ブラックの息抜き(結果編)
本条は気がつくと、
自分のアパートの前に立っていた。
自分が何故、ここに立っているのかわからなかった。
時計を見ると、9時少し前。
先ほどまで自分のアパートで、
誰かと話していたような気がしたのに、
何故か、アパートの前に立っている。
不思議な感覚だった。
「僕は、どうしたんだろう。あれ?」
服を見ると、皺ひとつない、灰色のスーツを着ていた。
先ほどまで着ていたスーツは黒のスーツで、
もう何か月もクリーニングに出していないため、
しわや、汚れが目立っていたのに、おかしな変化だった。
「どういうことなのだろう」
アパートのドアを開ける。
すると、
「あなた、お帰りなさい」と声が聞こえて来た。
懐かしい声だった。
廊下の向こう側に見えるキッチンには、声の主の後姿が見える。
ずいぶん前に別れた妻だった。
どうして、妻が・・・。
その時、本条の中にあった違和感がフッと消えていった。
過去の記憶がノイズがかり、修正されてゆく。
自分が人生に絶望していたことも、
自分が何度も死のうとしたことも、
自分が妻と別れたことに、何度も深く後悔したことも。
それらすべてが、新たな記憶で上書きされてゆく
少し遅れて、6歳になる娘のカナが「お父さんお帰りなさい」と走って来た。
その声を聞き、本条の目から涙が零れ出た。
目じりからあふれ、頬を伝い、とめどなく涙が流れ落ちる。
「あれ?どうして、お父さん、泣いているの?」
「ん?」
カナに言われ、頬を触ると、泣いていることに本条は気がついた。
「あれ?どうしてだろう。どうして泣いているんだろう」
本条は自分自身でもよくわからなかった。
けれど、それは決して悲しみの涙ではないということだけは、
わかっていた。
「ほら、カナ、もうおとうさんにおかえりなさいを言ったでしょ。早く寝なさい」
妻はエプロンの裾で両手を拭きながら、本条の前に歩いてきた。
「え~、パパを待っていたんだもん。遊びたいんだもん」
「もう、しょうがないわね」
不思議と、妻の顔を見て、
皺が多くなったなと思った。
けれど、その皺さえも、とてつもなく愛おしく感じた。
「ねえ、パパ、カナを抱っこして」
「あ、ああ」
疲れた体にはこたえたが、
その重みをかみしめるように、
カナを優しく抱き上げる。
「お父さんは疲れているんだから、もう!」
本条は妻に鞄と上着を渡し、
娘のカナを抱きかかえ、歩いて行く。
その前に言うべき事があることを思い出した。
「そういえば、まだ言っていなかったな」
「ん?何が?」
「ただいま」
妻は、なにをいまさら、と呆れた顔をしたが、口元をほころばせ、
「おかえりなさい、あなた」




