Chapter 6 cLamor of pepper's haze
癇癪をおこした夫人は荒れる。
目前へと晒された、鍵のかかった秘密の所為で。
それは一体、誰のもの?
Chapter 6 cLamor of pepper's haze
近くまで行くと、どうやら平和的な展開は望めそうにないという結論に達した。眼の前のドアの奥からは、騒々しい喧噪の音に溢れている。食器の砕け散る音、耳に突き刺さる様な金切り声、赤ん坊のものであろう泣き声。
ドローレスはしばらくドアの前で立ち尽くし、呆然としていた。非日常的な冒険が、一気に妙な血生臭さの混じる現実的な何かになったのだ。どうしようか、と逡巡もする。見なかったことにして立ち去りたい気持ちでいっぱいだが、行くところなんて何処にもないのだ。
近づくと、表札が見えた。「公爵夫人の家」とだけ書いてある。夫人がいるのなら公爵も住んでいそうだが、この騒音だともしかしたら別居中かもしれない。
離婚間近の家に乗り込んでいく勇気は流石にない。しかし好奇心はあるし、何より他に行くところもない。ドローレスはしばらく迷った後、そっと、少しだけ見るだけ、とドアを細く開けて中を窺い見た。
最初に感じたのは、鼻をつく異臭だった。臭い、とかではなく、ただただ鼻に突き刺さる粉っぽい匂い。丸くした目に涙が滲み、原因が思い当たった。この匂いは、胡椒だ。それも大量の。
涙の滲む目で捉えたのは、背の高い女性の後ろ姿だった。見慣れない、まるで1世紀以上前の人が来ているかのような、装飾の多いドレス。腕に抱いた赤ん坊を、乱暴な手つきであやしている。否、あやしていると言うよりも、揺さぶっているという感じだ。ドローレスの位置からは見えづらいが、ちらりと横顔が窺えた。
その横顔は。
怒りに歪んでいたとしても、見間違えようもなく。
「おかあさ……」
ドローレスの声は途中で止まった。止まらざる得なかった。
三十代半ば程に見え、ちらちらと見える横顔は憤怒に歪んでいる。綺麗に結い上げられていたであろう髪が、ほつれて一筋二筋と零れてきていた。頭に被っていた布の塊は崩れ落ち、髪が全て背に零れおちる。
ドローレスは何も言わず、ただ癇癪を起して喚き続ける公爵夫人を見つめた。醜悪なほどに赤い口紅を塗りたくった唇がわななき、ブロンドがかった茶色の髪はうねってばさりと音を立てる。
と、机の下にぎらぎら光る物を見つけた。金色の輝きが二つ並んでおり、横にした銀色の三日月がキラキラしている。
机か何かの装飾か、とドローレスが見つめていると、じわじわとそれの周りに毛皮が出て来た。目を丸くしてその奇妙な変化を見ていると、それは縞模様をつくり、顔の輪郭が描かれ、三角の尖った耳も現れて――数秒もしないうちに、そこには暗い色調の縞模様の猫がいた。耳まで届きそうな程に口が裂けており、にやにやと笑っている。ここまで明確に笑っている動物は、初めてだった。
猫はドローレスに気付いたのか――それとも最初から知っていたのか――胡椒の煙の下をくぐり抜けて扉まで歩いて来た。小さくくしゃみをして、そっと音も立てずに外に出てくる。
扉の前に居たドローレスはとりあえず道を開け、猫を外に通した。そして扉を閉めて、猫に向き合う。猫は相変わらずにやにやしたまま、金色の目でドローレスを見つめていた。白兎のように笑っているようで全く笑っていないのも不気味だが、顔どころか存在全てを使って笑っているというのも不気味だ。
笑っていると言うよりも――
むしろ、笑われていると言うか。
猫はドローレスの視線を気にする風でもなく、のらりくらりと歩き出した。そしてドローレスの見ている前でぴょいっと木に駆け上がった。その身のこなしは流石は猫というべきか、危なっかしさなど何処にもない。
にゃあ、と猫が鳴いた。ふらりふらりと尻尾を揺らして、ドローレスを見下ろす。小首を傾げて、にたり、と笑った。白兎のように歪でもなく、ドードー鳥のように優しくもなく、芋虫のように儚げでもない。ただただ嘲笑し、冷笑し、ほくそ笑み、にたにたと、にまにまと、にやにやと。
「はじめまして、お嬢ちゃん」
喋った。見た目の凶悪さに反して、意外と可愛らしい声だ。自分と大して年の変わらなそうなボーイソプラノで「お嬢ちゃん」と言われるのも妙な気分だが。とりあえず、えぇと、と口ごもって答える。
「はじめまして。私はドローレス……貴方は、誰?」
「おれは、チェシャー猫だ」
「チェシャー猫? ただの猫じゃないの?」
首を傾げながら、本当に不思議そうにドローレスが言う。何やら良く分からない言葉がくっついているが、そのわりにただの猫と変わらない見た目をしているのだ。服を着てもいなければ、二足歩行をするでもない。
と、チェシャー猫は笑みを引っ込めて目を真ん丸くした。いきなり笑みを引っ込めたので、ドローレスは今更ながら失礼だったか、と冷や汗をたらした。チェシャー猫の牙は、少し見えるだけでもかなり尖ってぎらぎらとしていたからだ。
そして数瞬の沈黙の後、弾けるような笑い声が辺りに響き渡った。甲高いその笑い声はチェシャー猫のもので、ドローレスがぽかんと口を開ける程に笑い転げている。細い木の上で爪を立てて、ひぃひぃ言う程に笑っている。
「な……何がそんなに面白いって言うのよ?」
「だってお嬢ちゃん! おれをただの猫だなんて! そんな風に言うなんて! ひゃはははははっ、こりゃぁ良い、すこぶる良いぞ、お嬢ちゃん! なぁなぁなぁなぁ、お嬢ちゃん! あんたのいたとこじゃぁ、猫が喋るのが当たり前だったのかい!?」
「え……」
猫が喋るわけがない。それが当たり前だ。
しかし先ほどドローレスは「猫が喋るのが当たり前」だと、そう本気で思っていた。白兎、ドードー鳥、芋虫。彼等が喋っていて、いつの間にかそれを当り前だとそう、慣れ始めて。
「馴染んだな、お嬢ちゃん」
びく、とドローレスの身体が震えた。チェシャー猫は軽い声で、軽い口調で、深い深い笑みを浮かべる。金色の目を細めて、顔が裂けそうな程に大きな口をにやにやさせて。
どうしてだろう、先ほどまで子供のように笑い転げていたチェシャー猫が怖い。恐ろしい。敵意も殺意も向けられていないのに、ただ恐い。まるで、絶対にしてはいけない事をしてしまって、それを見破られたかのような。
「この、イカレた世界に馴染んじまったな、お嬢ちゃん? あーぁ、そんなんで大丈夫かねぇ? 帰れなくなっちまうぜぇ? このイカレた世界から、逃げらんなくなっちまうぜぇ?」
それでも良いのかいあんた、とチェシャー猫が笑う、嗤う、哂う。嘲笑い、せせら笑い、良いのかい? と囁く。悪魔の囁きのように、静かに、厳かに、軽々しくも重々しく。
そしてドローレスはぎゅっと小さな唇を噛みしめた。静かに顔を上げてチェシャー猫を見上げ、言葉を紡ぐ。
「別に」
その表情は澄んで凛と無表情で。その瞳は気だるさを孕んで爛々と。
「帰れなくったって、良いわ」
その言葉は、緩やかな口調と裏腹に力強く、挑戦状のように叩きつけられた。
サブタイトルは「胡椒のもやの喧騒」。少しだけ変えさせていただきました。
公爵夫人の描写に力を入れたけど、前の描写がはるか過去過ぎて覚えてもらえてそうにないなぁ。