叶わぬ想い
フォルトは複雑な心境でアーレスを見つめていた。
告げられた言葉が心を抉る...まるで刃を突き刺されたように。
「本当にそれで良いのか?与えられた義務だからと、承諾する必要はないのだぞ...」
訝しげに問いかける。カインの報告は真実なのか…それを直接聞かねばならなかった。
「義務感については否めませんが、返答を先延ばしにして、相応の相手が現れるとも思えない…何しろ、私には恋愛感情が理解できないのです。」
「理解できない?」
「母上に抱いた思慕は、私が幼い頃に求めていたもの…愛や恋というものではなかった。母上と暮らす今では、望むものもありません。」
「...シャリナの件は論外ぞ。」
フォルトは眉根を寄せた。
「そなたの感情の希薄さは、私の愚かさが原因…」
「父上...」
「悔いている…辛い日々を送らせてしまったことを…」
アーレスは俯き、押し黙った。
…伯母上も仰られていた…これは贖罪だと。
「王女との婚姻となれば、それは政略的な意味を持つ。
あくまで外交交渉の切り札であり、国王の都合だ。」
「理解しております。」
「ならば今一度、自分に問うてみよ…真にそれを望むか否か…」
フォルトの問いに、アーレスは困惑した。
…結婚するのは私だ…今さら何を問えというのだろう。
マリアナの言葉を信じるのであれば、お互いを受け入れることはできる…父は母を結婚前から愛していたのだから、私とは全く条件が違うのだ。
「分かりました、父上の意に従います。」
アーレスは静かに告げた。
「ですがどうか、陛下との確執だけはお避け下さいますように…」
「王太子殿下、ご帰還!」
その声を聞いたカインとマリアナは、目を見開いて顔を見合わせた。
「ああ...とうとう」
「そのようだね...」
二人は座っていた椅子から立ち上がった。
静かな中庭で絵を描いていたシャルアとバレル、そしてブルームも騒ぎ始めた城内に目を丸くしている...
「マリアナ!」
遠くでリュシアンの声が聞こえた。
「どこだ!」
王太子の大声を耳にしたブルームが泣きベソをかきはじめた。王太子の声はそれほどまでに迫力があるのだ。
「避難して下さい。」
カインは言った。
「リュシアンが来る前に。」
「アノック子爵もご一緒に...」
マリアナとカインが勧めると、シャリナはブルームを抱き上げ、
片手でバレルの手を掴んだ。
「片付けは済ませておくよ、セオノア…」
「よろしくお願いします。」
セオノアも足早に行ってしまい、残されたシャルアがマリアナに抱きついて訴えた。
「ちちうえが帰ってきたの?」
「ええ、お出迎えをしなくては。」
「やだ...ぼくバレルのところに行きたい。」
「お父様が寂しがるわよ。」
それでも首を横に振るシャルアに、カインが助け舟を出した。
「黒騎士がお連れいたしましょうぞ!」
カインが両手を広げると、シャルアが抱きつき、すぐに機嫌を直した。高い位置に目線が移り、嬉しそうな声を上げる…
「いいな...私もカインに我儘を言ってみようかしら...」
「えっ?」
「そうしたら“抱っこ”してもらえるんでしょう?」
「おい、マリアナ...」
カインは苦笑した。マリアナは駄々をこねる…時々ではあるが。
「そんなことをしたら投獄沙汰だ。」
「...そうだけど。」
「並んで歩けるだけで、俺は幸せだ。」
…とはいえ、当分の間は会話も難しいだろう。
落胆を隠しつつ、カインは思った。
リュシアンが狩りに行ったのはマリアナのため。妃に功績を讃えて欲しいからに他ならない。
…ああ、マリアナの耳が心配だ。
カインの杞憂をよそに、二人はエントランスに向かった。騒々しさと獣の匂いに、不穏な空気が漂いはじめていた…
「遅いぞ、マリアナ!」
マリアナの姿を目にすると、リュシアンが勢いよく歩み寄って来た。満面の笑顔を浮かべ、両腕を広げながら顔を近づける。
「帰ったぞ…愛する妃よ。」
抱きすくめてキスをするも、マリアナはすぐに顔を離して渋面になる。
「酷い匂い...」
「そうか?」
「鼻が曲がりそう」
リュシアンは自分の匂いをクンクンと嗅いで首をひねった。
「確かに、まる六日間、体を洗っていないが...」
顔も体も汚れていて、おまけに無精髭が伸びていた。もはや王太子と言うより、物乞いに近い汚さだ。
「狩りは大成功だった…本当はもっと捕まれたんだが、持って帰れないと止められたんだ。」
「多すぎるくらいよ...」
マリアナは小声で言った。鳥や鹿、兎など、さまざまな動物が広場に並べられている...すべてがリュシアンの功績ではないにしろ、これは命の無駄遣いだ。
「なんだカイン、そこにいたのか..,」
リュシアンはマリアナの後ろにいたカインを見やり、ついで、胸にくっついている王子に視線を移した。
「どうして泣いているんだシャルアは?」
「そんな姿では泣かれて当然よ。」
「そんなに酷い?」
マリアナはリュシアンの手を掴んで歩き出した。
「武勇伝は体を綺麗にしてからよ!すぐに入浴しなくては。」
「わかった...そうする。」
リュシアンもマリアナの後を歩き出す…妃の意見は絶対。
すっかり大人しくなった王太子に、カインは笑いながら肩を撫で下ろすのだった。
「セレンは絵が上手なんだよ。」
ある日、バレルが嬉しそうに告げた。
「セオ先生にも見せてあげる。」
…ああ、やめて下さい。
セレンティアは顔を真っ赤にして言った。
昨夜、バレルと一緒に描いた落書きは、生まれて初めて描いた絵だったのだ。
差し出された紙を受け取り、セオノアは目を見開いた。
「これをあなたが?」
…はい。
「上手でしょ?」
「ええ、とても。」
バレルとセオノアは顔を見合わせて笑顔を浮かべた。
「この絵を仕上げてみる?」
…仕上げ?
「もう少し全体を整えて、色をつけてみるの。」
「ぼくも手伝うよ!」
セレンティアの戸惑いをよそに、師と弟子の意見が一致した。
セレンティアが描いたのは一輪の薔薇…
庭園で咲いた真っ赤な蕾だった。
「…それで、絵を仕上げることになったのかい?」
庭園を歩きながら、アーレスは尋ねた。
…はい。そうなのです。
「それは意外だ…私もその絵を見てみたいな…」
…駄目です、恥ずかしい。
肩をすぼめるセレンティアに、アーレスは目を細めて微笑んだ。
「才能というのは、各々持って生まれたもので、後付けができないんだよ…恥ずべきではなく、むしろ誇るべきだ。」
…大げさです。才能なんて…
「アノック卿がいる間だけでも、絵を描くといい。」
優しい笑顔にセレンティアの心が震える…
…アーレス様は、本当に素敵な方…
将来、横に並ぶのはどんな方なのだろうと想像した。きっと眩いばかりに美しい、高貴な姫君に違いない。
…ご結婚なされば、私の存在は邪魔になる...お側には居られない。
そう思うと悲しかった。許されるなら、このままシュベールで仕えていたい…けれど、そのほうがきっと何倍も辛いに決まっている…
「セレン?」
アーレスは立ち止まり、セレンの瞳を覗き込んだ。
「大丈夫かい?」
…あの、少し緊張してしまって。
セレンティアの答えに安堵したアーレスは、白い薔薇の蕾を選んで手折り、セレンティアの髪に刺した。清楚な薔薇が養い子の表情が美しく彩る...可憐な貴婦人だ。
「よく似合う...」
アーレスは目を眇めた。
「花冠にすれば、もっと華やかだね。」
…私にはこれで十分です。
「…セレン。」
セレンティアが微笑むと、そよ風に栗色の髪がなびいた。
この瞬間が、アーレスの一番の喜びだった...
半月後──
王都に噂が流れた。
“パルティアーノ公爵の子息がご婚約”
宮廷はその話題で持ちきりになり、新しい風の到来に、諸侯達が色めきたった。
アーレスが姿を見せると、人々が次々に祝福の言葉を告げる。
「まだ、決定ではないのですが…」
丁寧に答えていたものの、ついには答えるのが面倒になり、宮廷からは暫く距離を置く事になった。
「おはようございます。アーレス様。」
聞き覚えのある声が背後で聞こえた。
振り返ると、回廊の先にシセルの姿が立っている...外套を手にしており、拍車のついたブーツを履いてるところから、今しがた到着したばかりの様子だった。
「バレルを迎えに?」
「はい、ひと月が経ちましたので、迎えに参りました。」
「もうひと月経ったのか...」
「そうなります。」
アーレスはシセルと握手を交わし、大広間に案内した。早朝なので、人が少なく、城内は静かだった。
「目覚めがお早いのですね。」
「人に会うのが面倒なんだ...最近はすっかり引きこもりでね。」
「婚約の件が原因でしょうか?」
「うん、噂のもとは陛下だろうから、多分、意図的に流されたのだと思う。」
「だとすれば、すでに決まった話ということなるのでは...」
「おそらくね。」
迷いのない答えに、シセルは唸った。
「リオンが心配していましたが、余計な杞憂だった様です...」
「余計なんてことはないよ...見知らぬ姫君との婚約話で、平常心を保てというのは無理な話だ...」
「...は。申し訳ありません。」
「謝るところじゃないよ。」
アーレスは明るく笑って言った。
「思うところがあって...考えを変えたんだ。私はこの婚約を肯定的に捉えようと思う。そうすれば、メルトワの姫君も納得してくれるものと期待しているよ。」
「アーレス様...」
「努力するつもりだ。良き伴侶になれるように...」
アーレスは決然として告げた。
その決意に頭が下がる…なんと立派な志だろう。
「佳き伴侶に恵まれますように…」
シセルはそれを心から願った…
「ちちうえ...!」
シセルを見たバレルは歓喜し、走り寄って抱きついた。シセルが息子を軽々と抱き上げる...父と子はしっかり抱き合った。
「良い子にしていたか?」
「うん!」
「伯父上に迷惑をかけずに?」
「うん!」
「誓えるか?」
「うん!」
「よし、信じよう。」
シセルは笑って頷いた。シャリナも横で微笑んでいて、抱かれているブルームも大きな瞳で見つめている。
「バレルは頑張っていたわ...シャルア様がそれはそれは懐いてしまって、ひと時も離れたがらなかったのよ。」
「シャルアが一緒じゃなきゃ嫌だって泣くから、ぼく、一緒に寝てあげたんだよ。」
「一緒に?」
「うん。」
「それは難儀だったな...」
シセルは目を丸くして言った。おそらくマリアナ妃の配慮に違いないが、そこまで密着しているとは夢にも思わなかった。
「ブルームもバレルが大好きなの...外で遊んでもらってお日様の下を歩くものだから、夜もよく眠れて元気いっぱい…バレルの行くところはどこまでもついて行ってしまうのよ。」
「ブルーはもう手を離して歩けるんだよ…」
バレルの耳打ちに、シセルの胸が満たされる…
知らぬ間に成長していく子供たち...なんと素晴らしいのだろう。
「来年にはバレルもお兄さんね...そして、あなたも二人の子の父親になる…とても賑やかになるわ。」
「まことに...」
「ちちうえ、ぼく、妹が欲しい。」
「妹...なぜだ?」
「だって...弟はたくさんいるもん...」
「弟...」
シセルが目を丸くすると、シャリナが思わず笑った。
シャルアもブルームもバレルにとっては“弟”に過ぎず、とうとうその複雑な関係性を理解することはできなかったのだ…
「みんな兄弟、今はそれで良いわ…」
バレルの髪を撫でながら、シャリナは穏やかに言った。
「あとはリオンの子が無事に産まれるのを待つだけね…」
シセルは、翌々日までシュベール城に滞在し、その後、バレルを連れてグスターニュ城に帰って行った。
最後の日には「小さな展覧会」と称して、セオノアが子供たちの描いた絵を公開し、庭園を会場として展示した。
国王夫妻や王太子も訪れる中、シャルアはバレルの帰還を知って大泣し、マリアナを散々困らせたが、しがみついて泣き喚くシャルアに、バレルも寂しさを滲ませながら涙を浮かべるのだった。
…行ってしまいましたね。
見送りを終えたシャリナに、セレンティアが言った。
「そうね...ブルーは別れを言えなくて残念だったけれど、シャルア様のように泣かれるよりは良かったかもしれないわ。」
セレンティアは頷いた。バレルが座っていた椅子はすでに片付けていて、その場所に穴が空いたように感じる。
「カインも帰ってしまったし、寂しいわ...」
…ええ。
大人しいセレンを、シャリナは静かに見やった。
アーレスの婚約を知ってから、セレンティアは物憂げに顔を伏せることが多くなったように思う…もともと大人しい子ではあったが、さらに無口になって、思いつめている様に見える...
「...セレン。」
シャリナは言った。
「...悩みがあるのなら、打ち明けてちょうだい。」
セレンティアが我に帰って顔を上げる…
「悩みを心にしまっておくのは良くないわ。私にできることがあれば力になるから...」
…シャリナ様
セレンティアは口を開いたものの、すぐに結んで俯いた。
たとえ声が出せても、胸を裂く思いは言葉にできない...
...アーレス様を愛しています。
…お手紙を戴きました。
「手紙..,?」
セレンティアは頷き、ポシェットにしまっていた手紙を取り出し、シャリナに手渡した。
「…ソラン・ファルコ?」
差出人の意外な名前に、シャリナは目を見開いた。
「何故ソランが、あなたに手紙を?」
シャリナは、戸惑いながら内容に目を通した。
“君に求婚したい。“
綴られていたのは、セレンティアへの愛の言葉だった...
つづく




