Chapter16 youth wiThout youth
人は夢、夢は蝶。世界は夢、夢は物語。
不思議の国に彷徨って、歪な現実から目を背け。
迷子になった、君は誰?
Chapter16 youth wiThout youth
沈黙の後、ドローレスは眠り鼠へと目を移した。
「……貴女は、一体何なの?」
「眠り鼠、よ」
眠り鼠はやはり落ち着いた、大人びた様子で答えた。
「不思議の国へ迷い込むアリスの対となる存在、アリスが目を逸らす現実へと至るキィワード、それが『眠り鼠』の役割なの」
アリスの対。ドローレスはその言葉に、改めて彼女の姿を見た。
ドローレスの目と同じ色の短髪、ドローレスの髪と同じ色の少したれた目。フリルとレースに飾られた黒いネグリジェと、シンプルな白いワンピース。アクセントの胸元のリボンは似ているが、色は眠り鼠がピンクであるのに対しドローレスのものは紺色だ。
「確かに、全くの反対ね」
「それでも反対ということは、同じベクトルの上にあるのよ。そこに正負の違いはあれど、絶対値は変わらない」
眠り鼠の言葉に、ドローレスは首を傾げた。自分とそう変わらない年齢の少女の口から語られるには、あまりに堅苦しく難しい言葉の羅列。
「……意味わかんない」
「ごめんなさい」
くすくす、と笑みを零す仕草も、どこか外見に反した印象を受ける。ドローレスの姿の反対であるということなら、彼女もまた『公爵夫人』のように元の姿とは違うのかもしれない。
「『眠り鼠』はこの不思議の国という夢の中でさえ眠り続ける唯一の『登場人物』。夢の中の夢は、『アリス』のあるべき現実へと繋がっている」
夢の中の夢。その言葉にちくりと胸が痛む。何故だろうとも思いながら、ドローレスは眠り鼠の言葉を聞いた。その理由など思い当たらないし、痛いことを思い出そうとも思わない。
「ルイスは、胡蝶の夢、と言っていたわ」
「ルイス?」
胡蝶の夢という聞きなれない言葉も気になるが、ドローレスは覚えのある名前に反応した。ハートの女王が言っていた名前。この世界を創った人。
「貴女も、ルイスを知っているの?」
「ええ、知っているわ。ルイス・キャロル。この世界と私たちを創った人。私たちの親とも呼べる存在」
「お父さん、なの?」
その言葉に、ドローレスは少し声色を硬くした。今のドローレスにとっては、あまり意識したい言葉ではない。眠り鼠は少し目を丸くし、笑みを和らげた。
「そうね、そうとも呼べるかもしれない。尤も、ルイスを知っている『登場人物』はそう多くはないから、呼ぶ人もいないでしょうけど」
少し、残念かしら、と眠り鼠は笑んで、
「貴方もそう思うのかしら、ルイス」
ドローレスの後ろへと、笑いかけた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
眠り鼠の言葉に驚いて振り返ると、少し離れたところに一人の青年が立っていた。カールした艶やかな茶色の髪と、澄んだ青い瞳。柔らかく微笑んだその顔は見蕩れる程に整っており、すらりとした体格がそれを裏付けていた。
ドローレスが気付いた事を察したのか、彼は嬉しそうに頬を緩めゆっくりと歩み寄った。びく、とドローレスの肩が跳ねあがり、足が一歩下がる。年上の男性、というだけでも十分に怖がってしまうのだ。
気分を害するだろうか、とドローレスはそっと窺った。が、彼は気落ちしたように寂しそうな表情を浮かべて立ちすくむだけだった。その子供じみた仕草にドローレスは警戒を緩めて、口を開いた。
「貴方が、ルイス・キャロル?」
ルイスはにこりと笑みを浮かべて頷いた。やはりその笑みは無邪気で、大人に見えるのに子どものようだ。
と、ルイスはおもむろに芝居がかった仕草でドローレスへと右手を差し出した。掌を上に差し出したので握手というわけでもなさそうだが、どういう意味だろう。
首を傾げるドローレスの目の前で、とすりと軽い音をたててポシェットが落ちてきた。慌てて上を見上げるが、地面と変わらぬ白い空が広がっているだけだ。手品のようだと目を丸くするドローレスに、ルイスはポシェットを差し出した。
どこか見覚えのあるそれを受け取ってそっと開けて中を見ると、そこには小ビンが入っていた。瓶の中身は、ちょうど一口分ほど減っている。ドローレスはそれを見て、ルイスを見上げた。
「ドードー鳥さん、なの?」
こくり、と。無言の肯定を返してルイスはドローレスへ柔らかなまなざしを向けた。確かに、そのあどけなく純粋な目は、あの拙く語る不恰好な鳥を思い起こさせる。
「“まだ目覚めていないみたいだね”」
「え?」
不意の眠り鼠の言葉に、ドローレスは疑問の声を上げた。眠り鼠はにっこりと笑いルイスに寄り添う。
「ルイスはそう言いたいみたい。どういう意味かは分からないけれど」
「……ルイスは喋れないの?」
唇も動いていなかったし、確かに何も言っていなかったのだが。ドローレスの訝しげな視線に、眠り鼠は口を開いた。
「ルイスは喋れないのではなく、喋らないだけ。それを通訳するのも私の役目だから」
表情だとか、雰囲気で私には伝わるの、と続けて眠り鼠は苦笑した。眠り鼠がルイスに寄り添う様子は、外見年齢の所為かとても親子には見えなかった。が、ルイスが眠り鼠に向ける眼差しには、確かに子供を慈しみ愛する感情が見て取れた。
まるで、ドローレスが一番欲したものを晒すように。
「……ここは夢の中なんでしょう? 目覚めていないのも当たり前だわ」
苛立ちを混ぜた言葉をぶつけると、ルイスは困ったように目を細めて首を傾げた。その仕草を追いかけるようにして眠り鼠の声が添えられる。
「“君はまだ夢の中の夢のままだ”」
「だから、ここが夢なんでしょ? 」
「“現実こそ、最後の頁に相応しい。故にもう目覚めなければならないんだよ”」
まるで噛み合わない、合わせる気がないような言葉のやり取り。会話とは呼べないだろう。眠り鼠の声を借りているから余計に違和感がある。
「“君が逃げてきた現実は、本当にその形をしていたのかい?”」
ねぇアリス、と。ルイスは問いかける。決してドローレスの名前を呼ばず、ただアリスという役割を突きつける。青い眼差しには、眠り鼠に向けていたような温かみはない。
「“二年の遅刻は、いったいどこから数えたのかな”」
「え……」
「“ねぇアリス、遅刻したアリス、何度目かも分からないアリス。君の最後の名前はなんだい?”」
それはいつだったか、チェシャー猫に問われた言葉。ロー、ローラ、ドリー、ドローレス――そして、本当の名前、最後の名前、彼の腕の中の名前、ロリータ。
けれどそれは、ルイスの問いかけの意味は、奇を衒うことなくそのままだ。
ああ。
分かった。
やっと分かった。
彼の繰り返す『夢』の意味が。現在の自分と言う存在の儚さが。そうだ、これは泡沫の夢に過ぎない。不思議の国に漂った泡沫の夢。
現実から逃れるために、夢の中でまで夢を見続けたのだ。
不意に。
淡い紫の奔流が、視界を覆いつくす蝶の群れがその真っ白な世界に色を添えた。白紙の世界に色つきのインクを零したかのように、世界は瞬く間に淡い紫の流れに染められていく。眠り鼠が目を丸くし見守り、ルイスは変わらぬ笑みを浮かべて飛び去っていく蝶を眺める。
蝶の群れは止め処なく、ドローレスの立っていた所から溢れていた。というよりも、まるでドローレスの中から弾け飛び、溢れ出るようにして蝶の群れは生まれていた。その中心を窺うことなど出来ず、ただただ零れ続ける。
蝶は次第に数を減らし、その代わりとでもいうかのように世界を淡く染めた。ひらひらと、ゆらゆらと。紙に染み入るように淡い紫が白に霧散し――ゆっくりと、彼女は目を開けた。
ルイスは笑みを浮かべ、まるで初めて会ったかのように優雅な礼をした。眠り鼠もそれに倣い、嬉しそうに唇を開く。
「“おはよう、ドローレス”」
「目の前の霧が晴れたみたい。すっきりして何もなくて……ほんと、最悪の目覚めね」
細く伸びる四肢、丸みを帯びた身体。先ほどまでの白いワンピースではなく、女学校の制服。声は少し変わって高く澄み、相貌にもあどけなさはない。
「おはよう、かしら。それともここはまだ夢の中?」
十四歳の本来の姿となったドローレス――ドローレス・ハンバートは、皮肉気に口の端を歪めた。
タイトルは『若さなき若さ』。
「胡蝶の夢」をテーマにした映画のタイトルで、日本での名称は監督の名前から「コッポラの胡蝶の夢」となっています。
眠り鼠とルイス・キャロル、およびドローレス・ハンバートの話。
ルイスは何も喋らない、というのは改稿しても変わらないことです。眠り鼠の参入により、語りは彼女に任せました。
ちょっと腹話術みたいだが、実際はどちらかというと逆。