113
「――貴方が、本気で逃げ出そうとしなかったからです」
そう言った透くんの表情は、彼の後ろにしゃがみこんだままのわたしには見えなかった。
透くんの言葉に、ビタリ、と紫司馬は動きを止める。
「なん、だよ、それ……ッ! オレだって、逃げれるものなら――」
「僕は、誰かを殺すくらいなら逃げたかったし、逃げられないなら死んでよかった」
息を荒げて、怒りに興奮する紫司馬とは対照的に、透くんは静かに言った。先ほど怒鳴っていたのが嘘のように。
「確かに、僕は運が良かった。功甲さんに引き取られたのは運でしかない。でも、その運を掴んだのは、文字通り死ぬ気で逃げようとしたからだ」
功甲。祖父の名前だ。
結局、祖父はどこから透くんを引き取ってきたのか、死ぬまで口にしなかった。透くんも、きっと、こんなことが起きなければ、一生黙っているつもりだったんだろう。
そりゃあ、軽々しく人に言えるものではない。殺しの一族の出身だなんて。
「でも――不思議なもので」
透くんはゆっくりと立ち上がる。いつのまにか、透くんの手には、ナイフがあった。さほどサイズの大きいものではない。なんなら、わたしが万道具を作るときに使う短刀の方が大きいくらいだ。けれど、場所によっては十分殺傷能力を発揮できると思う。
いつのまに。わたしが彼を引っ張ったときには、彼の両手には、何もなかったはずなのに。
「昔は、死んでも逃げたかったはずなのに――今は、殺してでも守りたいものがある」
透くんが持つナイフの切っ先は、まぎれもなく、紫司馬の方を向いていた。
紫司馬の方を見れば、すでに向こうも臨戦体制。先ほどまで涙目で地団駄を踏み、悔しがっていた人間とは思えないほど、すっと無表情でこちらを見ていた。
ちりちりと、首の後ろが痛くなるほどの緊張感。前世と、子供の頃。死を体験し、死を最も近くに感じたことがあるにも関わらず、ここまでの殺意は初めてだった。
逃げられないくらいなら死んでよかった。
その透くんの言葉に、嘘も誤魔化しも感じなかった。あれはきっと、まぎれもなく、彼の本心なのだろう。
その透くんは、今、紫司馬を殺すことを考えている。わたしを、守るために。
今までの紫司馬の行動を考えれば、今ここで彼から逃れられたところで、彼は体制を建て直したら、わたしと透くんを襲うために再びやってくるだろう。それこそ、何度でも。
でも――嫌だ。
死んででも殺しから逃げたかったと透くんが言ったのなら、わたしは、その感情を、捨てさせたくない。
透くんが、誰かを殺すところなんて、見たくない。




