ブラックの息抜き(選択編)
本条正人は
夜の10時過ぎにアパートに帰った。
中学の教師をして、すでに30年。
年齢も50をすぎ、
体は悲鳴を上げていた。
「いやあ、今日もつかれた。日に日に体力が衰えて、毎日がしんどくなるなあ」
本条しかいないアパートの一室で、
独り言を呟く。
本条は10年前に、
長年連れ添った妻と離婚をした。
子供はいなかった。
妻の不倫がきっかけでだった。
「こんにちわ。先生」
「誰だね」
振り返ると男がいた。
金髪碧眼に黒いコート。
日本人とは明らかに違う、はっきりとした顔立ちから、
外国人だ、と本条は思った。
自分一人しかいなアパートで突然声をかけられ、
強盗かと思ったりもしたが、本条は対して気にもとめなかった。
それほどまでに本条は疲れ切っていた。
体も、心も。
「黒峰黒也です。三年ぶりですね。本条先生」
「ああ、君だったかね。くろみね君・・・ああ、久しぶりだね。ずいぶん変わったね。というか、全く見た目が違うけれど、その感じだと、どうやらうまくやっているのだね。よかったよ、安心したよ」
「ええ、うまくやっています。うまくいきすぎているくらいです」
「さあ、どうぞ、どうぞ、立っていては疲れるだろう?椅子に座って、座って」
「はい」
黒峰黒也――ブラックは本条に勧められた椅子に座った。
テーブルの上にはコンビニの袋が乗っていた。
キッチンに視点を移すと、シンクにはもう何日も洗われていない食器類が、
山のように積まれていた。
「で、くろみね君は、最近は何をやっているのだね」
本条は最近、記憶力も悪くなってきていた。
黒峰黒也がいるクラスの担任を受け持っていたのだが、
生徒は毎年入れ替わる。
問題を抱えた生徒への対処や、
日々の仕事や雑事に追われていると、
自分の生徒がどんな生徒だったのか、自然と忘れていってしまうのだ。
「あ、はい、今は魔神公爵をしています。基本は自由業です」
「ほほう、魔神公爵か。聞いたことのない職業だね。でもよかったよ。安心したよ」
「先生は、まだ本を読んでいらっしゃるのですか?」
「いや~、最近は読んではいないね。忙しいし、もう体がしんどくてね。学校に行って、帰って、寝ての繰り返しだよ。ははは」
「まだ、首吊り用のロープを持っているんですね。睡眠薬で何度も死のうとなされましたし、車に轢かれたいと何度も思ったようですね。電車に飛び込もうと三度ほど、決意しましたが、怖くなってやめましたね」
「驚いたな。くろみね君は、ずいぶんと僕のことが詳しいんだね」
水道の蛇口から水滴がポチャリポチャリと落ちる。
「ええ、先生は、引きこもっていた僕を救おうと、何度も家にきてくれました。あの時は、人が怖くて怖くて、先生ですら会うことができませんでしたが、先生の熱心な言葉が、今でも時々心にちらつきます」
「そんな熱心な言葉をかけたかな~、ははは、最近、記憶力が悪くなってどうもね~」
「どうですか?先生。まだ、人生に絶望をされていますか?」
「そうだね~、人生にはまだ絶望はしているよ。僕は教師で生徒にずいぶん無責任な言葉を発してきたし、自分が何のために生きているのかもよくわからなくなるよ。寂しくて、酒や薬に頼ることも頻繁で、時々、誰か僕を殺してくれと叫びたくなるよ」
「そうですか」
「すまないね」
「いえ……」
数秒の沈黙。
「先生、今、ここに二つの選択肢を先生に与えます。僕の右手には『生きる』という選択を、僕の左手には『死ぬ』という選択をです。先生、お好きな方をお選びください」
ブラックは、本条先生に両手を突き出した。本条先生は真剣な目をしていた。そして、目をつぶり、
ブラックのそっち手に触った。




