神への意思 ―――とある存在の言明
もう少し釜石線の本数増やしてくれたっていいと思うの
じゃあ、そこまでお前がそう言うなら私も自分が体験した事を一つ、話してやろう。
先ず一つ言わせて貰うと、只管の自由意思を持ち合わせる所は、極めて自由観念的なものであると言えると思う。
この期に及んで愚痴を言うのも読者に到底失礼に当たる行為なのは承知して言わせて貰うが、その自由意思たるものは私にとって"蝕まれているもの"と自覚させるのさ。
神は全知全能で、かのデカルトも「神は欺かない」と述べている。然し神はその自由意思を認めるかどうか、と問われれば難しく、かのルターとエラスムスが論争を引き起こすほどだ。
だが私は、そもそもの自由意思はよし欺かん神の恩寵の下だ、と言う前提条件的な考えが誤謬であるのではないか、と考えるのだ。
そう考えるに至ったきっかけ――其れは私が思索に耽っていた時、決して良し悪し言えぬ出来事の一つに過ぎず、普遍普通の大衆から見れば"どうでもいい"と思われる事を覚悟で述べようと思う。
その時、私はとある山――I県の山中にある鍾乳洞を訪れた際の事だった。多くの神秘的な鍾乳石を前に、確かに私は極めて感動していたのを今でも覚えているね。
だが、そんな感銘を受けていた私の元に訪れたのは不意たる瞑想――決して己自身に依る処を見せないそれが私の元に渦巻いて発生し、大いなる力を前に狼狽えたものだよ。
眼前では峻厳として鍾乳石が佇んでいるが、私は狼狽せしめる愚かな人間の一個体であっただろうし、決して私と言う存在が何かしらの第三者の干渉を受けたとしか考えられないほどの感情編入が発生していたからに仕方なかったかもしれない。
かの瞑想は、私に恐怖と神性を以て襲い掛かるのさ。まるで鍾乳洞が教会のように思えてきて、今見ていた鍾乳石がステンドグラスにようにさえ錯覚したと言えば、私は混迷耽溺の極であったことを読者は容易く騒動できるだろう。
かの私とて蹲り、腹部を右手で抱えて身を縮ませた。頭痛が私を縛り付けるので、尚更困り果てた。誰か助けを呼ぼうと思ったが、声が出ない。
ふと、頭の中の痛みが消えた。否や、私の理性に直接的に語りかける存在が、私に対して物を告げたのである。――これが神の言葉というやつか?その時の私にも、今の私にも分からないね。
そしてソイツはこう言ったんだ―――『お前の見ている鍾乳石は、お前を以てしてお前が感覚したお前の精神に依る処の感性そのものだ。感覚の死は死に絶え、今に感性は誕生した』。
何を言ってんだ、と思ったよ。ワケが分からず終いであった。所詮私にはそれぐらいの知能しか携えていない愚図の一人である事はとうに知っている通りだ。だから尚更、私と言う存在は好奇心よりも恐怖が圧倒した。私がもし天才なら、好奇心が勝つのだろうね。
恐怖心と言う盾を前に逃げに徹した私は、転び転びで何とか鍾乳洞の外に出た。外は洞窟内とは異なって、太陽が燦然と輝いていた。救われた気がしたよ。
この体験は家に帰っても忘れられず終いでいた。ずっと夢に出てきたし、もし夢で見た時は身体が寝汗でびっしょりだった…悪夢みたいなものだ。
私は最早幽霊を視たかのような気持ちになって、身震いが止まらなくなったよ。愚かな私は本当に教会に言って懺悔をしたり、祈ったりした。宗教者であった事を心から悦んださ。
だが私は既に"罠に掛かっていたキツネ"だった、と言うのも、かの御告げの意味が理解出来たのさ。其れはふとした調子から始まった、他愛もない出来事だった。
私は飼育している牛に餌をやるため、牛舎に赴いた。かの牛舎は鼻を劈くような臭い――少なからず私は未だに慣れないもの――が充満していて、一瞬鼻を手で押さえて臭いが入るのを防いだんだ。
その時だったと思う――いっせいに牛舎内の牛たちが、私の方を見たのさ。その時の牛たちの目は悲しそうなものだった、まるで子を失って泣く親のようであったさ…私はその光景に目を疑い、なんだか重罪を犯した犯罪者になった感覚だった。
結局私は臆病に帰して、餌やりは家内に任せることにした。私はつくづく寝床で思った―――『私と言う存在が持つ感覚は世界意志に依る処の理性そのものであり、それは全てを変革しうる力を受け持つ』ってね。
どういう意味か分からない?私は牛舎で、自ずと"手で鼻を押さえた"んだ。その行為によって、牛たちが抑圧される意思によって放つ臭いが、私の自由意思によって塞がれたわけだ。
そうすると、全知全能の神様の遍く恩寵が人間専用のものとしか考えられなくなった――何故なら萬物に自由意思が存在するのに、人間と言う孤立した動物が他の動物を圧倒して感性を使いこなすのだから。
不思議な背徳感に襲われたね。次の日からは蟻っこ一匹さえ踏めなくなったさ。……愚かなものだろう?自由意思によって、"自由意思"が蝕まれたんだよ。
かの御告げがあった鍾乳洞に、後日もう一回行ったのさ。其処に実家のような愛着感も湧いてきた、と言うのが本当の理由だが。
私はあの出来事があった鍾乳石の前まで行って、再び眺めた。しかしかの御告げは決して起こる事は無く、ただ空しく時間が経過していっただけだ。
まるでボッカチオがデカメロンで書いたように、周囲が壁――かのデカメロンではペストと言う流行り病だったな――であった。私はその中で暮らす、愚かな囚人の一人だったのさ。
自由意思なんてものは、神が我々に与えた欺瞞の自由に過ぎなかった。これに気づいて目を覚ました私は、次の日から教会に行くような馬鹿な真似はやめたね。キリスト者から脱出したのさ。
この自由意思を認めるべきだと言ったピコ・デラ・ミランドラの達観さには降伏するが、私と言う存在が受け持つ自由意思の自由加減を判断するのは私だけであったことに気が付いて、すっかり明晰になった感覚だよ。
もうこれから私は神を信じるような事はしないだろうね――私の自由意思は、私によって判断される私の自由の下、私が作られ私を為す。私と言う私は、自己を保存する為に神の保障契約を止めたのだ。自分の身は自分で守れ、と言うやつさ。
さて、私の話はこれでお終いだ。それでもお前は、かの神を信じるのか?別に信じてもいいけど、お前は何時まで経っても永遠に囚人のままだぜ、ハハ。