順応
翌朝、パジャマ越しに何かの熱を感じて、飛び起きた。
すぅ、と寝息を立てて、可愛らしい寝顔のユゥが隣で寝ていた。寝汗をそれなりにかく体質なのか、濃い体臭が立ち上っている。あの甘いにおいを煮詰めたようなそれは、頭をクラクラとさせた。
逃れるために布団から抜け出すと窓を開けた。朝のほんの少し湿ったにおいが、鼻腔を洗っていった。ほっと一息つくと、疑問が湧いてくる。
「どうしてここに」
私の寝室と、ユゥに割り当てた客室は、正反対の位置にある。トイレもあちらの部屋のほうにあるから、帰り道を間違えて、迷い込むということはないはずだ。
「……寂しかったのか」
私に抱きついて寝ていたのだろう、ぽっかり空いた隣の空間を抱くようにして眠っている。
それも当然か。寂しくないはずがないのだ。親戚とはいえ、他人の家に一人で泊まるのだから。
夜半に目覚めて、寂しさに耐えられなくて潜り込んできたというところか。
「言えば部屋を同じにしたのに」
初めは大丈夫だと思ったのだろう。だが、改めて暗がりの中で状況を見直したときに耐えられなかった。そういうことは、ままあることだ。
「まあ、今日は許してやる」
メモ書きを枕元に残して、朝食の準備に向かう。どんな顔をして起きてくるかが、少し楽しみだった。
***
朝食は、一日の原動力だ。とくに、このあとたくさんの荷物を運ぶとなれば、なるべく量が欲しい。
「どうしたものかな」
考えながら冷蔵庫を開くと、昨日の食べ残しの鮭があった。ユゥは思っていたほど食べる量が多くなく、日持ちしない野菜炒めの方を優先させたのだ。
「涼しめの朝食にしようか」
冷凍保存してあるご飯を二人分取り出し、レンジで解凍。その間に鮭をほぐしつつ、インスタントで出汁を作る。冷感が増すよう、氷を小さく砕いたものを作って、とけないようその状態で冷凍庫に戻す。
それから少し待ってホカホカに解凍されたご飯をザルに移し、水洗いでヌメリを取りつつ冷やしていく。冷やし終えたら、さっき作った氷の半分をお椀の底に敷き、ご飯を乗せ、氷、鮭の順にのせ、出汁をかける。最後に適当に千切った海苔をのせて完成だ。
軽く味見をしてみると、濃い目の鮭の味がうまく馴染んでいる。成功といっていいだろう。
ふん、と完成に踏ん反り返っていると、ドタドタという足音が聞こえてきた。
「す、すみませんでした!」
寝癖で髪を跳ねさせたユゥが飛び込んでくる。実にちょうどいいタイミングだった。
「おはよう。朝食が出来ている。食べよう」
「え、あ、はい」
「それと、潜り込んだことについてはメモに書いた通りだ。次からは声を掛けてくれ」
「……はい」
ほっとした様子が伝わってくる。別に、悪いことをしたわけではない。
誰だって、寂しくて眠れない夜くらいあるのだから。
***
食は細いが、朝から食べられないほどか、というとどうやらそうでもないらしい。作った朝食は、ぺろりと完食された。
「ご馳走様でした。おいしかったです」
「お粗末様。九時ごろには出かける。用意しておくように」
「はぁい」
まだ七時半だが、朝の時間は思った以上に早く過ぎる。ユゥは男だが、あのカタチを維持するために時間が掛かるのは想像に難くない。
そして実際、忙しそうにユゥは走り回っていた。歯を磨きながら髪を巻いたり、服をもって右往左往したりと大忙しだ。
そんな彼の姿を、私は食後のお茶を楽しみながら見つめていた。
ここで間に合わないのでは、と思わないのは、やはり、やり方が姉に似ているからだろう。
姉はどれだけギリギリだろうと、確実に間に合わせてきた。だから、間に合うという、カタチと技法からの同一視を私はしていた。
イビツに過ぎるとはいえ、その同一視に合わせた結果を出してくるのだから、ユゥもなかなか侮れない。
「あんまり、焦らなくてもよかったかも」
時計を見て、そう呟くユゥは、数分前までヤバイと口にしていた少年と同一人物とは思えなかった。
そんな彼のコーディネートは、立体的に表現された水玉の描かれたTシャツと、ベージュのチノパン。これに長手袋と、昨日のサンダルとは違う、運動靴を組み合わせるらしい。
「いったい、あのボストンバッグの中には幾つ服やらが入っているんだ?」
「組み合わせて一月過ごせるくらい、には……」
あのボストンバッグは、昔、家族で旅行するときに使っていたものだ。中にぎっしり詰めれば、一人の一月分くらいは入るのかもしれない。
「よくもまあ……重かったろう」
「キャリーの方が良かったかも、とは運んでて思いました」
「その辺りは、きちんと男なんだな」
「細くても馬力はありますよ」
ならいい、そう言って目を閉じ椅子に寄りかかる。けれど、鋭敏になったはずの嗅覚に、あの甘いにおいはしない。
(制汗剤さまさま、だな)
正直、まだ慣れることはできそうにないにおいだ。なるべくなら、しないほうがいい。
「細いって言えば、コータロも細い方ですよね」
「もやしもやしとからかわれたものだ」
「友人にもいますけど、無駄にマッチョなのって、暑苦しいだけで嫌いです」
「目的があってマッチョなら、構わないがな」
見せつけるためだけに、筋肉のあるなしを語られても困る。とはいえ、あの年頃はそういったところで他者との差をつけたがるものだ。
そういう観点からすれば、ユゥは努力が必要ないタイプだろう。
その外見の特異性は、明確な差だ。ともすれば、いじめなどに発展しそうなほどの特異さだが、話を聞く限り、うまいこと世渡りはできていたらしい。
「それに、暑苦しいというか、実際暑くなるからな」
「筋肉ある方が、体温上がる、んでしたっけ?」
「ああ。熱をそれだけ作れるようになる、んだったかな」
この辺りは学んだわけではないので、大きなことは言えない。
「……暑くなるので、この話やめましょう」
「……そうだな」
いま、ユゥの頭の中には筋肉モリモリの男が汗をかいているという姿が、私と同じように浮かんでいるはずだ。
想像するだけで、暑苦しかった。
***
それから、精一杯涼しい家の中を楽しんだ私たちは、九時少し前に家を出た。バス停まで掛かる時間を考えると、かなり余裕があるはずだった。
今日は晴天だった。雲はぽつぽつとあるが、太陽を隠してくれるほどの大きさはない。本気の田舎、というわけではないので、日差しはまだまだ優しい方だ。
それでも、アスファルトに陽炎は立つ。その景色がたまらなく暑い。見ているだけで、汗をかきそうだった。
「昨日と比べると、かなり風が涼しいです」
全身防備でビッチリなユゥが言った。
「それは、幸いだな」
気温にもよるが、風があるかないかで体感気温はかなり変わってくる。意図したわけではないが、出かける日に風があるのは、気分的に楽になる。
「そういえば、手袋は暑くないのか?」
上にもう一枚着ているようなものなのだから、暑そうに思えるが。
「それが全然。最近の科学ってすごいですよ」
「科学者さまさまだな」
「感謝するばかりです」
そんな風に言葉をかわしながら、十分も歩けばバス停だ。
サビだらけの標識と、ボロボロのベンチの置かれたバス停は、映画の中から飛び出してきたかのように思える。
「昨日も思いましたけど、このサビてるのが田舎って思います」
「ノスタルジーを煽るのは確かだ」
都会にも似たようなバス停はあるだろうが、田舎のステロタイプなイメージなのは否定できない。
「ここまでボロボロだと、むしろ危ないと思うんですよね、ベンチ」
「ちゃんとしたところは撤去するらしいな」
一時期報道になったような記憶がある。公園の整備不足の頃だったろうか。
「それに、汚そうだし……」
「まあ、この辺りだと動物が触ったりするだろうからな。気になるなら座らない方がいい。それに、すぐに来る」
「そうですね」
待たないよう計算して出てきたおかげで、バスはすぐにやってきた。
それほど暑いと思っていなかったはずなのに、バスの空調は快よかった。
***
中途半端な田舎には、だいたい無駄に大きな駅前施設がある。再開発が追いついていない、とも言えるのかもしれないが、駅の周りばかり立派で、イビツさを感じる。
「駅前だけ見ると、そんな田舎な感じしないのに……」
「そうは言うが、昔は駅前も何もなくてな。今の連中は駅に出てくれば遊べるが、昔は数駅移動しないとろくな遊び場がなかったものだよ」
「そんなに、ですか……」
「ああ。とりあえず買い物を済ませよう。セールに、負けるわけにはいかない」
ぐっと拳を作った私を、ユゥが呆れた目で見ていた。主夫を侮ってはいけないと、思い知らせなくてはならない。そんな風に思った。
既にスーパーの前には長蛇の列ができている。懐に忍ばせていた今日のチラシを取り出し、セール品を確認する。二人分なので、普段なら食べきれないから買わなかったものにも丸がついていた。
「役割分担をする。いいか?」
「なんか、軍隊行動でもする、って勢いの声なんですけど」
「セールは、戦いだ。母は強いぞ」
開かれていくダンボール、並べられた端から消えていく野菜。伸びる客の腕は、さながら地獄の亡者の如し。迂闊に足を踏み入れれば、勢いに飲まれ弾かれるが道理。
「……なんか、怖くなってきたんですけど」
「特に朝のセールだからな。ここに集っているのは歴戦の猛者だ。だが、安心しろ、ユゥが行くのは、値段が変わらないような品の方だから」
セール品だけで食卓を構築するのは理想だが、そのために食べたいものを我慢するのは、金がある以上無益だ。
それに、旬の食材なら極めて高いということもない。今年は不漁不作だとも聞かないから大丈夫だろう。
「安心、していいんですか?」
「大丈夫だ」
争奪戦がないといえば、嘘だが。
そんな風に会話していると、店員が開店を宣言した。にわかに沸き立つ行列は、飲み込まれるように店内へと消えて行く。
「店の奥だ、頼んだぞ!」
「は、はい!」
入り口で別れ、流れに乗るようにセール品の並ぶコーナーへ。
ボコボコと段ボールが開かれる音が撒き散らされ、舞台中央にはキャベツが積み上げられて行く。だが、その高さが一定を超えることはない。伸びる腕が、現れるキャベツを一瞬で吟味し、回収していくからだ。
なぜあの速度域で吟味ができるのかと、昔は不思議でならなかったが、今自分ができるようになっていることを鑑みるに、経験とは凄まじいものだなと思う。
思考しつつ舞台にたどり着いた私は手を伸べる。見た目に合わない重みのキャベツを退けつつ、最高の一玉を探す。とはいえ、この吟味は何秒もかけられない。いいものは次々取られてしまうからだ。
指先が、ピンとくるキャベツに触れる。引く……だが、動かない。もう一つの手がキャベツに重なっている。
相手とアイコンタクト。ここで争うことは双方の益足らない。瞬間的に譲り渡し、すぐ別の捜索に移る。今度のものは掬い上げることができた。
こんな風に時に譲り、譲られ、私はセール品を制覇した。他のものを頼んでいたユゥと合流し、レジへと向かう。
隣のレジでは戦友たちが、同じように手に入れたセール品を購入し、嬉しそうにポイントを貯めている。
幸福感……ちっぽけかもしれないが、この瞬間がたまらなく幸せだった。死者である私が、唯一生者となる瞬間なのかもしれない。
そんな私とは対照的に、ユゥは疲労困憊といった様子だった。セットした髪は崩れ、シャツはヨレヨレだ。
「大丈夫か?」
「まあ、なんとか……」
敵の多い中、初戦できちんとやりこなしたのだから褒めて当然だろう。
「よくやったよ。疲れたろう」
ぽんと、頭を撫でてやる。かぁっと、ユゥの顔が赤くなった。
「疲れませんよ、こんな子供でもできること」
とはいえ、激昂するわけではなく、肩を縮こめて、努めてそっけない声を出すだけだった。その強がり方が、ひどく姉に似ていた。
「いや、こっちほどじゃないが、そっちも敵がたくさんいたはずだぞ。しかもこっちと違って洗練されてない敵だ」
「……たしかに、子供連れのお父さんは多かったです」
「邪魔だったろう?」
「まあ、僕もそうですけど、良し悪しとかわからないから、棚の前から動かないし……」
「そう、イライラするんだよな。早くしてくれって。あの手のものを相手にしていると、私だって気疲れする」
子供連れや買い物慣れしていない客は、どんな行動に出るかわからないし、そもそも、ユゥは初めてくるのだから、どこに何があるのかわからなくて、探すだけで一苦労だったろう。
「まあ、本当に疲れなかったなら、それはそれでよかったが……」
「疲れなかった、って言えばまあ、嘘ですけど……そんな、心配されるほどじゃないです」
「ならいい。まあ、処世術として、あえて疲れたように見せるのも、馴染むのに役に立つぞ」
「同情を買う、ですか?」
「疲れて当たり前、と思われてるときに簡単にこなすと反感を買う場合がある。ただの嫉妬でしかないが、そういう輩に限って力を持っていたりするからな。うまい甘え方は、学んでおいた方がいい」
「……僕は、それで一回痛い目見てますから、がんばります」
「何事も、適度にやることが一番だがな」
「ですね……」
ふぅと二人して溜息を吐いた。
「せっかくだし、何か食べていくか? そろそろ、食事処も開くだろう」
腕時計を見れば、もうすぐ十時も終わりだ。セールを渡り歩く間に結構な時間が経っていたらしい。冷蔵ロッカーサービスがあったはずだから、食事をしていったとしても買ったものが痛む心配はない。
「たぶん混んでますし、帰りましょう……」
「そうか。……それもそうだな」
そう答えたユゥは、これ以上、気疲れはしたくないようだった。自宅ではないが、それでも心休まる家の方が安心だろう。
せっかく再開発された駅前は、スーパーしか役に立たなかったようだ。
***
行きと同じようにバスに乗り、十分近く歩いた末にたどりついた自宅は、うだるような熱気で出迎えてくれた。
風がないせいで熱気がこもり、まるでサウナのようだ。入って数秒で汗が浮かび始める。
流石にこれにはユゥも耐え切れずに悲鳴をあげている。あのにおいが漂い始める。
「予約で冷房を入れておくべきだったな」
迂闊だった、としか言いようがない。
「ほんの少しいなかっただけでこんなに暑くなるとか……しかも、まだ夏本番じゃないんですよね」
「そうだな……。これから更に暑くなるかと思うと、嫌な気分になる」
冷房が効き始めるまでの間、窓を開いて扇風機を最大風力で回し、熱気を排出する。
「先にシャワーを浴びてきてくれ。荷物は私がつめておく」
「いいんですか?」
「ああ。汗まみれのままだと、冷房が効き始めたとき、寒すぎて風をひきかねない」
「わかりました」
ぱたぱたとユゥが風呂場へと消えていく。発生源がいなくなったことで、段々とあのにおいは消えていった。
いろいろと気をつけなくてはいけないな、と深く反省した。
気温を考えて、今日の読書は書斎ではなく居間ですることになった。
あちらにも空調設備はあるが、なるべくなら廊下を移動したくなかったのだ。
ドアを開けっ放しにして廊下も冷やせばよいのでは、という案もあるにはあったが、それで書斎が暑くなれば元も子もない。
――今日はこの中から読もう。と、私が無作為に選んできた本の山を、二人で崩していく。
それは、あまりにも淡々としているけれど、確かな幸せだ。
本来孤独な読書という行為を、こうして誰かが隣で一緒にしてくれるというのは。
ただ同じ空間にいる……それだけで、私は満たされるはずなのだ。手に入らないことなんて、とっくの昔に知っているのだから。