エピローグ 新しい季節
一年後の春、萌は故郷の小さな町に「パティスリー・モモカ」をオープンした。店名は子供の頃の愛称だった。
店は決して大きくないが、萌が心を込めて作ったケーキが並んでいる。白餡バニラケーキは看板商品となり、地元の人々に愛されていた。
「今日のケーキも美味しかったよ」
常連のおばあさんが笑顔で声をかけてくれる。
「ありがとうございます。また明日もお待ちしています」
萌は心から微笑んだ。
インスタグラムのフォロワー数は千人程度だったが、萌は満足していた。投稿する写真も変わった。華やかな自撮りではなく、ケーキ作りの過程や、お客さんの笑顔、故郷の四季の風景が中心になった。
「#心を込めて #地元愛 #手作りの温もり」
そんなハッシュタグが並ぶようになった。
ある日、店に懐かしい顔が現れた。
「悠斗さん!」
萌は驚きと喜びで声を上げた。
「取材に来ました」
悠斗は相変わらずの地味な服装だったが、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「本当に素敵なお店ですね」
悠斗は店内を見回しながら言った。決して豪華ではないが、温もりのある空間だった。
「まだまだですが、少しずつ形になってきました」
萌は悠斗に新作のケーキを出した。地元の果物を使った季節限定のタルトだった。
悠斗は一口食べて、いつものように目を閉じて味わった。
「これは素晴らしいです。地元の素材の良さが活かされていて、それでいて萌さんらしい繊細さがある」
「ありがとうございます。地元の農家さんと直接やり取りして、一番美味しい時期の果物を使っているんです」
二人は店の奥の小さなテーブルで、お茶を飲みながら近況を語り合った。悠斗の仕事も順調で、地方の名店を紹介するコラムが評判になっていた。
「萌さんは変わりましたね」
「どんなふうに?」
「より自然になった。以前は何かに追われているような感じでしたが、今は本当にリラックスしている」
萌は自分でもそれを感じていた。東京にいた頃の自分は、いつも何かに焦っていて、本当の自分を見失っていた。
「悠斗さんのおかげです。本当に大切なものを教えてくれました」
「僕は何もしていませんよ。萌さんが自分で気づいたんです」
二人の間には、静かで温かい時間が流れた。
「実は、僕も考えていることがあるんです」
悠斗は少し照れながら言った。
「今度、地方専門のグルメサイトを立ち上げようと思っているんです。大手メディアが注目しない小さなお店を紹介したくて」
「それは素晴らしいアイデアですね」
「萌さんのお店も、ぜひ第一号で紹介させてください」
萌は嬉しくなった。悠斗もまた、自分らしい道を歩んでいるのだ。
「こちらこそ、お願いします」
日が傾き始めた頃、悠斗は帰る準備を始めた。
「また来ます」
「いつでもお待ちしています」
悠斗が店を出た後、萌は一人で店を片付けながら考えた。
一年前の自分が求めていたのは、華やかな恋愛と成功だった。でも、本当に必要だったのは、自分を理解してくれる人と、心から打ち込める仕事だった。
悠斗との関係は恋愛ではないかもしれない。でも、お互いを深く理解し、尊重し合える特別な関係だった。それは恋愛以上に貴重なものかもしれなかった。
萌は窓の外を見た。小さな町の夕暮れは美しく、心を落ち着かせてくれた。
明日もまた、心を込めてケーキを作ろう。地元の人たちの笑顔のために。そして、いつかまた悠斗が訪ねてきてくれる日のために。
萌は微笑んで、最後の片付けを終えた。新しい人生は、思っていたよりもずっと豊かで、満足のいくものだった。
店の扉に「また明日」の看板をかけながら、萌は心の中で呟いた。
「本当の幸せって、こういうことなのかもしれない」
空には最初の星が瞬き始めていた。萌の新しい物語は、まだ始まったばかりだった。
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(完)