願い事は「けっこん」でよろしいので?国が滅びますよ? ~白狼と純水の女王~
:: 場所は"星環の門"が鎮座する儀式の間、時は十年前の戦時下。
:: 語るは現れた白き狼グレオス。
――十年前。
気がつけば、俺は星空の狭間にいた。
記憶も時間も曖昧だったが、ただひとつ、"何かの呼び声"をきっかけに、意識が鮮明になっていく。
そして、その声に引き寄せられるようにして、門の向こうへと足を踏み出していた。
次の瞬間、眩い光に視界を奪われた。
重たい空気があった。気づけば俺は、重厚な石造りの広間の中央に立っていた。
天井には星図のような文様が描かれ、魔術陣の名残を残す床の上には、一人の少女がいた。
年の頃は、せいぜい七つか八つ。
身体に大き過ぎる儀礼服を纏ったその子は、まっすぐに俺を見つめていた。
頬には涙の跡があったが――その瞳は、決して折れていなかった。
(……子ども、か?)
すぐに理解した。"契約者"だ。
振り返れば、そこには開いたままの門がある。天より墜ちた異界の環――"星環の門"――。
破壊することも移動させることも出来ず、しかし扱いを誤れば世界を壊すほどの力を秘めた遺構だ。
それゆえに、"星環の門"を守り続ける事と引き換えに、一代に一度だけ願いを叶えることを"契約"した一族の長が"契約者"だ。
だが、なぜ子どもだけがここに? 何の目的で? これは正式な儀式か、それともイレギュラーか?
次々と浮かぶ疑問を押し込め、俺は静かにその場に立ち尽くした。
"星環の門"は、強い願いを携えて開門の儀を行い、祈り捧げた"契約者"のみが開ける。
そして俺は、その"願いを叶える存在"として、呼び出されたのだ。
少女はしばらく口を開かなかった。
俺――"白狼"の姿を、じっと見つめていた。
恐れはなかった。むしろ、その瞳は好奇と期待に輝いていた。
(……願いはわかっている。「国を守ってくれ」だろ?)
口には出さず、胸の内で思う。
俺の嗅覚は鋭い。この都を取り巻く悪意の臭いを、確かに感じ取っていた。
この国は、侵略されている。まさに今、この瞬間にも。
王都は包囲され、外からは時折、爆音のような魔法の衝撃が響いてくる。
壁にはひびが走り、天井がかすかに揺れていた――まさしく戦場の気配。
この状況で願うべきは、助けを。救いを。勝利を。
過去の契約者たちの同じ願いを、何度も叶えて来た。それが、当然のはずだった。
だが――。少女はぽつりと、口を開いた。
「……おおかみさん、しろくて、ふわふわで……」
(何をしてる?早く願いを)
思わず声をかけようとした、そのとき。
少女は目を輝かせ、まるで飛び跳ねるような勢いで叫んだ。
「けっこんして!」
………………は?
今、なんて言った?
いや、聞き間違いか? そんなはずはない。
そもそも、だ。
幼い少女がたった一人で、誰に助けも得ずに、"星環の門"を開くなど、異常の一言だ。
並外れた魔力適性が必要だろう。天才、という言葉では納まりきらぬほどの、規格外"魔人"クラスでなければ、無理だ。
この少女はそれを成し遂げた。そして契約者の一族であるならば、王族ということになる。
つまり、王女が、この儀式を行ったということは、つまり、国のためじゃないのか?
これだけ劇的な召喚を行い、国が侵略されている状況で、願うのが、それ?
少女は本気の顔で言った。
「けっこんして!ずっと、いっしょにいて!」
少女の目には、確かに怯えと孤独があった。だが、その奥にあったのは、無垢な好意だった。
戦争とか国家とか、そんなものとは無関係に。"今この瞬間、心を救ってくれた存在"に向けて、彼女は願ったのだ。
(なんだよ、それ。勘弁してくれよ)
"星環の門"から、魔力がうねる気配を感じた。少女の願いを――"受理"しようとしている。
空間が軋み、門がゆっくりと閉じていく。俺の帰還ルートが、塞がれようとしていた。
(待て、待て!俺はまだその願いを聞き入れたわけじゃ――)
言いかけたが、無駄だった。門は、音もなく、閉じていった。あの光の向こうには、もう帰れない。
(マジかよ)
前足にしがみつく感触を感じ、見下ろすと、少女が笑っていた。
恐怖のなか、唯一掴んだ希望を抱くようにして、俺を見つめていた。
「ね、おおかみさん。わたし、リシェル。あなたがいいの。きれいで、つよそうで、あったかくて」
(今の状況、わかってるのか?お前の国は、今まさに滅びようとしてるんだぞ)
声にならず、目線で訴えかけるのだが、通じていないようだ。
「だから、けっこんしてね」
終わった。
というか、始まってしまった。
本来なら、この国を侵略から救う英雄になるはずだったのかもしれない。
けれど今の俺は、少女の"婚約者"として、異世界に縛られた白い狼。
「やれやれ。返事はひとまず"後回し"だな。国が滅んではそれどころじゃないだろ?」
しぶしぶだが、頷きながら一歩離れてくれた少女を置いて、駆けだした。
俺は、まずはこの国が滅ばないように、侵略者どもを蹴散らしに向かった。
それは、彼女の願いを叶えることよりも、とても容易いことだった。
:: ここは闘技場。国の未来を賭けた儀式が始まろうとしている。
:: 語るは、人に姿を変え、舞台に立たされたグレオス。
――そして、今。
耳に痛いほどの歓声が、頭の奥をガンガンと叩いていた。
どうやら魔法で音が増幅されているらしいが、正直ありがた迷惑だ。
厳粛な儀式って話じゃなかったのか? それが今じゃ、まるでお祭り騒ぎだ。
煌びやか――なんて言葉じゃ生ぬるい。むしろ目が痛くなるほど、過剰な装飾に彩られた魔法闘技場。
すり鉢状の、その中央で、場違いな格好の俺は、ぽつんと突っ立っていた。
そして、向かいに立つのは、もう一人の候補者。
レオナルト・カリオス殿下。カリオス帝国の第三王子にして、この国で知らぬ者はいない英雄様。
十年前の侵略されていた戦争で、わずか十二歳にして同盟国であったカリオス帝国の援軍を率い、この国を救ったという伝説を持つ。
その功績から、"白狼の騎士"と呼ばれているらしい。あ、"白狼"の俺が言うのもなんだが、"白狼"を騙っているわけではない。
この世界では"白狼"は国家を守護する獣として、多くの国で信仰の対象として崇められている。
これにちなんで、国を守った戦争の英雄は"白狼の騎士"と呼ばれることが多い。ただの習わしだ。
しかし、元祖"白狼"としては、文句を言いたい。こんな派手なだけの存在と同じにされてたまるか。
この舞台は派手好きな王子様のお披露目にはうってつけ。大観衆の歓声を浴びて、まんざらでもなさそうだ。
「レオナルト様ー!」「未来の王よー!」
観客席からの嬌声と拍手は、雷鳴のようにレオナルトに降り注ぐ。
それに引き換え、俺はただの借り物の駒。まるで存在していないかのような扱いだ。
いや、別にいいんだ。見られても困るし。でも、たまにはこう、間違って名前のひとつくらい叫ばれてもいいじゃねぇか。
せめて「あれ誰?」くらい言われてもバチは当たらんだろ。まぁ、あっちの金ピカ騎士様は見るからに正統派。
対する俺はというと――。
革鎧は何年も着込んでいるせいで、肩はすり切れ、腹には焦げ跡。ぱっと見、ただのボロだ。
だが、見た目に反してタフだ。縫い直した箇所は丁寧に糸を通してあるし、革の手入れも毎晩欠かしていない。
使い慣れた道具ってのは、見栄えより中身が大事なんだよ。
髪は、伸びてきたらナイフでぶっつり切るだけだ。整える時間なんてねぇし、見せる相手もいない。
放っておけば跳ねるが、戦場じゃ寝癖も武器のひとつってな。……いや、さすがに言い過ぎか。
肌は焼けてる。十年前のあの戦い以来、ろくに日陰に入った記憶がねぇ。シワも増えたし、鏡を見るたび「老けたな」と思うこともある。
けど、歳を取るのは悪くない。年季の入った鍋みてぇなもんだ。もう新品には戻れねぇが、その分、深みがある。
目は、開いてるんだか閉じてるんだかわからねぇって、よく言われるがな。あんまり開けてると、余計なもんまで見えちまう。今くらいがちょうどいい。
さあ、どうだ。どこを切っても、貧相なオッサンだろう。でも、そういう役回りなんだよ、俺は。
そもそも俺、この"聖なる守護者"とかいう儀式の意味すら、ろくに把握していない。
(要は、時間稼ぎの駒だろうが)
二カ月ほど前になるか、目つきの悪い品の良さそうなババアがやって来た。
俺は、十年前に少女によって開かれた"星環の門"から世界に召喚され、無垢な願いによって"契約"に従い、帰れなくなった。
仕方なく、侵略者を軽く蹴散らして、怪我していた連中も魔法で治して回り、なんなら侵略者たちが解き放った魔獣の殲滅までして。
とりあえず、国の滅亡は回避した。そして、そのまま、どさくさに紛れて姿を消した。
あれからずっと、人間の姿に化けて、平穏が戻った王都でひっそりと暮らしていた。
"結婚の約束"? あんなのは、幼い少女の戯れにすぎない。
"大きくなったらパパとけっこんするの!"みたいなやつだ。真に受けて結婚する大人はいないだろ? そういうことだ。
ただ"契約"に縛られている以上、それを果たさなければ俺は元の世界に戻れない。なんとも面倒な話だ。だから俺は、帰るのを諦めた。
今の生活も、まぁ悪くはない。雑用をこなし、小銭をもらい、夜は酒場で安酒を飲んで眠る。
いつしか王都でも、ちっとは名の知れた"雑用屋"になっていた。何を頼んでも断らないし何でもやりとげる、意外に腕が良いってな。
人間に化けているとはいえ、俺は契約者の願いを叶える"白狼"と呼ばれる超越者だ。出来ないことは何もない。
俺の企みはこうだ。このまま逃げ回り、あの少女が寿命を全うすれば、願いは無効になる。そうして元の世界に帰れるだろう。
そんなつもりの逃亡生活を送っていたら。
声をかけてきたのが、あのババア。この国の参謀を名乗る、目つきの悪い高齢のご婦人、つまりババアだ。
曰く「"聖なる守護者"の選定の儀において、カリオス帝国から送り込まれた王子に陰謀の疑いがある」とのこと。
こちらも候補を立てたいが、有力な人材はすでにカリオス側に取り込まれている。無害な人材がいない。
そこで、腕っぷしが立つと評判の"雑用屋"に白羽の矢が立った、らしい。
完全に無関係な俺を"候補者"として立て、帝国の動きを牽制したい――そういう筋書きだった。
最初は、名前貸しだけのつもりだった。適当に参加して、途中で負けて終わるはずだったんだが……。
出てくる候補者がどいつもこいつも、陰謀臭ぇ。俺の鼻は利く。あからさまな罠を見逃すほど鈍くはない。
今は姿を隠しているとは言っても、契約者を守るのも俺の役目だ。あの少女に危害が及ぶようなことを放ってはおけない。
結局「こいつは残しちゃいけねぇ」と倒していった結果、残ったのは俺とレオナルトの二人だけになっていた。
マジでこの国、大丈夫か? 本当に。敵だらけじゃないか。
十年前の侵略戦争にしても、なんの前触れもなくいきなり始まって、三日目にはすでに王都を取り囲まれて、陥落寸前だった。
世間的には、この目の前の英雄様のおかげで助かったとされているみたいだが、実際は、侵略してきた軍隊が唐突に理由もなく撤退を始めた。そして、そのまま戦争が終わった。
侵略など無かったかのように。戦争の後始末にしても、一方的に侵略した側がこの国に賠償金を置いていったそうだ。
心配になってしまう。
この国は、そして今代の契約者は、"星環の門"を守れるのか。
「それでは皆様、大変お待たせいたしました!いよいよ本日、"聖なる守護者"の選定における"決勝の儀"を執り行います!」
司会者の派手な声が、魔力で会場に響き渡る。音だけじゃない。照明も音響も過剰なほどに増幅されていた。
そうだったな、"聖なる守護者"なるものを決める候補者、俺とレオナルトがこれから戦うんだった。
完全に"見世物"だが――それだけ、この儀式が国にとって重要なのだろう。
ちら、と高台の女王席を見上げる。そこにいたのは――あの子だった。
(リシェル……だったか)
十年前、星環の門を開いた少女。
小さな手を差し出し「けっこんして!」と笑っていた、あの子だ。あの笑顔は、今でも覚えている。忘れるはずがない。
だが今、そこにいるのは、立派なドレスに身を包み、背筋を伸ばして王座に座る"女王陛下"だった。
戦場で前線に立っていた前女王は、終戦後、戦傷の影響で亡くなったと聞く。
その後を継ぎ、十代にしてこの国の女王となったのが、あの少女だった。
女王など務まるのかと心配したが、評判は非常に良い。その魔法属性"水"にちなんで、真実を映す"水鏡の支配者"と呼ばれているようだ。
「優しいけれど、甘くはないのよ。笑っていても目はずっと冷たい。けど、それでいい。嘘が通じないあの方だから、あたしたちが安心して暮らせるのさ」
「謁見に呼ばれた日を、私は一生忘れまい。取り繕った忠誠心など、陛下の前ではすぐに剥がれる。目を見た瞬間、"すべて見抜かれている"と悟ったのだ」
「恐ろしいほどに静謐で、美しい瞳をしていた。あの目に映れば、誰であれ剥き出しになる。仮面を被って交渉に臨んだが、三言交わせばこちらの腹は見透かされたと悟った。あれが"水鏡の目"か……」
そして、"星環の門"の契約者は代々、王家の女王が継ぐもの。十年前に一人で門を開いたのは異例だったが、今は正式な"契約者"となっている。
そんなことを考えながら、少女を見つめていたら、視線が交差した。噂に聞く"水鏡の目"が俺を見つめている。心臓が、わずかに跳ねた。
(――何もかも見透かすと評判だが、俺もわかるか?いや、そんなはずもないか。幼い頃に、短い時を、言葉すら交わしていないのだから)
しかし、彼女の"水鏡の目"ほどではないが、俺の鋭敏な嗅覚が、リシェルの感情の揺れを感じ取る。
(困惑、疑惑、惑乱……いろんな感情の香りが混じってるな。気づきはしないが、何か感じるものがあるのか)
だが、それ以上は読み取れない。十年という歳月は、そう簡単に埋まるものじゃない。
「それでは、両者、構えを取ってください!」
歓声がさらに膨れ上がる。レオナルトは華麗な所作で剣を構えた。その動きは、まるで舞踏のように優雅で、完璧だった。
俺は構える気にもならん。というか、もう面倒くさくなってきた。突っ立ってるだけで済むなら、それでいい。
「構えないのか?」「何かの演出か?」
ざわつく観客。知らん。勝手に言ってろ。俺はやる気がないんじゃない。やる"理由"がないだけだ。
開始の鐘が、鳴る。
レオナルトが動いた。疾風のような踏み込み、炎を纏った大剣が軌跡を描く。さすが騎士様、華がある。
だが、近づくにつれ、噴き出すように湧き出て来た臭いに、俺の鼻がぴくりと動いた。
さっきまでは上手に隠していたというのに、俺の態度を見て、勝ちを確信したからか。
こいつの頭はすでに俺を視界に入れていない。その先にある栄誉の使い道を、勝手に妄想してやがるな。
(黒い欲望の臭い、陰謀の臭い。臭いなんてもんじゃないな、目に染みるじゃねぇか)
こんな汚らわしい存在を、あの無垢だった少女に近づけさせていいはずがない。
よし、気が変わった。こいつも倒そう。終わったら、御役目御免ってことで、また姿を消せばいい。
俺は覚悟を決めて、魔力を解き放つ。
――空間が、無音で、軋む。
俺の魔力は誰にも見えず、誰にも気づかれない。狼が気配を消して獲物に近づく様に。
派手な魔法じゃない。ただ静かに、世界の理を上書きするだけ。在り様を変えてしまうだけ。
炎が消え、剣の属性が反転し、構造が崩れる。
――そして、剣は砕けた。
小さな"鈴の音"のような音と共に、レオナルトの剣は崩壊した。
驚愕に見開かれた目。レオナルトは不思議なものを見るような間抜けな顔で見つめてる。
見えない魔力で、そっと、彼の意識を刈取る。無防備な首筋に、狼が牙を突き立てる様に。
理解が追いつかぬまま、膝をつき、レオナルトは倒れていく。
「……え?」
観客席から漏れる、小さな声。やがてざわめきが、波紋のように広がっていく。
「魔力の痕跡がない!?」「何が起きたんだ!?」「レオナルト様が……!」
混乱。静寂。そして――。
「勝者、グレオス?」
掠れた司会の声が、ようやく響いた。
拍手も、歓声もない。
ただ、静けさが満ちていた。――心地よいくらいに。
(これでいい)
ちら、ともう一度、女王席を見上げる。
リシェルは驚きに目を見開いたまま、じっと俺を見つめていた。
その視線の奥に、確かに何かが揺れていた。
(結婚は無理でも、陰ながら守るからな。それで許してくれ)
闘技場の中央から、俺は静かに歩き去った。
:: 王権の重みが沈黙を敷く謁見の間。
:: 見つめるは、女王と群衆――語るはグレオス。
「"聖なる守護者"の選定の儀に不服があると?」
参謀の問いかけに、空気がじわじわと肌に貼りつくように重く感じられた。
謁見の間の、格式ばった石床に立たされた俺は、王族や貴族、高官たちに囲まれて、すっかり場違いな存在になっていた。
玉座に座するのは、リシェル・アストレア女王。
かつて小さな手を差し出して「けっこんして!」と無邪気に笑っていた少女の面影は、どこにもなかった。
そこにいたのは、鋼の眼差しをもった"国の顔"だった。
俺の横並びには、顔を真っ赤に染めて怒りをあらわにする男が立っていた。
この国で知らぬ者はいない英雄様であるレオナルト・カリオス殿下の側近らしい。
名前は知らないが、声だけはやたら耳に障る。
「ええ。そもそも、こんな素性の知れぬ男が候補に残っていること自体、伝統を汚す行為としか思えません!」
当の本人であるレオナルトは、その後ろに控えていて、周りを自身の近衛兵でがっちり固めて、一応は跪いている。
自分では抗議しない。沈黙こそが最も効果的だと分かっているのだろう。王子様らしい立派な態度だ。
その背後に控えるこの国の貴族たちもこぞって同調し、口々に文句を並べてくる。支援者たちらしいが。
だが、言葉を重ねるほどに顔の品格が薄れていくのが、逆に面白い。
「魔力適性も不明、出自も不明、戦いでも何もしていない――こんな男が勝者とは、お笑い草ではありませんか!」
俺は、内心でだけ苦笑する。
俺以外の候補者は、全員が参謀のババアの言う"陰謀"に関与していた。
彼らにとっては、自分たちの筋書きどおりに進み、レオナルト・カリオス殿下が"聖なる守護者"なる栄誉を賜るはずだった。
それを掻っ攫ったのが、何もせず突っ立っていただけの"おっさん"。納得できるわけがないよな。俺が逆の立場でも納得は出来ないかもしれない。
リシェル・アストレア女王はずっと沈黙を保っていた。だが、真実を映す"水鏡の支配者"は、何もかもお見通しだろう。
そして、俺も黙っていた。今この場で口にしていい真実なんて、ひとつもない。言葉はナイフよりも危うい。
やがて、女王陛下は傍らの参謀――俺に依頼したババア――マティルダを手招きで呼び寄せ、耳元で囁くように問う。
「……あの男、本当に"条件を満たしている"の?」
それに対し、マティルダは氷のような声で即答した。
「はい、陛下」
その一言だけで、場の空気がさらに冷え込む。
「魔力適性、身元の確認、王家との遠縁関係、倫理規範――"聖なる守護者"の選定に必要なすべての条件を、満たしております」
(俺が満たせるはずがないだろ。あのババアがでっちあげたんだな)
「……年齢は?」
リシェルの問いに、マティルダは微動だにせず答える。
「年齢制限の規定はございません」
その瞬間、リシェルの眉がぴくりと動いた。
「でも、どう見ても"おっさん"よ……!」
思わず笑いそうになった。まったくその通り。反論の余地なし。堪えきれず、喉の奥でくくっと小さな声が漏れる。
お肌の手入れを欠かさない王族とは違って、俺は野ざらしの鍋みたいなもんだ。見た目で決めるなら、最初から呼ぶなって話だ。
だが――参謀マティルダの返答が、妙に整っていた。こうなる展開を、最初から想定していたんだろう。
リシェルの耳元に顔を近づけ、何かを進言するマティルダ。その表情は苦々しい。
一方で、まだ吠えているレオナルト側の側近がいた。
「魔力が感知されなかった!あれは不正か妨害だ!正式な再選定を――!」
「結果がすべて。倒れていた者が敗者。それだけのことです」
マティルダの声が鋭くなる。わずかに"感情"が混じった。ほんの、わずかに。
リシェルは手を上げて場を鎮めると、まっすぐ俺を見つめて言った。
「あなた、自分が選ばれて当然だと思っているの?このわたくしを守り、生涯を共に歩めると?」
いや、思ってねぇよ。当たり前だ。
選ばれた自覚もなければ、そもそも何の選定かも知らなかったんだぞ。
囮役として呼ばれて、流されるままに勝ち進んだだけで――……ん?
(……待てよ)
今、彼女……なんて言った?
"生涯を共に歩めると?"……って、なんだ?
(……俺って、何に選ばれたんだ?)
"聖なる守護者"――その言葉の響きだけで、女王の近衛兵か何かだと思い、深く考えずにいたが……。
「"聖なる守護者"の選定の儀とは、陛下の配偶者を選ぶ儀式です」
マティルダが静かに、とんでもない爆弾を投下した。
…………。
…………は?
(おい待て、なんでそんな肝心なことを説明してない!?あのババアめ!)
頭が真っ白になる。
"陰謀を暴くための囮役"って言ってただろ!?配偶者なんて言葉は一言も――。
いや、マジか。"けっこんして!"って言われてこの世界に引き止められて、気が付けば"貴方は女王の配偶者に選ばれました"みたいな今の状況。
まさか腹黒参謀ババアめ、俺の正体を見抜いたうえで、俺に声をかけたのか?……いや、それはない。リシェルならともかく、他に見抜けるはずがない。
じゃあ――契約のせいか? 願いが成就しないこの状況にしびれを切らせて、強引に結婚させて、願いを叶えさせようとしてるのか?
「――宜しい。今ここに、王命をもって決定を下します」
静寂のなか、リシェルの声が謁見の間を満たした。
その声音は鋭く、気配も視線も、すべてを一手に収束させる力を持っていた。
俺の困惑など、最初から存在しなかったかのように。
場は、女王を中心に粛々と進んでいく。
「"聖なる守護者"の選定の儀は、古の慣わしに従い、正しく執り行われたと、ここに認めます」
ざわめきが、場内を駆け抜けた。
「しかし!そのような決定は――!」
さっきから喧しく叫んでたカリオス帝国の側近が抗議を口にしようとした、その瞬間。
「黙れ。女王陛下の御前。陛下の決定を妨げ、口を挟むとは。何たる不敬。その無礼者を捕らえよ」
参謀の声が雷のように落ちた。すぐさま衛兵が命令に従い動こうとしたが。
「……無礼をお詫び申し上げます。この者はこちらで厳正に処罰いたします」
レオナルトがすぐに立ち上がり、手で衛兵を制止。代わりに自身の近衛兵が叫んだ男を連れ去る。
その顔に動揺はない。即座に片膝をつき、頭を深く垂れたレオナルトは、その声に一片の濁りもなく、静かに謝意を述べた。
「陛下の御決定を、謹んでお受けいたします――」
だが女王は、その言葉を静かに遮った。
「焦るな。まだ、我が言葉は終わってはおらぬ」
女王は静かに立ち上がり、壇上から一歩前に出た。
その瞳はすべての者に向けられていたが――確かに、俺を真っ直ぐに見ていた。
「選定された者といえど、直ちにその位に就かせることは致しません」
どうやら、首の皮一枚でつながったみたいだな。このまま結婚だ!と言われたら、走って逃げるつもりだった。
「しばしの猶予を設け、一定の期間をもって、その資質と覚悟を試す。これは王命であり、未来への布石でもあります」
誰もが沈黙する中、その言葉は深く場に染み渡っていった。
「――しばしの猶予?」
俺は、思わず問い返すと、女王の顔をしていたリシェルは、すこし年頃の少女らしく微笑んで、わずかに頷いた。
「ええ。条件を満たしているだけでは、"聖なる守護者"として、わたくしの夫として、正式に認めるには足りません」
その声音には、理と情を両立させようとする強い意志が宿っていた。
「ゆえに今後、振る舞い、人格、能力、そして民からの信頼――それらすべてを見極めた上で、最終的な決定を下します」
(……要するに、決断を先延ばしにする、ということか)
納得しかけたところに、レオナルトが静かに問う。
「恐れながら陛下にお尋ね申し上げます。この者が"不適格"と断ぜられた折には――いかなる裁定を下されるおつもりか、お聞かせ願えますか?」
一拍の間。
「そのときが訪れたなら……。わたくしは、貴殿を選ぶといたしましょう、レオナルト王子」
リシェルの一言が発せられた瞬間、俺はレオナルトから強い殺気が向けられた。俺さえどうにか始末すれば、目的は達成されるのだから。
(ここは、言うべき言葉があるだろ?どちらかが死んだ場合は、誰も選ばない!とか。そうしないと殺されちまうぞ?)
そう願ったが、なぜかリシェルは微笑んだまま。――俺には香りで分かった。リシェルの瞳の奥にある、かすかな思いが。
"この者は何者か? 自分の夫に相応しい者か? それを試そう。殺されるならそれまでのこと"
まあ、むざむざと殺されるつもりもないが。だが、このままじゃ願いを叶えてしまうことになる。
それはまずい。他人なら"若い女王との結婚なんて、誰もが望むことじゃないか"と思うかもしれないが、そうもいかない。
"願いを叶えること"がすなわち"願いが損なわれてしまう"状況をどうにかしなくては、俺は少女の願いを叶えられない。
まるで哲学だよな。そうじゃなきゃ、十年間も逃げ回ってはいないんだ。まあ、決断の時は、いつか必ず来るだろう。
それは、真に"願いを叶える"という意味を持つ、ただ一度きりの瞬間になる。だが、今はまだ、その時ではない。
俺はただ、心の中で静かに呟いた。
(……まったく、やれやれ、だな)
:: 再建の地・王都東部にて、名も無き守人が汗を流す。
:: 語るは働き手としてのグレオス、その静かな日常から。
女王から最初に下された指令は「街の復興に努めよ」だった。
名目は「実務を通じて"聖なる守護者"にふさわしいかを見極める」という"お試し期間"。
王都での公式発表でもそのように説明され、多くの市民に向けて盛大に報じられた。
そうは言っても、俺が出来ることなんて、もともとやってた"雑用屋"と変わらなかった。
「グレオスさん!手伝ってくれてありがとうございます!この梁の補強、ひとりじゃどうにもならなくて……!」
額に汗をにじませた若い職人が、恐縮したように頭を下げてくる。
ここは王都東部の住居区画。
復興が進みきらず、瓦礫と仮設の建物が入り混じる。
"三日戦争"と呼ばれた十年前の侵略戦争で、建物は崩れ、人々は家を失い、その爪痕はいまだ各所に残っている。
なかでもこの区画は被害が深刻で、資材も人手も足りず、見捨てられたも同然の場所だった。
「礼はいい。油断するとまた崩れるぞ。上に登るときは、確認を忘れるな」
舞い上がる埃の中、作業の手を止めずに声をかける。
「は、はいっ!」
若者は明るく返事をして、その顔には尊敬と安堵の色がにじんでいた。
(……こういう反応、最近増えてきたな)
俺は少し微笑んで、作業を進める。
十年経っても未だに人が快適に過ごせる場所ではない。俺はこの区画の復興に努めるつもりだ。
一方その頃、王都の中心にある広場は、まるで祝祭の準備でも始まったかのような活気に包まれていた。
そこに立っていたのは、"白狼の騎士"と称される男――レオナルト・カリオス殿下。
艶やかな軍服に身を包み、整った金髪、洗練された所作。誰が見ても、「理想の王子様」と形容するにふさわしい姿。
その彼が今、広場に設けた大きな天幕の前で、市民に向けて温かなスープと焼きたてのパンを手渡していた。
「どうぞ、お腹を空かせていたのでしょう。温かいうちに召し上がって」
「お身体に異常はありませんか? 簡単な診療ですが、怪我や不調があれば遠慮なくどうぞ」
広場には移動式の診療所が設けられ、彼が率いてきた医師団や衛生兵たちが診察にあたっていた。
訓練された兵士たちは秩序ある列の整理や物資運搬を担当し、整然とした動きで市民を導いていく。
「すごい……こんなに早く整ってるなんて」「まるで、もうひとつの城下町みたい……!」
人々の目には感動の色が浮かび、賞賛の声が自然と湧き起こる。
そのすぐ脇では、大型の荷馬車が列をなして広場に資材を搬入していた。木材、石材、布、工具、そして保存食――それらは一見、どこにでもある復興支援物資だった。
「これらの資材は、王都東部および南部の仮設支援拠点の建設に用いられる予定です。作業は明日から開始されますが、皆さんの安全と安息を第一に考えています」
レオナルトは壇上からそう告げ、人々に向かって自分たちが行う復興支援を周知していく。
目に見える"成果"を示すその姿は、まさに理想的な指導者だった。
だが――俺のやり方はまるで違っていた。
金も、力も、人脈もない。華やかに振る舞う技術もない。あるのは、ただひとつ――けして疲れないこの体だけだ。
今は人の姿をしているとはいえ、中身は願いを叶えるための超越者たる"白狼"。飲まず食わずでも働き続けられる。
しかし、目立ったことをするのもまずい、いやもう手遅れかもしれないが。一応は契約者から告げられた願いを叶えずに逃げ回ってる身だ。
だからこそ、俺にできるのは地道な力仕事だけだった。瓦礫をどかし、柱を支え、壊れた道具を直す。ただ、それだけ。
家屋の再建を手伝い、ケガ人にはこっそりと魔力で治療を施す。食糧が足りないと知れば、城壁の外へ走り、イノシシなどを狩ってくる。ついでに森に住みついてた賊も退治しておいた。
またある日は、子どもたちに木刀を持たせて稽古をつけたり、魔力の基礎を教えたり。読み書きができない子には、地面に文字をなぞって教える。
まさに"雑用屋"の面目躍如といったところだ。
「グレオスのおじちゃん、今日もスープ作ってくれる?」
「昨日のパン、冷めても美味しかった!」
「おじさん、これなんて読むのか教えて!」
「よし、まずはスープだ。その前に薪割り手伝え」
子どもたちは無邪気で、その瞳は曇りなく、まっすぐだった。
(この笑顔を守るために、スープを作り、文字を教える。それが俺にできること)
――そして、その姿を、見ている者がいた。
「ずいぶん、子供に好かれていますね」
振り返れば、そこに立っていたのは女王、リシェル・アストレア。
淡い紫のマントをまとい、澄んだ瞳でこちらを見下ろしていた。
護衛たちが警戒を怠らず周囲を囲む中、彼女は以前よりも穏やかで、柔らかな雰囲気を纏っていた。
俺は斧を地面に置き、ぼさぼさの頭を片手でかきながら、軽く言った。
「よう。こんなとこにいて、いいのか?」
「誰もそんな口調で私に話しかけません」
呆れたようで、それでいて少し笑みを含んだ声だった。
「あなたの働き、報告は上がってる。王都周辺で騒ぎを起こしていた賊を捕らえたとか?」
「知らねえな。俺はスープの材料にするイノシシを捕まえに行ったら、騒がしいのが居たかもしれないが」
「誤魔化すのが下手ね」
言い残して、彼女はその場を離れていく。
(いったい、何を言いに来たんだ? それともまだ殺されてないことを確認にでも来たのか?)
だが、余韻に浸る間もなく、背後から声が飛ぶ。
「おっちゃん!助けて!」
「どうした?」
「箱で遊んでたら、崩れて下敷きに……!」
王都東部に運び込まれた復興用という名目の大量の資材たち。
その箱が乱雑に摘まれた山を遊び場代わりに遊んでいた子どもが、箱の崩落に巻き込まれたらしい。
案内する少年の後を追い、俺は走った。
「う……うぅ……」
木屑と砂埃の中、小さな声が聞こえる。急ぎながらも慎重に、木箱をひとつずつ除けていく。ようやく現れたのは、擦り傷だらけの小さな体。
「だいじょぶか、坊主!」
「い、痛い……足とお腹が……」
見れば、足首が不自然に曲がり、お腹は腫れていた。まずい、これは重症だ。このままじゃ命が危ない。
「動くな。すぐ楽にしてやる」
周囲を確認。大人はいない。
(今なら、見られてねぇ)
手のひらを傷口にかざし、魔力を抑えて流し込む。骨を、筋肉を、内臓を、丁寧に確実に癒していく。
俺の魔法は、なにも破壊に特化していない。願いを叶えるという役目上、様々なことが出来る。
治療魔法もその一つだ。いつもの空間が軋むほどの圧をもつ魔力とは違い、優しく暖めるような陽の光のような優しい魔力が少年を包む。
やがて少年の顔から苦悶が消え、手を離した。
「どうだ?」
「お、おっちゃん、……痛くない!」
「ああ。もう大丈夫だ。歩けるか?」
おそるおそる足を動かし、立ち上がる少年。
「わ、ほんとに……!すごいよ!おっちゃん、ありがとうっ!」
その笑顔は、ついさっきの苦しみをまるで忘れたように明るかった。
「ケガするとつれぇだろ。遊ぶのもいいが、危ねぇとこには近づくな」
「うん!でも、ほんとに、すっげーかっこよかった!」
「そりゃどうも」
――と、その時。
ふと、背中に刺さるような視線を感じた。
振り返ると、仮設の路地の向こうに、ひとりの少女が立っていた。
リシェル・アストレア。護衛も連れず、ただ一人。驚愕の表情で、俺を――俺の手を見ていた。
その瞳は「知らなかったものを見てしまった」と語っていた。
やがて護衛が現れ、何かを耳打ちすると、彼女は無言で踵を返す。
そして、静かに歩き去っていった。何も言わずに。何も残さずに。俺はその背を、しばらく見送った。
「……まさか見られたか?」
小さく呟いて、再び作業に戻ろうとしたとき――。
妙な臭いを放つ箱に気づいた。
「くさっ!なんだこれは……?」
レオナルトが持ち込んだ"復興資材"のはずだが、中身がどうにも怪しい。一つをこじ開けようとしたそのとき――。
「おい、資材に触るんじゃない!」
カリオス帝国の一団が駆け寄ってきた。
「これはなんだ?」
「復興に必要な物だ。すべて女王陛下の許可を得ている。勝手に触れば、処刑もあり得るぞ」
脅す相手を間違えていると思ったが、ここは黙って引いた。奴らは中身を確認することなく、箱を回収して去っていった。
だが、俺は見た。――あれは、魔獣の卵だった。封印符が貼られ、休眠状態にされていたが、解ければ孵る。
(厄介なもんを、仕込んでやがる)
レオナルトの行動には裏がある。どうあっても"聖なる守護者"に選出されたいらしい。直接に俺をやりに来るかと思ったが、どうにも臭うな。
「おっちゃん!」
さっきの少年が駆けてきた。
「さっきのお礼に、これをあげる!」
手渡された紙袋の中身は――香りで分かる、パンだった。
「いいのか?お前のメシだろ」
「いいよ!ボクよりおっちゃんのほうがやせてるから!」
食べなくても生きられる体質とはいえ、つい疎かにしがちだった。
「そうか。ありがたくいただくよ」
「うん!ありがとね!」
笑いかけるその顔に、周囲の子どもたちもつられて笑った。
――レオナルトが俺を直に攻撃してくるなら、返り討ちにするだけだったが、この子たちまで巻き込むようなことを考えていそうだ。
俺の鼻が利かないほどのおぞましい何かが、この王都に次々と運び込まれているのを感じる。
守らなきゃならないな、契約者も、そしてこの王都に住まうこの子たちも、すべてひっくるめて。
そう決意した。
:: 月が照らす書見の間、記憶の中の影に手を伸ばす。
:: 語るは女王にして契約者――リシェル。
王城・西塔の高窓にある書見の間。静かな夜――。
月の光が薄紫のカーテンを透かして、床に繊細な模様を描いていた。
執務を終えたリシェル・アストレア女王は、書見台に広げられた書簡からそっと目を離し、控えていた一人の女性へと声をかけた。
「マティルダ。今夜は、少し話を聞いてほしいの」
その声音は穏やかだったが、わずかに揺れていた。参謀マティルダは、首を傾げる。
「かしこまりました。どのようなことでしょうか?」
リシェルは書簡を閉じ、ゆっくりと椅子に深く座り直す。その横顔には、深い思索の色が宿っていた。
「彼のこと。グレオスの」
一瞬、マティルダの目元が細まる。だが何も言わず、続きを促した。リシェルは静かに窓の外へ視線を向ける。
王都の街並みはすでに眠りについていたが、その眼差しはどこか遠く、まるで過去を見ているかのようだった。
「決勝の儀で、誰もが、彼が"何もしていない"と言う。でも私には、わかったの。彼が何をしたのか」
「何を、でしょうか?」
「あの瞬間。魔力の流れが、書き換えられていった。レオナルトの薄い赤色の魔力を、見えない何かが。ゆっくりと……、握り潰すように」
リシェルは手をそっと握りしめた。自分の言葉に、自分自身が追いつこうとするような、そんな動きだった。
「普通の魔法ではない。この世界の魔力じゃない。だから私にさえ、何も見えなかった」
マティルダは黙って聞いていたが、瞳の奥で驚きが走ったのがわかった。だが、参謀らしくすぐに冷静な口調で返す。
「あの場にいたすべての魔導師たちは、魔力反応を感知できなかったと報告しております。私自身も、何も感じ取れませんでした」
「だからこそ、なの。おそらく、あれは"感知される前に消える"魔力よ」
リシェルの声は震えていた。だが、その震えの奥には確信が宿っていた。
「圧倒的であり、跡を残さない。魔力が世界に干渉して、世界がそれに反応するよりも早く、すでに"改変が完了している"ような……」
マティルダは、珍しく言葉を失っていた。けれど、やがて深く息をつき、静かに口を開く。
「陛下。もしそれが事実だとすれば、グレオス殿の魔力は――既存の理論では到底説明がつきません。しかもそれを"感じ取れた"のが、陛下お一人のみ」
「そう。だからこそ、もうひとつ、聞いてほしいことがあるの」
「はい」
リシェルは息を整え、ゆっくりと語った。
「先日、彼が魔法で子供の怪我を治していたのを……偶然、見てしまったの」
マティルダが一瞬、目を見開いた。
「魔法による治癒……ですか? 教会の関係者でもない彼が? 報告には――」
「上がっていないわ。彼は人目につかないように、誰にも見られないように、そっと癒していた」
リシェルは目を閉じて、その場面を頭の中に思い描く様にして、続きを告げる。
「でも私には、その瞬間"陽の光"のような魔力が、ふわりと流れたのを感じたの」
「……陽の光?」
「ええ。あたたかくて、優しくて……。子供の痛みを包み込むような。これも、この世界の魔力ではない。教会の使う神聖魔法よりもなお、聖なる輝きを持つ魔力」
再び、マティルダは沈黙した。けれど今回は、感嘆と警戒の入り混じった沈黙だった。
「……驚きました。陛下の魔力感知の精度は、王家の中でも群を抜いていると存じておりましたが、ここまでとは」
「私が特別なのではないわ。きっと、彼が特別なの」
リシェルの声は静かであったが、奥には揺れ動く迷いが混ざっていた。マティルダは深く一礼し、低い声で答える。
「認識を改めます。グレオス殿の魔力は、我々が想定していた以上に"異質で、強大"。今後の監視と記録を強化し、脅威となるならば――」
「いいえ」
リシェルは、その言葉を遮るように、静かに首を振った。
「彼を、監視しても意味はないわ。彼は"役割に忠実に動いている"。こちらが見ようと見まいと、彼はやるべきことを、やるの」
マティルダは目を細め、そして頷く。
「そこまで、信じておられるのですね」
「信じているわけじゃない。ただ、それは純然たる現実よ。自然の営みと同じ。風が吹き、木の枝を揺らすのと同じ。それを見張ってどうする?」
それは、女王の顔ではなかった。一瞬だけ、十代の少女のような、柔らかく素直な声だった。マティルダは何も言わず、静かに控えの位置へと戻る。
再び書見の間に静寂が戻る。だが、リシェルの胸の中だけは、なおも波立っていた。
透明な魔力。陽の光のような魔力。どちらも、この世界に存在しないはずのもの。
あの男の背から漂っていた、懐かしいけれど、思い出せない気配。
十年前の記憶の底に沈む"答え"が、今、ゆっくりと浮かび上がろうとしていた。
:: 王都に襲い掛かる戦火の匂い。
:: 高みより語るは、女王――リシェル。
まだ朝靄の残る空の下。
王都の上空に耳を刺すような高音が響き渡った。
静寂を裂くように鳴り響くその音に、王城の回廊では近衛たちが一斉に走り出し、城下町では民が窓を開け放ち、街の広場は瞬く間に騒然となった。
ちょうどそのころ、執務室ではリシェル・アストレア女王が静かに文書に目を通していた。
簡素な軍装に身を包み、金糸の髪を一つにまとめたその姿は、普段の優雅な女王とは異なる"王"の貌だった。
その傍らには、精巧な陶器に紅茶を注ぎ、優雅な微笑を浮かべる男がいた。レオナルト・カリオス。
紅茶と菓子を嗜む姿は、美しく整った絵の中にいるようだった。
その時、扉が勢いよく開かれる。
「失礼します!女王陛下、緊急報告を!」
伝令が駆け込み、リシェルはすぐに顔を上げる。
「報告を」
「東の森より、魔獣の群れが出現。数は三千を超えます。現在、王都に向かって進行中とのこと!」
空気が一変する。リシェルは即座に立ち上がった。
「軍司令部に迎撃態勢を取らせなさい。城門と城壁の魔導陣を稼働、各部隊は即時配備を」
そして、視線を横に向ける。
「"聖なる守護者"にふさわしいか、見せてもらいましょう。レオナルト・カリオス。即刻、前線へ。グレオスにも伝令を」
レオナルトは紅茶を最後まで飲み干し、穏やかに立ち上がる。
「ふふ、やっと"出番"というわけですか」
リシェルは関係各所へ迅速に指示を出し、対応を協議した。
未だに十年前の戦争の恐怖は色濃く残っている。これもまた、他国の侵略ではないかと疑ったのだ。
準備を整えたら、自身の目で確認すべく、馬車に乗って城壁へと急行する。王都外を一望する高台へ。
そこにはすでに多くの兵が集まり、魔導兵たちが陣形を整えていた。
その中央で、ひときわ目を引く姿があった。真紅のマントを靡かせ、銀の甲冑を纏う男――レオナルト・カリオス。
彼は精鋭の騎士団を率いて城壁に立ち、冷静に戦況を見据えていた。
「来られましたか、陛下」
振り返らずとも、リシェルの接近に気づいていた。
「状況は?」
「ご覧の通りです。整然とした進軍、数、規模――すべてが"自然"とは思えません。……出来すぎています」
リシェルの視線が地平線に注がれる。
そこには、蠢く黒い塊。
煙のように揺らぎながらも確実な歩調で進む魔獣の大群。
「まるで誰かの指示で動いているみたい」
「まさに、その通りかと。私の部下からの報告によれば、あのグレオスが我々が陛下の許可を得て搬入した資材に何か仕込んでいるのを目撃したと」
「ではこれはグレオスの仕業だと?」
「さて、まだ確証はありませんね。だが、今彼はどこで何をしているのか。陛下の命令が届いていないはずはありませんが」
「ええ、そうね」
リシェルの返事に満足したのか、レオナルトは一歩、城壁の縁へと進み出た。
後方には騎馬に跨がる部隊が控えている。
「では、行って参ります」
「……ええ」
軽く一礼をし、レオナルトは鋭く命じた。
「突撃――!」
蹄の音が轟き、門が開かれると同時に、騎士団が一斉に駆け出す。
その動きは美しく、その背を、リシェルは黙って見つめていた。
「まるで舞台の主役ね」
その呟きに、背後から声がかかる。
「同感だな」
振り返ると、そこにグレオスがいた。
いつの間に現れたのか、彼も魔獣の大群を見つめていた。
「来るのが遅い。即刻、そう伝令しました」
「ああ、伝令が迷子になっているらしい。俺を捕まえるより簡単だからな」
リシェルは、彼の言わんとする事が思い当たった。なるほど、グレオスの評価を下げるため、伝令を妨害したか、抱き込んだのか。
「それで、討伐に加わらないの?」
「向こうが派手にやってるなら、俺は静かに"別の道"を見張っておくよ」
リシェルの眉がわずかに動く。
「別の道?」
「いいか、常に後ろを気にしていろ。おっと、実際に振り返れって意味じゃないぞ? 何か派手な騒ぎがあったら、必ず隠れてるものがある」
その瞳には、静かで鋭い光が宿っていた。リシェルは、その言葉に言い返せなかった。
「俺は俺のやり方で、守るさ」
そう言って、グレオスは城壁の影へとすっと消えていった。
リシェルは、その背を見送りながら、目を細めた。
(本当のあなたが、知りたくなった。いったいどれほどの力なの?)
轟音が地を揺らし、火柱が上がり、氷が砕け、雷が空を裂く。
リシェルは戦場へと視線を戻した。すべてを統率する声が、その中心にあった。
「列を乱すな!前衛、下がれ!後衛、第二波、準備!」
戦場の中央。レオナルト・カリオスが銀の大剣を振るい、舞うように魔獣たちを斬り伏せていく。
その指示は的確で、部隊は彼の意図をなぞるように動き、無駄なく敵を打ち払っていった。
(本当に、完璧な男ね)
城壁から見下ろすリシェルの胸中には、冷ややかな実感が浮かぶ。
その華やかな立ち振る舞い、戦場での存在感、すべてが絵に描いたような"理想の騎士"。
でもそれは台本通りの模擬戦のような完璧さ。
レオナルトなら、十回やって十回、同じように勝利するだろう。そういう意味では、完璧に近い。
だがリシェルなら、単独で殲滅も可能だと感じる。リシェルほどの魔力適性をもってすれば、極大殲滅型魔法一発で済む。
では、グレオスなら? 想像ができなかった。決勝の儀のように、何も見えないまま、あっという間に殲滅していしまいそうで。
やがて、最後の魔獣が断末魔を上げて消滅する。剣を収めたレオナルトに、兵たちは歓声を上げる。
「おおおおおおおッ!!」
「レオナルト様、万歳!!」
「王都を救ったお方だぞ、皆の者、敬礼ッ!」
騎士団は整列し、レオナルトに深く頭を垂れた。そして凱旋の行進が始まる。城門の前に詰めかけた民衆は歓声を爆発させた。
「レオナルト様だー!」
「我らの誇り!次期王様、万歳!」
「やっぱり、未来の王にふさわしい!」
花びらが舞い、子供たちが手を振る。商人はその名を叫び、貴婦人は微笑みを投げる。
まさに、英雄の凱旋。
リシェルはその光景を、城壁の上から見下ろしていた。だが、その瞳には歓喜も称賛も宿っていなかった。
彼女の視線は、そこにいない――ある男の姿を、探していた。
「いないわね」
思わず零れる声。あの男は、討伐命令を受けながらも「別の道を見張る」と言っていた。
(一体、どこで、何を……)
その動向は誰も知らず、彼の痕跡もなかった。レオナルトの勝利に湧く王都の喧噪の中、リシェルは静かに目を伏せた。
「レオナルト。あなたは立派だったわ」
その言葉に感情はなかった。尊敬でも、愛でもなく、義務としての評価。
彼の完璧な勝利が、どうしても胸の奥を満たしてくれなかった。
(どうして……)
脳裏に浮かぶのは、あの無骨な声。
「俺は俺のやり方で、守るさ」
――そんなことを言い残して、去っていった男の背中。
彼は、何から何を守っているのだろう。リシェルの心は、闇の中を進むあの影を、ただ、追っていた。
:: 夢は過去を映す鏡。焦土に立つ小さな背が夜を歩く。
:: 視線は、記憶に揺れる――リシェル。
――夢の中。
空が燃えていた。
重たく淀んだ空気。乾ききった石の大地。
剥がれた天井の先で、焦げ付いた空が揺れていた。
幼い少女の足元には、倒れた兵士たちの影が広がっていた。
「やめて……お願い、もうやめて……!」
叫んでも届かない。
兵士も、魔獣も、誰も彼女の声を聞こうとしない。
誰もが、生きるために戦っていた。
殺すために戦っていた。
泣きながら、少女は瓦礫をかき分け、祭壇へと駆け寄った。
星環の門。
何度も「触れてはならぬ」と言われたその遺構を、少女はひとり、力ずくで起動させた。
魔力の流れを見ることのできる少女は、儀式の手順を知らなくても、その仕組みを見ながらパズルを解くように、一人で儀式を成功させた。
祭壇の魔術陣が脈動し、光が走る。
「お願い……!誰でもいい、助けて……!」
血まみれの手で陣に触れた瞬間――世界が裂けた。
そして、"それ"は現れた。
真白の毛並みを纏い、黄金の瞳を持ち。
静かに、誇り高く立つ――白狼。
血の海も、瓦礫も、その身には何一つ触れられない。
ただそこに立つ姿が、あまりに神々しかった。
少女は言葉を忘れ、ただ、見惚れていた。
「……きれい」
それは、人の理を超えた存在。
少女が幼い頃から憧れていた、物語に描かれる"聖なる守護者"の姿。
少女は願った。
「……けっこん、して」
それは子どもらしい、無邪気な一言。
けれど、少女の心から出た、初めての――"感情"だった。
白狼は動かなかった。ただ、静かに見下ろしていた。
その瞳は、すべてを見通すような輝きを帯びていて、少女は、気づけばその前足にしがみついていた。
そのとき、夢の空気が変わった。
白狼が、背を向けた。
「あっ……待って……!」
振り向いてくれない。歩いていく。どこまでも、遠くへ。
夢の中でさえ、少女はその背中を追うことしかできなかった。
「いかないで……!」
声が掠れ、手が届かない。
星環の光が、彼の姿を包み込んでいく。
次の瞬間――。
はっと、息を吸い込んで、リシェルは目を覚ました。
白い天蓋。シーツ。城の天井。すべては、見覚えのある現実のはずなのに。
彼女の心は、まだ夢の中に取り残されていた。
ゆっくりと起き上がると、胸の奥がざわついていた。
今の夢は、記憶か、幻か。
幼い頃の出来事に似てはいるけれど、あまりにも鮮明で、切実だった。
(……まっしろな、おおかみさん)
その瞬間だった。窓の外から、ふわりと風が吹き込むと、その風に、リシェルの知覚には明らかな魔力の流れが見えていた。
胸の奥が、びくりと跳ねた。
(……このかんじ、おおかみさんの、まりょく)
十年前、星環の門から現れた"白狼"。
優れた魔力適性を持つリシェルだからこそ感じ取れる、透き通るように清らかで、どこまでも白く、美しい魔力。
確かに、それが東の空から、微かに漂っていた。
「……いるの?」
思うよりも先に、身体が動いていた。窓辺へと駆け寄る。
まだ薄い靄がかかる東の空。
考えるより早く、リシェルの手はマントを掴み、リシェルの足が窓枠にかかっていた。
夜風がマントの裾を煽る。
リシェルは、窓から身を躍らせた。
その身体は、風を味方につけるように、ふわりと降り立つ。
呼吸するように魔力を操り、音もなく石畳の上に着地した。
導かれるように、王都の東へ。
まだ確信はなかった。
けれど、胸の奥にだけは、確かなものが灯っていた。
(……まってて、いまいくから)
それが、夢の続きなのか、あの日の続きなのか。
リシェル自身にも、まだわからなかった。
けれど、あのとき止まった時が、ゆっくりと動き出していた。
:: 忘れられた街で、白狼は不穏の種に鼻をひくつかせた。
:: 語るは、異界の外れ者、グレオス。
昼間の魔獣襲撃が嘘だったかのように、深夜の王都は静寂に包まれていた。
ここは王都東部の住居区画。復興が進みきらず、瓦礫と仮設の建物が入り混じる。
「……ようやくお出ましか」
東から流れ込んできた風にのり、夜の闇に紛れるようにして、黒い霧が立ち込めて。
そして、その黒い霧の中から、のっそりと"それ"が姿を現した。
超大型魔獣。
一見すると、大きな龍のようにも見える、煤のように黒く染まった巨体。
背からは、羽ばたくことのない、音を裂くための骨の翼が広げられていく。
歪なラッパが無数についているかのような異質な頭部に、無数の真紅の煌めきは、周囲を見回すように蠢いている。
巨体が瓦礫を踏み砕いて姿を現したとき、周囲の空間が押し広げられるように歪んだ。
だが、何よりの異様は、とても静かだということだ。
これほどの巨躯が地面を踏めば、踏み躙る音だけで、地響きが鳴り響き、どれほど深い眠りに在ろうとも、住人達は飛び起きるだろう。
だが、音がしない。まったくの無音だ。空間が震えるような重低音は、目の前にいてもなお、ごくわずかに、俺の外套を揺らす程度。
目に見えていながら、その圧を感じていながら、しかし耳を何かで塞がれたかのような違和感だけ。
俺は、口の端をわずかに歪める。
「……こいつがお出ましとはね」
俺を認めた《ブロットファング》は威嚇するように咆哮――したはずだった。
だが響いたのは、音ではなく、圧だった。地面が砕け、瓦礫が浮かび上がる。
それでも、俺はただ静かに立っていた。武器を構えるわけでもなく、ただ道ですれ違った通行人のように。
訝しるほどの頭脳があるのか、わからないが、《ブロットファング》は首を傾げながら、しかし、踏み込んできた。
巨大な爪が、俺を瓦礫ごと切り裂こうと振り下ろされるが、俺の姿はそこにはなかった。
無音のステップで、流れるように躱す。
さらに、その巨躯を軽やかにくるりと回転させて繰り出すは、尾による薙ぎ払い。
太い尾が、広い範囲を、弧を描いて振り回される。何処にも避け場のない、必殺のコンボ技だ。
一回転して再び正面を見た時には、すでに邪魔な存在は薙ぎ払われている、はずだった。
しかし、俺は先ほどと変わらずに、そこに立っていた。もし《ブロットファング》の表情が見て取れたなら、驚愕に彩られていただろう。
――まあ、種明かしをすれば、地面にあった窪みに、必死に身を伏せて、魔力で作った障壁を亀の甲羅のように被ってやり過ごしたのちに、立ち上がっただけだ。
「----」
俺の口からこぼれた言葉も、音にはならなかった。軽口すら許されないとは。苦笑しながら、魔力を解き放つ。
無音、無色、無臭――。けれど、すべてを支配する魔力が、《ブロットファング》が音を消した空間に満ちていく。
危険を察知した《ブロットファング》の巨大な爪が地を穿ち、巨躯を地面に縫い付けた。
そして――咆哮。無音の咢鳴が空間を揺らす。周囲の無人の家屋が崩れ落ちる。そして、砕ける瓦礫。
魔獣はその巨体を膨らませ、顎を広げる。牙は鉤爪状に湾曲し、闇の中に深淵が覗く。
その中心に、赤黒く灯った小さな光が、輝きを増しながら大きくなっていく。この零距離でブレスを放つつもりだ。
喰らえば、俺の存在でさえ消し飛ぶ。いや、俺だけではない、このあたり一帯が消し飛んでしまう。
せっかく復興を手伝い、少しずつだが、生活を良くしようとしているんだ、壊されたのではすべて無駄になる。
破壊の咢が、俺を呑まんと迫る――。だが、俺はそれを許さない。
さらに巨大な白い咢が、《ブロットファング》の咢を、覆いかぶさるように咬みつく。
まるで、大きな龍が、さらに大きな狼に喰われたように。とはいっても、実際に狼に姿を変えて咬みついたわけではない。
魔法による疑似存在として、大きな咢と牙を構築し、空間ごと《ブロットファング》に咬みついたのだ。
《ブロットファング》はもがいたが、逃れられない。
それは"捕食"だった。
骨が軋む音が、無音の世界でかすかに漏れる。それが何の音かを理解したとき、《ブロットファング》は恐怖に打ち震えた。
咢が閉じる。うなりは、悲鳴に変わった。そして、その首から崩れ、地に沈んだ。
頭部は、存在ごと、喰われていた。
遅れて瓦礫が崩れ、爆風が夜空を舞い上げた。
「――後片付けのほうが面倒そうだな」
俺は額の汗を拭いながら、声が出ることを確かめるように呟く。
ふと、気配に気づいて振り返る。
そこにいたのは、月明かりを受けて白銀の髪を揺らす少女。
――いや、もう少女ではない。若き女王、リシェル・アストレア。
けれど、俺の目には今も、あの夜、小さな手を伸ばしてきたあの子の姿が重なって見えていた。
「おっと、悪いな。うるさくて起こしちまったか?」
音はなかったはずだ。だが、それでも俺は、つい、口にしてしまう。
軽口。この癖は、どうにも治らねぇ。
リシェルは、しばし言葉を失っていた。やがて、震える声で絞り出す。
「今の……何?あの魔獣、どうして一瞬で……」
「こいつは昼間のとは別モンだ。昼間の魔獣は卵が持ち込まれてた。誰かが孵したんだろう……あいつの"見せ場"を用意するために」
「……ええ、私も、気づいてはいた。不自然なほど整った準備。何かが仕組まれていたと……でも、それも、もう終わったのよね?」
「終わっちゃいねぇよ。厄介ごとってのは、いつも後から来る。こいつは、世界のどこかで魔獣が一斉に倒された"痕跡"を嗅ぎ付けると、裏の世界から這い出てくる」
リシェルは一歩、また一歩と近づいてきた。
「あなた……どうして、そんなことまで知っているの?」
俺はいつも通り、肩をすくめて答える。
「見てのとおりの年寄りさ。長く生きりゃ、いろんなもんを見るもんだ」
「……あなた、いったい何者なの?」
すぐ目の前まで来た彼女の瞳に、謁見の間で見せたような威厳はなかった。
まるで、知らないことを尋ねる少女のように、無垢なまなざしだった。
「さあな。それは、あのババアにでも聞いてくれ。俺は、あいつに雇われただけだからよ」
リシェルは首を振る。
「違うわ。わたくしが知りたいのは、そんなことじゃない。あなたの魔力……異質よ。あれほどのもの、今まで見たことも感じたこともない」
「……ほう。俺の魔力を感じ取れるのか。それは、おまえの資質か……あるいは、契約者だからか」
その一言に、リシェルははっと息を呑んだ。おっと、どうやら言わなくても良いことを言ってしまったようだ。
「あなた、まさか――」
「……帰るぞ、女王様。風向きが変わる前にな」
そう言って俺は歩き出し、ふと後ろを振り返る。リシェルは、じっと俺を見つめていた。
その表情は、ゆっくりと"女王"の顔へと変わっていく。
「後始末はこちらで命じておくわ。……いつまでも待たない。かならず、返事は聞かせてもらう」
「……ああ。そのうちな」
その言葉に、俺の背中を冷たい汗が伝った。
あいつ、きっと気づいたな。俺が、あの夜の"白狼"だったってことに。
:: 光も祈りも届かぬ地下の檻に、真実を探る者たちが集まる。
:: 語るのは囚われの身となった――グレオス。
朝になり、城で飯でも食おうと立ち寄ったら、兵士たちに囲まれた。
何が起きているのか分からず、無用な混乱を避けるため、あえて抵抗せずに拘束されるがままになった。
そうして牢に放り込まれてから、ようやく「罪状」とやらが読み上げられる。
鉄格子越しにこちらを見て、にやにやと勝ち誇ったような声を響かせているのは、カリオス帝国の随行者の一人だった。
その顔には、心底楽しんでいる様子がありありと浮かんでいた。
まわりにはこの国の兵士たちもいるが、彼らが事態を完全に把握していないのは、おどおどした態度を見れば明白だった。
……あの参謀のババアも、女王様の姿も見当たらない。
「俺が、魔獣を解き放った……だと?」
「ええ。王都の町中で、あなたが我々カリオス帝国の資材に魔獣の卵を忍ばせていた――そう証言する者がいるのですよ」
「回収したのはお前たちじゃなかったか?」
「いえ。回収できたのは一つだけ。他にも仕込んでいて当然でしょう。素性の分からない怪しいあなたが!」
「女王陛下は、なんと?」
俺があえてリシェルの判断を問うと、随行者は唇を釣り上げるだけだった。その表情を見てようやく思い出す。
こいつ……確か、あの謁見の間で女王の言葉を遮った無礼者だ。処罰が下るはずだった奴が、どうして自由に動けてる?
「陛下は今、謁見の間で我が殿下に"聖なる守護者"の称号を授けておられる最中だ。お前など、もはや眼中にない」
「そうかい」
「お前は処刑される。その時までの命だ。せいぜい楽しむことだな」
そう言い捨てて、奴は満足げに牢を後にした。
魔力を封じる結界に包まれた、冷えた石壁の牢。王城の地下牢は陰鬱な空気に満ちていた。
俺は腕を組み、壁にもたれて、鉄格子の先を静かに見据える。まだ状況を飲み込めていない兵士たちの気配が、空気に滲んでいた。
「魔獣襲撃の首謀者、俺が……か」
自然と苦笑が漏れる。やれやれ、レオナルトの差し金なのは明らかだ。
俺を暗殺でもするのかと思っていたら、意外にも、姑息な手段で舞台から消そうとしてきたか。
まさか昨夜の騒動で、残された《ブロットファング》の身体を見たレオナルトが、ビビッて絡め手で時間を稼ぐことにしたのか?
そうだとしたら、今頃、何か良からぬことが進行しているのだろう。出ようと思えば、この程度の牢はいつでも出られるが、さて……。
参謀のババアが黙っているとは思えないが、あのババアはババアで、何を考えてるかよくわからない。
――そう思った矢先、俺の嗅覚は彼女が近づいてくるのを感じ取った。
香るのは乾いた紙と墨の匂い。研ぎ澄まされた知識の刃を身にまとった者だけが持つ香り。
香油も香水も使っているはずなのに、匂いが浮かないのは、きっと意図的に"隠している"からだろう。
参謀――マティルダ・エラリア。
「尋ねたいことがあります」
前置きなく、そうはっきりとした声で訊ねる。
「お前の依頼は"仮の候補者"として帝国の陰謀を暴く時間を稼ぐことだったろ。いつ陰謀とやらを暴くんだ?」
「ええ、まずは謝りましょう。私の力が及ばず、帝国の目的を暴ききれなかった。情けない限りです」
「おいおい、本気で言ってるのか?」
「ええ。……でも、あなたは何かを知っているのでは?」
こいつが何も察していないはずがない。レオナルトの陰謀など暴くまでもないと見切ったうえで、今この場で探っているのは――俺の"正体"だ。
(やっぱりな。こいつ、俺が何者か、うすうす感づいてやがる)
「俺はただの雑用屋さ。言われたことを、言われた通りにやっただけだ」
「そうですか。ではもう一つ、謝らなければなりません。あなたを、この牢から出すことはできません。このまま処刑するしかない」
「それは、残念だな」
――さらに、俺の嗅覚は彼女が近づいてくるのを感じ取った。
最初に鼻先を撫でたのは、透き通る冷水のような気配。山の雪解けが岩を伝い、長い時を経て初めて陽の下に現れた、そんな清澄な気配だった。
香りと呼ぶにはあまりにも淡く、触れた途端に消えてしまうよう。しかし、微かに重なるのは、雨上がりの草地の香り。
陽に蒸された若草と、静かに滴る水の香。まだ濡れている苔の、柔らかく丸い香り。
女王――リシェル・アストレア。
「マティルダ、どういうことか説明して」
「……陛下、このような場所に護衛もつけずにおいでになるなど」
「マティルダ」
女王の一言で、その場の空気が変わる。
老練な参謀なら、その圧など微塵も気にせずに、女王陛下に意見できるだろうが、ここは語った方が得策と判断したらしい。
「この者は私が雇いました。帝国の手がこの国に及んでいる以上、無害な人材を選ぶのに苦労しましたが……」
「偶然に?」
「ええ。偶然、ということにしておきましょう。他の誰でも良かったので」
「マティルダ、ここは謁見の間じゃないわ。レオナルトに"聖なる守護者"について話があると、謁見の間で待たせてある。全てを打ち明けるなら――今よ」
「何をおっしゃっているのか、浅学な私には測りかねますが……」
「そんな遠回しじゃ、このババアは何も言わねぇぞ。自分で全部片付けられるって思ってるからな」
我慢しきれず、俺は口を挟んだ。だがマティルダは、ぴしゃりと遮る。
「素性の知れぬ者は黙っていなさい」
「雇ったのはお前だろうが」
「正体を明かさないのなら、こちらも詮索はいたしません。ただし、あなたが"この国にとって有益か否か"を判断するのは――」
冷静にそう言いながらも、その瞳には探るような光が一瞬だけ宿っていた。
「マティルダ、彼を問い詰めても意味はないわ」
リシェルが手を上げ、その場を静める。
「わたくしは、レオナルトを"聖なる守護者"の選定の儀から除外するつもりよ」
その言葉に、空気が一変した。
「おやおや、それはまた……」
マティルダの口元が僅かに持ち上がる。その顔に驚きの色はなく、むしろ、それを引き出したような、満足げな表情だった。
「では、残る候補はひとり。この"おっさん"があなたの"夫"になりますが……よろしいので?」
「……お前がそう仕組んだんだろが」
「マティルダには言ってなかったけど……。わたくしには、迎えを待つ存在がいるの」
「ほう、それはどなたで?」
「この国を救ってくれた英雄。"星環の門"で、わたくしの祈りに応え、この世界に来てくれた"白狼"よ」
「まあ。この国の守護を司る"白狼"。"聖なる守護者"の始祖とも言える存在なら、私も文句はありません。早く探し出すべきです」
「いえ、今はどこにいるのか分からない。でも、あの人は言ってくれたわ。『必ず戻る』って」
「……言った覚えはないんだが?」
「よろしい。私の全力をもって、その御仁を探し出してご覧にいれましょう」
「ええ、お願い。私はこれからレオナルトに、"お前ではない"と伝えてくるわ」
――なんなんだ、この寸劇。真面目に取り合うのが馬鹿らしくなる。
「レオナルトは暴れるぞ。あいつ、自分が外されたって黙って引くようなタマじゃない」
「まさかそこまでとは思いませんが」
「甘いな。お前らが見てるのは、"仮面"だけだ。あいつはまだ、本当の顔を出していない」
リシェルの表情がかすかに揺れる。
「……グレオス。何があっても、わたくしを――守ってくれる?」
その問いには、確かに"信頼"があった。
「見てのとおり、牢の中でね。あんまり期待するなよ」
「……あなたなら、一薙ぎで出られるでしょうに」
拗ねたように呟くリシェル。そうしてると年相応に見えるな。
「レオナルトの背後には、ただならぬ存在がいる。次に何を仕掛けてくるか、予測がつかねぇ」
マティルダは変わらぬ表情で返す。
「何をしようと、排除すればいいだけのことです」
「その"どうとでもなる"という過信が、一番危ねぇって言ってるんだ」
俺ははっきり言い切った。
「奴は"国を丸ごと焼き払う"ぐらいの手段を、まだ隠してる。大げさじゃない」
視線が交錯する。空気が張り詰める――だが、それも一瞬。
リシェルが息をついた。
「この場は、これで終わりにしましょう。マティルダ、彼の処遇については、私が決めます」
「御意」
マティルダは静かに頷き、去り際に言葉を残す。
「陛下。あなたの選択が、国の未来となります。……その覚悟を」
そして去っていくその背中を見つめながら俺は呟く。
「あのババア、欲張り過ぎだ。この国の命運を天秤にかけながら、それでもお前の願いさえも満たそうとしてる。両方を追えば、両方を失うかもしれないのに」
「信頼してるわ」
「そりゃ、重いな」
リシェルはしばらく俺を見つめた後、そっと背を向けた。
「……何かあったら、本当に、お願いね」
その背に向かって、俺は呟く。
「"何かあったら"じゃねぇ。――どうせ、何か起こる」
その言葉は、地下牢の湿った空気の中に、静かに、深く沈んでいった。
:: 再び紡がれる契約の魔法。
:: 語るは、女王として一族の契約を受け継ぐ――リシェル。
王城地下――儀式の間。
秘宝"星環の門"を前に、空間を支配するのは、重く沈んだ緊張の気配だった。
「それで、民を人質に取った卑怯者よ。門を開けば、満足か?」
リシェル・アストレイア女王の声は冷たく儀礼的であったが、その奥には鋼のような抵抗の意志が宿っていた。
「門を開いたところで、"契約者"でもなく、"聖なる守護者"からも排除された敗者のお前に、誰が従う?」
「ご心配なく。陛下のその"決断"のおかげで、これを使うことに、もはや一片の躊躇もありません」
レオナルト・カリオスは歪な笑みを浮かべ、手にした禍々しい杖を見せつける。
《ネクロミア=カルナス》――喰魂の杖。
それが発する魔力は明らかに異質で、魂を蝕むような嫌悪と戦慄を伴う、純粋な"禁忌"。
――謁見の間に待たせていたレオナルトに、"聖なる守護者"の選定の儀から除外すると通達した途端に、その英雄としての仮面をはいだ。
そして、おもむろにその杖を取り出して、こう脅した。
『王都のあちこちの地面深くに呪具を埋めた。その時間は十分にあったのでね。この杖で発動させることができる。そうなれば、王都の住まうすべてが呪われて生きた死者になる。おっと、すでにトリガーには指がかかっている。すぐに儀式の間に案内してもらおうか?」
リシェルには、それがこの世界の理に属さぬ"異物"であることが、直感的に理解できた。それがただの脅しとは思えない。
彼に従い、この儀式の間に移動してきたのだが、次の要求が秘宝"星環の門"を開け、というものだった。
「よくそんな呪具を手にできたものだ。……自らも喰われるぞ?」
「陛下を脅しているのはこちらなのでね。間違えないでいただきたい。そんなに脅されては、手が震えて、発動してしまうではないですか」
本性を現したレオナルト・カリオスは、完璧な王子、白狼の騎士と謳われた存在とはとても思えない軽薄なものになっていた。
そして、その後ろには黒装束の従者たちが控えていた。それぞれが禍々しい紋章の描かれた仮面をつけている。
「待ってください、陛下!"星環の門"は神聖な儀式――このような脅しに屈して開いては……!」
拘束されたマティルダが声を張るが、レオナルトはせせら笑う。
「黙れ。お前は復興資材に忍ばせた"魔獣の卵"を排除したと、自慢げに報告したな?あれはただの囮だ。この呪具こそが"脅威"。人の血と魂で練成された秘術だ」
「帝国もずいぶん落ちぶれたものだ。そんなものに頼るなんて」
「どうとでも言うがいい。私を拒み続ける限り――王都には、癒えぬ呪いが刻まれる」
沈黙が場を支配する。リシェルは唇を噛み、わずかに俯いた。そして――静かに、覚悟を定めた瞳を上げる。
「……門を、開ける」
その言葉が放たれた瞬間、空間がざわめく。
天井に描かれた星図が発光し始め、魔術文字が宙を舞い、壁面に刻まれた詠唱が反響しはじめる。
大祭壇の中心、宙に浮かぶ星環構造体が銀白に輝き、夜空の裂け目のように拡張されていく。
リシェル・アストレイア女王は、震える指を胸元に添え、毅然と呪文を紡ぐ。
「星よ、応えて。門よ、目覚めて――契約の光を、ここに導いて」
光の裂け目が開かれる。
幾千の星光が渦を巻き、夜空の彼方を地上へと引きずり下ろすような光景。
そして――白い影が、姿を現した。
神々しいほどに純白の毛並み。
金色の瞳は、まるで星辰の意志を宿すかのよう。
「……守護獣、白狼!」
レオナルトが歓喜に震える。
「これだ……ついに……ついに手に入る……!」
その狂気の混じる声と同時に、黒装束の従者たちが詠唱を始めた。
彼らが振るう短杖の先に浮かび上がるのは、拘束と支配のための呪縛陣。仮面の紋章が同調したように発光する。
「今だ、動きを止めろ!」
一斉に放たれた紫紺の光線が白狼の四肢に絡みつく。無音の呪文とともに、重力のような力がその体を地に縫いとめた。
白狼がうめくように身をよじろうとしたその瞬間――。
「封星の環、展開」
レオナルトが取り出した鉄の輪が、虚空に展開し、星環の力場を描きながら白狼の首にぴたりとはまり込んだ。
――白狼は、その美しい白き衣が、黒く変化していく。そして、ぴたりと動きを止めた。
その眼差しから、意思の光が失われていく。
「完璧だ……我が帝国の守護獣!」
レオナルトの顔は、歓喜と狂気の入り混じる、もはや人のものではなかった。
「リシェル。貴様は、もう不要だ」
リシェルはかすかに肩を震わせる。その瞳には、怒りでも悲しみでもない――深い絶望。
「……ごめんなさい。私が……呼んだのに……」
その声は、まるで割れた硝子のように脆く掠れていた。
そのときだった。
――空間が震えた。
まるで天地の狭間に裂け目が生まれたかのように、冷たい風が儀式の間を貫く。
重力すらねじ曲がるような気配とともに、光と影が逆転する。
「……何だ……?」
レオナルトが僅かに顔を顰める。
星環の門の周囲で螺旋を描いていた星光の奔流が、一点に収束する。
音なき轟音――それは世界の奥底から噴き上がる咆哮のようで、誰もが息を呑んだ。
そこに、現れた。
裂けた空間の向こう、星光の雨をかき分けて姿を現したのは――白き狼。
黄金の双眸は揺るがぬ炎を宿していた。怒りと、深い悲しみと、誓いの光。
静かに、一歩。
そして、また一歩。
その姿はまるで、天より遣わされた断罪の使者。
彼はリシェルの"呼び声"に応じて現れた、ただ一頭の守護者だった。
白狼は言葉ひとつ発することなく、レオナルトの前へと歩み寄る。
そして、口から何かを吐き出す仕草。冷たく煌めく金属片が転がり落ちた。
「……まさか……呪具……!?」
狼は応えない。ただ、静かにそれを踏み潰すと、悲しげな瞳で、封じられた黒狼へと目を向けた。
そして。戦いが、始まった。
「食い殺せ。我が帝国の守護獣よ。その偽物を、噛み裂け!」
レオナルトの怒声とともに、呪縛された黒狼が白狼――グレオスへと躍りかかった。
鋼のような脚、裂傷をもたらす爪、そのすべてが殺意を帯びて一直線に迫る。
白狼は舞うように一歩、わずかに身を引いた。避けられる。そう思った瞬間――。
「……ッ!」
視界に閃いた紅。白狼の肩から血が噴き、空を彩った。リシェルは息を呑む。
(傷を……受けた……!?)
あの《ブロットファング》の攻撃すら、容易く避けていたグレオスが、まさかの一撃を避けきれず、裂かれた。白銀の毛並みに滲む赤は、あまりに異質だった。
それでも彼は退かない。ただ静かに、冷静に、黒狼の動きを見極める。レオナルトの狂気じみた歓喜など、彼にとってはただの雑音。
(……次が来る)
黒狼が再び、疾風のごとく駆ける。今度は、さきほどより速く、深く、そして狙い澄まして。
(このままでは……!)
だが、グレオスは焦りを見せなかった。いや――むしろ、動きの再現に気づいていた。
黒狼の動きは、まるで操られた人形のように、規則的で読める。彼はそのわずかな兆しを捉え、ひとつの目標を定めた。
(首輪……封星の環!)
それを壊せば、黒狼は解放される。そう確信したのだろう。
グレオスは、あえて一瞬の隙を晒した。傷が疼くはずのその身で、彼は立ち止まったのだ。
爪が襲いかかる。その刹那。光が反転する――白狼が人の姿に変じ、身体をひねって爪の軌道を逸らす。
「……っ!」
黒狼の爪は空を裂くだけ。勢い余って床を転がり、再びグレオスを見定めるが。
「……もらった」
グレオスの手には、封星の環が、もぎ取られていた。
「なっ……!」
レオナルトの絶叫。だが、それは遅い。
「人を呪えば……己もまた、呪いに喰われる。思い知れ!」
高らかに掲げられた銀の輪は、乾いた音とともに砕け散った。
――床を這う黒縄。砕けた呪具の欠片が、蛇のごとくレオナルトに絡みつく。
叫び、暴れても、もう遅い。彼の身体は締めつけられ、彼の身体は細く、細く、引き伸ばされていき――。
「な、なぜ……!?こんなはずでは……っ!」
レオナルトは人ではなくなっていく。最後に見たその瞳に、悔恨はなかった。あったのは、ただ純粋な恐怖だけ。
「やめろォォォォ――!!」
絶叫が響き、そして、物言わぬただの灰になって、さらさらと風に流されていく。
しん……と静まる儀式の間。魔力の嵐が嘘のように収まり、私は思わず息をつく。
呪縛の解けたのだろう、いつの間にか白い毛に戻っていた狼が、ふらつきながらも、リシェルの前に伏せた。
:: 願いと力が交錯する、最も神聖なる場所。
:: 今回の語り手は、グレオス。
レオナルトの叫びが、やがて静寂に溶けるように消えていく。
俺は、しばらくそこに立ち尽くしていた。
呪縛から解き放たれた白狼が、床に伏してうめいている。
彼女は、最後まで抗おうとしていた。もしあの意志がなければ、俺はきっと負けていた。
同じ種族であっても、個体差はある。彼女は俺よりも能力が高く、魔力は互いに打ち消しあってしまう。
俺が彼女に勝っていたのは、戦いの経験の差だ。操られ、それに抗おうとする彼女の攻撃が単調になったのも勝因だろう。
一度はあえて攻撃を受け、同じ攻撃を繰り返せば、とどめが差せると思わせた。
その上で、動きを止めて、タイミングをずらし、人に化ければ、彼女からはあたかも消えたかのように見えただろう。
白狼の彼女は、リシェルの前に伏せたまま、じっとしてる。
心まで縛られていたことが、彼女の中に深い傷を残しているようだった。
幼い頃から気が強い子だったからな。自分が許せないのだろう。
契約者の願いを叶えるための存在が、契約者に仇成す存在に操られてしまったと言う屈辱が、彼女を責めている。
そんな白狼のもとに、リシェルがゆっくりと膝をついた。彼女の唇から、澄んだ声が落ちる。
「……ごめんなさい」
その響きには、王としての矜持と、一人の少女の痛みが、静かに混ざり合っていた。
「あなたには……ひどいことをしてしまいました。脅されていたとはいえ、呼んだのはわたくし。すべて、わたくしの責任です。どんな罰でも受けましょう」
リシェルは跪き、白狼の頬にそっと手を伸ばす。その手のひらのぬくもりが、凍てついた魂を少しずつ溶かしていくようだった。
白狼はその温もりに、かすかに目を細めた。
「ごめんなさい……。どう贖えばいいのか、わたくしにはわかりません。でも、もしこの身を捧げることで赦されるなら、喜んで差し出しましょう」
彼女の瞳には、透明な涙が静かに溜まっていた。
「そんなこと、望んでないさ」
俺の声に、リシェルは肩を震わせて顔を上げた。俺は静かに歩み寄り、彼女の隣に立った。
その一瞬の空白を見逃さずに、マティルダの静かな声が響く。必要な報告を済ませるつもりなのだろう。
「カリオス帝国の残党はすべて拘束しました。呪具は?」
「残りはない。すべて探して砕いた」
マティルダは満足げに頷き、微笑む。
「ならば、ここから先はお任せします」
彼女は兵を引き連れて静かに退出していく。扉が閉まり、音が遠のいていく。
儀式の間には、俺とリシェル、そして――自由を得た白狼だけが残された。
沈黙。その中で、俺は白狼に歩み寄る。
「……すなまい。この契約者の願いは、すでに俺が受理しているんだ。先約ありだ」
白狼が俺を見上げる。その瞳に、わずかな逡巡が揺れていた。
どういう状況なの?と言いたげな表情をしているが、話せば長い。さて、どう説明したものか。
「とにかく、もう、ここに留める理由はない。お前は……帰っていい。いや、帰るべきだ。帰れなくなるぞ?」
俺が"星環の門"を指さすと、その光が弱まっていく様子が見て取れた。たちまち閉じることもないが、長くも持たない。
納得できない様子だったが、やがて、彼女は静かに立ち上がり、星環の門へと歩き出す。
「あ、あの、本当にごめんなさい。せめて、わたくしの代はもちろんですが、今後の三代は、願いを控えて――」
そうリシェルが告げようとしたとき、白狼の姿が輝き、収束して、人の姿になった。
美しい女性の姿に。真っ白な肌に、長く真っ白な髪を風に流しながら、振り返った。
「いえ、その必要はない。あなたの一族はこの門を守ってくれている。これは対等な契約だから。今回は優柔不断なクソオヤジが悪い」
「お前のオヤジになった覚えはないぞ。……大きくなったな」
「黙れ。帰ってこないくせに、オヤジ面すんな、クソオヤジ」
「え?おやじ?ちちおやってこと?」
リシェルが混乱している。さっさと帰ればいいものを、なんでわざわざ人の姿になってまで、リシェルに余計なことを吹き込んだ!
「いいから、もう帰れ。みんなに宜しく伝えてくれ」
「断る。すでに死んだことになってる。帰って来ても居場所があると思うな」
「そうか。なら、助かるよ」
「……じゃあね、パパ」
「だからお前の父親になった覚えは――」
「ええええ!もう結婚していたんですの?」
リシェルが叫んでる。ほら!誤解が誤解を生んで、説明がややこしくなったじゃないか!
ここは、涙のお別れのシーンじゃないのか? 再び、発光したと思ったら、白狼の姿に戻った。
白狼は一度だけ振り返り、静かに、寂しげに吠え、門の中に消えていく。
門が閉まり、淡い光が消える。
静寂が降りてくる。
その中で、リシェルのかすかな声が響いた。
「グレオス。返事を聞く前に、説明してください。結婚していたのですか?あんな大きな子がいるなんて聞いてません」
「落ち着け。結婚はしていない。あれは孤児だ。そういうのを集めて世話してたんだよ」
「……なるほど、それは子供たちから好かれていたのを見て、納得できます」
しばらく情報を咀嚼するようにじっとうつむいて、何かをぶつぶつと呟いていたが、ふいに顔を上げてリシェルが聞く。
「あなたも、帰りたいのですか?」
「いや。十年前なら、そう思ったかもしれない。でも今は違う。こっちの酒の方が美味い」
俺の答えに納得がいかないのか、リシェルは怒ったような表情で睨み付けてくる。
「それに、帰っても居場所はもうないらしいぞ」
「まあ、いいです。では……十年越しの返事を、聞かせてください」
まっすぐに俺を見つめるその目に、もう逃げは通用しない。
「答えるさ。でも、その前に伝えておきたいことがある」
「言ってください」
「お前の願いを叶えると、お前の願いは叶わない」
「何か誤魔化そうとしていますか?意味が分かるように――」
「お前の願い「結婚」を叶えれば、俺は白狼じゃなくなる。魔力も、長命も、全部失って……ただの人間になる」
リシェルの目が揺れる。俺はゆっくりと続けた。
「もしお前が望んだのが、この国を守る"白狼"であったなら。……結婚することで、それは叶えらなくなる」
「……"白狼"で、なくなる、のですか」
「そうだ。婚姻とは、人と人とが、神々の御前で結び合う神聖なる誓約。神に等しき存在のままでは、その契りは果たせない」
「……だから、何?」
リシェルの瞳に涙が滲んだ。
「だから……。国を守る力も、お前を守る力も、全部失う。俺はただの、しょぼくれた中年になる」
「……」
「お前の言う"おっさん"だ。嫌なんだろ? "おっさん"と結婚するのは。それよりも、今のまま願いを叶えずに、保留したままにしてはどうだ。お前の寿命が尽きるまで、俺はこの世界に留まって、お前やこの国を守り続けるから。あるいは、もしまだ他の願いがあるなら……」
「――バカにしないでください」
透き通る声が、俺の胸を貫いた。
リシェルは一歩、にじり寄るように歩み出た。白銀の髪が揺れ、その瞳がまっすぐに俺を射抜いていた。
「……バカにしないでください」
もう一度、同じ言葉を繰り返したが、先ほど違い、その声には涙が含まれていた。
「どれだけの思いで、この十年を生きてきたか。あなたに出会った、あの日の記憶を――ただの子どもの戯れとして、忘れられていたのだとしたら、それでいい。ですが!」
リシェルは胸元に手を当てた。その指先がわずかに震えているのは、怒りか、哀しみか、それとも恐れか。
「"白狼"としてのあなたを、わたくしは誇りに思っています。わたくしやこの国を陰ながら守ってくれていたことも知っています。感謝しています」
取り繕った言葉ではなく、まっすぐな言葉だ。感情のままに、気持ちを伝えようとする、気持ちの良いほどに純粋な言葉だ。
「でも、私はそれを求めていたわけではない。十年前、私が星環の門を開いたとき、あなたに求めたのは……力じゃない。"いっしょにいてほしい"という、願いだけ」
『けっこんして!ずっと、いっしょにいて!』
十年前の彼女の叫びが、俺の脳裏に再生された。そう言えば、そう願っていたな。結婚っていう部分だけに意識が行っていた。
「まさか、もふもふの毛並みに惹かれてたんじゃないだろうな?」
「否定はしません」
「しないか。もう二度と、あの姿には戻れないんだぞ?」
「ええ。正直、"おっさん"の髭面には若干の抵抗がありますけど……まあ、我慢します」
「ちょっとくらい傷つくって分かって言ってるよな、それ」
「もう私は、恋に恋してた子どもじゃありません。美しい部分だけじゃなくて、あなたの情けないところも、欠けたところも――全部含めて受け入れる覚悟はあります」
「そんな壮絶な覚悟で結婚されるとは思ってなかったぞ、俺」
「だから、"白狼"でなくなるというのなら、どうぞ。私のために、すべてを失ってください。……そのかわり――」
リシェルは、俺に抱き着き、俺の胸に顔をうずめながら、切なそうな声で続けた。
「あなたも、私のすべてを受け取ってください。力も、誇りも、地位も名前も……そうして、並んで歩いてください。共に、同じ高さで」
沈黙が、降りた。
そして、グレオスはわずかに笑った。皮肉でも諦めでもなく、ただ、心の底からあふれた、静かな笑みだった。
俺は、リシェルの肩を持ち、リシェルをその場に留めて、一歩下がる。
「いいだろう、其方の願い、叶えよう。俺はお前と結婚する」
:: 一人の少女が、運命に言葉を投げた。
:: 視線は変わり、語るのは――リシェル。
契約の誓句が、最後の音節まで紡がれた瞬間だった。
——来る。
リシェルの胸に、それは確かな直感として落ちてきた。
まるで大気そのものが息を潜めたかのような静寂。時が止まったかのような感覚の中で、彼女はただ、彼を見つめていた。
天蓋のない地下儀式殿に、突如として光が差し込んだ。
地の底から天へと貫く、一本の光の柱。
蒼く、白く、まばゆいほどに清らかで、あまりに神聖で、思わず息を呑むほどの威厳を放つそれは——誓いの受理、そして審判の印だった。
光は水のように揺らめき、碑文の刻まれた石盤を包み、やがてグレオスとリシェルの間を橋のように結んだ。魂と魂が何かに絡め取られる感覚。
目には見えないその力に、リシェルはただ、心を預けた。
「——願いは、受理された」
声ではなかった。けれど、それは確かに響いた。天の宣言。神の言葉。世界の根底から響く、抗えない通達。
そして——。
「……っ、が……!」
彼が、崩れた。
その瞬間、リシェルの心臓が音を立てた。
鋭い痛みとともに、彼の異変を感じ取る。光が彼の内側から溢れ出すように、魔力が抜け落ちていく。
その身を包んでいた神のごとき存在感が、剥がれ落ちていく。
「グレオス……!」
駆け寄りながら、リシェルは祈った。心の底から、誰かにすがるように。
彼が膝をつく。顔を覆い、苦悶の声を漏らす姿は、かつての荘厳さの欠片もない。
ただ、怯える一人の人間。無防備で、脆くて、助けを求める声にすら力がない。
「リ……シェル……!」
その呼びかけに、リシェルの胸がきしんだ。迷わず、彼の肩を抱きしめる。震えていた。こんなにも……彼が、怖がっているなんて。
「ごめんなさい……これほどの苦しみだったとは、思わなかった……!」
彼の苦しみが、自分の身体を通して伝わってくる気がした。胸が締めつけられるような痛みと、底知れぬ恐怖。それでも、リシェルは言った。
「でも、でも……わたくし、あなたと生きたかったの。どんな姿でも……わたくしがいるから。わたくしが、あなたを守るから!」
彼が言ってくれた言葉を、今は自分が返す番だった。
彼が人の姿になることを、受け入れるだけでは足りない。自分が支えるのだと、彼の代わりに立ち上がるのだと、リシェルは決意する。
「怖くていい。あなたが感じる恐怖も、痛みも、全部、わたくしが一緒に感じるから!」
その言葉を口にしたとき、リシェルの中に迷いはなかった。涙は止まらなかったけれど、心は揺れなかった。
そっと彼の顔を胸に押し付ける様に抱きしめる。リシェルに出来る精一杯の癒し。それでも震えが止まらない。
「見て、グレオス……わたしを、ちゃんと見て……」
震える顔を両手でやさしく持ち上げ、その瞳をのぞき込む。そこには、神でも女王でもない、一人の女——リシェルがいた。
「あなたがどんな姿になっても、変わらない。強くても、弱くても……神でも、人でも……あなたは、あなた。わたくしが惚れた、世界でたったひとりの人よ」
自分でも信じられないほど、素直に言葉がこぼれた。甘くも、切なくもあった。でもそれ以上に、真実だった。
「今は立たなくてもいい。泣いても、怖がってもいい。でも……お願い。わたくしのそばにいて。あなたが立ち上がれるまで、わたくしが傍にいるから。わたくしが……あなたを支えるから」
額を寄せる。震える彼に、静かに呼吸を合わせるようにして、そっと囁いた。
「あなたがいてくれたから、わたくしは今日まで戦ってこれた。だから今度は——わたくしが、あなたの戦う理由になる。信じて、グレオス。あなたは、ひとりじゃない」
——その瞬間、彼の震えが、ふと止んだ。
恐怖はまだあるだろう。失われた力の空虚は、消え去らない。けれど今、そこに差し込んだのは、確かな光。
リシェルという名の、柔らかで、温かな、揺るがぬ光だった。
そして彼は、ゆっくりと顔を上げた。
滲む視界の中に映ったのは、涙をこぼしながらも微笑む、リシェルの顔。美しく、強く、そして何より優しいその笑顔は、誰もが恋をするだろうと思えるほどだった。
「ありがとう、リシェル」
その声に、彼の魂が戻ってきたことを、リシェルは確かに感じた。
彼を抱きしめる。まるで、壊れやすい宝物を抱くように、全身で守るように。
——それは、女王の抱擁ではなかった。
一人の女が、一人の男を、心から愛し、支えようとする、真実の抱擁だった。
そしてそれは、誰よりも深く、永遠にほどけることのない、契約を超えた絆の証だった。
:: 二人は答え合わせをしました。
「ねえ、グレオス。あなた、本当に"力"を失ったの?」
「君はどう思う?」
「……少しは残ってる、って気がする。わたくしが見ることが出来る魔力の流れは、この世界の魔力ではないように見える。違和感があるっていうか」
「鋭いな。でも、確かに変わったよ。あのときのように、世界を焼き尽くすような力はもうない」
「そう。それは徐々にこの世界の魔力に変わっていくの?」
「さあ、どうだろうな。時間が経ってみないと、俺にもわからないが、まあ、思ったより不便してないよ」
「力を失った直後は怯えてたくせに」
「それは言わない約束だろ。涙も凍り付くような極寒の地に、素っ裸で放り出されたみたいなもんだ。そりゃ、震えもするさ」
「……まあ、元気になってよかったわ。力も失って、しかもずっと怯えてる"おっさん"のままだったら、扱いに困っただろうし」
「何気に酷いこと言ってるからな?」
「でも、安心して。決して捨てたりしないわ。拾った者の責任は心得てるから」
「棄て犬を拾ってきたみたいに言わないでくれ。それに君にとっておきの情報もあるぞ」
「え。なに?」
「狼にもなれるようだ。前のように力に満ちた姿ではないが、しかし最低限の自己同一性を――」
「ほんと!?なってみて!」
(狼になる。ただし、小型犬程度の大きさしかない)
「きゃー!かわいい!なにこれ!なにこれ!私が願った以上に願いが叶った気分よ!」
(もみくちゃにされながら、まあ、喜んでるならいいかと、達観した表情を浮かべている)
「カリオス帝国から、レオナルト・カリオスの引き渡し要請が来ると思って身構えていたんだけど――」
「来なかったのか?」
「カリオス帝国は内部崩壊したみたい。第七王子がクーデターを起こしたけど、中途半端に成功して、泥沼の権力争いの真っ只中よ」
「そもそもが、肥大化した自国の派閥を一つにまとめるための旗印として、守護獣"白狼"を欲したようだからな。十年前と何も変わらない」
「え。どういうこと?」
「なんだ。マティルダから聞いてないのか?まったくあのババアは、いつまでもリシェルを子ども扱いするのが悪い癖だな」
「それは追々マティルダを問い詰めるとして、十年前の侵略戦争にも帝国が関わってるの?」
「関わってるもなにも、裏で操っていたのがカリオス帝国だ。そして、欲したのは国じゃない、守護獣"白狼"だ」
「……やっぱり。薄々は思ってたことではあるの。でも、確信はなかった」
「だが、君が先に俺を呼び出してしまった。前女王は予てより"パワーバランスの破綻を招くような願いのために、門は開かない"を公言していた」
「そうね、お母様は神に頼り国を作ることはしたくない、って言ってたわ」
「だから、帝国は、侵略戦争を仕掛けても、決して守護獣"白狼"は呼び出さないだろう、と言う思惑があった」
「じゃあ、わたくしの行動が、帝国にとっては想定外。この国を救ったことになるの?」
「ああ。彼らは勘違いした。『既に門は開かれ、守護獣"白狼"を呼び出し、願いを叶えた』と。だから慌てて撤兵した」
「……皮肉な話ね」
「その後、君の国が"聖なる守護者"の選定を行うと発表したことで、帝国は焦った。『今の女王は放っておけば守護獣"白狼"を呼び出してしまう』と」
「すでに呼び出してたんだけどね。十年前のことは、お母様が門を開いて願いを叶えたってことで公式発表したから。それで、レオナルトを送り込んできたんだ」
「ああ」
「……知らずに踊らされていた王子。同情しないけど、哀れね」
「ねえ、グレオス。マティルダはあなたのことを知っていたの?」
「……それは俺も考えた。知っていなくては、町の雑用屋でしかない俺に依頼はしないだろう。だが、どうしてばれたのか、未だにわからん」
「わたくしも。だって、十年前にあなたを呼び出したこと、誰にも話してないの。……唯一、お母様にだけ」
「前女王は公には『自分が契約した』と発表したんだろ」
「ええ。それは私を守るためでもあるし、この国を守るためでもあるの。守護獣"白狼"の存在は、侵略の抑止力にもなるから」
「まあ、俺の予想では、前女王が、君を託してマティルダに話したのかもしれないな。そのうえで、十年前に町にふらっと現れた俺に行きついた」
「それが一番ありそうね」
「それにしても……結婚してみて気づいたの」
「ん?」
「わたくし、"おっさん"と結婚なんて絶対無理って思ってたのよ。汚い印象があるし、話も合わないだろうし、面倒だし、くさそうだし」
「……随分な言われようだな。特に最後の」
「でもね、一緒に生活してみると、意外に悪くないって思えたわ」
「ほう?」
「朝は早起き、愚痴は聞き役に徹して、人間関係の調整が上手、町に出れば子供に好かれてる。あと、わたくしが疲れてるとき、黙って背中を撫でてくれる」
「それは"おっさん"は関係なくないか?当たり前の事しかしてない」
「あなたにとってそれが自然だというのは、もっと誇っていいと思う。もしこの国の貴族や、それこそレオナルトと結婚してたら、気が休まる時が無かったと思う」
「そりゃどうも」
「なにより、あなたって透明なの。無欲っていうか。裏がないっていうか」
「欲はあるさ。人間になったことで、腹が減ってしようがない」
「……食べ物の話じゃないわよ、もう」
「でもな、君と一緒に食べるととくに美味しく感じる。朝に一緒に食べるスープやパンがなければ、生きていける気がしないんだよ」
「そうね、私も一人で食べる冷たい朝食にはもう戻りたくないかな。あなたの鼻が利くから、毒味はなくなったもの」
「ああ、まかせておけ……。君の笑顔を見ると腹の減りも忘れる。いや、やっぱり腹は減るか」
「どっちよ……もう、ほんと"おっさん"ね」
「君がそう言うたび、妙に安心する。不思議なもんだな。昔は"おっさん"って言われたら、ちょっとはへこんだんだが」
「今は?」
「君にだけは、言われても悪くない。むしろ、ちょっと嬉しいくらいだ」
「……変な人」
「だが君は、その変な人と一緒にいることを選んだ」
「ええ。きっかけはどうあれ……。今はちゃんと、あなたを選んでる。毎朝、あなたと暮らすって決意を新たにしてるの」
「毎朝、か」
「ええ。明日も、あさっても、きっと飽きることはないわ。"おっさん"って、味がしみるのに時間がかかるから」
「"漬物"みたいに言うな」
「でも美味しいのよ、あなたって」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのか?」
「ええ。わたくしの"守護者"として、最高の"漬物"よ」
「じゃあ、君のために今日もじっくり漬かっておくとしよう。背中でも撫でながら」
「ん。お願い。今日はちょっと疲れたから」
(すっ……と肩にまわる腕。静かに寄り添うふたり。外では夕暮れの風が、木々の間をさらさらと抜けていった)
「……ありがとう、グレオス」
「こちらこそ、リシェル」
こうして、ふたりのやり取りは静かに夜へと溶け込んでいきます。