幕間Ⅱ : 彼の手記
少年は少女に恋をし、少女も少年に恋をした。
夢は現に。幽玄なる孤島の霧は見えない。
物語はこれから。終わりはすぐに。
幕間 彼の手記
出会った瞬間、それは運命なのだと私には分かった。
外見こそ似ていないものの、彼女が内包する魅力は間違えようはずもなくあの夏の日の少女と同じものであり、私が求めて止まないものであり、私が求めて病むものなのだと。どれ程時が経とうとも、この身が老いてあの日の少年の恋に不分相応な物と成ってしまって居たとしても、私が求めざるを得ない初々しい未熟さに満ちた妖精、もしくは狂いそうな魔力を孕んだ悪戯好きの悪魔だろうか。
嗚呼、そんな戯言を繰る程の余裕もなく、私はその時彼女に全てを奪われていた。心を、魂を。そしてまたそれこそが、私の穢れなく純粋な罪を犯す全ての始まりでもあった。
あの瞬間は、今でも鮮明に思い浮かべる事が出来る。
スプリンクラーの水を浴びて、艶めかしくも無垢に私を見上げる一人の少女。白い膝丈のワンピースは肌に張り付き、濡れた布の向こうの白い肌を間接的にも顕わにしていた。胸元のリボンも濡れて肌に張り付き、その陰に隠れた事でより一層の欲望を掻きたてる。
まるで誘うように、少女はそのままの姿で私へと歩み寄った。
あなた、だれ?
繊細な砂糖菓子ではなく、極彩色に彩色されたケーキの様な。どこか斜に構えた、大人びようと背伸びする挙動と反するように、その声はどこまでも甘く幼い。その身から醸し出される蠱惑的な魅力はこれでもかと情欲を焚きつけると言うのに。
隣に立つ母親に何か言われたのか、彼女は顔を顰めて俗語を吐いた。私の耳には入らなかった。彼女は私を見た、その青みがかった灰色の双眸に私を映して悪戯っぽく笑った。
ママとなかよくしてね、わたし、あたらしいパパが欲しいの
嗚呼、それは彼女の最初のおねだり。私は口煩い女と生活する条件を呑み、その家で彼女と暮らす事を選んだ。それ以外に、何を選べば良かったのだろうか。私にはもう彼女しかいなかった、彼女を手にすることでしか、この想いは収まらなかった。
否、彼女を手に入れてこそ私は完璧になれるのであり、それまでの私は無様な片割れにすぎなかったのだろう。あの夏の日からずっと。
そう、私には分かったのだ。
彼女こそ、私の求めていた彼女だと。
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ローラ、可愛い愛しい私のロリータ。
ブロンズのように輝くその柔らかな茶色の髪も、無邪気に煌めく青みのかかった灰色の瞳も。日に焼けて少し色づいた肌も、華奢で小さなその身体も。
靴下を片方だけ履いて家の中を歩き回る、子供らしい無作法さも。湖にピクニックに行きたいとねだって笑う顔も、雨が降って行けなくなり癇癪を起して泣く顔も。子供扱いしないでと、頬を膨らませて拗ねる仕草も。甘い物が大好きで、お菓子はチューイングガムが一番好きな味覚も。夜中にジャムを食べようとしてキッチンに忍び込んでは、見つかって怒られるお粗末な行動も。
君のその身体も魂も、心も精神も、全てが愛らしく愛しい。指の間を流れる髪の一房に至るまで、大人びた香水の香りのする身に着ける布の一切れまで、さくらんぼのように赤く艶めいた唇で食むその一齧りまで、君のある生活の時が止まる程美しいその一瞬まで。
ロリータはニンフェットだった。9歳から14歳という短い限られた時にしか存在しない、霧に包まれた幽玄にして有限の海の中の孤島に暮らす妖精のような存在。美しいとは限らない、可愛らしいとは限らない、不潔で下品なものであったとしても神秘的で奇妙な優美さを損ないはしない。そこには、一回り以上年上の男性を魅惑し、捉えて離さない魅力が存在する。
彼女たちの多くは、自分がその魔力のような魅力を持っている事に気付かない。だが、たしかに彼女等は存在し、彼女らに惑わされた狂った男たちによって発見される。
彼女たちを私はニンフェットと呼ぶ。悪戯好きの妖精のようであり、男を狂わせる蠱惑的な小悪魔じみた、蝶になる以前の初々しい若虫のような彼女たちを。そんな彼女たちに狂う私のような孤独な旅人を、ニンフェット狂いと名付ける様に。
素晴らしい、本当に素晴らしい、私の、私だけの、ロリータ。
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彼女を愛するに至るまでには、彼女の先駆けとも呼べる少女が居た。
十三の時に公爵の浜辺で出会った、一つ年上の少女。彼女とは話が合い、すぐに仲良くなり――そして、嗚呼、その瑞々しく溢れる様な魅力にどうして惹かれずにいられただろうか。あの夏の日々こそ、私の人生が最も純粋に輝いた時間だった。
私たちは幼かった、周囲の大人たちは私たちを二人きりにはさせてくれなかったが。故に私たちは、その秘密の時間を手に入れる為に、まるで重大な事件でもあるかのように慎重に嘘を重ねた。一度目は眠り草の繁みの中、星降る夜に。二度目は薔薇色の岩の紫紺の影で。
幼稚な知恵を凝らした逢瀬は二度とも達成されることなく、私たちは夏の終わりと共に引き離された。私は三度目の逢瀬を望み、彼女こそが私の人生なのだと心の中で繰り返した。
そして、彼女は死んだ。
冷たくなり、永遠の眠りについてしまった。嗚呼、奇しくもそれは誰かが詠った詩のように。
私は絶望した。私はそこで一度死んだのだ。時間は灰色に塗り潰され、私の思春期はただの棺桶の中の様な時間だった。そう、私は彼女に囚われたのだ。冷たく暗い棺桶に共に閉じ込められる様に、私は彼女と共に死んだ。私の心はどれ程の年月が経とうと彼女と共に死に続けた。
そして私は出会ったのだ。
あの初夏の日に、スプリンクラーの下で笑む少女に。彼女を思い起こさせる彼女に。彼女の次の彼女に。
愛しい私のロリータ。君は紛れもなく、
“僕”のアナベルの生まれ変わりだ。
『ロリータ』ダイジェスト。ハンバートさんの気持ち悪い語りを詰め込んでみた。
改稿に際して追加。