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発露

 私たちは淡々とした毎日を過ごす。何日かに一度、買い物に出て、そのときの暑さに文句を言って。本を一緒に読んで、時折、感想について語らったりして。

 刺激の少ない生活だ。文字に起こせば、山がないと叱られるだろうし、つまらないだろう。


 それでも、その安穏とした日々を私は愛していたし、きっとユゥも同じだったと思っている。

 そして、その日々がただの幻想で、ほんの些細なことで崩れ去るものだということも。


     ***


 その日も、前日までと同じように暮らしていた。部屋にあるのは、お互いの呼吸音や身じろぎ、紙の擦れる音くらいで、あとは窓の外から薄っすらと蝉の声が聞こえている程度の、静かな環境だった。


 その静けさを、鳴り響く電話が破った。


「出なくていいんですか?」

「どうせセールスだろう」


 こんな風に突然電話が鳴るということはよくあって、そういう業者は滅びさればいいのにと思っている。向こうも商売だし、ノルマもあるだろうから必死なのはわかるが、和を乱されるということは、ひどく苛立たしい。

 しばらくすると留守電に切り替わる。セールスならここで諦めて通話を切るが、今日は違った。


『もしもし。いるのでしょう』


 響いてきた声。それは、愛おしい姉の声だ。声音は詰問しているようで、焦燥を感じ取れる。

 スピンも挟まずに、私は席を立った。投げ出された本が、ぐしゃりと床に転がる。

 いつもなら、気にするはずのそれも、今は気にならない。


 ――まるで、好物を与えられた犬だ。


「私です」

『遅い』

「少し待ってください」


 子機を手に、部屋を出ようとする。ユゥが、不機嫌そうな顔でこちらを見ていた。

 口と手ですぐ戻る、と告げ、私は廊下に出る。


 強烈な熱気が体を包み込み、汗が噴出する。急いで廊下を駆け抜け、書斎へと逃げ込む。

 指先で冷房を強にして、冷えるのを待ちながら、答えた。


「大丈夫です」

『あの子には聞かせたくありませんでしたか?』

「内容によっては、姉さんも嫌でしょう」

『まぁ、子供の前ではできない会話というものはありますね』


 下世話、とかそういうのではなくて、開けっぴろげに語れない話もある。

 たとえば、進路の相談だとか、素行の相談だとか。

 本人が耳にすれば不快になるであろう話を、見えない場所でするのは当然のことだ。

 目の前でそれをするのは、指導を目的とするときぐらいだろう。電話という、片方の主張しか聞こえない場には適さない。それでは、ただの当てつけだ。


「それで、何の用ですか。到着した、という連絡は雄介のほうからいっているでしょう」

『ええ、来ていますよ。そのあと、何の連絡も無かったのと、あなたから状態を聞きたかったから』

「私は何の説明をすれば? たった半月で、一人の人間を語れるほど、私は優秀ではありませんよ」

『あら、一族の出世頭と呼ばれた方の発言とは思えませんね』

「その話はやめろ」


 思わず、語気が荒くなる。


『……ごめんなさい。私も、熱くなっているみたい』

「心配なのはわかりますが、子供は親が思う以上に、しっかりしているものですよ」


 それに、そこまで心配なら一人で追い出さなければいいのだ。


『ええ、わかっていますよ。親は思っている以上に、子供を見ていますから』

「なら……」

『あの子が危ういのは、あなたにもわかるでしょう?』


 それは同意見だ。


『それに、私はこの性格です。あの子を、うまく褒められない』

「避難場所を作りたかったと?」

『親戚のお金持ちの叔父さん、なんて、格好のポジションでしょう?』

「まあ、そうですね」


 親戚というのは勝手なものだ。実子でない以上、その将来に責任をとらなくていいのだから。

 親がダメといっても勝手に甘やかすし、時には親以上に厳しく接する。


 だが、そういう存在がいるということで、親の価値観は絶対的なものではないのだと、子供は学ぶことができる。

 ヨソはヨソ、ウチはウチ。それを知っておくのは、社会に馴染む上で役に立つ。

 それに、親に拒絶されたとき、そういう人がいるのといないのでは、精神的余裕に差が出てくる。


 味方の存在は、人を強くするのだ。


「ですが、あの子がほしいのは親の承認でしょうに」

『そんなことわかってます! それでも、それでも、私は……私は!』


 ここまで取り乱している姉を見るのは、久しぶりだった。


「……なにが、あったんですか」


 しばらく、答えはなかった。荒くなった息が、段々と整っていく。そして、平静を取り戻してから、言葉の続きが来た。


『あの人を、ね。取られそうな気がしたんですよ。外見は女に近しいですが、あの子も男です。私より、あの人のほうがいろいろなことを理解できる、趣味を近しくできる。

 それに、あの人はやわらかい人ですから。私では受け入れがたいあの子の形を、すぐに受け入れられた』


 思春期に入って、母親を突き放し、父親に共感していく、というのはよくあることだろう。

 だが、そんな当たり前のことを、ユゥの外見が誤解させた。


『それでも中学生のうちは大丈夫でした。そんな子供に、あの人をどうにかできるはずがないんです。

 ……でも、高校生になってからは、無理だった。だって、私があの人を手に入れたのと、同じくらいの年ですもの。日に日に色っぽくなるあの子が、私は恐ろしくてたまらない。通じ合った会話が、憎くてしかたない。その中身をちゃんと理解できなくて、もしかしたらそれは昔あの人と使ってたみたいな、二人だけの合言葉なんじゃないかって、ああ、ああ――!』


 狂気的な叫び声に眉を顰めながら、平板な声を作って答える。


「――自分の子に嫉妬するなんて、親のすることじゃない」


 そんなあなたは見たくなかった、という出掛かった言葉を飲み込んだ。


『わかっていますよ。だから、少しだけ距離を置きたかったのです』


 突き放すような私の言葉に打たれたのか、ヒステリックな女の顔が引っ込んだ。

 この切り替わりの速さが、春日井の女の恐ろしいところだと思う。


「あなたにとっても、避難だと?」

『ええ。……そんな私の事情はどうでもいいです。それで、あの子は?』

「今は落ち着いています。頭のいい子だと思いますよ。そして、他人の感情の動きにも聡い。ただ、他人を信じすぎている。自分に疎い、ともいいますが」

『あんなに化粧気があるのに?』

「そういう意味ではなく、影響力の話です。本人が思う以上に、あの子の影響力は強い。あなたも、身をもって知ったでしょう」

『……』

「子供まで作った夫婦を疑心暗鬼にさせるほど、です。学生の中に放り込めば、問題を起こして当然でしょう。

 きっと、そのことについてあの子は相談したかったはずです。……なのに、あなたはその子たちと同じように」

『やめて』

「やめませんよ。言えといったのはあなただ」

『切りますよ』

「好きにすればいい」


 どうせ、できやしないのだ。言いたくて、聞きたくて、裁いてほしくて、この人は私を利用しているのだから。

 昔からそう。そうやって甘えてきて。私は彼女が好きだったから、甘やかした。


 ――だから、今も。


「あなたはあの子を追放した。夫の愛を確かめたかった、そんな理由で。

 うちに来た日に、あの子は昔使っていた喋り方をしましたよ。まるで、甘えているみたいに。いいえ、甘えていたんでしょう」


 ユゥはあの口調を、馴染むために使わなかったといった。


 どうしてかはわからないけれど、周りの大人が使うべきじゃないと言っていたから、たぶんそうしたほうがいいんだろう、という漠然とした理由で、使うのをやめたのだろう。

 けれど、友人たちと仲が深まっていく中で、彼らになら使っても大丈夫なんじゃないかと、ユゥは思ったのだろう。


 そして、使った。その結果が、今だ。


「これは推察ですが、義兄さんにも、あの喋り方をしていたでしょう?」

『……ええ』


 それは、家族間の親愛の情を表しているに過ぎない。


 だが、あのカタチが、それに別の意味をまぎれこませた。


 自分の若い頃に酷似したカタチ。外見だけで人は他人を好きになるわけではないが、要素のひとつではある。

 姉は衝撃を受けたのだろう。劣化した自分よりも、はるかに若い、同じカタチの人が旦那と仲良くしているという事実に。


 ――それが、息子であるという事実を、忘れ去ってしまうほどに。


「どうして、わかってあげなかったんですか」

『そこまで、人は論理的ではない……というのは、あなたの持論でしたね』

「ええ」

『私は親であり続けられるほど論理的では、いえ、大人ではなかった……それだけの話です』

「なら、これからはあろうとすべきでしょう」

『そう、ですね……。帰ってきたら、まず話をしようと思います』

「いい結果になるように、祈ってますよ」

『ありがとう。……ほんとうに、そんなに優しいのに、どうして結婚できないのでしょう』

「それは、私の自由です」

『家を継ぐ、と声高に主張していた時代がうそみたい』

「知っているくせに」

『ええ。だからこそ、今釘を刺しているんですよ』


 私に向けた感情を、息子に向けるんじゃないと。

 そんな自慰に使ってくれるな、と。


 ――だが、もう手遅れだ。


「……気をつけますよ」

『あなたなら、大丈夫だとは思っていますけど』


 すまない、と叫びたかった。だが、それをすれば、私はユゥをも裏切ることになる。

 今度裏切られれば、ユゥは耐えられないだろう。そんな真似はできなかった。


「じゃあ、切りますよ。電話代だって、ただじゃない」

『誰かさんがスマホを持って通話アプリでも入れてくれれば、ただなのですけど』

「ごめんだよ。じゃあ」

『ええ』


 ぶっつりと、電話が切れた。ツーツーという電子音が、嫌に耳に残る。

 我知らずのうちに、その場にへたりこんでいた。


「すまない、優衣」


 聞こえないとわかっているから、口にできた。言わなければ、罪悪感で死んでしまいそうだった。


 ――足音が遠のいていくのが聞こえる。


 どうやら、聞き耳を立てられていたらしい。

 どこから聞かれたのだろう。そして私だけの言葉を聴いていたのなら。


 ――いけない。


 受話器を投げ出して、居間へと走る。間に合ってくれ、と願いながら。

 

     ***

 

「ユゥ!」


 居間に戻ったとき、彼は自分の顔に包丁をつきたてようとしているところだった。


 ――手が震えている、まだ、恐れがある!


 飛び込んで、腕を押さえ込んだ。もやしだといわれようと、他人を押さえ込める程度の力はある。


「離してください! 僕は、僕はもう、こうするしか」

「そんなことをしても――」

「意味がないって? でも、顔をずたずたにすれば、カタチを変えられる。同一視されなくなる!」


 叫びは強烈だった。あまりにも痛ましい声だった。


「みんな、みんなこの顔しか見ない。僕は僕なのに、母さんじゃ、女じゃないのに!」

「ユゥ……」

「どうしてこんな姿に生まれたんですか。こんな姿じゃなかったら、あの話し方をしても、誰も傷つかなかった! 母さんも、僕を追い出したりしなかった!」

「それは……」


 仮定だが、事実だろう。ただの男があの話し方をしていたのなら、誤解はほとんどなかったはずだ。

 少なくとも、親にまで敵視されるということは、なかった。


「叔父さんだって、僕を通して母さんを見てる。みんな、みんなそう」


 ユゥの眼から涙がこぼれる。


「誰もちゃんと僕を見てくれない。そんなの知ってた。だから、みんなに愛される僕を演じようとしたのに、演じてたのに……。

 みんな、それが気持ち悪いって言って。やめろって、否定して。じゃあ、僕はどうすればいいの? 教えてよ、姿を変えちゃいけないなら、どうすればいいか教えてよ!」


 叫び声をあげているのは、ただの少年だった。

 どういう自分になればいいかわからなくて、迷っている、少し頭の良かった、愚かな少年。


 もっと賢ければ、割り切れただろう。

 もっと愚かなら、悩まなかっただろう。


 だが、彼は、それに気づけるくらい賢くて、悩まないでいられるほど愚かではなかった。


 ――叫びに、私は、答えられない。


「ほら、答えられない。みんな、みんなそうだ。誰も答えを知らないくせに、僕の答えだけを否定する。

 じゃあ、黙っててよ! 僕の好きにさせてよ!」


 見た目からは想像もできないぐらいの強さで、押さえ込んだ腕が振り払われる。

 腕が振り上げられた。問答のせいで、意思は固まっていた。包丁を振り下ろす腕に、迷いはない。


 だから――。


「ぐっ――!」


 差し込んだ腕に、包丁が突き刺さる。顔を刺して引くつもりだったのだろう、突き立てられた刃が引かれた。


 まず感じたのは熱さ。一拍遅れてやってくる痛みが、脳を焼く。


「あっ……」


 つぅと流れた血が、ユゥの顔を彩る。

 綺麗だな、と漠然と思った。


「ああ、あああ! ごめんなさい、ごめんなさい!」

「いいから!」


 咄嗟に、ユゥを抱きしめる。あの甘いにおいが、鼻腔を貫いてくらくらする。

 だが、今そんなことはどうでもいい。


「大丈夫だ。これぐらい、なんてことはない」

「でも、でも!」

「いいんだ」


 そうしている間にも、腕からは血が流れていく。空気に触れた傷口が、じんじんと傷んでいる。

 こういうときは、どうするんだったか。というか、この状態だとユゥの服が汚れてしまうな、とか。

 刺されたのは初めてだが、なんだか、意外と冷静なものだ。


「……とりあえず、タオルを取ってもらえるか?」

「は、はい!」

「あとは、救急車を頼む」


 ユゥが動きだすのにあわせて、腕を持ち上げる。心臓より高く、そのままを維持して、持ってきてもらったタオルを傷口に当てて、ぎゅっと抑える。


 なるべく大事(おおごと)にはしたくないが、しかたがない。

 なにか、適当に言い訳を考えなければならない、とか。そんなことばかりを考えていた。

 

     ***

 

 腕は数針縫うことになったが、幸いにして大事にはならなかった。家庭内の出来事というのもあって、警察も踏み込んでこなかった。


 だが、こんな事態になれば、当然、姉に連絡がいく。


 義兄は夏休みなどの世間の休暇中が忙しい職種のためにこられなかったが、姉は血相変えてやってきた。

 開幕平謝りだったのは笑いしかこみ上げてこなかったが。


 とはいえ、それでこの生活が終わりを迎えたか、といえばそうはならなかった。


「僕は帰りません」

「ユウ!」


 叫ぶ姉に、ユゥは怪我をさせたのだから、治るまではそばにいて、手助けするべきだろうと、真っ当なことを主張していた。


「それに、母さんは父さんの世話をしないといけないでしょ」


 手助けが必要なら、姉が残ってユゥを帰してもいいのだろうが、そうなると今度は義兄の食事が用意できなくなる。


 義兄とて家事はできる。だが、必死に働いて家に帰ってきたのに、家事をしなくてはならないというのは、悲しいものがあるはずだ。

 けれど、そうなったらそうなったで、あの人はいつものような、人のいい曖昧な笑みを浮かべるに違いない。

 だが、それが悲しみを隠す表情であることを知っている以上、義兄を愛する姉に、そんな真似ができるはずがない。

 的確な口撃に、姉は反論できなかった。


 それは、生涯で初めて見た、言い負かされた姉の姿だった。

 

 ――とはいえ。


 たしかに利き腕を怪我したが、なにか支障があるかといえば、そこまでではない。

 骨折と違ってギプスで固定されているわけではないから、動かすことができる。激しく動かすなと言われているが、そんな運動の予定はない。

 両利きになっておくと、将来楽だぞと教育を受けたせいで、反対の腕でも同じことができるから、抜糸までの間、特に苦労するとは思えなかった。

 あえてあげるなら買い物ぐらいだろうが、それも小分けにしてしまえばいい。やりようは、いくらでもある。


 ……などと、話し合いを台無しにするようなことは言わない。


 ここに残って私の手助けをするということが、ユゥが事件を自分の中で整理するために必要な行為なのだ。


 それを自慰に巻き込んでくれるなと、突き放すのは簡単だ。

 けれど、そもそもの原因が、私の自慰なのだ。自分はいいが、お前はダメだなどという身勝手をするつもりはない。


 人は進むために、時にあまりにも非効率で、無意味としかとれない行為をすることがある。それが今というだけのことだ。


 ――ともかく、そうして、ユゥはこの家に残ることになった。

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