来訪
ぱたんと音がして、最後のページが閉じる。積本が、またひとつ減った。
内容はありきたりな恋愛小説だった。くだらないことですれ違って、喧嘩して、仲直りする。
なぜか、その間に無駄に大きな話が入ったり、友人の姿を見て持ち直したりする。
けれど最後はああ、この人と付き合っていてよかったってオチか、もっといいやつと付き合ってやるからな、だ。
どこにでもある話だ。今すぐ書店に行って、平積みになっている恋愛小説のどれかを開けば、似たようなものが置いてあるだろう。
けれど、だからといってそれを責めたりはしない。私は小説家ではないし、なにより、どこまでも陳腐であっても、こうして最後まで読んでしまうくらいには面白いからだ。
それに、こういう話は陳腐だからこそいい。無駄に奇を衒っても、共感ができなくなる。身近だから、ありそうだと思えるからこそ、その心の動きが胸に迫ってくる。
……だが、流石に何作も恋愛小説を連続で読むと、少し胸焼けに似た感じがある。
だから責めるべきはこの小説ではなく、本を選んだ自分自身だ。
「……遅いな」
読み終えたそれを、売却用のダンボールに放り込みながら机の上の時計を見る。たしか、今日は甥が家に来るはずで、約束の時間は三十分ほど過ぎていた。
なにかあったのだろうか、とは思うが、連絡をとる気にはならない。携帯の番号は知っているが、相手は男だ。どうにかして家までやってくるだろうし、最悪こなくていいとすら思っていた。
甥はまだ十七だ。せっかくの夏休みにこんな社会的死者のところに遊びに来る必要はない。友人の家にでも転がり込んで遊び倒すのがいい。家を追い出される形でこちらに送りつけられるのならば、なおさら。
そう結論付けて、次は恋愛小説を引き当てまいと意気込み未読の本棚に向き合う。
適当に発売月のものを詰め込んだ本棚は、単行本から文庫までデコボコとならんでいる。
恋や色、詩的なタイトルから外れた、なるべく怪しい本を、と指先で背表紙をなぞっていると、チャイムが鳴った。
本選びを中断して玄関に向かうと、玄関扉の摺りガラスに人影が映っている。荷物やらが見えないから業者ではなく、来るはずの甥か。
そう思って無警戒に扉を開けると、目に飛び込んできたのは髪を顎の辺りで切り揃え、麦藁帽を被った美しい女だった。
スラリとした顔立ちに、少し大きめの目は、猫を連想させる。そんな女は袖口がもこっとしたTシャツに淡い色のジーパンをはいて、チャレンジャーなことに編みサンダルだった。腕には日焼け対策か、品のいいベージュの長手袋をしていて、足元にはボストンバッグと日傘が置かれていた。
その姿を見た瞬間、頭を殴りつけられたような衝撃が走る。
「優衣……?」
思わず口から転がり出たのは姉の名だ。私の最愛の名。
だがよく見なくとも、目の前の存在が姉ではないのは明らかだ。背も、服の趣味も違う。
それに、何よりも違うのは匂いだ。あの女は、こんなにも甘ったるいにおいはしていない。
ひどく、いやな感じだ。
「どちらさまかな」
「あなたの甥の、神林雄介ですよ」
返ってきた言葉に、眉をひそめる。
「最近の甥は女にも使うのか」
「生物学上、僕は男ですよ」
「ずいぶんと女よりな男に成長したものだな」
「その喋り方、本当に変わっていないんですね、叔父さんは」
「偏屈極まりないと?」
「好きですよ」
頭の痛くなる返答だが、それで本人だと確信できた。
「その話し方、やめたほうがいいと散々言ったろう」
「あえて、ですよ。流石に学校では普通に喋ってます」
「でなければ、溶け込めないだろうからな」
「まぁ溶け込めなかったからこちらに伺ったのですが」
どうやら厄介ごとを押し付けられたようだ。元々、電話口の時点で理解はしていたが。
基本的にあの女はこちらの事情を忖度しない。さながら家臣へ命ずるが如く、無理難題を投げてくる。
それは他でもない自分が甘やかしたツケだから、甘んじて払うつもりではある。
とはいえ、流石にこう育ったものを送りつけるのは無理がある。
矯正を期待しているわけではないだろう。思っているなら、別のところに送り込むはずだ。
何を思っての行為なのか、考えが読めない。だが、とにかく何か面倒なことになりそうなのは確かだろう。
「まあ、来た以上は受け入れてやろう。入るといい」
そう告げて、玄関先に置かれたボストンバッグを持ち上げる。確かな重みを感じて、どうしてこんなに荷物が多いのかと思う。
「え? あ、お邪魔します」
……我知らず、荷物を持ってしまった自分に、頭を抱えそうになった。
というか、お前も指摘するなりしろ。
***
結局あの後、荷物は雄介に持たせた。
指摘しなかったことについては、曰く「あんまりにも自然に持ったので、指摘してはいけないのかなと思いました」とのこと。
全て過去の自分が悪いので、当たり散らすわけにもいかない。染み付いた習慣というのは、げに恐ろしい。
客間の一つに案内して放置、といきたかったが、その旨を姉に報告されると面倒臭いことになるので、荷物を置いた後、居間に案内して今に至る。
「なにか飲むか」
「なにが」
「急須に出涸らしの緑茶、冷蔵庫に麦茶、水道から水」
「訊くくせにセルフですか」
「放置されなかっただけ有難いと思え」
はぁと溜息を吐かれた。そのくせ頬が緩んでいるのだから、私が変わっていなくて嬉しいのだろう。
意外にも雄介が選んだのはお茶で、ポットと茶葉の場所を聞いてくる。
どちらも同じ場所と答えれば、無言で、しかし、嬉しそうに向かっていく。
心なしか、においがキツくなった気がした。
こだわりがあるのか、急須に直入れせずコップにお湯をいれる、という工程を踏んでから、お茶をいれていた。言うまでもないが、私の分はない。欲しくもないが。
「この暑いのに、よく飲めるな」
「体にはいいんですよ」
「それは知らなかったな」
お茶を楽しむお客を前に、なにも飲まず、肘をつくという少し面白い構図ができあがる。
「それで、なにをやらかした。アレはああ見えて甘い女だ。なかなか追い出すことなどしまい」
「積もり積もって、だと思いますけど」
「一つではないと?」
「母の性格的に」
「妥当な推論だな」
姉の性格上、一度の失敗で放逐などしないだろう。もちろん行った内容にもよるが、自力での更生を試みるはずだ。
だが、事実として甥がここにいる以上、彼女は匙を投げたのだろう。
あるいは、もっと別の、一刻も早く追い出したいと思うなにかがあったのだ。
「盗みかなにかを重ねた?」
「犯罪行為ではない、と言っておきます。聞きたいなら話しますけど」
その声音からは、聞いて欲しがっている雰囲気を感じ取れた。だが、概してこういう話は無駄に長く、益体もないものだ。
「ならばどうでもいい。私に更生させる義務はない」
「相変わらず、澱んでますね」
言葉の割りに、ひどく嬉しそうだ。世捨て人の生活をしている自覚はあるが、澱んでいるとまで言われたくはない。
「何か問題でも?」
我知らず、声音が跳ねた。そのことに気づいて、少し苛立たしい。
「誰だって、隣に元犯罪者が越してきたら、気にしないではいられないでしょ」
「個人差だろう。一般的でないと自覚している相手に向ける論ではないな」
また、雄介の笑みが深くなる。においがキツくなる。
「好きですよ」
言葉を補うなら、この姿勢がということだろう。
「だから、やめろと……」
言いかけて、やめた。
なんとなく、放逐された理由がわかった気がした。
「仲良くなった相手に、その話し方をしたろう」
「少しだけですよ」
傍目には、好き好きと愛情を振りまいているようにしか見えまい。
それだけなら慣れてしまえばいなせるだろうが、この外見だ、勘違いをする輩が現れたのは想像に難くない。
男子高校生など猿だ。思春期に入った彼らは女に飢えている。中身が男とわかっていても、合法的に触れられる女のカタチに飛びつくのは、当然とも言える。
「わかっていて、やったろう」
「楽しかったですよ」
「その年で、か」
他人を煽るのは、楽しい。しかも相手が乗ってきたとなれば、安っぽい優越感に浸ることもできる。
だが、それだけだ。扇動に目的がないのなら、あとには何も残らないし、手痛いしっぺ返しを食らうことも多い。
「まあ、この腐った性根を見抜いたから母は追い出したんでしょうね」
「追い出されても、お前が好きな相手のところに転がり込めたろう」
「僕は好きじゃないですから。そんな相手のところで夏休み過ごすなんて、嫌です。襲われそうだし」
興味なさそうに髪先をいじっているのは、むしろ気にしている証拠だろう。
そんな相手しか、もう残っていないのだという思いの。
「ならやめておけばよかったろうに」
考えなしだから、こんな風に、にっちもさっちもいかなくなる。
「今更です。まあ、いい授業料だったと思いますから、別に」
その言葉は完全に強がりだった。大人ぶった振る舞いに、溜息を吐きたくなる。
「それで、言われるがまま、か」
「好きですし」
「澱んでいるのにか?」
「変わらないっていうのは、評価対象ですよ。とくに、思い出を美化したがる人には」
「詩人だな」
「それほどでも」
頭の痛くなりそうな会話だが、個人的にはこの話し方は嫌いではないのだ。
色々な言葉を省くということは、それだけ相手を信頼しているということに他ならない。言わなくても伝わるだろうという、思いの表れだ。
けれど社会に出れば、それは危うい。時に、深く互いを知る恋人同士でも同様だ。
たしかに言わなくても伝わるものはある。だが、それをあえて言葉にした方がいいこともあるのだ。
――愛情を示す時などは、とくに。
「まあ、一夏くらいなら、お前の美化された過去への耽溺に付き合ってやろう。そうでもしなくては、耐えられないんだろう」
私の言葉を受けて、狼狽で雄介の笑みが崩れる。それは、見ていて痛々しい。やるつもりはなかったが、えぐってしまったようだ。
子供は親に愛情を求めている。小さなことでも褒めて欲しくて、足掻いている。
けれどそれが供されなくなった今、別の何かに求めるのは当然のことだ。
私がそれを与えられるとは思わない。私は死者だし、想いの形は、もう変えられない。私は全ての基準を、姉に置いている。彼女という巨大な物体の影を、全てを通して見つめている。
「なら、僕はこのカタチをあなたに送ります」
雄介は艶っぽい吐息とともに、己の胸に手を当てる。その様に、姉の姿が重なる。気持ちの悪い同一視だが、人の感情はどう足掻いたところでカタチに引きずられる。
「それが対価になりうると?」
「儚くて危ういものですけど」
言葉にするまでもなく、ただの自慰行為を重ね合わせているだけなのは、了解していた。
けれど、それで若人が潰れないで済むのなら、いいような気もしていた。
子供は大人を使い潰すものなのだから。
しばし、沈黙を挟んで私は提案する。
「なら、呼び方を変えよう」
「名前呼び、ですか?」
「そうだ」
雄介が一瞬顔を歪めた。提案の中身が読めたのだろう。だが、すぐに呆れたように息を吐いた。
「いいですよ、好きに呼んでください」
「ユゥ。私はお前をそう呼ぼう」
雄介のユウ、ではない。私がまだ生者だった頃、姉をそう呼んでいたからだ。ユイの、ユゥ。
言葉は脳を侵食する。呼び名による同一視は、カタチの同一視と合間って、彼への愛を生むだろう。まがい物の愛だが、私が供せる唯一の愛だ。
「なら、僕は名前で呼べばいいんですね」
「そうだ」
返答に、眼を伏せた雄介は、一拍の後に私を呼んだ。努めて平板な声で。
「じゃあ、夏休みの間よろしくお願いします。コータロ」
春日井光太郎。澱んだ男の名前を。
***
かくしてイビツな契約が結ばれた。それが、将来的に薬になるか毒になるかは、わからない。
振り返れば不気味にしか思わないかもしれない。けれど、それでもいいのだ。
一時的な慰撫のために、痛々しいことをすることなんて、そう珍しいことでもないのだから。
「では、私は読書に戻るよ。好きに過ごすといい」
「……そういえば、この家ってテレビとかないんですか?」
キョロキョロと辺りを見回しながらユゥが言う。
居間にあるのは食事用の長机くらいで、他には何もなかった。
「世間に関わるものは、新聞くらいしかないよ。ネットも引いていない」
言いつつ新聞を貯めてある袋を指す。そろそろ捨てに行ってもいい量だなと思う。
「……この情報化社会でよくそんな生き方しようと思いましたね」
「疲れたんだ。情報に晒されるのに」
「世捨て人すぎますよ」
自分は情報弱者と呼ばれる部類なのだろうな、という自覚はある。だが、望んで弱者でいるのだから、とやかく言われる筋合いはない。
「だが、情報に疲れる感覚はユゥのような若者の方がわかるだろう」
「まあ、今はネットで四六時中繋がってますからね。メッセ送ったのになんで返さないの、とか言われたりすると、たしかに面倒だなって。そんなのこっちの自由なのに」
「だろう? 電話ぐらいで十分なんだ。人との繋がりなんて」
「でも、他の人が迷惑するじゃないですか。約束決める時とかは、頻繁に連絡が必要ですし」
そんなことは知っている。
「好んで私に連絡を取ろうとするやつは、不便など気にしない」
自分が傲慢なことを言っているのはわかっている。だが、もう私はここで引きこもると決めたのだ。
あの時、引き留めてくれる友人はいた。けれど、私はもう疲れてしまったのだ。
そして、そんな疲弊し切った体でも生きていけるだけの資金も、手に入れてしまっていた。
だから、もう、世間なんてどうでもいい。
「ほんともう……」
ユゥがやれやれ、という風に頭を振る。だが、その口元は笑みにゆがんでいる。
「他のところに行きたくなったか?」
「いいえ。あんまりにも徹底的なので、むしろ尊敬します。……強いですね」
「逃げただけだよ。なんなら、ユゥもやってみるか?」
「夏休み終わったら復帰しなきゃいけない若者を、堕落の道に誘わないでください」
「はは、まあ、私のスタンスを押しつけるつもりはないよ。好きなように携帯をいじるといい」
「今はスマホっていうんです」
そうだったな、と返して、立ち上がる。
「腹が減ったら、冷蔵庫から好きに食べるといい。料理はできるか?」
「まあ、一通りは」
「ならいい。ではな」
ひらひら手を振って書斎へと戻る。ああ、これだと結局放置かと思ったが、先ほどまでとは違い、気にしようとは思わなかった。
***
次に選んだ本は、ホラーだった。
気がつけば自分の居場所を取られているという、都市伝説の類いをネタとしたもの。
混乱していく主人公の思考と、彼を支えようとしながらも、どちらが本物なのかわからなくなっていく友人たちの心の動きが、不気味に迫ってきて面白い。平易な文章なのに、イヤに生々しくて怖気がする。
それでも、ページを捲る手は止まらない。展開が高まるにつれて、心拍数が跳ね上がる。それは、ジェットコースターに乗ることに似ている。擬似的な危険を楽しむことで、生を実感する。
話が進むにつれ、友人たちもまた、入れ替わっていく。誰が本物で、誰が偽物なのか、わからなくなっていく。
そんな中でも主人公のは足掻き続け、最後には自分を取り戻すことに成功する。
しかし、周りの友人たちもそうだ、とは断言されない。主人公は取り戻せたのだから、友人たちもそうだろうと勝手に思い込んだまま、話は終わる。
その後味の悪さを反芻していると、書斎にもう一つ気配があることに気づいた。
「ユゥか」
振り向けば、服を着替えたユゥがいた。
汚れの目立たない灰色のTシャツに、ピンクのホットパンツというラフな格好。それは、記憶の中にある姉が家にいるときにしている格好で、パジャマを兼ねているものだ。
ホットパンツから伸びる脚は、男のものとは思えないほどにむっちりとした肉をつけ、つるりとして光を弾いている。
吐き気を覚えそうなほどに、酷似していた。
――思わず、眼を逸らした。
「スマホも飽きちゃって。ダメでした?」
「声を掛けたんならいい」
本を読んでいる時は没頭しているから、確認する方法はないが。
「まあ、一応は……にしても、すごい量ですね。あ、これ映画になったやつ」
言って、ユゥが取り出したのは、ついさっきダンボールに放り込んだ恋愛小説だった。
「働いてた時、流行りになったやつを片っ端から買って積んでおいただけだ。ただのストレス発散の結果でしかない」
元々本は好きだったが、文学がどうのと語れるようなタイプではない。片っ端から乱読する、ただの活字中毒だ。
「そうなんですか?」
「ああ。解釈どうのと言えるほど読み込む質でもない」
「コータロ、見た目知的なのに……」
「ただの遠視だ」
「昔から掛けてたような気がしますけど」
「してないと思うが。少なくとも、本を読む時以外には掛けていない」
加齢で乱視も入ってくれば、将来的に眼鏡を掛け続ける日も来るのだろうが。
「なら、記憶違いか美化かも。……この部屋の本、読んでも?」
「好きにしろ。ネタバレしてもいい。だが汚すな」
「気をつけます」
そして、私たちは窓の外から聞こえてくる蝉の声を聞きながら、読書に没頭した。
***
照明が必要になるくらいの時間まで、私たちは読書をしていた。気づけば空腹にもなっている。
「ユゥ、夕食は……」
スピンを挟んで読みかけの本を置くと、近くで本を読んでいるはずのユゥに声を掛けようとした。
だが、掛けられなかった。
少し眉を曲げ、唇に指を当てながら本を読む姿は、あまりにもハマっていた。絵画的と言えばいいのか、その様を崩したくないと思わせる。
どうやら彼も私と同じように、読み始めると異次元に飛び立つ人間のようで、部屋が暗いことにも、私が声を掛けようとしたことにも気づいていない。
ただ、ゆっくりと眼は動き、文字を追い、その味わいを楽しんでいる。
――白状しよう。どきりとした。
カタチに引きずられているのは間違いなかった。男だとわかっていても、その外見が、たまらなく私を煽るのだ。
それを腹立たしい、とは思わない。当たり前のことだからだ。
だが、言語にできないもやもやとした気持ちがあるのも事実で……。
「目を、悪くする」
それだけ言って照明をつけた私は、逃げるようにキッチンへと向かっていた。
***
元より一人暮らしである。貯蔵している食材も、そう多くはない。
「明日あたりに買い物に行くか……」
ご飯が炊けるのにあわせ、残っている食材でザックリと野菜炒めと焼き鮭を作ると、逃げ出してから小一時間ほど経っていた。
流石にそろそろ読み終わったろう、と書斎まで戻るとユゥはまだ同じ本を読んでいた。自分の尺度ではかっていたが、一時間で一冊というのは早い方だというのを忘れていた。
けれど、出来上がった以上、食べさせなくてはと思う。昔、本に熱中しすぎて、空腹でやられた経験がある身としては、なおさらだ。
「ユゥ」
声を掛けるのではなく、肩に触れて振り向かせる。
現れた顔に、はっとした。
――眼に涙を湛えたその顔は、とても美しかった。
美貌に急浮上する欲情を、彼の体臭が煽る。暴れ出しそうな獣性を、理性でねじ伏せた。
「あっ、ご、ごはんですか」
ぐすっ、と鼻を鳴らすユゥに、努めて平板な声でいう。
「そうだ。その辺りにして、くるといい」
ユゥは、はぁ、と小さく吐息すると、本を閉じ、目元をティッシュで拭ってから部屋を出た。残されたティッシュにアイシャドウがついていないところを見るに、目元の美しさは天然物らしい。
女装というものに化粧がつきものだと思っていた私に、それは衝撃を与えた。無論、涙で落ちないウォータープルーフなるものである可能性もあったが、天然物だと信じたかったのだ。なぜかは、わからないが。
「そんなに、面白かったか」
居間への道すがら、訊ねる。
ユゥが手にとっていたのは、私がダンボールに入れた本だ。とっておく、というほどのものでもない、凡百の一冊。
「すれ違っていく二人が、すごく、苦しくて」
「そうか」
純粋だな、と思った。人を煽ることを楽しんだ人間と同一だとは思えないくらいに。いいや、もしかすると、純粋すぎたからこそ、なのかもしれない。
LIKEとLOVEを日本語は同じ音で語る。恋を知っていても、向けられる好きという言葉がどちらに類されるのか、読み取ることは難しい。その奥ゆかしさは美徳だが、同時に勘違いを生む悪徳だ。
そういえば、と、ユゥが読んでいた本の内容を思い出す。あれの内容も、それを主題に置いたものだった気がする。
「ほんの少しの言葉で、人は致命的にすれ違える」
「……加奈子の、セリフですか」
「ああ」
「難しい、ですね」
「そうだな。……語るにしても、食事をしてからにしよう」
「……僕、お腹ペコペコですよ」
家中に食欲をそそる匂いが充満している。空腹に導かれるまま、お互いの歩みは早くなっていた。
***
バリバリという、ハリのある野菜を噛み砕く音が食卓に響く。テレビなど存在しないこの家では、窓の外から聞こえてくる虫たちの声くらいしか、BGMがない。かといって、語らいながら食事をする、ということもない。無言のまま、食品が減っていく。
それは、お互いそういう教育を受けてきたからだろう。食事中は、食を楽しむことに集中していた。
そんな自分たちだから、食事が終わるのもあっという間だった。指摘するまでもなく食器を下げたユゥは、やる気満々という顔で座って、私が食器を洗い終えるのを待っていた。その姿は、餌をねだるペットに似ていて、なんだか微笑ましい。
からん、と水切り網に最後の食器を置くと、二つのコップにお湯を注いで持っていく。
「どういれるのがうまいんだ」
「任せて」
コップを受け取ると、ユゥはテキパキとお茶の用意を済ませてしまう。説明をしないのは、私ならば見ているだけでわかると思っているからだろう。
そうして差し出された、透き通った緑茶を呷る。苦味の中にある、仄かな甘みが美味しい。いつもは苦いばかりだったが、いれかたでここまで違うのかと思う。
「……どうです?」
「うまいな」
「一手間が味を引き立てます」
「料理と同じ、か」
「お茶も料理だと思いますよ」
「それもそうか」
外は蒸し暑い夜で、それから逃れるために空調をいれているのに、熱い飲みものを飲むという、なんだか面白い光景ができあがっていた。
そうしてお互い茶を呷って、一息吐いてから話題を切り出した。
「それで、どこまで読んだ」
それによって、話せる内容も変わってくる。
「一通り、最後までは。叔父さんがきたときは、読み返してたんです」
「そこまで、響いたか?」
「本は、あまり読みませんから」
「まあ、そうだろうな」
この年頃は、本に興味を示さないものの方が多いだろう。
彼らにとって図書室は、静かな部屋でしかない。古典漫画を置いているのなら、それを読むために行くこともあるかもしれないが、足を向けることは少ないだろう。
「最近の若者は、って?」
「いいや、読書で得られるものの大半は、若いうちに活動すれば得られる。仮想体験より、実体験を積んだ方がはるかに有益だと思うよ」
だからこそ、親は好きなことをやれと言ったり、習いごとをさせようとする。将来、そこでやったことは使わないかもしれないが、その経験を積んだということは確実に役に立つ。
学校の勉強も同様なのだ。使わないのだからやらなくていいというのは、怠惰な言い訳でしかない。学ぶのは、数字や化学式のいじり方ではない。考え方だ。
「なんか、意外です」
「なにが」
「絶対若者批判するタイプだとばかり」
「して欲しかったか?」
「いえ」
意外な一面を見られて嬉しい、という風に、ユゥは口元を緩める。そこまで素直に喜ばれると、こそばゆい。
「えと、それで……あの本の、話は」
「ああ、なんだかんだ言って、最後にくっつくというのは、なんとも言えない」
「嵐みたいですよね」
ほんの少しの勘違いからすれ違った二人は、散々に周りに迷惑をかけたくせに、あっさりと元の鞘に戻る。
「あの手のカップルは、必ず同じことを繰り返す」
「その度にみんな振り回されるんです」
嫌に実感のこもった言葉だった。
「身近にいたか?」
「いましたね。僕はこんな見た目ですから、よく女の子に相談を受けるんですけど、ループするんですよ、話題が」
「律儀に付き合う必要もないだろうに」
「僕なりに、馴染もうとはしてたんですよ」
ユゥもまた、すれ違ってしまったのだろう。彼の言葉は、カタチのせいで歪んで受け取られてしまって、気がついたときには手遅れだったのかもしれない。
足掻こうと思えば足掻けたはずだ。だが、そこで諦めたのは、疲れてしまったからかもしれない。
「賢しいのも、考えものだな」
「……かも、しれません」
聞かせたい言葉が捻じ曲げられ続ければ、誰だって疲弊する。
それは、カタチのせいだ、というのは簡単だろう。けれど、カタチはアイデンティティと結びついていて、簡単に変えられるものではない。
カタチは変えられない。なら、なにを変えればよかったのか。
「愚かになりたいか?」
「そこまでは。まあ、うまくバカになりたいな、とは、思いますけど」
「バカを演じるというのも、存外難しいぞ。あいつらは、超感覚で生きている」
「動物みたい」
「感覚に理性やらいう曖昧なものを上乗せした動物が人だよ。理性が追いつかない範囲では、私たちもまた動物と同じことをしている」
「恋愛とか?」
「含まれるだろうな。理性で人を愛せるなら、この世に離婚なんてものはない」
理性で人を愛せるなら、今、私の隣には妻がいるはずだ。受け入れられなくて切り捨てた、彼女が。
「苦しい?」
ふいに、ユゥの手が私の顔に触れる。知らずのうちに渋面でも作っていただろうか。
「いまは、違うと思うが」
「でも、揺れてる」
「そう映っているか」
「はい」
「なら、そうなのだろうな」
けれどそれは、今の苦しみではない。過去の苦しみを再生しているだけだ。
……私は死者なのだから、新しく苦しむことなどない。
「ごめんなさい」
「謝るな。苦しくなったのは、こちらの勝手だ」
まさか、一回り以上も下の人間に慰められるとは思わなかった。赤面したい気分だった。
「……せっかくのカタチだし、甘えてもいいんですよ」
言って微笑んだユゥの額を弾く。んがっ、と男らしい悲鳴が聞こえた。
「年下が妙な気を使うな。むしろ、甘えるのはユゥだろうが」
「そう、かな」
「甘えて、疲れを癒して帰る。それが、この休みの目標だ。そも、夏休みというのは休みなのだから、疲れを取らなくては意味がない」
「……はい」
はぁ、と吐息して、どうしてこんな雰囲気になったのかと思う。私のせいなのは明らかなのだが、それだけではないような気もした。
これではダメだと、空気を変えるために話題を変えることにした。
「とはいえ、働いてはもらうがな」
「なにをさせるつもりです?」
「家事手伝い」
辛いときは、少しでもいいから何かに手をつけていたほうがいい。
何もせずぼうっとしていると、そのことしか考えられなくなって潰れてしまう。
「まあ、家主が言うならやるつもりですけど」
「言ったな? なら、明日は買い物に行こう」
「……この家、車なかった気がするんですが」
「徒歩だ徒歩」
中途半端な田舎だから、車がなければ生活できないというほどではないのだ。
歩いてバス停まで行ければ、暮らしていける。
「汗かくの、嫌だなぁ」
「汗をかかないと、劣化するぞ」
「まあ、体にはいいんでしょうけど!」
語気を荒く、ユゥが鼻を鳴らした。とても不満そうだが、少なくともこれで雰囲気を変えることは出来た。
「そうと決まれば今日は早く寝るぞ」
「うえっ、まだ八時前ですよ?」
「早寝早起きと、適度な運動が健康にはいいんだ」
「もっと不健康な生活しましょうよ……」
「別に早死にしたいわけではないからな。まあ、寝たくないなら起きていても構わない。だが、明日の予定は変わらないのを忘れるな」
「……わかりましたよ」
やれやれと言った風に肩を落とすと、残ったお茶を飲み干して、お互い居間を出る。湯を張るのは面倒だったから、軽くシャワーで済ませて、就寝した。




