5 怯える剣奈、恐怖でおもらし
フワリフワリ
「なんだろう。光ってる。蛍かなぁ」
剣奈は鍾乳洞の中でふわふわとした光に包まれていた。それは青白く小さな光るナニカだった。剣奈は数十もの小さな青白い光るナニカに囲まれていた。鍾乳洞のなかで幻想的に光るナニカはとても美しかった。例えるなら夜空の星。剣奈は星雲の中に漂っているような気持になった。
夜の海でシュノーケリングやダイビングをやったことがある人なら夜光虫に囲まれたことはあるだろうか?夜光虫は海に生息する小さなプランクトンである。手で水をかき分けたりフィンで水を蹴ったり刺激を与えると青白く美しく発光する。青白く光る水に囲まれた夜のダイビングはとても幻想的な気持ちになる。
剣奈は青白い光に囲まれてうっとりと周りを眺めていた。青白く光るナニカに照らされるつらら石はとても幻想的だった。足元から伸びる石筍も光に照らされてとても美しい眺めだった。
「うわぁ。夜の鍾乳洞ってこんなきれいなんだ。これなら全然怖くないや」
ジュッ ジュッ
青い光は剣奈に接するとまるで蒸発するように空中に解けて見えなった。剣奈は気づいていない。それは剣奈の神気に引き寄せられた霊魂だと。
玲奈が見た海から湧き出る青白い光がソレである。ソレは海難事故で亡くなった彷徨う霊魂だった。剣奈の神気に惹かれて現世から幽世に位相を超えて漂ってきたのだった。
成仏しきれなかったソレらは意識もないまま、誘蛾灯に惹かれる虫が如く剣奈に群がった。そして剣奈を薄く覆う神気に接すると瞬く間に浄化された。篝火に飛び込んだ虫が炎につつまれるように。ソレらは静かに消滅して輪廻の輪に帰っていった。
剣奈はもちろんそのことに気づいていない。青白い光は蛍だと思っている。もし剣奈がそれが霊魂だと気がついたなら平静ではいられなかっただろう。
ジュッ ジュッ
ジュッ ジュッ
剣奈はしばらく青白く光る霊魂と戯れつつ、霊魂の光に照らされた鍾乳洞の織り成す幻想的な風景に見とれていた。
野島鍾乳洞の鍾乳石は派手さはないが数は多く存在する。その多くが小型のつらら石や石筍である。入り口付近は鍾乳石の数は少ないが、洞窟の奥に進むほど鍾乳石の数は増える。ある程度の大きさに成長した鍾乳石を見ることができるのである。また注意深く見ると野島鍾乳洞を形成する鍾乳石には多くの化石を見ることができる。カキやフジツボをもとにして形成された石灰岩層ならではの珍しい光景であった。
ジュッ ジュッ
ジュッ ジュッ
剣奈を取り巻く無数の霊魂はどんどん浄化されていった。
ア……リ……ガ……ト……ウ……
剣奈はどこからか響く声を聴いた気がした。海難事故で亡くなり、成仏しきれずに漂っていた霊魂たちである。いったいどれほどの時間さまよい続けてきたのであろうか。もはや意思も持たない浮遊体になっていたソレラは、浄化され、成仏するときに、一瞬だけ人だったころの意識を取り戻した。そして成仏させてくれた剣奈にお礼の言葉を伝えたのである。
剣奈はそのことをまったく自覚していない。
「あれ?蛍がいなくなっちゃった。真っ暗になっちゃったよ」
これである。
「あぁあ。また暗くなっちゃったよ。気を付けて進まないと」
剣奈はポケットの小型のLED電灯を探り、スイッチを押そうとした。その時である。
ピチャリ ピチャリ
ピチャリ ピチャリ
剣奈の背後で音が聞こえた。
「あれ?地下水がもれてるのかなぁ。水滴の音がするよ」
ピチャリ ピチャリ
ピチャリ……
「え?なんだかだんだん近づいてきてるような……」
ピチャリ ピチャリ ピチャリ ピチャリ
はじめは遠くに聞こえていた水音であった。しかし時間が立つにつれ、その音はだんだん近くなってくる気がした。
剣奈は慌ててポケットの小型LEDライトを探り、スイッチを押した。
カチャリ
「え?」
カチャリ カチャリ
「嘘。新しい電池を入れたはずなのになんでつかないの?」
ピチャリ、ピチャリ
ヒュー
イ……タ……イ……
ヒュー
クル……シ……イ……。
ふと剣奈の耳にナニカ言葉のような音が聞こえた。
「か、風の音だよね。ボク、知ってるよ?」
ク…………ル…………シ…………イ…………
タ…………ス………………ケ………………テ…………
風の音に紛れていた言葉のような声。それがはっきりと意味のある言葉として剣奈の耳に届いた。
「え?なに、なに?れ、玲奈姉なの?いたずらはやめてよぉ」
明らかに意味のある言葉に剣奈は玲奈のいたずらを思った。剣奈は玲奈(仮想の)に向かって声をかけた。「ははは。ビビりやがって。この怖がりが」。そんな玲奈のからかいを期待した剣奈である。しかし玲奈の声は聞こえなかった。
ただ、水音だけが響いた。
ピチャリ ピチャリ ピチャリ ピチャリ
ピチャリ ピチャリ
水音はどんどん剣奈に近づいてきた。
剣奈はパニックを起こしたようにLED電灯のスイッチを押し続けた。
しかしポケットのそれが光ることはなかった。
ピチャリ ピチャリ ピチャリ ピチャリ
明らかに水音は近づいてきていた。
そして剣奈は気が付いた。石灰岩の壁の奥がぼんやり光るのを。
赤かった。赤いナニカがそこにいた。
ソレは腕を伸ばして剣奈に近づいてきた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
剣奈は恐怖に駆られてやみくもに走り出した。暗闇で何も見えないまま。ただ恐怖に駆られて赤いナニカから遠ざかるように走った。
「はぁはぁはぁ」
どれくらい走っただろう。気が付くと後ろの気配は消えていた。
「あ、あれ?気配が消えた。逃げ切れたのかな」
剣奈は後ろから追いかけてくる気配がなくなったことに安堵した。
逃げ切れた。
剣奈はほっとした。そして前を向いた。顔を、あげた。
赤いナニカがそこにいた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
剣奈は腰を抜かして尻もちをついた。あまりにもの恐怖に両手で頭を抱えた。
「い、いやだ、怖いよぉ」
剣奈は涙目で震えていた。尻もちをついておしっこをちびりそうになっていた。
ワ……タ……シ……ノ…………
「あっ」
限界だった。剣奈はあまりにもの恐怖に体を震わせた。そして、
ジュワン。ピチャ、ピシュ、ピシュ。
「れ、玲奈姉ぇ……」
剣奈はか細い声をあげて泣き出した。尻餅をついた剣奈のお尻の下で水音がした。恐怖のあまり剣奈はおもらしをしてしまったのである。
怯えた剣奈のお尻の下で水たまりはじわじわと広がっていった。
………………
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「剣奈っ!」
「剣奈ちゃん!」
玲奈と藤倉は鍾乳洞の中から響く剣奈の悲鳴を聞いた。そして二人で顔を見合わせて同時に立ち上がった。
玲奈は太もものホルスターにワルサーP38を装着して鍾乳洞の入り口に向かって走り出した。
藤倉はキャンプテーブルに置かれていた来国光を掴み腰に差した。そして地面に置かれていたオイルランタンを掴んで玲奈の後を追った。
「おい邪斬り、剣奈は大丈夫なのか?」玲奈は来国光に尋ねた。
『問題ないはずじゃがの。ただの浮遊霊なら剣奈の神気に触れただけであっという間に浄化されるじゃろうしのぉ。多少力のある怪異であっても剣奈が剣気を込めた拳で貫けばあっという間に消滅するはずじゃろうしのぉ』
「じゃああの悲鳴はなんだ?」
『剣奈は怖がりじゃからのぉ。霊か怪異を見て腰を抜かしたんじゃろ』
あくまでのんびりとした来国光である。
しかし藤倉は気が気ではなかった。あの気丈な剣奈ちゃん(藤倉の思い込み)が悲鳴をあげたのである。剣奈ちゃんに危険がせまっているのかもしれない。
藤倉の鼓動はドキドキと早くなっていた。嫌な予感がした。
ジュ
藤倉の持つオイルランタンの火が消えた……