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悪夢の朝

作中、喫煙場面が出てきますが、未成年の方は決して真似しないで下さい。

 ふと目が醒めれば、南のベランダの方からカーテン越しに陽が射し込んできていて、室内は薄明るい様相を帯びている。


 ゆっくりとベッドから身を起こした途端に、ブルッと鳥肌が立った。

 春の朝とはいえ、裸のままではまだ薄ら寒い。

 しかし、俺は脱ぎ捨ててあるGパンを履いただけでシャツも着ず、代わりに部屋のヒーターのリモコンをONにした。

 そして、枕元の煙草に手を伸ばし、火を点けた。

 目覚めの一服がすっかり習慣化してしまっている。

 煙を吐きながら、その内俺は肺がんで死ぬのかもしれないなどと、ぼんやり思う。


「ひろ、と…起きてたのぉ……」


 その時。

 俺の隣で冴枝がうつ伏せのまま、寝惚けた声を出した。


「またこんなとこで煙草なんか吸ってぇ。寝煙草が一番、火事になりやすいのよ」

「とかなんとか言いながら、お前も吸うんだろ」

「あたり」


 冴枝は箱から一本抜き取ると、俺の煙草の先から火を取り、長い前髪をかき上げながら、ふうっと一息白煙を吐いた。


「ねえ、浩人。おばさま、まだ家にいらっしゃるかしら」 

 春物のふんわりとしたセーターから首を出しながら、冴枝は俺に問いかけてきた。

「どっか出かけてるだろ」


 時計の針はとっくに十一時を回っている。

 有閑マダムのランチタイムだかなんだか知らないが、この時間にお袋が家に居ることは少ない。


「浩人、確かめてきてよ」

「ヤだぜ」

「そんなあ。だって、もし顔合わせたりしたらどうするのよ」

「バレタってかまやしないよ。女が出入りしてるのを知ったところで驚きゃしないよ、うちの親は」

「でもぉ」と拗ねてみせながらも、冴枝は部屋を出て行った。


 言えば良かったのかもしれない、と俺は思う。

 俺の部屋に女が、頻繁にしかも夜出入りしていることなど、とうの昔にお袋には知れているらしいということを。


 “浩人、お前はよくよく父親似だこと”

 お袋の言葉を俺は未だによく覚えている。

 “年を追うごとにあの人に似てきて。女を囲っているようなところまでそっくりで……”


 その憎々しげな口調。

 そして、あれは母親が子供を見る目などでは決してなかった。

 あれは、一人の嫉妬に狂った女が、恨み深い男に向ける視線以外の何物でもなかった。


 いつだって、俺は一人だった……。

 両親の愛情など俺は、知らない。

 そんな俺を救ってくれたのは────── 


  その時。

 不意にドアが開く音がして、それと同時に芳ばしい香りが漂ってきた。

「珈琲、淹れてきちゃった」

 冴枝は、俺に片方のカップを手渡した。

 俺は黙って受け取り、一口啜った。


 冴枝が南側のカーテンを開けたので、部屋には春の陽光が降り注いでいる。

 ベランダで遊ぶ雀の姿を俺はぼおっと眺めながら、その鳴き声を聞いていた。

 しかし、雀はすぐ空へと飛び去って行き、後には再び暖かい日射しと、口を開かないままでいる俺に、それを見つめている冴枝だけがいる春の朝だった。


「……浩人って。ほんとにすっかり変わっちゃったのね」


 珈琲を飲み干した頃、不意に冴絵は呟いた。

「もうあの頃の浩人には戻ってくれないの……」

 あんな明るかった浩人にいつになったら戻ってくれるのと、冴枝は続ける。

「由弘が言ってた。あれ以来、浩人は人が変わったままだって……。極端に無口で、昔の面影を微塵も見せないままとうとう卒業しちまった、て……」


 自分がどれほど変わってしまったかは、俺自身が一番よく知っていた。

 学校で俺は全く笑わなくなった。

 人の先頭に立って騒ぎもし、大人びた風貌で女子の視線を集めていた過去の俺の姿は今やない。

 俺は自分の存在感を完全に消してしまった。

 俺にはもう何もかもが空虚でしかなかった。


「まだ……忘れられないの。玲美のこと……」


 その時、冴枝はぽつりとその言葉を口にし、そして、叫んだ。


「今、浩人が抱いてるのは玲美じゃないわっ……!」

「冴枝……」

「玲美はもういないのよ……」


 冴枝は俺の胸に縋ってきて、吐息を吐く。


「今、浩人が愛しているのはこの私よね……ね、そうよね。浩人……」


 長い睫毛に涙すら滲ませながら俺に縋る冴枝を前にして、俺はただ冴枝の涙を口唇くちびるで拭い、そして抱き締めてやることくらいしかできない。

 そんな俺の行為は却って冴枝を傷つけるだけになるのかもしれないと思いながらも、俺にはどうしていいのかわからないのだ。


 今でも死んだ玲美を追い求めている俺と、それがわかっていながら俺を愛し、抱かれている冴枝と。

 素肌を晒し、愛を繰り返して抱き合って眠りながら、俺たちはどちらも不幸でしかないのだろうか。


 あの夏が終わらない────── 


 あの悪夢の朝から俺はまだ、目を醒ましてはいなかった。



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