転生して二度目の人生を与えられたので、一日一万回感謝の婚約破棄をした転生者のお話
この世界に転生して、彼が最初にしたのは「感謝」であった。
一度死んで、命あることの素晴らしさを思い知った彼には、五感で感じ取る全てが尊い。
たとえ、かつて読んだ漫画に登場する悪役「イザク・ネロー」に転生したとしても、彼の感謝の心は微塵も薄れることはなかった。
原作のイザクは、ストーリー序盤で主人公「ハンナ・イェーガー」に婚約破棄を告げる。言うなればそれは、天に定められた役割だ。
二度目の人生を与えてくれた「神」への、限りなく大きな恩。自分なりに少しでも返そうと思案し、遂に思い立ったのが── 感謝の婚約破棄!
気を整え、拝み、祈り、構えて、婚約破棄を唱える。
一連の動作を一回こなすのに当初は5〜6秒。
日常生活の中、少しでも空いた時間があれば婚約破棄を唱え、時には夜通しで行う日々。
彼が青年に差しかかる頃、異変に気づく。
一万回婚約破棄を唱え終えても、日が暮れていない。
幾年が経ち、完全に羽化する。
感謝の婚約破棄一万回、一時間を切る!!
かわりに、祈る時間が増えた。
†
ネロー家の屋敷の大広間で開かれた、ハンナ・イェーガーとの婚約を祝うためのパーティー。両家の関係者が大勢集い、親睦を深め、或いは腹の内を探り合う場。
しかし、イザクにとっては、婚約破棄を捧げる一世一代の大舞台であった。
費やした時間も、懸けた執念も、全てが常軌を逸している。それでも、イザクの精神状態は、凪いだ水面のように落ち着いていた。
浮き立つことも、淀むこともなく。いっそ、普段となんら変わりない足取りで、ハンナの方へと歩みを進める。
「どうかしましたか、イザク様?」
「ハンナ・イェーガー」
立ち止まり、ハンナの目を見据える。
たったそれだけで、パーティー会場を異様な緊張感が支配し、部屋中が静まり返る。
生きる意味。命あることの喜び。二度目の人生を与えてくれた神を始めとする、今日までの自分を形作ってくれた全てに捧げる感謝。婚約破棄を告げなければならない、ハンナへの罪悪感。それら全てを乗せ、告げる。
「あなたとの婚約を破棄します」
静寂の中で垂らされた、一滴の雫のように。その声は静かに、されど確かに、全員の耳に届いた。
一見すれば、何の変哲もない婚約破棄の場面だ。
しかし、この場にいる全員が、イザクの婚約破棄の異常性を認識していた。
「気のせい、だよな……」
「言葉が、後から……」
声を聞くよりも先に、婚約破棄をする意思が全員の脳裏に浮かんだ。まさに、イザクの婚約破棄は声を置き去りにしたのだ。
次の瞬間、ハンナが膝から崩れ落ちた。
婚約破棄をされた失意で、立っていられなくなったと考えるのが普通だ。
しかし、他でもないハンナによって、それは否定された。
「女神様が……!」
ハンナは感動の表情を浮かべ、静かに涙を流した。それはあたかも、敬虔な信徒が、神を目の当たりにしたように。
「婚約破棄を、受け入れます」
ハンナは姿勢を正し、深々と頭を下げた。
仮初の婚約破棄の理由を述べようとしたイザクは、その様子にただただ困惑するしかなかった。
「是非私めを、弟子にしてくださいませ……!」
「…………何の?」
怪物が、誕生した。
†
「確かにあります」
「あり得ない? いえ、あります」
「以心伝心ってありますよね。言葉がなくても、互いに意思疎通ができる状態。感覚としては、それに近いです」
「イザク様の視線、息遣い、あらゆる所作から、婚約破棄の意思が伝わりました。言葉よりも、ずっと明確に」
「婚約破棄をされて、恨んでいないのかって?」
「恨んでなどいませんよ。婚約破棄の意思と一緒に、イザク様の想いも伝わりました。覚悟も、感謝も、罪悪感も。……聞き間違いではありませんよ。イザク様は感謝していたのです。私の存在に、或いはこの世界の全てに」
「人の心は鏡です。好意には好意を、敵意には敵意を返します。イザク様の大き過ぎる感謝に触れて、私の心にも感謝が芽生えました。恨む気なんて、なれませんよ」
「ただ…… イザク様が婚約破棄をした本当の理由は、今でも分かりません。表向きには、私のような地位の低い女と婚約したくなかったと言っていますが。真実を知るのは、おそらく本人のみでしょうね」
「気にならないと言えば嘘になりますが、知らないままでも構いません。一番大事なことは、確かに伝わっていますから。これ以上は、意味のないことです」
「予想するとしたら? そうですね、色々と考えましたが…… 私の中で一番しっくり来たのは、神のお告げを受けたという理由ですかね。……笑わないでください。これでも、真剣に考えたんですよ? 普通の理由ではないのは確かですし、我々には理解の及ばない領分なのでしょう」
「……」
「……ええ、言うか言うまいか、迷っていました。あまりにも荒唐無稽な話なので。今でも十分、そうかもしれませんが」
「貴方は神の存在を感じたことがありますか?」
「私はあります。この目で確と視ました。イザク様の背後に降臨なされた、女神様の御姿を。何よりも美しく、威厳に満ちておりました。……やはり、信じられませんか。無理もありませんが、直に理解しますよ。あなたも、イザク様に婚約破棄をしてもらうのでしょう?」
†
イストゴルド王国。その国は、新たな国王の就任を契機に、強国に生まれ変わった。隣国を侵略し、現在進行系で領土を拡大している。
その威容を誇示するかのように、首都フェイズィーには、巨大な宮殿が建っている。
宮殿の一室、謁見の間にイザクはいた。
数多の護衛の騎士の視線に晒される中、玉座に座す女王「メルム・エムルス」に対し、頭を下げて跪く。
招かれた身ではあるが、メルムの許しを得るまでは、顔は上げられない決まりとなっている。破れば最悪、処刑すら有り得る。
メルムはイストゴルド王国始まって以来の傑物と称されており、現在のイストゴルド王国の躍進も、彼女の存在なしでは成し得なかったと評される。
「面を上げよ」
「は」
顔を上げると、メルムの表情には冷酷な興味が表れていた。そう、まるで虫を弄ぶ子供のように。
「噂には聞いている。貴様に婚約破棄をされた者は、神を見るらしいな」
今、世界はその噂で持ち切りになっている。最初こそ与太話としか思われていなかったが、実際に婚約破棄をされた者は、口を揃えて事実と語るのだ。噂は日に日に、信憑性を増していった。
その真偽を確かめようとして、更に多くの者たちが婚約破棄を求めた。ある者は興味本位で、ある者は信仰心の篤さ故に。無論、本当に婚約するのではなく、ごっこ遊びの延長としてだが。
イザクは求められるままに、婚約破棄をした。誠心誠意、全身全霊で。
「余は神など信じていない。だが、興味が湧いた。神の御業と崇められる貴様の婚約破棄に、どんな秘密が隠されているのか」
メルムは、イザクに向けて指差した。ただそれだけの所作に、その場に縛り付けるような重圧がある。
「貴様を招いた理由はただ一つ。余に婚約破棄をしてもらうためだ」
彼女の興を削いだ瞬間、命を落とす。メルムの言葉には、そう確信するだけの凶兆を孕んでいた。
「かしこまりました。誠心誠意、全身全霊で臨ませていただきます」
傍若無人な要求だが、それでも即座に了承した。
イザクが婚約破棄をすればするだけ、イザクの信じる神を信じ、感謝の祈りを捧げる人間が増えた。
意図せずとも、そのような結果となる。だとすればこれは、神の思し召しだ。
イザクは生涯、婚約破棄をし続けることを信念とした。たとえそれが、命懸けになろうとも。婚約破棄をされた人間が増えれば増えるだけ、恩返しになると信じて。
「ほう」
メルムは凶悪な笑みを浮かべた。果たして、その使命感を帯びた表情は、死の間際に恐怖で歪むのだろうか。
「貴様に婚約を申し込む」
「ええ、謹んで承りましょう」
瞬間、イザクの雰囲気が変わった。
その変化に気づいたのはメルムのみである。
イザクの一挙手一投足を見逃すまいと、己の体感時間を極限まで圧縮し、時を止めたに等しい状態で注視する。
「──!」
刹那の狭間で、メルムは確かに見た。
イザクは神に祈るように、胸の前で両の掌を合わせた。それらの動作は緩慢かつ、この上なく流麗であるように感じたが、否。一瞬にも満たない時間で行われたことに、疑いの余地はなく。
その祈りに呼応するかのように、イザクの背後に女神が降臨する。光輝溢れる、美しき御姿。信仰心が皆無のメルムですら、目を奪われる。
理解した。イザクの婚約破棄を受けた者たちは皆すべからく、この神々しさに魂を灼かれたのだ。
「貴方との婚約を破棄します」
静寂が訪れる。それはまるで、嵐の前のような不穏を孕んでいた。
「……くくっ、ふふふ、はははははは!」
メルムは笑った。冷静を通り越し、冷徹とすら言える性格からは考えられないほど、高々と、荒々しく。
「誓約書を寄越せ」
メルムはひとしきり笑い、玉座の横に立つ側近の男にそう命じた。
メルムの意図が読めず、側近の男は一瞬固まる。
「かしこまりました」
それでも、命令に背くわけにはいかない。命令通りメルムに誓約書を渡す。
この誓約書は、記載された内容を必ず守らせる効力を持つ。それはメルムだろうと例外ではなく、もしも反故にするようなことがあれば、イストゴルド王国の国際的信用は失墜するだろう。
何故今、そんなものが必要なのか。その疑問に答えるかのように、メルムは言った。
「イザク・ネロー、其方に正式な婚約を申し込む」
「!?」
その発言に最も動揺したのは、側近の男だった。
確かに誓約書を以てすれば、正式な婚約となるだろう。記載してしまえば最後、反故にはできないのだから。
「お、お待ちください、王! 伴侶に迎えるなどと…… このような男、王に相応しくありません! どうかお考え直しを──」
瞬間、メルムの拳が、側近の男を吹き飛ばした。
側近の男は壁に衝突し、そのまま床に倒れ伏す。衝突した壁が崩壊するほどの威力。痛みのあまり、起き上がることさえできない。意識を保つのがやっとだ。
自らの手で痛めつけた側近の男に、メルムは目もくれない。今や、彼女の関心は全て眼前の男── イザク・ネローに向いている。
「見縊っていた、其方の婚約破棄を」
メルムの胸中を支配するのは、惜しみのない賞賛であった。
「5年、或いは10年、婚約破棄のみに没頭したのだろう。理では決して辿り着けない、狂気の産物。限界を踏破し、それでも尚歩みを止めなかった先が、其方という存在だ」
その言葉を聞く側近の男は、針の筵にいるかのような精神状態だった。
彼にとってメルムは、唯一無二、絶対的な存在。まさに神に等しい。
故に、一介の貴族に過ぎない男がメルムの心を動かすなど、到底受け入れられない事実だった。
今の状態では、弱々しく目を瞑ることしか許されない。もしも身体の自由が利くのなら、鼓膜を破るほどの勢いで耳を塞ぎ、外部の情報を一切遮断しただろう。
「其方の婚約破棄に神が宿ることに、最早疑いの余地はない。なればこそ──」
瞬間、メルムの纏う気配が一変する。
「其方を屈服させることは即ち、神をこの手中に収めるも同義! 余の力を示すのに、これ以上相応しいものはあるまい!」
暴君。しかしながら、世界を統べるに足る圧倒的な覇者のそれ。
側近の男は、悲鳴を上げる体を無視して跪いた。己の浅識を恥じ、そして、王たるの理想の先を体現するメルムに敬意を表して。
「返答を聞こう」
「……大変、光栄な申し出です。しかし私は、誰であろうと、どんな理由であろうと、己の信念を貫くのみ。それは変わりません」
「ククッ、そうであろうな。それでこそだ」
メルムが玉座から立ち上がる。
「生半可はしない。する意味がない。余が最も信を置く才── 暴力によって、其方を屈服させよう」
メルム・エムルス。彼女が恐れられている理由は、ひとえにその戦闘能力の高さにある。
「骨の2、3本は覚悟してもらうぞ」
メルムの踏み込みは、一瞬にしてその身を必殺の間合いまで運んだ。
まずは右腕を獲ろうとした瞬間、確かに脳裏に浮かんだのは、婚約破棄の意志──!
「貴方との婚約を破棄します」
「!!!」
弾かれるように、イザクから距離を取る。
理屈ではない。本能によって、足が動いた。動かされた。
婚約破棄をするイザクは、まさに聖域。触れてはならない。穢してはならない。侵してはならない。戒律にも等しい認識が、心に植え付けられている。
ならば、どうするか──
「──行くぞ」
再び距離を詰め、イザクの右腕に手を伸ばす。
一瞬にも満たない、されど確かな差。現状では超えられない、高い壁。手が届くよりも先に、イザクの祈りが成される!
「貴方との婚約を破棄します」
再びイザクから距離を取る。強固な意志で突き進もうとしても、身体が退いてしまう。やはり、強行突破は不可能。
しかし、それも想定の内。無意味に思える攻撃は、勝ち筋に繋がる礎である。
メルムの戦術は至極単純、攻め続けることであった。
この状況を長く続け、イザクの疲労を極限まで蓄積させれば、集中力が途切れる瞬間は必ず訪れる。そこに痛みという楔を打ち込み、心を折ればいい。
しかしそれは、途方もなく長い道のりだろう。強靭な、そして狂気的な精神力故に、イザクはこの境地に至ったのだから。
こちらが先に折れてしまっても、おかしくはない。
(だが── 成し遂げてみせよう! 余にはそれが叶う!)
それは、メルムが生涯で初めて味わう── 強敵に立ち向かわんとする、昂揚であった。
「くくく」
初めての感情がとめどなく湧き上がり、笑みとして溢れる。
少しでも気を抜けば、婚約破棄を受け入れてしまいそうになる。一歩でも足を踏み外せば転げ落ちるであろう、敗北の淵にいる状況。
(狂気の聖者よ、頼むぞ)
今はただ、その緊張感が心地良い。
「ふはははははははは!!!」
感覚が、心が、急速に研ぎ澄まされていく。
更に強く、速く、鋭く、イザクの懐に飛び込む。
(頼むから、この昂揚が収まる前に、精魂尽き果ててくれるなよ?)
メルムの手が届くよりも先に、イザクは祈る。己の信じる神に祈りを捧げ、婚約破棄を念じる。
実のところ、今目の前で成される現象── 婚約破棄をした途端、メルムが飛び退く理由を、全く理解していない。
それでも婚約破棄をするのは、それ以外の術を知らないから。回避や反撃、他の選択肢など、最初から存在しない。
だが、イザクもまた── この状況を楽しんでいた。
一目で実感した。メルムと自分とでは、それこそ生物としての格が違う。一瞬でもその手に触れられれば、砂の山を崩すが如く、己の肉体は破壊されるだろう。
唯一メルムに勝る武器は、婚約破棄のみ。
しかし、その武器を幾度も打ち込んだが、メルムの心が揺らぐ様子は微塵もない。それどころか、動きのキレが段々と増していくようにすら感じる。
(いつからだ……?)
想いを馳せる。これまで成した、婚約破棄に。
(相手の婚約を待つ様になったのは)
どんな婚約であろうと、誠心誠意、全身全霊を以て婚約破棄をした。そこに嘘偽りはない。
ただ── 相手は当然のように、婚約破棄を受け入れた。
(一体いつからだ。婚約破棄された相手が頭を下げ、差し出してくる両の手に、間を置かず応えられる様になったのは?)
違和感はあった。しかし、いつしかそれを、至極当然の帰結として納得するようになった。
(そんなものじゃあ── ないだろ!!)
祈る。祈る。ただ祈る。誠心誠意、全身全霊── そしてこの、ちっぽけな命を燃やして。
(俺が望んだ婚約破棄の極みは── 敗色濃い難敵にこそ、死力を以て臨むこと!!)
自然と、イザクの顔にも笑みが浮かんだ。
(感謝しよう。メルム・エムルスと出会えた── これまでの、全てに!!!)
†
幾度となく繰り返される、暴力と婚約破棄の応酬。
先の見えない暗闇の中、か細い糸の上を競って駆けるようなもの。自分が足を踏み外すか、相手が先に糸を渡り切れば、即ち負けを意味する。
ただ、どちらも速度を緩めない。それどころか、互いに引き合うように加速していく。
既に数百数千と婚約破棄が重なり、メルムの心は着実に削れているだろう。
しかし──
「──」
右腕に焼けるような激痛が走る。
赤黒く腫れ、不自然な方向に曲がる右腕を見て、骨を折られたことを理解する。
脂汗が浮かび上がり、呼吸が荒くなる。
「終わりだ。その腕では最早祈れまい」
メルムの言葉に応じるように、小さく、しかし不敵な笑みを浮かべる。
左手のみで祈りを捧げる。その所作は精彩を欠くことなく、むしろ今日一番に流麗ですらあった。
「貴方との婚約を破棄します」
腕の一本程度では、婚約破棄を取り下げる理由にはならない。
言葉にはせずとも、メルムにそう伝えるには十分過ぎる行動であった。
「……全く以て感服する。気力が些かも衰えていないのは驚異だ。だが、其方が腕を折られたのは半ば必然。極僅かながらも、集中力の弛緩が招いた結果だ」
以前のメルムなら、気づくことさえ叶わなかっただろう。この戦いが、神眼の如き洞察力をメルムに齎したのだ。
「試してみるか。その折れた腕の痛みを抱えながら、極限とも言える集中力をどこまで維持できるか。加速する余の動きに、いつまで渡り合えるか」
メルムは静かに、イザクの左腕を指差した。
「次は左腕を貰う」
それは挑発などではなく、確定した事実を告げるかのように、淡白な口調だった。
メルムの姿が掻き消える。イザクもまた、痛みを凌駕するほどの集中力で祈りを捧げる。
そこからの攻防は、時間にして1分も満たなかったが、互いの力量、精神の高揚と相まって── 千を超える婚約破棄となって、両者の間に無数の火花を生んだ。
そして、その瞬間は訪れた。
僅かに顕れる精神の弛緩。集中力の欠如、不注意と呼ぶにはあまりに乏しい「ゆらぎ」。
圧倒的な自我を盾に、イザクの婚約破棄を受け続けることでメルムは、その先に見える幽かな光を探し出し、そして── たどり着いた。
「──ッ!!!」
拳を当て、イザクの右腕を「破壊」する。
精神的消耗に加え、決定的な肉体の損壊。驚異的な精神力で身体を支えたイザクだが、ついに限界が訪れ、膝をつく。
「これで気は済んだであろう。さあ、受け入れよ。余との婚約を」
労いであり、いっそ慈悲とすら言えるメルムの勧告に、イザクは今日何度目か分からない微笑みを浮かべた。
「メルム・エムルス」
──腕がなければ、祈れないとでも?
満身創痍、緩慢であるはずの足取りで、手を伸ばさずともメルムに触れられる間合い── 零距離に行き着く。
──祈りとは、心の所作。
イザクが奥義と自覚し、唯一名付けた婚約破棄「零」は──
──心が正しく形を成せば想いとなり、想いこそが実を結ぶのだ。
有無を言わさぬ慈愛の抱擁で以て、対象を優しく包み込み、渾身の全生命力を込めて耳元で囁く──
「貴様との婚約を破棄する」
無慈悲の、婚約破棄である。
†
「ハァ…… ハァ……」
床に崩れ落ちたのは、イザクだった。
「零」の代償は大きく、立つことさえ至難。正真正銘、これ以上の打つ手はない。結果を見届けるため、意識を繋ぐのが精一杯だ。
「まさに、個の極地。素晴らしい婚約破棄であった」
その言葉を聞き、辛うじて顔を上げる。
「零でさえも……」
理解する。メルムの目を見て。その目に宿る、孤高の輝きを見て。
メルムの心に打ち克つには至らなかったのだ。
「其方の敗因は、余の最も優れた才が暴力であることだ。どれだけ婚約破棄を極めようと、それは所詮、形なき意志の力。暴力という、この世界の至る場所にありふれ、猛威を振るう力に、勝てる道理はないのだ」
「ッ──」
まだ、まだ終わってはいない。いくらメルムでも、「零」による影響があるはずだ。あと一押しで、婚約破棄を受け入れるかもしれない。
祈り、婚約破棄をしようとした瞬間、本能により口を噤む。
「よせ。先の婚約破棄は、おそらく其方のほぼ全ての生命力と引き換えに放ったもの。両腕の内出血も治まってはいまい。これ以上婚約破棄をすれば、死ぬぞ」
死の瀬戸際にいることは、メルムに言われるまでもなく強く感じている。
イザクの婚約破棄は、神を降ろす故に多大な生命力を消費する。次に婚約破棄をすれば、辛うじて命を繋ぐ生命力さえ失くすだろう。
自ら命を投げ出すなど、与えられた二度目の生を冒涜する行為。決して赦されることではない。
だが── いや、だからこそ。
覚悟を決める。目を瞑り、最後になるかもしれない祈りを捧げた。
「貴方との婚約を破棄します」
ぷつりと。重大な何かが切れたかのように、イザクの身体は地に倒れ伏す。
あまりにも静かな幕切れ。メルムはまるで余韻に浸るように、イザクを見つめる。
「……愚かだな、自らの信条に殉じるか。だが、そうも愚直な生き様だからこそ、其方に魅せられたのだろうな」
彼女の顔に浮かんでいたのは、獰猛な笑みでも、残虐な笑みでもなく──
「天晴れだ、イザク・ネロー。生涯其方を忘れることはないだろう」
メルムはそれだけ言うと、出口へと足を進めた。
「其奴の遺体は丁重に弔え。余は…… 少し、外の空気に当たる」
護衛の騎士たちにそう言い残し、謁見の間を後にしたメルムは、黄昏に染まる中庭を独り歩く。
吹く風が、火照った体を冷まして心地良い。
束の間だが、黄金のように鮮烈な体験を、心に刻むように何度も思い返す。今はただ、誰にも邪魔されず、それだけに耽りたかった。
ふと差し込む夕日の眩しさに、思わず目を細める。
だからだろうか。視線の先に立つ人物が誰なのか、一瞬気付かなかったのは。
「よお、久しぶり」
見間違えるはずもない。イザク・ネロー。自ら命を絶ったはずの亡霊が、そこにいる。
「……馬鹿な」
「ふはっ! そうだな、大馬鹿さ俺は。おかげさまで元気ビンビンだよ」
死にかけていたのが嘘のように、イザクの全身には生命力が溢れている。
原理は不明だが、納得はできた。この眼が神眼と呼べる域まで昇華したように。魂の強度が飛躍的に高まったように。土壇場で覚醒することが、何故己のみの特権と言えようか。
一つ言えるのは、今のイザクは、以前とは明らかに違うこと。これからだったのだ、強くなるのは。
「正っ解っ!」
イザクは両腕を広げ、心底楽しそうに言い放つ。心を見透かしたように── いや、実際に見透かしているのだろう。
「あんたとほぼ同じだよ! 一つ違うのは、俺の場合は死闘だけじゃ殻を破るのに足りなかったってことだ!」
爆発的な成長を遂げたメルムに対し、イザクの成長は緩やかだった。
考えられる要因は二つ。
そこが成長限界だったのか。あるいは、メルムよりも高みに近いからこそ、次の段階に進む糧にはなり得なかったのか。
「確信はしていたさ、俺が求めるものは死線にある! ただ、こっちに戻れる保証は全くねェからさぁ! ハハッ、ははぁは! 初めて祈ったよ、婚約破棄のこと以外で! 死にたくありません、主よどうかお助けくださいって!!」
一種の躁のような状態で、言葉を捲し立てる。まるで踊るかのように、大袈裟な身振り手振りを添えて。
「死に際で掴んだ、婚約破棄の核心! お前の敗因は、俺の息の根を止めなかったことだ!」
イザクが姿を現した理由は、ただ一つ。決着をつけるため。
「……敗因? 勝負はこれからであろう」
そしてメルムにも、受けて立つ以外の選択肢はない。何度でも立ち上がるなら、その都度に叩き潰せばいいだけのこと。
「あ゛ー? そうか? そうだな。そーかもなぁ!!」
瞬間、メルムは駆けた。その疾さは、過去の最高速度を優に上回る。
以前であれば、全神経を張り巡らせて待ち構えていたであろう動きに対し、イザクは── あろうことか、目を閉じた。まるで神に祈るように。
瞬きすら命取りになる状況でなされる、正気を疑う愚行。それが最も強く、恐ろしい武器であることを、メルムは既に知っている。
限りなく停滞し、凍りついたと形容してもいい時間の中、イザクの目は静かに開かれた。
「あんたとの婚約を破棄する!」
メルムが気づいたときには、その身は宙に舞っていた。
どうにか体勢を整え、着地する。
いくら非現実的でも拭えない、物理的に吹き飛ばされたような感覚。本当に自らの足で跳び退いたのか、判別できない。
だが、真に脅威的なのは婚約破棄だ。今までの比ではないほど、心が、魂が揺さぶられる。
化物。それは、他人に対して初めて懐く印象であった。
だからこそ、どんな戦場を渡り歩いても、これ以上誉高い首は見つからないだろう。
これまでメルムは、一度たりとも殺意を以て攻撃していない。
手加減や油断などではなく、そうするのは至って当然のことだ。殺してしまえば、婚約どころではない。どんな愚図でも、納得する理由だ。
その認識を、改める。思えば、死人と婚約してはならないという法律なぞ、ありはしないのだ。
「殺す」
遠くの野山で、野鳥が一斉に飛び立つ。
一定の距離を保ちながら、イザクの周囲を駆け回る。何度も婚約破棄は受けられない。撹乱し、隙ができた瞬間、一気に獲る。
(申し訳ありません、主よ。俺は今、貴方の為に婚約破棄をしておりません。誰のためにも婚約破棄をしていません)
常人では足が竦み、まともに動けなくなるであろう殺気を浴びるイザクは、蕩けた顔で佇む。
(今はただただ、この世界が心地良い)
溢れ出る全能感は、痛みさえも掻き消す。折れた両腕を動かし、右手の人差し指で天を、左手の人差し指で地を指す。
「天上天下唯我独尊」
撹乱するまでもなく、今のイザクは大きな隙を晒している。
そのはずなのに、喉元に刃を突き付けられたような、嫌な予感が拭えない。
それでも、行くしかない。この好機をみすみす逃すようであれば、勝ちの目などない。
地面を強く蹴り、間合いに踏み込み── そして垣間見た。イザクの背後に降り立つ女神が、両手を合わせる姿を。それはまるで、イザクに祈りを捧げているかのようだった。
「あんたとの婚約を破棄する」
その言葉は矢となり、深く、鋭く、鉄壁の如きメルムの心を射抜いた。
足を止める。きっと、どんなに強い暴力を用いたとしても、同じ域には辿り着けないだろう。それほどまでの高みに、イザクはいる。
「余の負けだ、好きにしろ」
心が折れた── そう表現するには、あまりにも爽やかな気分だ。
こんなにも、こんなにも素晴らしい経験をさせてくれたのだ。もしもイザクが命を望んだとして、それを差し出すのも悪くない気分だった。
「……好きにしろ? 好きにしろ、だって!? ははっ、それならさ──」
イザクはまるで、子供のように朗らかな笑みを浮かべていた。
「またやろう! ジジババになった後でも、何度でもやろう!」
──そんな、運命の出会いとも言える日から、60年余りが過ぎた。
†
「イザク…… いるか……?」
「ええ、何ですか?」
「イザク…… 其方に婚約を申し込む」
「お受けいたします── が、申し訳ありません。婚約破棄させていただきます」
「ふふっ、そうか……」
「ええ」
「イザク……」
「何ですか?」
「結局…… 余は…… 其方を手に入れられなかったな……」
「何をおっしゃいますやら。諦めるなんてらしくないですよ」
「そうだな……」
「……」
「イザク…… いるか……?」
「ええ、もちろん」
「少しだけ…… 疲れた……」
「ほんの少し…… 眠る…… から」
「このまま、手を…… 握っていてくれるか……?」
「……」
「……イザク?」
「イザク……? いるか?」
「聞いてますとも。わかりました、こうですね」
「すぐ…… 起きる…… から」
「それまで…… そばにいて…… くれる…… か……?」
「何があっても、はなれません。ずっと、そばにいます」
「イザク……」
「何ですか?」
「ありがとう」
「こちらこそ」
「最後に……」
「はい?」
「名前を…… 呼んでくれないか……?」
「おやすみ、メルム」
「おれもすぐ、いくから……」
二度目の人生を、イザクは全力で駆けた。
後悔はない。未練もない。
ただ── まだ、やりたいことがあった。
二度目の生を授けてくれた神に感謝を込めて、婚約破棄を捧げる。自らの信念に誓い、定めた鉄の掟は、最期まで守られた。
では、死後の場合は?
全てから解き放たれ、自由になったとき、何をするのか真っ先に決めた。
気づけば、見渡す限り何もない、真っさらな空間で立ち尽くしていた。ただ、不思議と恐怖や、寂しさは感じない。
ふと、振り返ると── 永く、本当に永い付き合いのある女性が、そこ立っていた。穏やかな表情で、何かを待ち望んでいる様子だった。
これが妄想でないことを祈りながら、イザクは言った。
「不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
某漫画完結記念でもあります。