Chapter 7 qustiOned by cat
森の果ての分かれ道。にやにや笑いの猫が問いかける。
イカレた方か、イカレた方か。それとも家に帰りたいか。
君が行きたいのはどれなんだい?
Chapter 7 qustiOned by cat
口うるさい母親のいるあの家から逃げ出したくて、白兎についてきた。たとえここが不思議の国だろうと、イカレた世界だろうと、家に帰るよりかずっとましだ。
ドローレスの表情に、言葉に、チェシャー猫はにやにや笑いを消した。無表情になると本当に普通の猫と変わらなく見える。それを彼に言ったら、また大爆笑されそうなので言わないが。
「ふぅん……なるほどねぇ、お嬢ちゃんは随分と変わってるらしい」
「貴方に言われたくはないわ」
にやにや笑う喋る猫に変わっていると言われた。しかしドローレスのつっけんどんな言い返しにも、チェシャー猫はにやにや笑いを浮かべる。この猫は無表情になるか、笑うかしかないのだろうか。
「ここに来る『アリス』ってぇのは、大体が何にも考えてないもんだがね。だからこそこんなイカレた世界を楽しめるんだが」
「こんな所で楽しめるの? まぁ、美味しいお菓子はあるけれど、私の趣味には合わないわ」
大きさだって変わるし、と付け加えるドローレスに、チェシャー猫が再び笑う。
「大きさが変わってもアイデンティティが崩壊しないお嬢ちゃんも、けっこうな不思議だぜ? 大概、驚いて泣きわめくんだがね」
「そのくらいで泣くような子供じゃないわよ。私、もう12歳よ?」
ドローレスの言葉に、チェシャー猫は首を傾げたが、そう言えばそうだっけ、とにやにや笑いを広げた。
「あんたは二年も遅刻したんだっけね。ねぇ、……ドローレス」
「!!」
ドローレス。ここに来てからずっとアリスと呼ばれていた為、懐かしい気持ちに襲われた。そう呼ばれるのは酷く久しぶりだ、元々ドローレスとそのまま呼ばれることは少ない。母はローラと呼ぶし、学校の友達はドリーと呼ぶ。ドローレスと呼ぶのは、学校の先生くらいだろう。
「貴方は私を、アリスって呼ばないのね」
「お嬢ちゃんはアリスじゃない。アリスはアリス・リデル。お嬢ちゃんはドローレス、違うかい」
「えぇ、そうね。そう。私はドローレス、よ」
今までずっとアリスと呼ばれていた。名乗っても名乗らなくても、口々に皆が「アリス」と呼ぶ。だからいつの間にか、それも当然だと慣れてしまった。チェシャー猫風に言うなら、「馴染んでしまった」だろう。
アリス、アリス・リデル。それがフルネームなのだろうか。一体、誰なのだろう。
私が間違えられている本当の、本物のアリスとは、誰なのだろう。
「ねぇ、チェシャー猫。貴方たちの言うアリスって、一体誰なの? どうして皆、私の事をアリスって呼ぶの? アリスだって、知っているの?」
そうだなぁ、とチェシャー猫は変わらぬ態度でドローレスを見下ろす。縞模様の身体をしなやかに動かして枝から枝へと飛び移り、だんだんと降りて来た。尻尾をゆらりと揺らして、笑いながら言う。
「教えても、良いけどね。そうだなぁ、取引ってのはどうだい? お嬢ちゃんはおれに聞きたい事を聞く、その代わりおれはお嬢ちゃんにある事を教えてもらう」
「ある、こと? なにそれ?」
音を立てずに最後の枝から飛び降りて、ドローレスの傍にチェシャー猫が擦り寄る。見上げていた為忘れがちだが、今のドローレスは20センチ程、猫と向き合えば目線が同じになるくらいだ。
「ねぇ、お嬢ちゃん。お嬢ちゃんの最後の名前を教えてくれないかい?」
「最後の、名前?」
名前と言うと、ドローレスだが。最後の名前というと、ファミリーネームの事だろうか。しかしファミリーネームなど、聞いてどうしようと言うのだろう。首を傾げるドローレスに、チェシャー猫は顔を寄せた。ドローレスの掌程もある大きな金の眼が、ぎょろりと二つ見つめてくる。
「ロー、ローラ、ドリー、ドローレス。でもお嬢ちゃんにはもう一個名前が在るだろう?」
もう一つの名前。一番最後の名前。彼が呼ぶ、名前。
どっどっ、と心臓の音が煩わしい。耳の奥から、頭の中から揺さぶられるように鼓動が高鳴る。握りしめた掌が、じんわりと湿り気を帯びていく。身体の奥底から掻き乱されているかのような不快感が全身を襲った。貧血を起こしたよりもずっと熱く、寒く、キモチワルイ。
「……いいえ、ないわ。ないわよそんなもの」
「いいや、ある。なぁ教えてくれないかい? お嬢ちゃん、あんたの最後の名前、本当の名前は、何だい?」
顔を俯いても、覗き込むようにチェシャー猫は体勢を変えた。下から見上げる様に、ドローレスの視界いっぱいににやにや笑いの顔が広がる。ひっ、と情けなく息を呑んで、ドローレスは跳びのいた。
ドローレスの反応に、チェシャー猫はにやにや笑いを深くして、口の中で「ひひひ」と笑った。そこまでするならいっそ爆笑すれば良いのに、ワザと押し殺したようにひひひ、と笑う。その様は、心底気味が悪かった。
じり、と思わず一歩下がる。ドローレスが本気で走って逃げたところで、チェシャー猫から逃げ切れるとは思わないが。なにせ相手は猫なのだ、元の大きさであったとしても速さで叶うわけがない。
「……アリスについてはもう良いわよ。それより、道を教えてくれない? 私、どこかに辿りつきたいのよ」
「お嬢ちゃんが何処に行きたいかにもよるがね。あっちに行けば帽子屋がある。あっちにいけば三月兎の家があるぜ。ま、あいつらの事だから、どうせ三月兎の家でイカレたお茶会でもしてんじゃないかね。」
前足で器用に左右を示してチェシャー猫が答える。てっきり意地悪をして答えてくれないかとも思ったが、意外とすぐに答えてくれた。
右が帽子屋で、左が三月兎。帽子屋は想像が付くが、三月兎とは何だろう。兎は何月だろうと兎だが、三月兎は三月にしかいないのだろうか。しかし今は、確か初夏だったはずだ。
とりあえず、気になる三月兎とやらの所に行ってみよう。チェシャー猫の言い方では、両方がお茶会とやら三月兎の家に居るのかもしれないようだし。
くるりとチェシャー猫に背を向け、最後に、と一応お礼を口に出す。
「……教えてくれてありがとう。私、もう行くわ」
「そうかい、それじゃまたね、お嬢ちゃん」
また、と言う言葉に反論しようとドローレスが振り返ると、そこには誰もいなかった。きょろきょろと見回してみると、近くの枝がガサリと揺れた。深緑の梢の中で金色の輝きが二つ並んでおり、横にした銀色の三日月がキラキラしている。チェシャー猫がまたにやにや笑いだけいるのだ。
「……二度と、会いたくないわよ」
捨て台詞のようにそれだけ言い残し、ドローレスは三月兎の家へと歩き始めた。
サブタイトルは「猫からの問いかけ」。紫とピンクじゃないチェシャー猫です。話の核心に迫りつつも、肝心な事は云わない気がする。