『ゴメンナサイでよければ、』
その夜、ラーメン屋『昇竜』の閉店後、水森はリオンの家の応接間で、リオンの両親と、特に父親と楽しそうに笑っていた
「そうですか。ご主人はプロボクサーだったんですか」
「これでも、日本ランキング2位までいったんですよ。ところが、いよいよタイトルだって矢先に、目をやっちゃいましてねえ」
「それでボクシングを断念したんですか」
リオンの父は現役時代の無念を思い出していた。
「ボクサーをやめてからも、ボクシングへの未練が、なかなか断ち切れなくてね…」
水森自身も、そのことには共感するところがあるらしく、
「分かりますよ。その気持ち…」
水森の、その切ない顔の表情を見たリオンの父は、
「先生も、ボクシングを?」
「え、まあ、少々…」
リオンが話に割って入り、
「へー。水森先生ってボクサーだったの」
「学生の時、ちょっとな」
「ただの、スケベなテニスコーチかと思ってた」
水森は飲んでいたお茶をふいた。
「そ、それは君だけの見解かな?」
リオンはケロッとした顔で、
「みんなそう言ってるよ」
「知らなかった。俺はそういうイメージで見られているのか」
リオンの父は突然、左の手のひらに、右手でコブシをつくってポンと叩いた。
「みずもり…あ、思い出した!先生は、あの水森拓郎じゃないの」
「学生時代、10年に一人の天才ボクサーといわれた」
「い、いや…」
水森は困惑していた。
「ホントに、ただのスケベコーチじゃなかったんだ」
「しまいにゃあ、怒るよ」
リオンの父は、同じボクサーであり、ましてや天才に会えたことが嬉しかったようで、
「まさか今夜、天才水森君に会えるとは思わなかったな」
「母さん、ビールの用意だ!」
台所のリオンの母に呼びかけた。
「はーい!」
台所から、透き通ったいい声が返ってきた。
リオンの父は、水森の過去の輝かしい戦歴を思い出していた。
「あのままボクシングを続けていれば、オリンピックの金メダル、プロになれば世界だって狙える選手だったのに…」、
「なぜか大学卒業と同時に、ボクシング界から消えてしまった」
リオンが水森にたずねた。
「どうしてやめちゃったの、ボクシング?」
「俺は…ボクサーに…、向いてなかったんだよ」
水森の寂しげな表情に、リオンと父はそれ以上言及しなかった。リオンが突然思い出したように、
「ところで先生、話ってナニ?」
水森も思い出したかのように我にかえった
「そうそう忘れるとこだった」
水森はソファーのテーブルに両手をついた。
「リオン君のお父さん、お母さん、実は娘さんを私…」
水森の話が終わらないうちに、リオンの父が叫んだ。
「先生、ちょっと待った!」
「娘はまだ17だ。結婚はまだ早いんじゃないかな…」
水森はキョトンとした顔で、
「は、けっこん?」
今度はリオンが叫んだ。
「先生、私と結婚したいの?」
なんという早合点の親子なんだと思いながら、水森は釈明した。
「今日会ったばかりの君と、結婚したいなんて言うわけないでしょ」
リオンの父が目を丸くして怒り出した。
「なに!結婚はしないけど、娘をくれっていうのか!」
今度はリオンの母が口を挟んだ。
「それって、もしかして愛人になれってことじゃないの」
またまたリオンが叫んだ。
「私、先生の愛人になっちゃうの?」
リオンの父は、水森の服の襟首を掴んだ。
「先生、私は娘を愛人にするために、17まで手塩に掛けて育てたわけじゃないんだよ」
さすがの水森も、リオン親子にむかって、
「あなたがたは妄想家族ですか!」
三人は口をそろえて言った。
「ちがうの?」
「私が言いたいのは、私が顧問をするボクシング部に、リオン君を入部させて頂けませんか。ということなんです。」
水森はようやく本題を伝えることができた。リオン親子はキョトンとした表情で、
「ボクシング部?」
リオンは水森にたずねた。
「ウチの学校にそんなのあった?」
「今度新しくできるんだ」
「でも、なんで私がスカウトされるわけ?」
水森は、先の店内でのゆすり男を撃退した、リオンの軽快なフットワークを思い出していた。
「先程の身のこなし、多少なりともボクシングの心得があるように思えたのでね」
リオンは、とんでもないといった顔をした。
「心得なんてないよ。あれは子供ころ、父さんの遊び相手をしていて、自然と体で覚えただけだよ」
父は、現役を引退した頃のことを思い出していた。
「最初はラーメン屋の仕事に身が入らなくてね、子供のリオンにボクシングを教えることで、憂さを晴らしていたんですよ」
「私は父さんの憂さ晴らしの相手だったわけね。」
水森は、リオンの軽快な身のこなしの理由がわかった。
「子供の頃とはいえ、プロ仕込みか。どおりでサマになってるわけだ」
「どうか、リオン君をボクシング部に入部させて頂けませんでしょうか!」
水森も話が終わるや否や、リオンの母が口を尖らせて言い切った。
「私はリオンのボクシング部入りに賛成できませんよ」
「お父さんがボクシングを教えたせいで、この子の子供のころのアダ名、何て呼ばれていたか覚えてる『将軍』よ」
水森は首を傾げて、
「将軍?」
リオンが母の話を補足した。
「手がつけられない、暴れん坊『将軍。』って意味」
リオンの母の話がヒートアップした。
「それで、少しは女の子っぽくなってほしくて、お嬢様学校の神聖学園に入れたんですよ。それをまたボクシング部なんて、火に油を注ぐようなもんですよ」
水森は、今の自分の正直な気持ちを、リオン親子に伝えようとした。
「実は、僕も校長の命令で、ボクシング部の顧問を仕方なく受けたんですけど、女子のボクシング部には気が乗ってなかったんです」
「高校の、クラブ活動の一環とはいえ、ボクシングは人と人が殴りあう過激なスポーツです。それを女の子にさせるのはどうかと思いました」
「でも…」
「でも?」
リオンの父は水森にたずねた。
「さっきのリオン君の動きを見ていたら、僕の中の血が騒いだんです。忘れかけていたボクサーの血が」
「もう一度、あの四角いリングに、燃える魂を求めてみたくなったんです」
リオンの父は、水森の体のうちに秘めた、くすぶって燃焼しきれていないボクサー魂を、自分も共感していた。
「わかるよ。わかるよ先生!ボクサーだったら皆その気持ちを、心に秘めているのさ」
父はリオンの肩を抱いて、
「私はリオンのボクシング部入部に賛成だ!」
「有り難うございます。お父さん!」
リオンの母が、とんでもないといった表情で怒鳴った。
「何を言ってるんですか。私は絶対反対です!」
そのとき、リオンの父が小声でぼそぼそっとしゃべりだした
「なんか急に、母さんが欲しがってたバッグ、買ってあげたくなっちゃったな」
リオンの母は、尖らせていた口を元にもどし、
「私も賛成です」
と言い、コロッと意見を変えた。
「あのみなさん。大いに盛り上がってるのは結構なんですけど、当事者は私なんですよ、私。」
リオンは、自分の意志を無視して、話が進んでいるのを制した。
「そうだよね。まだ君から確認をとってなかったね」
リオンは、正直に自分の気持ちを水森に伝えた。
「ボクシング見るのは嫌いじゃないけど、自分がリングに上がるとなると、話は別だよ」
「今まで、殴ったことはあっても、殴られたことはないからね。やっぱり怖いし」
水森は、やはり無理なんだと半ば諦めた。
「ダメ…かな。やっぱり」
リオンは、すました顔で話しを続けた。
「それに私、あきっぽいから…その時はゴメンナサイでよければ、」
「入部してあげるよ。先生」
リオンはニコッと笑ってみせた。笑顔の可愛い子だと改めて認識した。
「ありがとう、リオン君」
その夜、水森はリオンの父と、夜通し酒を酌み交わした。