わたしの究極の武器はキミだから
世界は、いつかのように暗い。
巨大な龍から逃げて、うずくまる影を拾い上げる。
しかし、記憶に残ったあの悲鳴は聞こえない。
胸の奥から湧き上がる不安にかられて、影を強く抱きしめる。
翔んだ空は黒く塗りつぶされて、切る風は頬を裂くように冷たく流れていく。
寒さからではない震えに身体が支配される。
「ふふふ」
影は、優しい声で笑う。
「わたしは大丈夫よ、セイト」
冷えた心をゆっくりと溶かしていくその声音は、震えを止める。
「そう、前を向いて」
いつしか、地面に足をつけていた。
「大丈夫。わたしの究極の武器はキミだから」
腕の中の影が消えた-
刹那の夢。
伸ばした手が届く。
咄嗟に展開した防御壁魔法が一瞬で砕ける。
クロハを護るように抱く。
轟音と閃光が深い森にこだました。
ザワザワ、枝同士が擦れ合う音。
よく水を吸った土の匂い。
焼き過ぎた焼肉のような臭い。
無数の枝の間から差す光が瞼裏に光を踊らせる。
頬に落ちる水。
強く揺すぶられる。
微かに聞こえる声は次第に大きくなって-
「…セイト!セイト…セイ…ト…」
魂が呼び合う。惹かれ合う。
命が震える。身体が不思議な力に支配される。
瞼を持ち上げる。ゆっくりと焦点を合わせる。
漆黒の艶のある長い髪。アメジスト色の瞳は、濡れている。
「……泣いてんのか…」
かすれた喉から絞り出した声は、なんとかクロハに届いたようだ。
「セイト………」
泣き顔のクロハを見て、自然と頬が緩む。
そんな俺を見て、
「馬鹿ッ…どれだけ心配したかわかってるの?…ホントに…死んじゃう…かと思った…じゃない……」
そのあとは言葉になっていなかった。
溢れる涙と言葉は嗚咽と混ざって、不思議な音色となって俺の耳に届いた。
この時始めて、まだ出逢って数日なんだと思った。ただ同時に、俺の心の中で出逢ってから持っていた漠然とした感情が徐々に形になりつつあった。しかしそれははっきりと輪郭を見せなかった。また、掴まえるとしぼむ紙風船のようでもあった。
ゆっくりと身体を起こす。マトモにブレスを受けた背中は、吹き飛ばなかったことを感心するレベルだ。ただ、損傷が激しいのは言うまでもない。既に神経が死んだのか、鈍い痛みが背骨から全身に走る。不快な痺れが手足の末梢神経に作用して、握った拳の感覚がない。
それでも、顔を伏せて泣くクロハを今度こそ、腕に抱き留める。
びっくりしたように顔を上げたクロハのなんと美しいことか。
そっと、唇を重ねた。
途端、右肩に鋭い痛み。
焼印を押されたような痛みとともに、アメジスト色の刻印。
戦いの女神を模した小さな刻印が焼き付けられた。
もう一度。言葉が流れこむ。
「わたしの究極の武器はキミだから」
深い森の中で抱き合った少年少女。
少年は最強レイヤーを夢見て。
少女は料理が得意で。
そんな2人は、惹き合った運命によって結ばれた。
2人を眩い純白の光が暖かく包み込み、その傷を癒す。
「さあ、武器をとって。前を向いて」
俺の手をとり、傍らの剣を拾い上げる。
「ああ、わかってる」
俺も、自然と自分が為すべき事が見えていた。
クロハは、俺の前に立った。
彼女は、猛然と走り出した。
俺もそれに倣う。
視界には走るクロハとその先に佇む朱い龍しか映らなかった。
彼女の右手は、濃紫に輝いて、バルキュリアドラゴンのブレスも輝いた。
突然に放たれた閃光は、まっすぐに俺たちに迫る。
先を行くクロハを失う恐怖に足が竦みそうになる。
そして-
光が衝突する。
クロハの右掌とブレスの光が衝突し拮抗する。
「行って!」
その一言が俺の背を押す。
今一度強く剣技魔法が光を放つ。しかし、それは今までのような白いものではなく、紅く深いものだった。
「ハァァァァアア!」
裂帛した気合とともにおおよそ剣道とは程遠い、しかし渾身の一撃が唯一の弱点、延髄を捉える。硬い甲殻とさらに硬い脊椎が臨終に対して抵抗する。まだだ。まだ力が足りない。もっといける。この壁の先にいける。
その時、ほんの一瞬、自らの手に収まる剣の想いを見た。
深紅の輝きは途端に色を変えて、代わって刀身と同じ淡緑ながら、強い光が宿った。刻一刻と自分の身体から生気が抜けて行くのを感じた。
それは、剣の想いであった。使用者の生きる力をいつまでもどこまでも貪り尽くす悪魔の武器。自らを求めて彷徨うさながら盗賊であった。
しかし、俺はそれを良しとはしなかった。
一瞬がまるで濃密な蜂蜜のようで、脳の回転数は、かつてないほどになっていた。
彷徨える盗賊であっても、必ず転機は訪れる。お前には今がその時だ。俺がお前を使いこなして、変えてやる。だから、今だけは俺の思い通りになってくれ。
その思いが通じたのかは定かではないが、もう一度光った剣は、そのまま振り切った。延髄を切られたことで一切の生命活動を維持できなくなったバルキュリアドラゴンは、断末魔の鳴き声と共にこの地に還った。
その亡骸が消えていく様子は、なんとも言えず幻想的であると同時に俺自身を慰めているように見えた。七色の無数の光の粒となった戦乙女は虚空の彼方にその身を移した。最期の一粒が虚空に消えたとき、俺の意識も虚空に消えた。剣に吸い取られた生気は、相当な量らしかった。
駆け寄ってきたクロハの声も届かないくらいに、意識は彼方へ飛翔した。
ドロリと肌に吸い付く水。
「……ッ!」
それに頭の先まで浸かっている。
息ができない。
はずだが、息ができる。
水圧も感じない。
ただ、粘着質な水質は堪え難いものだった。
僅かに水面から差す明かりは、頼りなく揺れる。
ただ、苦しい。
だがもがけばもがくほど、水中の明度は落ちていく。沈んでいく。
もうダメか。ここまでか。たった数日の時間しか過ごせなかった少女の様々な表情が浮かんでは消えていく。
もう、いいじゃないか。ここで、短い生涯を終えるのも一興ではないか。最期にクロハの顔を見られないのは狂おしいが、それはそれでいいのかもしれない。俺の中のクロハのイメージを抱いて、人生の幕に終焉をもたらそう。
そう思った途端、今までなんてことなかった呼吸ができなくなった。
いや。呼吸の仕方を忘れてしまった。
次第に心臓の鼓動も弱まり手足の感覚は何処か遠くへいった。
頼りなくとくん、とくんと刻む鼓動も徐々に弱くなる。
まさに虫の息だ。
しかし、次の瞬間身体を強烈に支配したのは尋常ならざる死への恐怖であった。
クロハが弱音を吐いたあの日、俺は何と言った?
死に恐怖を感じるのは当然だと言った。
このまま黙って死んでは人間として死んでいくことはできないのではないか。
そう思うと、身体はあっという間に混沌の水中を抜け出した。
「ああ。俺はここにいる」




