バレルと画家
「ちぇおー!」
背後から声が聞こえる...その舌足らずの言葉には聞き覚えがあった。
振り返ると、小さな貴公子が遠くから走り寄って来ていた。視線を向けて微笑むも、その勢いに心配になって眉をひそめる。
「そんなに走ったら危な...」
告げようとする間もなく、小さな貴公子が目の前で勢いよく転んだ。石畳の地面に突っ伏して動きが止まる...
「バレル!」
セオノアは仰天して叫んだ。
駆け寄って手を差し出そうとするセオノアを、ついて来た父親のシセルが手で制す。彼は黙って幼い息子がどうするかを見極めている様子だった。
「いちゃい...」
バレルは泣き顔になりながらも自ら起き上がった。手のひらが擦り傷になり、血が滲んでいる...
「大変...」
セオノアはハンカチを出して、バレルの傷を拭った。
「痛いでしょ…傷口を洗わないと...」
優しいセオノアの言葉に泣きべそをかくバレルだったが、背後に立つ父を見上げるとすぐに泣き止んだ。シセルは厳しい表情をしており、決して哀れんではいなかったからだ。
バレルは泣くのを我慢して立ち上がり、セオノアに抱きついた。大好きな「お絵描きの先生」は、優しく頭を撫でながら「偉いわ...」と言って慰めてくれた。
シセルの目があるので抱き上げることは控え、バレルの小さな手をそっと握って立ち上がった。
「相変わらず厳しいわね、バージニアス子爵?」」
セオノアの皮肉に、シセルがわずかに目を細める...
「いずれはもっと厳しい修練が始まる…
甘やかしは本人のためにはならない。」
父親というより、騎士の顔でシセルは答えた。高潔で有名なこの騎士は、どうやらすでにその覚悟を決めている様だ。
…でも、心中は複雑...という訳ね。
セオノアには解っていた。父の顔に戻れば息子に甘々の「パパ」...目に入れても痛く無いほどの可愛がりようだということを...
「公爵閣下が絵の依頼を?」
「ええ、ご子息の絵と、ご一家の絵を描くわ。」
「何枚も描くのは大変だな。」
「そうねぇ...下書きを済ませるまでは、滞在させて頂くことになるわね。」
「仕上げまでにどれほどかかるものなんだろうか?」
「まあ、肖像画ならひと月ぐらいかしら...」
「...なるほど。」
エントランスから城内に向かって歩き出しながら、シセルは視線を下に落とした。バレルはセオノアの手をしっかり掴んで歩いている...絵心など全く無いシセルだが、息子はそうではないらしい。数日に一度はセオノアのアトリエに通っていて、絵の書き方を教わっているのだ。
「ちぇお...ぼくお馬の絵が描ちたい...」
「お馬?」
「うん。パパのお馬!」
「パパも一緒の?」
「うん。」
「そう...じゃあ、またアトリエにいらっしゃい。」
「うん!」
バレルは頷くと嬉しそうに笑った。
シセルもそれには口を綻ばせる...いずれ騎士修行に出すにしろ、可愛い盛りの今は、まだまだ腕の中に収めていたいと思った。
「リオンはどこに行ったのかしら...」
セオノアは辺りを見回しながら言った。到着するまでは一緒だったが、行き先を告げず、すぐにどこかへ行ってしまったのだ。
「王太子妃をお出迎えに行ったのだろう...」
シセルは言った。
「妃殿下がいらっしゃるの?」
「ああ、カイン様がお連れになるので、途中まで迎えに行ったんだ。」
「そうだったの...」
セオノアは納得し、エントランスを潜って城内に入った。案内係に客間へと案内されると、侍医がバレルの怪我の治療を始めた。
「ごきげんよう、妃殿下。」
リオーネは恭しく頭を下げた。
「こんにちは、リオーネさん」
マリアナも笑顔を浮かべる。
シュベール城の城門外で待ち受けていたリオーネは、カインとマリアナを出迎えると、挨拶を交わした。
「...敬称など畏れ多いことです。呼び捨てでお呼びください..」
「あ、そうだったわ...つい...」
マリアナが肩をすくめると、カインがわずかに微笑む...
その表情から観て、リオーネは弟の気持ちが穏やかであることを洞察した。どうやら二人は幸せな時間を過ごせた様だ...
「公爵様がお待ちです。参りましょう。」
「ええ、早く赤ちゃんの顔が見たいわ。」
「リオンはもう見たのか?」
「まだよ...今、セオ様を置いて来たところ。」
リオーネは再び騎乗しながら言った。
「バレル君も来ている?」
「ええ、シセルと一緒にいます。」
「会うのはパルティアーノ卿の誕生祝賀祭以来ね...大きくなったでしょう?」
「そうですね...最近は絵を描くのに夢中で...」
「絵を?」
「はい、アノック子爵が城の離れにアトリエを構えているので、彼に習っているんです。」
「まあ...それは初耳だわ。」
「俺もリオンも、それにシセルも才能が全然無いんだが、アノック卿によれば、バレルは才能があると言うんだ。」
「そうなの?」
「まだ落書きにしか見えないんですけどね...」
「あら...そうでもないかもしれないわ。私も小さい頃から絵を描くことが好きだった...お父様がとても上手だと褒めて下さったのよ。」
「お父上が?」
「ええ、父は製図を描く傍ら、時々絵本の挿絵を描いてくれたの...とっても上手だった。」
「寝耳に水だ...」
カインは目を丸くして言った。
「本を読む事は好きでも、絵を描くのが得意だとは知らなかったよ。」
「...カインに出会った頃は余裕がなかったから...生活するので精一杯だったのよ。」
「...ああ、まあ確かに。」
「ねえ、リオーネさん。シャルアがもう少し大きくなったら、バレル君と一緒に絵を習わせても良いかしら?」
「シャルア様と?」
「ええ、親族なのだし、より仲良しになれると思うの。」
「妃殿下...」
リオーネは笑みを浮かべた。
…シャルア王子はいずれ国王となるお方...今のリュシアンがそうであるように、バレルはカインと同じく、盟友となるに違いない。
「光栄です妃殿下...早速、セオ様に相談してみましょう。」
「ええ、是非!」
マリアナは目を輝かせて言った。
二人の仲の良さに、カインも表情を綻ばせて頷いた。
「うむ、やはりブルーはルポワド随一の美男ぞ...」
その言葉をもう何度耳にしたことか...
シャリナは苦笑を浮かべて夫を見遣った。
どんなに笑われてもフォルトは呟くのを止めなかった。先約を全て破棄して寝室に居座り、ブルームの顔を覗いては、顔を綻ばせてばかりいるのだった。
「リュシアン殿下もそう仰られていたわ...」
シャリナは微笑みながら言った。
「シャルア様がお生まれになった時に。」
「それは妃殿下に似ておればこそ...であろう?」
フォルトは臆面もなく言った。
「父親似の面立ちでは美男とは言い切れぬ...」
「ま...」
シャリナは目を丸くした。
「なんてことを...言い過ぎよ。.」
「だが真実ぞ..,」
「フォルト。」
シャリナは夫を嗜めた。ブルームに対する愛情には感謝して有り余るが、少し溺愛が過ぎるように感じる...
「どう見てもブルームの勝ちぞ...のうブルー?」
小さな額にキスをして、フォルトはまたしても「禁句」を呟いた。これはもう重症だ...
「仕方のないお父様ね、ブルーム?」
シャリナは肩をすくめると、すやすやと眠るブルームに向かって囁いた。
「フォルト様、王太子妃殿下がお越しになられました。」
「...マリアナ様が?」
フォルトは驚いた。てっきりエミリアが来るものと思っていたからだ。
噂をすれば影...意外な来訪だったが、さすがに襟を正さねばなるまい。
フォルトは抱いていたブルームを子供用のベッドへと寝かせた。
「出迎えて参る。」
「ええ、お待ち申し上げております。」
フォルトは口角を上げると、足早に部屋を後にした。
「ようこそおいで下さいました、妃殿下...」
フォルトとアーレスは並んでマリアナを出迎えた。
歓迎を受けたマリアナは微笑み、パルティアーノ公爵の手を取って応える。
「ご子息のご誕生、おめでとうございます。どんなにか嬉しいことでしょう。」
「はい、無事に生まれ、心より安堵しております。」
「私も嬉しいわ...シャルアとは歳も近いし、仲良くして貰えると良いのだけれど...」
「勿論ですとも、王に仕えるのが我が一族の務め...シャルア様をお慕いするに違いありません。」
「楽しみだわ。」
マリアナは頷き、フォルトの隣に控えているアーレスを見やった。親しい友人である赤い髪の貴公子とは、何も言わずとも、お互いの気持ちを理解し合合える...
「さあ、こちらへ…妻が寝室にて待ちかねております。」
フォルトに誘われ、マリアナは歩き出した。途中でバージニアス一家とカインが合流する。その後ろには、首を垂れたセオノアの姿もあった。
「わざわざのお越し...痛み入ります、妃殿下...」
寝室に入ると、シャリナが謝辞を述べた。
「無事のご出産で、本当に良かった。」
マリアナもそれに応えて祝辞を贈る。二人は互いに手を握り、笑顔で短い会話を楽しんだ。
「...なんてかわいらしい!」
マリアナが赤児を見つめながら言った。
「シャルアよりも美形だわ...」
その言葉にシャリナとフォルトが視線をかわす...マリアナ妃は素直な性分なのだ...
王太子妃を取り巻きながら、カインとリオーネ、そしてシセルとバレルもブルームと初対面した。
「私の弟だ...」
リオーネは、瞳を潤ませながらシセルの肩に頭を乗せ小声で呟く。
「閣下にそっくりだね...」
シセルが耳打ちした。
「唇の形はお母様よ...」
二人の会話を耳にしながらカインも微笑む...親子ほど歳の離れた弟は、アーレスと共有の兄弟でもあった。
「兄になった気持ちは?」
カインは口角を上げてアーレスに尋ねた。
「感動だ...夢のようだよ。」
「気持ちは解る...俺も兄になるのは初めてだからな。」
「ああそうか...君はリオンの弟だったんだな。」
「自覚はないけどね...」
初の「兄」体験を語る息子達の会話にに、シャリナは口もとを手で押さえて笑った。カインもアーレスも結婚の適齢期を迎えていると言うのに独身で、本当にまだまだ無邪気だ...
「なんちぇお名前?」
バレルがブルームの顔を覗き込んで訊いた。
「ブルームよ...バレル。」
シャリナが黒い髪を撫でながら答えた。
「ブルー?」
バレルは不思議そうにブルームを見つめた。薔薇色の頬に触りたくて、指をそっと押し付ける...
触れた拍子にブルームが身じろぎ、驚いたバレルが手を引っ込めた。
「お口を開けたよ...ママ」
膝に抱きついた息子をリオーネが軽く抱き上げる。
「お腹が空いたのかもね...」
「おっぱい飲むの?」
「バレたんも飲みたい?」
「僕、赤ちゃんじゃないよー!」
幼いバレルの訴えに、全員が笑った。
「そろそろお暇しましょう。」
マリアナも頷き、背後に立つフォルトに向き合った。
「少しの時間、滞在させて頂いても宜しいでしょうか?」
「勿論ですとも...どうぞ気兼ねなくご滞在下さい。」
「感謝致します。」
最後にもう一度シャリナを労ってからマリアナは部屋をあとにした。
フォルトも退室し、カイン達も後に続く...
「アノック卿...少し良いかしら?」
シャリナに呼び止められたセオノアだけが残される...
「なんでしょう?」
セオノアは尋ねた。
「ペリエ城の様子はどう?」
「はい、先月訪れた際にはきちんと管理されておりました。シャリナ様の花壇も無事です。」
「良かった...置いて来たユーリの絵が気になって、ときどき見に行く夢を見るの...一度帰りたいのだけれど、フォルトにはなかなか言い出せなくて...」
「ペリエ城は遠方ですから...」
「それでね、貴方が滞在してる間に、個人的に絵の依頼をしたいと思うのだけれど、受けて貰えるかしら?」
「依頼...ですか?」
「ええ。」
「ご希望は?」
「ロケットに入る大きさのユーリの肖像と、セレンの肖像画よ。」
「セレン?」
「ええ。」
セオノアはシャリナを見つめた。
優しき貴婦人が「セレンティア」と名付けた不遇な少女...その肖像画を描いて欲しいという意図とは何なのだろう...
「あ、でもこれはフォルトには内密にね...やましい訳じゃなくて、彼はとても気難しい人だから...」
…確かに。
シャリナは公爵の気性を誰よりも心得ている...無難な配慮だ。
「承りました。滞在中にそちらも進めます。」
セオノアは応えた。シャリナの意図がどうであれ、良い絵を提供することが画家の仕事だった。
つづく