シャルアとブルーム
「お呼びですか、父上。」
アーレスは執務室のフォルトを前にして言った。
扉を開いてすぐに目にしたのは外套を着た父であり、待ちかねた様に自ら歩み寄って来る…
「待っていたぞ…そなたに頼みがあるのだ。」
フォルトは前置き無しに切り出した。
「頼み?」
「そうとも、我が息子よ…」
フォルトは必要以上に接近してアーレスに迫った。その勢いに押されてアーレスがわずかにのけ反る…その表情から察して、何らかの用事を押し付けようとしているのは明らかだった。
「性格の悪いキツネが私を足止めしようとしている…お決まりの嫌がらせぞ。」
「…嫌がらせ?」
「私は一刻も早くシュベール城に帰らねばならぬ…銀狐とチェスをしている場合ではないのだ。」
「…チェス?」
ははあ…とアーレスは思い当たった。父が母とブルームに会えず苛立っていたのは明白で、ようやく責務から解放されて帰還する機を狙った国王陛下が相手に誘ってきたに違いない。
「私は今すぐに帰る…チェスの相手はそなたがせよ。」
言い放つと、フォルトはアーレスの承諾を待たず、逃げるように扉の方へと向かった。
「ち…父上!」
アーレスが振り返って呼びかけるも、フォルトはそのまま立ち去ってしまう。
「ああっ」
残されたアーレスは呆然としながら渋面になった。弟とは言え、義兄である国王の誘いをすっぽかすのはいささか無謀ではなかろうか…
「どんな言い訳をすれば良いんだ...」
困惑しながら誰もいなくなった室内をアーレスは歩き回った。
...こう言う時に助けとなるのは…
一計を案じた後、アーレスはすぐに踵を返した。チェスの相手なら最強の相手がいる...事情を話せば、きっと解決して下さるはずだ。
部屋を出て階段を登り、行きすがる侍女に王妃の所在を確かめた。王妃エミリアは飼育室に居て、小鳥の世話をしているらしい...
「あら、アーレス...珍しいわね。」
若き「甥」が訪れると、笑みを浮かべながらエミリアは言った。
網をかけられた一室に放された小鳥の姿と、そのさえずりが聞こえる。小鳥達の飼育はエミリアの趣味で、ここは彼女の楽園なのだった。
「どうしたの...何か急用?」
滅多に訪れる事のない遠慮がちなアーレスが、少し困り顔で片膝を床に着けるのを観たエミリアは尋ねた。
「...実は、お願いがあって参りました。」
「お願い?」
「はい...」
「どんな?」
「父上が陛下に承ったチェスのお相手を、叔母上に引き受けては頂けないかと...」
「チェスの相手?」
「はい、父上がブルームの容態が心配だと言う理由で帰ってしまい、私がお相手せよと申し使ったのです...」
「フォルトに押し付けられたの?」
「...ええ。」
「まぁ..,」
エミリアは呆れて肩をすくめた。
とは言え、フォルトがそうするのも無理からぬこと...我が子ブルームが人生の全てになった弟は、生後一日たりとその傍を離れたがらず、近頃では何かとアーレスを代役に立てることが頻繁になっていたのだ。
…ここ10日間は公務で拘束され続けていたのだから、逃げたくなるのは当然ね。
「陛下は嫌がらせを大概になさらないと...」
エミリアは憤慨気味に呟いた後、アーレスに立つよう促した。碧い瞳を見つめて目を細め、口角を上げながら頷いてみせる。
「確か貴方はリュシアンに随行する予定ではなくて?」
「午後には妃殿下とシャルア王子とご一緒致します。」
「そう、では陛下の相手は私がするしかいないわ..あの意地悪をコテンパンにして、すこしお灸を据えてあげましょう。後は任せておきなさい。」
「有難きお言葉...」
偉大な叔母の頼もしい返答に、アーレスはようやく胸を撫で下ろした。エミリア王妃はチェスの名手であり、国王でさえ敵わない最強の「騎手」なのだ。
午後、
エントランスに立つ貴公子がマリアナを出迎えた。
アーレスが外套を身につけており、極めて軽装で立っている。
「今日はあなたが随行を?」
マリアナは笑顔で応えた。
「パルティアーノ卿にご一緒して頂けるものとばかり思っていたけれど。」
「父上は先立って発ちました。随行せぬ無礼をお許し願いたいと言遣っております。」
「ブルーム君が心配なのでしょう...解るわ。」
「ご理解、感謝致します。」
わずかに頭を下げると、見上げているシャルアと視線が合う。マリアナの手を握り、スカートにぴたりと張り付いて指を咥えていた。
「参りましょう、殿下。」
アーレスが微笑むと、シャルアは母を見上げて言った。
「...黒騎士は?」
「今日はいないわ。」
「黒騎士と行きたい...」
「彼は他のご用事があるのよ。」
優しく説明するマリアナだったが、シャルアは不満そうだった。本来なら王太子の警護はカインの務めであるものの、リュシアンは意図的に彼を外しているのかもしれなかった。
「ブルーム君に会いに行きましょうね。」
マリアナは王子を抱き上げ、アーレスに目配せをした。これ以上シャルアがカインの話をするのは良くない...リュシアンの声が聞こえており、彼はすでに発つ準備を終えて待っているのだ。
外に出ると、今度はリュシアンがマリアナを出迎えた。昨夜は夜会で部屋に戻れず、別室で朝を迎えたため、バツが悪そうに眉根を寄せている。
「言っておくが僕は潔白だぞ...酔い潰れて、一人で寝ていただけだ。」
「他に何の選択肢があったの?」
リュシアンの言い訳に、マリアナが整然と応酬する...リュシアンはますます渋面になって顔を近づけた。
「そんなものはない…僕はいつでもそなただけに夢中だ。知っているだろう!」
臆面もなく大声で言い放つと、リュシアンはマリアナを抱きしめキスをした。マリアナは何一つ疑ってはいなかったのだが、リュシアンの方はどうしても身の潔白を証明したいらしい...
「解ってる...信じてるわ。」
マリアナは微笑んでリュシアンの瞳を見つめた。我儘で破天荒な王太子だが、リュシアンは決して嘘つきではない。
「もう行きましょう。シャルアがあくびをしているから。」
「なんだ...もう昼寝の時間か?」
リュシアンは気を取り直し、王子の髪を撫でて言った。
「父と馬に乗るか?」
その誘いにシャルアが首を横に振る...母にしがみつき、「嫌」と一言もらした。
リュシアンは口をへの字に曲げたものの、マリアナと顔を見合わせ、肩をすくめて微笑んで見せた。
…夫婦とは良いものだな。
二人の様子を見ながら、素直にアーレスはそう思った。父と母は無論のこと、リオーネとシセルの夫婦仲も理想的だ...カインは少し気の毒だが、それは自身で決めたことだし、マリアナ妃と居る時はとても幸せそうに見える...
…それに比べて、私はどうだ?
近頃はそのことを少し意識する様になった。今のところは父も言及しないが、いずれ結婚話が具体的になるのは間違いない。
…私の気持ちは何一つ定まっていないんだが…
不幸とは感じなかった。シャリナが母になって以来、それだけで心が満たされていたからだ。
…しなければならない結婚だとしても、せめて相手は自分で選びたいものだ...
マリアナ妃とシャルア王子を馬車へと誘うと、アーレスも騎乗した。
…そう言えば、ここ数日セレンに会っていないな。
アーレスはセレンティアの顔を思い浮かべて微笑んだ。日々成長を遂げる”養い子“は、いつの間にかアーレスにとっての「喜び」になっていた。
「帰ったらまた遠乗りに連れて行こう。」
そう決意しつつ、王太子の脇へと馬を歩かせた。
その数時間前…
フォルトはシュベール城に到着すると、馬を飛び降り一目散にシャリナのもとを目指した。
出迎えを待つことなく、告知の暇も与えず居室の扉を開け放って飛び込む…
「帰ったぞ、シャリナ!」
勢いよく歩み寄るフォルトに、シャリナが驚いて目を丸くした。
...言葉を発する間もなく抱きしめられ、唇が重なる…
「寂しかった...そなたが恋しかったぞ。」
フォルトが耳元で囁くと、シャリナもフォルトの背に腕を回して抱きしめた。
「私もよ...おかえりなさい。」
身体を離したフォルトが嬉しそうに微笑む...シャリナも麗しく微笑んでいた。ようやく安堵し、フォルトは視線を窓際の小さなベッドへと移した。
「ブルーは寝ているのか?」
「ええ、今さっき寝ついたばかりよ。」
「様子はどうだ?」
「お熱はニ度...いつも夜になってからよ。」
「私が居らぬあいだは大変であったであろう?」
「私は大丈夫...でもブルーはとても寂しそうだったわ。」
二人はブルームが寝ているベッドの傍に歩み寄り、あどけない寝顔を覗き込んだ。今すぐ抱き上げたい気持ちを抑えてフォルトが目を細める...
「本当にブルーは華奢ぞ...もう少し大きくなってくれねば...」
「食が細いのも心配ね…」
シャリナが小さく溜息を吐き、フォルトにそっと身を寄せた。フォルトは妻を引き寄せながら静かに告げる。
「今日の午後、マリアナ妃殿下が来られる…殿下と王子と一緒に。」
「マリアナ様が?」
「うむ...ネスバージの医師にブルーの相談をして下さるそうだ。その前にそなたから詳しい話を聞きたいと仰せだった。」
「まあ...そのためにわざわざご足労を?」
「妃殿下はそういうお方...実に優しく聡明で在られる。」
「恐れ多いことだわ...急いでお迎えの準備をしなくては...」
「その指示はもう済んでおる。家令に任せておけば良い。」
フォルトは口角を上げると、妻の頬にゆっくりと顔を近づけた。
シャリナは少し躊躇ったものの、拒む事なく夫の誘いを受け入れる…多忙を極めた10日間、フォルトも大変だったに違いない。ブルームが目を覚ますまで、しばらくゆっくり過ごすべきだろう…
「...そういえば、兄上にチェスの相手を命じられていたのだが...」
フォルトは言った。
「アーレスは上手く身代わりを務めていようか...」
「身代わり?」
「うむ。あやつに押し付けて参った...」
「まあ...そんな…」
「どうせいつもの嫌がらせだ...目的が達成できないと知れば、すぐに飽きて解放されよう。」
「そうかもしれないけれど...」
マルセルの性格を熟知しているだけにすっぽかしを決めたのだろうが、言い訳をしなければならないアーレスが気の毒だとシャリナは思った。誠実なればこそ父親の我儘を断れないのは彼の弱点でもあり、長所でもあるのだ。
…帰って来たら労ってあげましょう。
シャリナはそう思いながら、密かに思案を巡らせた。
王子は初めて「ブルー」に対面し、不思議な気持ちで彼を見つめた。
父である人に抱かれ、すみれ色の大きな瞳でじっと自分を見つめている…見つめ返すと瞬時に笑顔を浮かべた。柔らかそうな薔薇色の頬...小さな窪みが真ん中に見えた。
「おお...気に入られたぞ、シャルア!」
リュシアンが笑顔で言った。
「一目見て笑顔になるとは...実に良い傾向だ。」
王太子の賞賛に、シャリナは恐縮して膝を折る。フォルトも笑顔になり、その場が和んだ。
「この子、誰?」
シャルアが尋ねる。
「そなたの伯父だ。」
リュシアンの答えにシャルアはポカンとなった。当然ながらその意味は理解できない…
「もう、リュシアン...シャルアには難しすぎるわ。」
マリアナが苦笑しながら嗜める。
「そうか?」
への字口のリュシアンからシャルアに眼差しを移し、マリアナは優しくシャルアに言った。
「この子はブルーム君....仲良くしましょうね。」
「ブルーム?」
シャルアはすぐにブルームのほうへ手を伸ばした。自分よりも小さい子供を見たことがないため、乱暴に頬を突つこうとしてマリアナに防がれる…
「まだ赤ちゃんよ...そっと触れなければいけないわ。」
母の言葉にシャルアが目を丸くした。手を引っ込めると父の胸にしがみつき、胸に顔を埋める。
「おお、よしよし!」
息子の珍しい仕草に気をよくしたリュシアンは、息子を力いっぱい抱きしめた。自分がそうされるのは日常茶飯事だが、シャルアにとっては初めてに近いことなのだ。
…マリアナ様はまことに良き母ぞ。
ブルームの危機を回避したフォルトは胸を撫で下ろし、密かにマリアナに感謝した。例えシャルアが王太子に似ていようと、この先、妃殿下がしっかりと導いていくことだろう..,リュシアンの粗暴がすっかり形を潜めた様に…
「さあ、どうぞこちらへ...お菓子などの用意をしております。」
シャリナが笑顔で誘うと、シャルアの瞳が輝いた。
「お菓子!」
幼い王子は言い放つと、父の腕を逃れて廊下を元気よく走り始める…シャリナは微笑むと、控えめに立っているアーレスの労をねぎらい、横に並んで歩き始めた。
ルポワド王城 中広間
「なぜ勝てぬ...」
マルセルは渋面を浮かべて呟いた。
結果を睨み、苛立ちを隠せず髪をかきあげる。
「あなたが弱いからだわ。」
エミリアが応酬し、容赦ない言葉を浴びせた。
「すでに5戦目...どうにも納得がいかぬ!」
「6戦目をご所望かしら?」
「無論だ、今度こそ打ち負かしてくれる!」
息巻く夫に対して、エミリアは極めて冷静だった。薄く微笑み、余裕の体で目を細める…
「受けて立ちますわ…国王陛下。」
「雪原の銀狐」と恐れられる大国の覇者も、チェス盤の上ではただの『子ぎつね』に過ぎない。
真にルポワド国を牛耳るのは『偉大なるルポワドの母』
エミリア・デ・ルポワドなのだった。
つづく