Chapter15 the memorIal narrates
それは始まりの音、終わりの名前。
それから始まりそれで終わる。そして中身もそればかり。
さぁ、それって一体なぁに?
Chapter15 the memorIal narrates
“Annabel”
その手記には潜む様に微かに、しかし紛れもなく愛が綴られていた。アナベル。繰り返される綴りは本筋から外れる様にして存在しており、しかし本筋を無視してでも綴られる価値ある物なのだと、筆者は語るように何度もインクの染みを作る。
小さな黒革の手帳。教師と言う職にそれが不分相応な物なのかどうか、ドローレスは知らない。が、その中身が彼にとってどれ程の価値を持つのかだけは、拙い語力でも読み取ることは出来た。
そっと文字をなぞる。模様の様に崩された筆記体は、慣れないドローレスには少々読みづらい。しかし、丁寧にそれを読み解けば、そこには甘美に綴られた愛の記憶が広がっている。
“Lolita”
散らばるように、そこかしこに見受けられるその染みは、ドローレスの胸を押しつぶすようだった。ロリータ。彼女の愛称、いつだってそれは代用品でしかないのだ。愛を囁く言葉の代わり、囁く誰かは一体誰なのかを咎めずに。
その言葉を向けるのは彼が愛する少女、しかしその少女とはいったい誰なのだろう。考えるまでもない、言葉は台詞に過ぎず、所詮は手段に過ぎない。誰が考えるだろう、言葉へ愛を囁くだなんて。手段が愛して貰えるだなんて。
「彼にとって、私は手段だった。もう二度と手に入らない人を手に入れる夢を見る為の、道具にすぎなかったの」
「そうして貴女は夢の世界へ逃げ込んで来た」
ドローレスの声に応えるように、少女の声が真っ白な世界に響く。手帳を膝に乗せたまま振り向くと、そこには見覚えのある少女が立っていた。
「……眠り鼠、ここはどこなの?」
「描かれることの無かった、不思議の世界の続きの頁。不思議の国の終着点よ」
にっこりと、柔らかい笑みで眠り鼠は答えた。
遠近感すら失われる白い世界の黒いネグリジェは、白紙にぽつりとインクを零したように映えていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ドローレスは薄暗い裁判所で悲鳴を上げて、気付けば手帳と共にこの真っ白な世界にいた。惹かれるように頁を捲れば、そこにはただひたすらに愛が綴られていた。それは紛れもなく、記憶よりも確かな彼の手記だった。
眠り鼠はドローレスと向かい合うように座り、そっとその手をとった。お茶会に居た頃よりもずっと大人びて感じるのは、彼女がはっきりとその瞼を開けているからだろうか。
「……パパが、欲しかったの」
「本当の父親は幼いころに死んでしまったから」
「ママが、大好きだったの」
「喧嘩ばかりするけれど、それも愛情だと知っていたから」
「彼は、……彼は、ただあの子が好きだった」
ぽつり、ぽつり。インクを垂らすように、白い世界に黒々とした言葉を落とす。不思議の国の終着点とはいったい何なのか、何故眠り鼠がドローレスの『現実』を知っているのか。分からないことが溢れて溺れそうだが、そんなことはどうでもいいのだ。今はただ、吐き出して目を背けたい。
「でも無理なのよ、それは絶対に無理なの。私は彼の愛する少女ではないの、私は私、ドローレスなのよ」
そして、ぽつり、と。ピリオドのようにドローレスは言葉を落とした。
「私はここに居るのよ」
幼い頃に父親を失い、母親と二人で暮らしていた。だから彼が家に下宿する事になった時は素直に嬉しかったし、母親が楽しそうにしていたから喜んだ。からかって「パパ」と呼べば、本当の娘のように可愛がってくれた。格好良く優しい父との生活は幸せだった。
愛しているよ、ローラ。その言葉が、意味が、変わっていったのは何時だったろう。否、それはきっと最初から、奥深くに根付いていたのだ。
ある日家に帰ると、自分の部屋のドアが半開きになっていた。怪訝に思い中をそっと覗くと、背の高い後ろ姿。彼はうっとりとした表情でドローレスの洋服ダンスを開けて、何枚かの服を抱きしめて顔をうずめていた。
何も、言えなかった。
何も、なかった事にしたかった。
気付けば彼の行動はエスカレートしていった。母親を執拗に避け、ドローレスをくどい程に甘やかす。怪訝に思いながらも、ドローレスは目を逸らし続けた。気付かなければ無かった事になると思いたかったし、彼がたまたまそういう気分だったのだろうと無理矢理自分に言い聞かせた。
だから、異常が蔓延し、飽和しても、目を逸らし続けた。彼は母親と寝ようとしない、強力な睡眠薬を妻に盛ってまでしてだ。ドローレスの願いはなんでも叶えようとし、ドローレスの欲しい物はなんでも買い与えようとする。日に日に母親に対する態度は悪くなり、あからさまに嫌そうな顔をする時もある。ドローレスが男の子と遊んで帰ると、何処の男だ、名前は、年は、としつこく聞いてくる。
彼の部屋の机には、いつも鍵のかかった引き出しがあった。ドローレスが隙を見てその中を覗いたのは、部屋に侵入された仕返し程度のつもりだった。そこに入っていた本に書かれていたのは、母親に対する陰口悪口罵詈雑言と、ドローレスが如何に愛らしいかを語った夢現の文章。まるで観察日記を付けるかのようにこと細かに書かれた自分の描写に、頁を捲る度に寒気が走った。
そして、丁寧に丁寧に綴られたアナベルという少女の事。少年の日の淡くおぼろげな思い出。ロリータにどこか似た少女――否。
少女を彷彿とさせるロリータ。
自分自身が愛されているというのなら、ドローレスも彼に向き合うことが出来たのかもしれない。ただ純粋にドローレスを愛するというのなら、それは家族愛として許容できたのかもしれない。だけど。
貴方が見ているのは、愛しているのは、私じゃない。
過去の亡霊とやり直すかのように、彼はドローレスを甘く愛する。嫉妬に狂った母親は、娘を一人の女として嫉んだ。
狂っている。壊れている。イカレている。この家も、親も、日常も。表面上は仲の良い家族であるにも関わらず、その中は何処までも底までも暗く濁って澱んでいる、歪な家族劇。
だからドローレスは、白兎に飛びついた。現実から逃げ出し、優しい夢を見る為に。
ハンバートの夢から逃げる為に。
タイトルは『手帳は語る』。手帳=メモリアル=鍵の掛かった秘密(6話)、です。
眠り鼠が再来したり、ドローレスの心情を吐露する話。一応、私なりのロリータの形ということで。
冒頭詩は原作『ロリータ』の始めと終わりの短語が両方「ロリータ」であることからきています。ロリータで始まりロリータで終わる。
とあるなぞなぞから文章を取りました。