プロローグ
現状認識。
生まれてから八歳までの記憶がなく、そこから十八歳までの記憶があって、肉体年齢がおよそ十歳前後。今はそこから六年過ぎているので、只今自称十六歳。想像力豊かな諸兄ではなく、そこらを歩いている一般人に自分はこうなんですと言ってみたとする。意味不明どころか真っ先に医者に罹ることをオススメされることは間違いない。もれなく可哀想というコメント付きの眼差しと一緒に。生憎、先に述べた言葉の中で何一つとして間違いが無いのが問題なのだが、世の中不思議ものでなんとかなるものである。例え眼前に広がる世界が、自分が知っている世界とまるで違う異世界であろうともだ。
「カズマ様、お茶は如何ですか? 紅茶をお持ちしました」
「ありがとうございます。カーラさん」
色鮮やかな緋色の刺繍が施されたテーブルクロスの上に、純白の陶器で出来たカップが置かれる。中身はレージペコの紅茶。こちらの世界で件の少年、一真が好むようになったお茶だ。彼は窓から目線を離し、黒と白で統一された男装の老執事、カーラに軽く頭を下げた。カーラはうっすらとした笑みを口元に浮かべて、優雅に一礼を返す。
「お客様をもてなすのが私の仕事です。どうかお気になさらず」
「これも慣れた礼儀なので、どうにも抜けなくて……。お仕事に支障を来さない程度に目を瞑って頂ければ助かります」
「はい、存じ上げております。どうぞ、冷めない内に」
「いただきます」
カップから立ち昇る香りは僅かにマスカットのような甘い香りがする。見た目の色は濃いが味はそれほど濃くない上に癖無く飲める。火傷しないように、けれど香りを殺さない絶妙な温度加減。素晴らしい紅茶だった。
「ところで、レポートは進んでおりますか?」
こちらの世界のレポートだが、元居た世界と全く変わらない。要は学業における宿題のようなもので提出期限の短い問題集だ。
「えぇ、もう終わりました。あとは記述ミスが無いか確認するだけです」
「坊ちゃまもそのぐらいテキパキとこなすことができれば文句の一つも出ないのですが」
「あー……」
思わぬところから出た愚痴というか本題というか、ある意味予想通りというか、一真は思わず視線をカーラから逸らす。間延びした生返事から先は言葉にならなかった。今話題に上っている坊ちゃまとは、この屋敷の主――ルオルグ=オルガイアの令息のことだ。
名をルーディック=オルガイア。一言で表現するなら口が良く回る三枚目、と言った所か。彼は一真と(肉体的には)同い年で頭の出来も成績も悪くないのだが、宿題や課題に関しては昔から興味が沸かないと触りたがらない、後回しにしたがるといった悪癖があった。渋々やり始めた頃にはすっかり日が暮れて――コレはまだマシな方で、課題の物量を知っていたにも関わらず真夜中になってからやり始め、最終的には一真に泣き付いて解決したこともある。
一真はそんな友人に甘え癖が付く前になんとか説得しようとは思っていたのだが、思っただけで成果が上がるはずもなし。そこに愚痴という形で先に釘を刺された格好になってしまい、言葉が出なかったのだ。
「どうにもやる気の出ない話題になると、坊ちゃまの舌も回らなくなるようでして」
「でしょうね……えーと、うん。カーラさん」
「はい。何でございましょう」
本来なら主の子息を嗜めるのも執事の仕事なのだろうが、常日毎から口出しする老人の言葉は如何にしても口喧しく聞こえるものだ。納得という点で効果はあまり期待できない。なら同年代、同性の言葉で奮起してもらった方が解決できる確率は上がる。一真はこの屋敷の客分と言えば聞こえが良いが、特に行く宛もない為に部屋を間借りさせて貰っている立場、つまりは居候だ。無駄にへりくだるつもりはないが、感謝の気持ちを忘れたことも無い。友人の将来を考えればこそ、家賃替わりの憎まれ役もやぶさかではないと納得する。
「今日中にルディを説得してみせます」
「なんとも心強いお言葉、よろしくお願いいたします」
一真はカップに残った紅茶を飲み干し、席を立った。
(さて、どんな言葉で言いくるめれば良いものか)
と、高い天井を見上げながらルーディック――ルディの部屋に向かう。一~二分もしない内に内容が頭の中で纏まって、とりあえずこのプランで行こうと心の中で決意する。そうこうしている内に目的の部屋に辿り着き、扉を二回ノックした。
「誰だ?」
「一真だ。邪魔するぞ」
一真はドアノブを回し、許可なんてものを待つこともなく部屋へ侵入。四年も暮らしていれば当館における住人の反応は脳内シミュレートで補完済みだ。勝手知ったる他人の家、渋い臙脂色のニスが光る高級家具に座っていたルディが振り返るも、その表情に嫌悪感は無い。例え一真がただの客人で、自分と違う種族だとしてもだ。
ルディは翡翠色の瞳に白髪、やや横向きに尖った耳。そして髪の隙間から後ろに伸びている二本の白巻角という特徴を備えている。寒い地方の出でも、日に当たらない生活でもないのだが、肌は日焼けなど知らないと言わんばかりに白い。過去に一真が聞いた話では高貴な白竜の血を引く家系で、環境にあまり左右されない体質だと言っていた。ちなみにトゲトゲを想像するような牙は無い。犬歯が多少鋭いぐらいだ。
顔立ちは一真の基準から見て、男にするのは惜しいぐらい整っていて、体格は細く見えその実、筋肉が引き締まって実用的というわがままボディ。顔貌や体格も身長百七十七センチ体重七十キロの一真を並べても種族的な身体特徴を除けば一真と見た目上の差異はない。目立つのも巻角ぐらいなものだ。それも意識的に消せるらしく、寝る時に邪魔にならない。ルディ曰く、取り外し可能な「冠」のようなものらしい。
最後に彼の服装だが、黒のタートルネックに紺色のズボンという格好だ。素材の名前を教えられても「なにそれ」としか言えないような物が加工されていることを除けば、ゲームや漫画で見たようなキンキラゴテゴテのファッションではなく、現代日本出身である一真が知識ゼロで見ても部屋着だな、思う程度に普通だ。記憶上での流行の遅れも無い。部屋着だから当然と言えるかもしれないし、これが儀式用の特注品や特別な礼服ともなればまた違うのかもしれないが、カーラさんの執事服を見る限り想像の域をはみ出ることはなさそうだと一真は考えていた。
「よぅ」
「おっす」
それでも角を備えている人を見る度に自分が異世界に居るのだと強く認識する。逆に角の生えていない人間の方がこちらの世界、特に地方的には珍しかったりするのだが。
「ルディ、実はカーラさんからお小言を貰ってな」
一真が単刀直入に言うと、ルディは顔をみるみる顰めはじめた。一見すると、今にも泣き出しそうな顔にも見えるが単に教育の賜物である。本人は居ないし、この部屋に居るのもルディを除けば一真だけなので、一真はルディを止めようとはしなかった。
「で……何て言われたんだ?」
軽く顔を左右に降って、ルディは落ち着きを取り戻す。
「まぁ何時ものことだが、要約すると『カズマさんばかりに甘えてはいけませんぞ、坊ちゃま』とのことだ」
「つまり他を当たれと?」
この世の終わりのような表情をするルディ。顔写真だけを切り取れば間違いなくイケメンなのに残念な奴だ。
「そういう解釈も出来るかもな。俺としては『他の用事が入って支障が出る前に、課題なんか先に片付ける。出来るよ俺!』という解釈をしてくれると好ましいんだが」
「でもなー。昔っからなー。なんかこう、やる気出ないんだよなー」
ルディが顔を左右に傾けはじめる。軽く倒して枕を与えたら枕を抱きしめてゴロゴロと転がりだすに違いない。
「あー解る解る気持ちは解る。でも後になって泣きながらレポートやりたくはないだろ? 俺としても友人の頼みは聞いてやりたいし、助けてやりたいのは山々なんだが、俺個人の用事があって手が回らない時もある。それにほら、この体制が続くとカーラさんは『決断を下さなければならない』と判断するだろうし」
決断、というワードに肩を震わせるルディ。縋るような目付きで一真を見上げるが、一真は表情を変えない。もうとっくの昔に諦観の境地に入っていた。
「ど、どうなる……!?」
「伯爵か、奥様か、だ。どっちの雷なら受けきる自信がある?」
「……灼熱地獄と極寒地獄に差があるのか?」
「有無をいわさず『竜の息吹』かよ。容赦ねーな、お前ん家のトーチャンカーチャン」
四年、この屋敷に住まわせてもらっている一真だが、ルディが本気で怒られている所を見たことが無い。なのでどこまでが冗談なのか判断しかねたが、誇張というにはルディの白い肌が青白くなりすぎていた。血の雨()の中身がギャグから物理に変わるのかなぁ、と人事のように思考が巡る。
「父親が厳しいのは世の常だからある程度同情を引くかもな。だが母親の期待を裏切るのは心苦しいぞ。ちょっとばかし控えめな分、ずっとな」
「それもそうだな……はぁ、これからは孤独なレポートか」
「いや、一緒にやればいいだろ。ただし俺がやり終える前限定な。誰もが同じ時間を過ごせる訳じゃないから、せめて笑える時間を増やそうぜ」
「心の友よ!」
「ハイハイ坊っちゃん、ノータッチねー」
抱きついてくるルディを一真はヒラリと避けつつ、勢いを利用してベットに向けて投げ飛ばす。彼は背中から落ちるものの、柔軟性素材を仕込まれたベットは衝撃を吸収してルディを柔らかく迎えた。そこまで見届けてから、一真はドアノブに手を伸ばす。
「なんだ、もう行くのか?」
「もうレポートが終ってしまったからな。今日は部屋でのんびりする予定だよ」
「……ぐぬぬ。ああ、そうだ。それじゃ折角だからフィーの様子も見てきてくれないか」
フィーとはルディの妹、フィーリアのことだろう。歳は一つしか離れていないが、顔立ちや面影がルディと良く似ている娘だ。一真にしても断る理由はないが、彼女は兄と違って課題を後回しにして誰かを困らせたりはしない。
「優等生のお嬢様に教えられることなんて無いんだが……」
「いーんだよ。話し相手になってくれるだけで良い。何事も練習、だろ?」
「……さてはて。話題は何を選べば良い?」
「お前の世界の事とか」
「面白可笑しく話すのはともかく、興味を持たれても責任取れないからダメだな。歴史的な教訓や金言ならまだしも、近代史以降は色々と問題がある」
「あー、まぁ、な」
「お前や伯爵なら知っても問題ない情報かもしれない。でもフィーにまで必要か? と、問えばお前や伯爵は否、と答えるだろう。俺は、その姿勢を間違っているとは思わない。夢物語は現実と触れ合わないから夢物語で済ませられる。どれほど救いがなかろうともだ」