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逃走した、と言ったところで、すでにわたしは散々走り回った後なので、それはもう、膝が、がっくがくだった。逃げよう、と透くんを引っ張ったのはいいものの、すぐに立場が逆転した。
息が上がって走れない。諦めて、隠れる方向にチェンジした。距離的にはそこまで離れていないが、あの木の実の音をあれだけ近くで直に聞いていれば、すぐには回復するまい。時間はそれなりに稼げるはず。
わたしたちは木の陰に隠れるようにして座り込んだ。
「――透くん」
わたしは、息を切らしながら、ナイフを持ったままの彼の手の甲に、手を重ねた。ぴくり、と彼の手が動く。
「どうして、そこまでしてくれるの」
死んでもいいから、誰かを殺すことをしたくなかった。
そこまで思っていたのに、どうして、わたしのために。
殺さないために作戦を練らないといけない。でも、彼の『本気』を見誤っていたら――それこそ、途中で殺さないで紫司馬をどうにかする作戦は失敗して、透くんは彼を殺してしまうかもしれない。
それが、わたしには恐ろしかった。
透くんが人殺しになってしまうから――というよりは、死を選んでも構わないほど殺しを嫌っていた彼が、誰かを殺害してしまったら、もう二度と、いつもの透くんには戻らないんじゃないか、って。
たとえ、わたしを襲う紫司馬が消えたとしても――わたしが、望む、万道具を作って売って、その隣で透くんがわたしの万道具バカっぷりに呆れ笑いをしながらも、一緒に店を切り盛りしてくれる、そんな日常は、戻ってこないのだ。
紫司馬を殺させないのは、透くんのためでありながら、同時に、わたしのためでもある。
「……万結さんは覚えていないから。言っても、分からないでしょう」
透くんは緩く首を横に振る。
「それは、聞いてみないと分からない」
「……聞かなくても分かります。覚えていないって。――覚えている、わけがない」
絶対にわたしが忘れているという、核心を持った、透くんの声音。
もしかして、それは――。
「それは、――……おじいちゃんが、モリムラサキの花袋を使ったことと、関係あるの? わたしが、子供の頃、薄暮の森で刺されて――刺したのは、紫司馬、だったよね」
わたしがそう問うと、俯きがちでわたしに合わなかった透くんの目線がこちらを向いた。目を見開いて透くんは驚いている。
「なん、で――」
「シルビオンの小金焼。朝、姫鶴に貰ったの。食べたのは……まあ、意図的ではないんだけど」
昨晩、わたしはすっかり記憶を失っていた、ということは、今言わなくていいだろう。話がややこしくなる。
「聞かせて。わたしはもう、全部、思い出してる」
こちらを向いた透くんの瞳を、わたしは、じっと覗き込んだ。




