未来の黒騎士
4歳の誕生日を迎えたその日、カインは父に連れられ初めてグスターニュ城に向かった。
グスターニュ城はペリエ城とは比較にならないほど広大な城で、その荘厳な佇まいは遠目にも絶対的な威圧感がある。
「寒くは無いか?」
手綱を持つ父が背後から尋ねた。ゔぁ
いつものマントの上から毛皮の付いた外套が巻きつけられていたし、頭に母の手編みの帽子を被っているおかげで、顔以外はさほど寒くはない。
「...鼻が冷たい。」
カインが正直に答えると、ユーリは軽く笑った。
「こんな時節だからなぁ...」
そう言うと、ユーリは馬の速度を緩めて脇道に寄せた。手綱を離してカインの顔を覗き見る。
「鼻が真っ赤だ...霜焼けになりかけてるな...」
「しもやけ?」
「まずいぞ...保護しないといい男が台無しになる。」
カインが手で鼻に触れていると、父が顔にも布をグルグルと巻き付けてくれた。
それは父のマフラーで、温もりで顔が暖かくなる...
「父上が寒いよ...」
カインは心配になって言った。
「俺は寒さに慣れてる...大丈夫だ。」
大きな手が頭を撫でた。再び手綱を掴んだ両腕が、カインの体を包み込んだ。
ブランピエール公爵、すなわち、東ルポワドの大領主である大伯父クグロワは、一年ほど前から病に臥せっていた。
老齢ということもあって体力が落ち、日を追って衰弱しているという。。
「カインを連れて参れ...」
クグロワ本人がそう望み、カインは急遽、父とともにグスターニュ城へ向かうことになった。リオーネも行きたそうだったが、母に嗜められ、泣く泣く留守番に甘んじたのだった。
「お帰りなさい、閣下。」
グスターニュ城に着くと、クグロワの従者、シセルが二人を出迎えた。
正騎士になったばかりの少年は、尊敬する「漆黒の狼」の帰還を歓迎すると同時に、彼に手を引かれた「小さな黒騎士」に空色の瞳を輝かせる。
「ようこそカイン様、私は騎士シセル...クグロワ様にお仕えする者です。」
シセルはカインの前に跪き首を垂れた。
「寒かったでしょう...さあ、どうぞ暖炉の前へ...」
巨大な暖炉が燃え盛る広間に案内されたカインは、ようやくグルグル巻きから解放され、召使いが持って来た湯に足を浸けた。とても温かく心地が良い...足を優しく揉まれて少しくすぐったかった。
「指と鼻が無事で良かったな...」
息子の手の指先を確かめながら、ユーリが言った。
「お前に大事があると、俺の立場が危うくなる...シャリナに蔑まれては敵わんからな...」
父が優しげに目を細める...カインはその優しい眼差しを見つめた。途中の村で宿をとった時、一晩中温めてくれていた父だった。
体が十分に温まると、ユーリはカインにマントを羽織らせ、抱き上げて廊下を歩き出した。過保護のようだが、回廊は非常に寒く、せっかく温まったカインの体温を下げたくはなかった。
「公爵は...よくないのか...」
ユーリは尋ねた。
「...はい、正直言って...」
シセルが答える。
「カインを呼ぶあたり...覚悟せねばならんな...」
「...」
そんな二人の会話をよそに、カインは長い廻廊の脇を眺める...
立ち並ぶ柱とその向こうに広がる中庭...
たくさんの人々が行き交い、皆、忙しそうに働いていた。
「老公爵が没すれば、跡目を継ぐのはこの子だ。この城と領地、そして、公爵の地位がカインに受け継がれる...まだこんなに幼いというのに...」
「閣下...」
「カインが無事に成長するまで、俺は領地の管理に努めねばならん...できればもうしばらくはクグロワに生きていてもらいたい...」
「...はい。私もそう思います。」
シセルが頷き、悲しげに瞼を伏せた。
泣きそうな表情の金髪の騎士を、カインは不思議な気持ちで見つめたが、何故なのかは解らなかった...
ひときわ重厚な大扉の前に立つと、ユーリはカインを床に下ろして手をつないだ。
大きな扉に獅子の顔が付いている...口に輪を咥えていて、その表情は怖かった。
「クグロワ様...ユーリ閣下がご帰還されました。」
シセルが告げると、中から返事が聞こえた。しゃがれ声で「入れ」と命じる。
扉が開かれると、カインはユーリに手を引かれて室内に入った。正面に大きな窓が見えたが、カーテンは固く閉ざされている...
「待っていたぞ...狼」
ベッドに横たわったままのクグロワが言った。ユーリを見上げ、わずかに笑顔を浮かべる。
「カインを連れて参ったか?」
「ああ、ここにいる。」
ユーリに背を押され、カインは前へと進み出た。ベッドを覗き込み、老侯爵を見つめる。
「おお、カイン...よく参った..,」
クグロワは目を細めて言った。
「寒かったであろう,,,こんな季節に呼び出して悪かった...許しておくれ...」
「こんにちは、おじいさま。」
父に言われた通りにカインは言った。
「おかげんはいかがですか?」
「うむ...そなたの顔を見て、少しよくなった...元気が出てきたぞ。」
クグロワに頭を撫でられ、カインも笑顔になる。黒い瞳が愛らしく、笑顔にはシャリナの面影があった。
「シセル...起こしてくれ。」
クグロワはシセルに命じて上体を起こす仕草をした。ユーリも手を貸し、どうにか姿勢を整える。
「これでそなたがよく見える...未来のブランピエール公爵が...」
クグロワの腕が差し伸べられ、ベッドの上に誘われたカインは、その両腕に包まれた。
「そなたは私の希望...グスターニュの宝だ。立派な騎士になり、領地をしっかりと守っておくれ...」
大伯父はそう告げたが、カインは何も答えられなかった。託された重い責を理解するには、未だ幼過ぎたからだった。
束の間...
クグロワはカインとの会話を楽しみ、幸せな時間を過ごした。
「リオーネにも会いたいものだ...」と涙を浮かべる大伯父に「ぼくがリオンを連れてきてあげるよ...」とカインが言う。
「優しい子だ...」
クグロワは笑顔になると、再び小さな頭を撫でて頷いて見せた。
その後は横になり、クグロワは最後にカインの手を握って別れを告げる...彼の手は少し冷たく、ゴツゴツして骨張っていた。カインはその手を優しく握り、
「また来るね...おじいさま。」
と告げ、部屋を後にした。
その夜は吹雪になり、風が強く吹き荒れた。
城内にある父の部屋は暖炉の炎で暖かったが、風鳴りが酷い...
「怖いよ...ちちうえ..」
カインが訴えると、ユーリは微笑み、小さな身体を抱き寄せて言った。
「大丈夫だ...俺がついてる。」
ベッドに入り、持ってきた絵本を一緒に読む...父の胸は温かく、いつしか恐怖も消えていた。
「リオーネには内緒だぞ...ヤキモチを焼くに違いない...男同士の約束だ。」
ユーリは口角を上げながら言った。
「はい...ちちうえ。」
カインは頷いた。父に抱きつき、久しぶりの「独り占め」を楽しんだ。
「もう夜明けか...」
カインは目を開き、ぼんやりと天井を見つめた。
布張りの天井に細かな装飾と絵が施されており、湖水の風景が美しい...
「母上のために父上が作らせたもの...だったな。」
ユーリの言葉を思い出す...
初めてグスターニュ城を訪れてまもなく、大伯父クグロワが逝去した。
城の権利はペリエ伯、即ち父に託されたが、以来、父はグスターニュとペリエの間を定期的に往復する生活になった。
「一緒に来てくれないか...シャリナ。」
父が母に問いかけるのを、カインは何度となく耳にしたことがある。
ペリエ城のある湖水の自然を愛するシャリナは、グスターニュ城に移り住むことを長いあいだ躊躇っていた。
父は不便を感じつつも、妻の気持ちを優先していたようだが、その実、かなりの不便を感じていたらしい...
リオーネと自分が騎士修行に発つのを機に、母もようやく移住を決めたというが、殺風景なグスターニュの地がシャリナの心を荒ませるのではないかと懸念した父は、寝室の天井に絵を描かせたうえ、中庭に庭園を築かせたのだった。
「一人で見上げるのは拷問に近いな...」
カインは溜め息混じりに呟いた。
妻に捧げた父の愛....この天井はその証なのだ。
寝返りをうって横を向くと、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
香りの素は枕元に置いてある真鍮製の胸飾りで、透かし模様の器の中にマリアナ特製の「香り玉」が入っている...
「旅のお守りに持って行って。」
マリアナは寂しそうにカインを見上げながら、そっとそれを手渡してくれた。
「匂い玉」は虫除けや魔除けにもなるという...異国由来の不思議な玉で、マリアナ自ら調合してくれたものだった。
「バレル君に会えるのを楽しみにしているわ...予定が決まったら、すぐにお便りしてね。」
麗しく微笑むマリアナ...離れ難かったが、感情を殺してカインは言った。
「バレルを連れてすぐに戻る...」
手指の感触が愛おしい...
義務とはいえ、離れて暮らす半月は長く感じられそうだと思った...
「着替えを持って来てくれ。」
気持ちを切り替え、起き上がって小姓を呼ぶ...身支度は彼の仕事であって、面倒でも、彼の職を奪ってはならなかった。
「バレルはもう起きているか?」
カインは彼に尋ねた。
「バージニアス子爵と厩にいらっしゃいます。」
「厩?」
「バレル様が仔馬のお世話をしておられるのです...シセル様もご一緒に。」
「仔馬...そうか。」
カインは口角を上げた。
シセルはリオーネを騎士として鍛え上げた教官であり、何をすれば良いかは熟知している。馬の世話は騎士修行の第一歩。彼ははすでにそれを始めていたのだ。
「カイン、おはよう。」
身支度を終えて一階に降りると、リオーネに出会った。今朝は普段通りのチュニック姿で、颯爽と歩み寄って来る。
「よく眠れた?昨夜は深酒しないでおいたけど...」
「お陰様でね。今朝までぐっすり眠れたよ。」
「それは良かった...黒騎士が時々泥酔して暴れるってリュシアンが言ってたから量を抑えたんだけど...」
「はぁ⁉︎」
「マリアナ様も心配なさってたらしいわよ...カインらしくないって。」
「なんだよそれ...まったく身に覚えがない。」
「酔っ払いは大抵そう言うんだよね...」
「ええっ...」
確かに深酒は何度かしている...リュシアンに散々飲まされたのも事実だ。
…だが、暴れた認識なんてないぞ!
「嘘だ...リュシアンの流したデマだ。」
「うーん..それは否めないけど、泥酔してマリアナ様の膝枕で寝ていたって言うのは事実よ。マリアナ様ご自身が吐露していたから...」
「なっ...なん」
カインは目を剥いた。
「マリアナの...膝枕⁉︎」
「ぜんぜん憶えてないの?」
「そんな...いつのことだ?」
「仰っていたのは確か半年前...私が王都に行った時よ。」
カインは愕然となって口を開いた。
…マリアナが酔った自分を介抱していた?...しかも自分の膝の上で⁉︎
「勿体無いわねぇ...せっかく介抱して下さったのに、何一つ憶えていないなんて...」
リオーネは呆れ、肩をすくめて言った。
「...ま、もう過ぎたことだから仕方ないけど...それより、朝食の用意が出来てるから、早く済ませてしまいなさいね。」
姉らしい口調で告げると、リオーネはさっさとエントランスの方向に歩み去った。騎士団長に今日の申し送りをするのが彼女の役目で、恐らくそのために急いで向かったのだろう。
「なんてことだ..」
カインは呆然となって悔やんだ。
.失態を晒したからというよりも、マリアナの好意を全く憶えていない事への後悔だった。
「王城に帰ったら、すぐに謝ろう...」
消沈しながら踵を返すと、マリアナの「香り玉」がほのかに香りを放った。
大広間から良い匂いが漂っていたが、それを振り払うように、あえて大股で歩いて行った。
朝食後、バレルに会うため馬場へ出向くと、柵の向こうに明るい髪の騎士の姿が見えた。
隣には幼な子がいて、どうやら仔馬を前に鞍の準備をしているようだ...
「シセル!」
カインが呼ぶと、シセルが振り返った。いつもの如く爽やかな笑顔を浮かべつつ、首を垂れる。
「おはようございます、カイン様」
気づいたバレルも振り返ってカインを見遣る。バレルは動きやすいチュニック姿で、足元は革製のブーツを履いていた。
「おはよう、バレル。とても早起きだな。」
カインが姿勢を下げつつ言うと、バレルは屈託のない笑顔を浮かべた。昨夜のうちに親睦を深めておいたのが功を奏し、今朝は緊張が感じられない。
「おはよー、おじうえ。」
「乗馬の準備か?」
「うん。」
「はい...と言いなさい。」
頷いたバレルを、すかさずシセルが嗜める。
「いいよ...そのままで。」
カインは白い歯を見せて微笑んだ。
「バレルはまだ幼いんだ。必要になるまで敬語は使わなくても良いさ。」
「は..;恐れ入ります。」
「バレルはもう乗れるのか?」
「いえ、まだ鞍の乗せ肩を教えている段階です。」
「なるほど...けど、早く乗ってみたいだろう、バレル?」
「...うん!」
「鞍を乗せたら跨るといい。手順をおぼえるも大切だが、感覚を掴むのも大事なことだ。」
「乗ってもいいの?」
「ああ、俺がついているから大丈夫だ。」
バレルはチラと父を見上げた。シセルの許しをうかがう...シセルは目を細めて頷いて見せると、バレルの瞳が輝いた。
「この馬は穏やかそうだし、きっとバレルと一緒に成長してくれるだろう。」
「はい、リオンと私で厳選したので、おそらく問題ないでしょう。.」
「二人で...ねぇ。」
カインの含みのある語調に、シセルが目を見開き「申し訳ありません...」と謝罪する。
「ああ、すまない。謝らないでくれ...かえって俺の面目が潰れる。」
カインは明るく笑い飛ばして言った。
つい余計なことを口走ってしまったが、羨ましいのは事実だった。
…シセルには頭が上がらない...ただ一人の息子を俺が奪う形になってしまうのだから。
「準備が出来たぞ..さあ、跨ってごらん。」
シセルが告げると、カインがバレルを持ち上げ馬の背に跨らせる。
介添え付きではあったが、バレルは初めて一人で馬に乗り馬場を歩いた。
「わああ..」
絵を描いている時と同じような「ときめき」を感じる...視線が高くなり、風景が変わった。
「どうだ...感想は?」
カインが尋ねると、バレルは笑顔を浮かべて答えた。
「すごく楽しいよ!」
つづく