いかい?」
「いや、ここからで良い」
優しい手で体を起こしてもらう。まだ煙が晴れきったわけではないが、崩れ落ちた巨竜の遺骸の前に立つ彼女の姿が見えた。彼女こそ我々の〈英雄〉。最強の人類。彼女がいなければ我々は……待て、何かがおかしい。
「なんだ……煙が晴れたのに、まだ暑いぞ……いや、まだじゃあない?」
「どんどん暑くなる……何か来る気がする。少し動かすよ!」
体を担がれて運ばれる。その時、俺は見た。巨大な人型の炎を。それは“彼女”へと手を伸ばした。謎の炎を前に堂々と立つ“彼女”の姿を確かに見たのだ。そして、それ以来まともな“彼女”の姿を俺は見たことが無い。