未来への杞憂
メルトワ王子来訪にあたり、宮廷内に居留を余儀なくされたフォルトの苛立ちは極限に達していた。
要人との謁見はもとより、領地視察の随行、猟場での誘導、王子への武術指導など、もうすでに六日を費やしている。
こんなにも長い時間シュベール城を離れたのはシャリナとの結婚以来初めてのことだった。
…ブルーが心配ぞ。
騎士団による槍試合の模擬戦を愉しむブラドル王子を横目に、フォルトは幼い我が子の身を案じた。
一歳の誕生日を迎えたばかりのブルームは虚弱で、週に一度は熱を出し、体も華奢でなかなか大きくならなかった。
「だーだ」
愛らしい声と微笑みを思い浮かべて目を細める...
熱の出た夜も自分が抱けば泣き止み、すぐに安心して眠る...シャリナとブルームを挟んで就寝するのは日常であり、それは幸福な時間だった。
…別れの際も泣かれてしまった...きっと寂しい思いをしておろう。
心労はシャリナの身体にも負担をかける。早く帰ってやりたいが、メルトワの王子が帰還するまでは帰ることは儘ならない...
「伯父上!」
不意に背後から大きな声が聞こえた。
振り返ると、王太子が大股で歩み寄って来ている。腕にシャルア王子を抱いており、その後ろにはマリアナ妃の姿もあった。
「王太子殿下、妃殿下...」
フォルトは頭を下げて出迎えた。リュシアンの腕の中でシャルアがじっと自分を見つめる...本当に目元が父親にそっくりだ。
「シャルア様もご機嫌のご様子。」
「ああ、マリアナには我儘を言うが、僕が抱くと大人しくなる。」
リュシアンは笑顔で言った。
「誰よりも僕に懐いているんだ。」
…懐いている?
それは疑わしいぞとフォルトは思った。
リュシアンがシャルアを愛しているのは間違いないが、日常、王子はマリアナ妃に張り付いてばかりいる。王太子の粗雑さを見ればさもあろうことだ...
「ブルーム君のお加減はいかがですか?すぐにお熱が出るとお聞きましたけれど...」
マリアナが少し心配そうに尋ねた。黒騎士とリオーネを通じて、ブルームのことを聞き及んでいるのだろう。
「...は、虚弱なのは相変わらず...いろいろ手を尽くしてはおるのですが...」
フォルトは正直に告げた。マリアナはルポワドでも屈指の医学知識の持ち主であり、誰よりも頼りになる存在だった。
「まあ...それはさぞご心配でしょうね...」
「は、妻も憂いております。」
杞憂を隠せないフォルトを、マリアナは気の毒に思った。アル・ファムドから託された医学書にも乳児の記述は少ない...あるいはファムド自身なら何か治療の方法を知っているかもしれないが...
「ねえ、リュシアン、ネスバージのファムド先生にお手紙を書いても構わない?」
「ファムド?...あの異国の者にか?」
「ええ、きっと良い知識をお持ちだと思うの...ブルーム君はまだ幼いし、お薬も大人と同じには飲めないから、何か別の治療を教えて頂く必要があるわ。」
「治療?」
「そうよ。」
「...そうか。」
リュシアンは納得してシャルアの顔を見遣った。シャルアも親指を口に入れながら父を見つめる...あどけない表情が何とも可愛いらしい...
「良いだろう。すぐに書くといい。」
リュシアンは口角を上げて答えた。我が子への愛おしさは理解できる...フォルトにしてみれば藁をもすがる思いに違いない。
「...では、私が先ずシュベール城に参ります。ブルーム君の様子と、シャリナさんに詳しい話を聞いてからのほうが良いと思うの...」
「一人で行くのか?」
「シャルアも連れて行くわ。」
その答えに、リュシアンは眉根を寄せた。シュベール城はここからごく近い場所にあるが、護衛を付けるにしても、妃と王子が心配だ...
…かと言って黒騎士に任せるのは癪だ。
対岸にいるカインを垣間見ながら考えた。適任なのは明白だが、最近ではマリアナだけではなく、シャルアまでもが黒騎士に懐き始めている...いつも柔和なカインは、母親シャリナ同様子供の扱いが上手なのだ。
「僕も行こう。」
リュシアンは言った。
「殿下も?」
「うむ、僕が行けば安心だ。」
…何か不安なことがあるの?
マリアナは首を捻ったが、口には出さずに頷いた。夫であるリュシアンがついて来るのは自然な事だ...拒絶する理由も見つからない。
「ご厚意に感謝致します、王太子殿下。」
フォルトが深く頭を下げると、リュシアンは息子に頬を寄せながら微笑んでみせた。
「ブルームは僕の従兄弟だぞ...元気に育ってもらわねば困る。そなたも遊び相手が欲しかろう...シャルア?」
王子は少し迷惑そうだったが、横からマリアナが髪を撫でると笑顔になった。
仲睦まじい王太子一家...
その姿に当てられて、フォルトの里心はさらに増すばかりなのだった。
馬上槍試合が終わると、リュシアンとフォルトはブラドルとの晩餐に出席するべく大広間へと出向いて行った。
マリアナはシャルアを連れて居室に戻ろうとしたが、偶然すれ違ったカインに声をかけ、そのまま上階のテラスへと彼を誘った。
見張りの兵士が数名立つその場所に来ると、シャルアが大はしゃぎで走り回る。飛び出して塀に激突しないように番兵達が思わず壁になって立ち塞がるほど、王子はとにかく大喜びだった。
「シャルア、そんなに走ったら危ないわ。」
マリアナが軽く嗜めるもシャルアは止まらず、.すばしっこく兵達の手をすりぬけて逃げ回っている。
「もう...シャルアったら...」
マリアナは救いを求める様にカインを見遣った。カインも気付いて口角を上げる。二、三歩前に出ると、大きく手を広げ、走っている王子の体をすくうようにして抱き上げた。
「さあ、捕まえましたぞ。」
カインはシャルアを高く掲げて言った。
シャルアが驚きつつも、きゃっきゃと声を上げる...ひときわ背の高い黒騎士の頭上で視界が開け、幼い王子はつぶらな瞳を輝かせている。
…羨ましい。
マリアナは密かに呟いた。シャルアの様にして貰えたらどんなに幸せだろう...
手中に収まったシャルアは大人しくなり、ベンチに座ったカインの膝にちょこんと乗って指を咥えた。
「良い子ね。少しお話しをするから待っているのよ。」
マリアナは王子の髪を撫でながら言い聞かせ、次いでカインを見遣った。
「最近、お母様には会った?」
「母上?四日前に会ったよ。」
「おかわりはない?」
「...特にはなかった。」
「そう。」
「何か気になることがあるの?」
「あ、うん...ブルーム君のことでね。」
「ブルー?」
「パルティアーノ公爵とお話しをしたの...ブルーム君がお熱をよく出すので心配だと仰っていたから、気になって...」
「ああ...そうらしいね。あの子は生まれつき体が小さくて虚弱なんだ。」
「やっぱりそうなのね...」
マリアナはカインの指を弄ぶシャルアを見て微笑んだ。リュシアンの言う通りに、ブルームにはシャルアの友となって欲しい...共に育ち、喜びを分かち合える存在になって貰いたかった。
「数日したらブラドル様も帰国されるから、ブルーム君の様子を見に行くつもりよ。ファムド先生の指示を戴くためのお手紙を書いて良いと、リュシアンに許可を貰ったから。それに、シャリナさんにも会いたいし。」
「それは...母上がとても喜ぶよ。」
カインは笑顔を浮かべて言った。優しいマリアナ...シャリナがどんなにか喜ぶだろう。
「それからもう一つ...夏を迎える頃にバレル君とシャルアを合わせたいのだけれど、頼まれてくれるかしら?」
「もちろんだよ。」
「二人が仲良くなって一緒に絵を描いてくれたら嬉しいわ。」
「バレルは大丈夫だ…あいつはシセルに似て優しいからね。」
「あら、リオーネさんだってとても優しいわよ?」
「それは否定しないけど、あれは少し大雑把なんだよ。」
「そうかな?」
「うん、父上に似てね。」
マリアナは声を出して笑った。気さくで大らかな人柄だったユーリ…確かに、リオーネは彼によく似ている。
「リオーネとシセルにその旨を伝えておくよ。」
「ええ、お願い。」
二人は微笑み合う幸せを噛み締めた。
シャルアがいるお陰で談笑が許される..,
「クルクルして...」
王子が上を向いて命じると、カインは「御意」と応えて立ち上がった。『子煩悩』なカインの姿に、マリアナも目を眇めて微笑みを浮かべた…
「これはなかなかの名作だ。」
グスターニュ城の大広間に騎士団の騎士達が集まり、その顔をしきりに壁に近づけていた。いつもであれば武具がどうの馬がこうのとばかり言っている彼らだが、珍しく一枚の絵を囲んで盛り上がっていたのだ。
「バレル様は画家としての才をお持ちだ。」
「アノック子爵の指導の賜物では?」
「いや、俺なら習ったところでこうまで描けん。」
「...違いない!」
「うむ...それにしても、まことにお上手だな…」
感心しきりの騎士達を遠目に眺めつつ、セオノアは満足しながら微笑んだ。
「お馬とパパの絵が描きたい」と望んだバレルに指導しながら描かせた絵画…
幼児が描いたものだけに「完成」されてはいないが、馬の特徴や、パパ=シセルの立ち姿など、誰もがそれと判るほどの特徴を捉えている。彩色の仕方を教えている際もきちんと話を聞き、一生懸命に仕上げた絵だった。
「賑やかだな...」
入り口のアーチを通ってシセルが姿を現すと、騎士達が背筋を伸ばして頭を下げた。シセルは彼らの姿を一瞥した後、正面の壁を見つめて目を眇める。
「バレルの描いた絵か?」
「はい、とても素晴らしい絵だと、皆で感心していたところです。」
騎士は口角を上げながら答えた。
「素人の我らの目でも、良い絵だと解ります。」
「嬉しい言葉だが、褒めすぎると有頂天になる…伝えるのはほどほどにしておいてくれ。」
シセルは静かに嗜めた。
「肝に銘じます。」
優しくも厳しい騎士団長の言葉に、騎士たちがすぐさま襟を正す…
「何事にも奢るな」は、グスターニュ騎士団の創始者であるクグロワの口癖であり、団訓として伝承されている戒めだ。
「失礼します!」
シセルに一礼すると、騎士達は大広間から出て行った。残されたシセルが改めて我が子の名作に顔を寄せる…灰色の馬と馬上の騎士…親馬鹿かもしれないが、本当に上手だと感心してしまう…
「素敵な絵でしょう?バレルの愛を感じるわ...」
セオノアはシセルの隣に立って言った。
「よほど貴方を尊敬しているのね。まったく、羨ましい…」
「尊敬されているじゃないか、リオーネにもバレルにも…」
シセルが応酬する。
「私は夫で父親だから当然だが、貴方は違う…リオンは今でも敬称を付けて呼んでいるし、息子は明らかに師と仰いでいるぞ。」
「あら、それは皮肉?バージニアス子爵…」
「そう聞こえるかな?」
「ええ、もの凄く。」
二人は視線を交わした。かつてリオーネを通じて知り合った画家と騎士…リオーネに対するその思いに、シセルもセオノアも互いに気づいていたのだ。
「修行中にリオンが描いてくれた絵は今でも私の宝物よ。」
セオノアは顎を上げて告げた。
「そんなものが存在するのか?」
「在るわ…まだ貴方に心を奪われる前のリオンの絵がね。」
「…どんな絵なんだ?」
「内緒。「絶対見せないで!」ってリオンに固く止められているの。」
「そんなに酷いのか?」
「想像にお任せするわ。」
嬉しそうに口角を上げるセオノアの表情を、シセルは渋面を浮かべて見つめた。“妻“に絵の心得など無いと思っていただけに、それは意外な事実だった。
「絵の才能というのは、突然現れるものなのだろうか?」
シセルは大真面目に問いかけた。
「さあね…私は父親が画家だったから、気付いた時には当たり前に描いていた。…でもお母様は絵画に全く興味がなかったし、筆一つ手にしたことは無いわ…だとすれば、同じ血筋であっても違いがあるのかもしれないわね。」
「…バレルは、騎士より画家に向いていると?」
「それは判らないわ…まだ四歳だもの。」
シセルは低く唸って押し黙った。
実のところ、バレルにはブランピエールの跡目を継ぐ可能性が残されている…カインがこのまま独身を貫けば、必然的にそうなってしまうのだ。
…リオンもカイン様もそうすべきとの考えだ…次代の黒騎士として、カイン様はじきにバレルの修行をお始めになられるだろう…
長く続く厳しい騎士修行…バレルにとって悲惨なものにならないことを、父としてのシセルは杞憂するばかりだった。
…こんな時、ユーリ閣下がいれば喝を入れて頂けたのだが…
大きく描かれた『漆黒の狼』の勇姿を見上げながら、シセルは深い思いに考えを巡らせた。
つづく