始まりは腐った土と肉の壁
少年は記憶を奪われている。気色の悪い笑い方をする正体不明の禿頭の中年オヤジにだ。そのため自分が何者なのか分からないし、どこから来たのかも分からないし、そもそもそのことについて疑問にすら抱いていない。今はただ、目の前のあまりの熱に、ただ圧倒されていた。
「壁役の補充を急がせろ。このままでは五分も保たん」「了解しましたー!」「おーい! 地図屋はまだかッ?」「くそがああぁあ! このままじゃやべえぞどうすんだあ!」「もうちょいで着くんじゃないッスかねえ?」「何がだ?」「だから地図屋ッスよォー!」「巨大化したアンツ三匹増えましたあー! すっげえやばいっすぅー!」「はあ? 本気かッ!?」「いかんな、俺が出る」「隊長それはマズイっすー!」「学者さんきましたー!」「地図屋じゃねえのかよ帰らせろ!」「タイミングわりぃ!」
喧々諤々の作戦会議……といえば少しはまともに聞こえるが、実際には混乱と混沌の場だ。少年がたどり着いた光の先はいわゆる戦場と呼ばれる場所だった。それも敗色濃厚な最前線。その本部である仮設テント。少年は呆然としている。中央にはとても重そうで大きな木製のテーブルが置かれており、その上には大量の書類と、様々な書き込みがされた地図、安っぽい燭台、丈夫そうな革手袋、くるくると回りつづる壊れた羅針盤、羽ペン、インクなどが置かれている。周りにはボロボロの革鎧を纏った茶色いヒゲを生やした中年の男や、これまたボロボロになった鈍色の鎧を着込んだ若い男などが激しく言葉を交わしていた。他にも物凄く背の低い緑のローブを着込んだ老人や、耳の尖った美しい女性など様々な人種が混在している。壁には大きな盾や槍や剣といった予備の武具が無数に立て掛けられている。
「……限界か」
テントの最奥にあった、まるで置物かと見まごうような、果たしてこんなものを着込んで人間が動けるのだろうかと誰もが疑問に思ってしまうような、そんな重々しい全身甲冑から言葉が搾り出された。とてもよく通るとは言えないような、甲冑もかくやという鈍重そうな重苦しい声だったが、その一声はテントに静寂をもたらした。テント一枚隔てた向こう側からは絶え間ない応戦の声が轟いているが、テントは確かに無音となった。
「この拠点は放棄する。総員第三拠点まで退避。最後部は我と前線第一部隊。こんなところで一人も死者は出すな。以上」
一瞬の静寂の後に、怒号。若い兵隊が一人、テントの外に駆け出していく。「撤収! 撤収だあ! 最後部は第一! 残りは総員撤退ー! 目標は第三拠点!」武装に身を固めていない者はものすごい勢いで書類を集め始める。「これと、これと、これだけは絶対いるっ、あとはあとはあとは? なんだ? なにがいるッ?」テントの天井に届きかねない程の巨体をした兵隊は、テントの壁に立て掛けられている盾を持って全身甲冑の男の前にたつ。「お、おでも最後部にいれてください。おでは足もおせえ。だども、力だけは、つええ。壁役なら、役に立でる」「……励め」残りは全員テントから外に出る。しかし我先にと逃げる者は一人もいない。退避するにも”やり方”はあるのだ。
「退避体制がとれた部隊から即刻ひくぞ! 急げ! ルートは事前に決めたとおりだ! 総隊長がシンガリを守ってくださる! 絶対死ぬんじゃないぞ!」
状況についていけない少年は未だ呆然としている。
テーブルの下で、テーブルにかけられていた薄手のクロスをめくりあげた姿勢で固まりながら。
「どうしよ、どうしよ、あ〜、いけない! あれだけは回収しないとぉ、っとぉ!?」
そしてそんな少年の前に、急な方向転換をしようとして間抜けにも自分の足にひっかかってしまった若い女性が、盛大に倒れこんだ。
「いぃったぁい! ……い?」
彼女はつい先ほど到着したばかりの学者で名をアリナという。
「君、こんなところで何してんの?」
「う?」
少年は小首を傾げる。同じように、アリナも首を傾げる。宙にはハテナマークが飛び交っていた。
ひどく切迫した怒号飛び交うテントの中、何故だかここだけひどくゆっくりとした時間が流れる。
この世界での少年の母となる人物との出逢いだった。
● ● ●
少年はアリナに連れられて外に出た。しかしそこは空と大地が広がる本物の外では無かった。そんなに広い空間でさえなかった。なにしろ目の前はすぐに壁だったのだ。それも肉の壁。暗い桃色をしており時折脈動している。どうやら壁の中には血管が走っているらしい。鼓動の感覚はひどく長くゆっくりに思えるが、間違いなく生きている。生命を感じさせる壁なのだ。肉の壁は上に伸び、ほんの三メートルほどのところで歪曲して天井になり反対側でまた壁となっている。少年たちがいるところは肉で出来た洞窟と呼ぶのが相応しかった。地面は土や何かの死骸などが混ざったもので、腐っているのか少し粘つきがある。そこそこきつい臭いも立ち上っている。少年も少し顔をしかめる。
「やばーい! もうあんなところまで押し返されてる! 思ったよりも追い詰められてるじゃない! 急いで逃げなきゃ!」
アリナはテントから出て右側を見てそう言い放つ。少年もそちらを見る。するとそこには人の塊があった。応戦の雄叫びが轟いている。通路の幅はあまり広くないが、その幅いっぱいに人が並んでいる。七人。全員が全身を甲冑に包み込み、自身の身長ほどもあるであろう巨大な盾も構えて”得体のしれないもの”に相対している。その後ろには槍を構えた人や弓を構えた人が団子になっている。剣を持っている人もいるがそれは三人ぐらいしかいない。顔をひきつらせながら控えている。弓を持っている人は構えるだけでなく絶え間なく矢を弾いていた。狙いを付けている様子はみられない。ただ形相は必死で、とにかく矢を盾を持っている人たちの向こう側へ送り込もうと躍起になっている。
「いくよ坊やー! ……ぎゃん!」
その様子を見て瞬時に危機と悟ったアリナが一目散に駆けようとしたその瞬間、首根っこをひっ捕まえられた。正確にはローブの襟ではあるが、アリナの様子を見ると首根っこをひっ捕まえられているという表現以上にぴったりくるものはないだろう。
「アリナさん、逃げるのは勿論だが指示には従ってほしい」
「ぐえー……指示って、なんかあったっけ?」
少年と手をつないだまま苦しそうに呻くアリナ。少年はテーブルクロスをめくった時と同じような呆けた表情をしている。その表情を崩したのは臭いに顔をしかめた時だけだ。状況についていけていないらしい。
「最初に説明したでしょう。緊急時には私から離れないことと。そして今は緊急時です。貴女は本当に頭がいいのか悪いのか……全く」
そう言ったのは、回りの人と較べると比較的軽装な鎧を纏った、けれどしっかりとした気品を備えた人だった。着込んでいるものは同じようにボロボロなのに薄汚さを感じさせない。そして緊急事態と言いつつも老人もかくやという程に落ち着き払った姿勢。しかし目元は違和感があるぐらい細い。その目が少年に留められる。
「こんな小さな子が何故こんなところに? アリナさん?」
「わ、私は知らないよ! 指揮台の下にいたのを見つけたの!」
「指揮台の下? 何故そんなところに?」
「だから知らないってばあ!」
「うーん、まあ、今はそんな場合でもありませんね。第三部隊の陣形が整ったようですので、中にいれてもらいましょう。子供一人増えたところで、よっぽどのことが無い限り大丈夫です」
「分かったからー! もう、離してよう!」
そこでようやくアリナは解放される。唇を尖らせてぶうたれているが、状況の切迫さは理解しているらしく大人しく指示に従っている。目先の危機に冷静さを失っていたことに気付けるぐらいには、落ち着きを取り戻していた。とは言え、元より落ち着きが無いタイプではあったが。
● ● ●
第三部隊の総数は二十一人。元々は十六人だったのだが負傷者が続出した先陣部隊を吸収することでこの人数になった。ちなみに負傷者は既に後方に移送済みだ。斥候役として三人が先行しており、最も危険である最後部(ここでいう最後部はあくまで第三部隊の最後部。総隊長を含む最も後方の部隊は今もまだ放棄する拠点で撤退作業を進めている)には六人、後ろを向きながら歩行している。残りはその間で上方、左右、下方に注意を払いながら進む。
これが普通の洞窟であるならばこの間に挟まれた部隊にそれほど過剰な注意力は必要とされないのだが、この肉の洞窟は生きているということもあって時折筋肉の収縮などで穴が出来る。その穴にはまって負傷した者もいれば、その穴が閉じて死亡するケースも少ないながらも報告されている。それだけならばまだいい。穴は通路となり”得体のしれないもの”が侵攻してくる新しいルートにもなりえるのだ。そのため注意は絶対に必要となってくる。
「ねえ、君、名前はなんていうの?」
しかしそういった注意力というものは、それなりの経験を積んだ者にしか備わっていない。アリナは時と場合によっては驚くような集中力を発揮するが、少なくとも今はまるで発揮していなかった。先程までよりかは安全になったといはいえ、基本的にここは戦場なのだ。未だ気を抜けるような場合ではないというのに誰が見ても分かるぐらい緊張感の欠片もない。
「ねえねえ、教えてよ、ほらほら〜」
しかしそれを見て苛立つものは誰もいない。状況に不似合いな態度というものは度を越せば腹立たしいものになるが、そこまではいっていないのだ。加えてアリナはおっちょこちょいだが、かわいい。容姿が優れいる。殺伐とした戦場に送り込まれた一服の清涼剤。いささか周囲の人間の注意力を削ぐようなところもあったが、概ね良好な反応で受け入れられていた。
「黙ってちゃわかんないよ。なんか喋ってよー」
しかし少年は小首をかしげるのみだ。何を問われようとも「う?」としか言わない。その様子を見てアリナの首根っこを捕まえた男が口を開く。「思ったのだが……」そしてすぐに口をつむぐ。歩きながら何かを思案するように、細い目をさらに細める。もう目をつぶっているようにしか見えなかった。
「なあに?」
「いや……うむ、もしかして言葉が分からないんじゃないのか?」
「え?」
少年には言葉が通じていなかった。