師からの便り
「ここで何をしてるの?」
少年は尋ねた。歳は同じくらいの様で、とても綺麗な声だった。
…ジョルジュ夫人をお待ちしています。
セレンティアは手振りで答えた。自分の代わりに傍の侍女に答えてもらいたかったが、いつの間にかその彼女もいなくなっていたので仕方がなかった。
セレンティアが声もなく口を開くのを見て、少年は首を傾げた。
「どうして喋らないの?」
…喋らないのではなくて、声が出ないのです…
セレンティアは一生懸命に手振りで語った。ソランは奇跡的に理解があったが、大抵の人は人は意図的に話をしないと思ってしまうのだ。
自分の胸に手を当て、喉元を指差す。左右の人差し指をクロスさせて頭を下げた。
「声が…出ないの?」
...はい。
「ふうん…」
少年は不思議そうな顔をしたものの、不快な様子ではなく、セレンティアをしげしげと見やった。
「不思議な女の子だ…」
…不思議なのは貴方のほうです。
しばし視線を合わせた後、少年はチラと周囲の様子をうかがい、セレンティアの手を握ると言った。
「おいで…一緒に行こう」
…えっ?
少年に手を引っ張られ、意図せず立ち上がる。
…どこへ?
「さあ早く…見つからないうちに。」
…え、でも!
セレンティアの問いを無視して、少年はグイグイ前へ進み始めた。ポピーが咲き乱れる庭園を抜けだし、人々が行き交う回廊を避けて脇道に入る。城壁に沿った石組みの階段を下り、やがて小さな広場に行き着くと、「メフィー」と声をあげた。
…メフィー?
セレンティアが首を回すと、そこに栗毛の立派な馬が立っていた。木陰でこちらを見ていて、首を上下させている。
「馬に乗ったことは?」
…あります…けど。
セレンティアは歩後ずさりながら頷いた。
「それなら大丈夫だね。」
少年はセレンティアを抱き上げ、いきなり馬の背に乗せた。自分も素早く跨り、有無を言わせず疾走を始める…
…何するの⁉︎
声無き声で叫びながら、セレンティアは思わず馬の首にすがり付いた。すべて一瞬の出来事であり、逃げ出すことすらできない…
…下ろして!
声が出せたらと心から思う。少年は悪人には見えないけれど、これは明らかに誘拐だ。
…どうしよう
ジョルジュ夫人が帰って来たら、きっと驚き、騒ぎになるに違いない。
…助けて、アーレス様…
セレンティアはアーレスに助けを求めた。馬が次第に城から離れていく...訳もわからず、成す術もないまま、セレンティアは大混乱に陥った。
「...セレンティア?」
そこに居るはずのセレンティアが見当たらないので、イシュアは首を傾げた。
「変ね...」
セレンティアが一人でどこかへ行くことはありえない。不慣れな場所なうえ、とても従順な性格の子だ。
「周囲を探してちょうだい」
イシュアは侍女たちに命じた。
「近くにいると良いのだけれど...」
侍女達が散って、セレンティアの名を呼び始める...返事は期待できないため、皆、うろうろと歩き回って探すしかなかった。
「どこにもいらっしゃりません。」
報告を受けると、イシュアは血相を変えた。これは迷子ではなく失踪だ…もしかすると誘拐かもしれない...
「なんてこと...」
イシュアは侍女に命じた。
「今すぐ人を集めて探してちょうだい!」
「セレンがいない?」
報告を受けたアーレスは、青ざめて狼狽している伯母に向かって言った。
「...どういうことです、伯母上。」
「ほんの少しの間、庭園で待っているように言ったの...陽よけのヘッドドレスを探しに行って...戻ってみたら、そこにはもう居なくて..」
「落ち着いて下さい、母上。」
マティウスがイシュアの肩を掴んで言った。
「ほんの少しとは、どのくらいの時間です?」
「私の部屋に行って、戻ってくる程度よ。」
「侍女はいなかったのですか?」
「いたわ。でも、束の間、庭師と話をしていて気づかなかったらしいの...」
「なんということだ...」
マティウスは眉根を寄せた。その侍女はセレンティアが大人しいからと油断していたに違いない。とは言え、庭園内で見失うなど想定外だ...
「セレンは自分勝手に行動する子ではないよ。」
アーレスが呟くように言った。
「きっと、何かが起きたんだ。」
アーレスの異変に気づき、マティウスは目を見開いた。穏やかだった眼差しに険しさが浮かぶ...こんな表情は見たこともない。
「お城の中も探したわ...でも、どこにもいなくて...」
イシュアは動揺のあまり泣き出した。
「ああ、どうしましょう...私の責任だわ。」
「城中で白昼堂々の拐かしなど考えられないが...念の為、城下まで広げて捜索させます。」
マティウスはアーレスに告げると、すぐに踵を返した。エルバド城の全騎士に伝令を伝える必要があった。
「ごめんなさい...アーレス…」
「伯母上のせいではありません。」
泣きながら謝罪するイシュアに、アーレスは慰めを言った。
…助けを呼ぼうにもセレンは声が出ない...たとえ近くに居たとしても、呼び声に返事をする事すらできないんだ。
アーレスの胸は張り裂けそうだった。怖い思いをしているかも知れない...酷い仕打ちに遭っている可能性もある…
「セレン!」
アーレスは廊下へと飛び出した。すでに、エルバド城内は騒然となっていた。
…引き返して下さい...お願いです!
セレンティアは何度も懇願した。
けれど、その少年に訴えが届かず、次第に城から離れて行く...周囲の光景が街並に変わり、すでに徒歩で帰れる距離ではなかった。
城下町をしばらく進み、店が並ぶ街道に出ると、少年は馬を止め、セレンティアを地上に降ろした。
目の前に小さな工房があり、入口にリュートの置かれた椅子がある…
「おいで。」
少年はセレンティアの手を握って扉を開けた。室内は薄暗かったが、奥の間に光が差し込んでいる...
「フェルデさん」
少年は声を上げた。
「どこです?」
「…奥庭だ。」
光の方向から声がした。
「行こう。」
セレンティアは少年と一緒に歩みつつ、随所に置かれた弦楽器に視線を向けた。ここは楽器を作る工房…それだけは判る。
「...おや、今日はご婦人連れかい?ベリアム君。」
開けた視界の先に、明るい髪色の男性の姿が見えた。手にハープを持っており、二人を見て笑顔を浮かべている。
「うん、今しがた庭園で出会ったんだ。退屈そうにしていたから連れて来た。」
…ええっ⁉︎
「おいおい、連れて来たって...君、そんなことをして大丈夫なのかい?」
「多分ね」
ベリアムがあっさりと答える。
…だめです。大丈夫じゃないです!
セレンティアは手振りで必死に訴えた。ベリアムという名の少年はどうでも、目の前にいる男性は常識がある様だ。この状況を理解してもらえるかも知れない...
「君...声が...」
フェルデはすぐにそれと気づいたが、言及するのは控えた。この子が誰かは判らないが、身につけている衣服は上質なもの...何か訳があるのだろう...
「姫君が帰して欲しいと仰せだよ...君の目的はこのハープだろう?試し弾きをしたら、すぐに城に帰りたまえ。」
フェルデは持っていたハープの弦を指で弾いた。
「素晴らしい音だ...」
ベリアムはフェルデからハープを受け取り笑顔になる。
「このハープはメルトワで作られた物だからね...質はかなり高い。調律はしておいたが、どうかな?」
「弾いて見るよ。」
立ったままのセレンティアを椅子に座らせ、自分もその横に並ぶと、ベリアムはハープを抱えた。ほっそりとした指が曲を奏で始める...同時に、ベリアムの歌声が響き渡った。
…なんて綺麗な声
セレンティアは、引き込まれる様にしてその声に耳を傾けた。流れる様な曲に美しい歌声...この少年はいったい誰なのだろう?
束の間、ベリアムの独唱に聞き入っていたフェルデが立ち上がった。工房の方向に歩んで行き姿が消える。
セレンティアは演奏に没頭しているベリアムを見つめた。彼がなぜ自分を連れて来たのか全く解らない...言葉通りなら、単なる思いつきなのだろうか…
…突然いなくなってしまって、きっとジョルジュ夫人が心配されているわ。
アーレス様に叱られるかも...と不安に陥った。状況はどうあれ、これはとんでもない事態だった。
「うん、いいね。」
演奏が止むと、ベリアムは納得した様に頷いた。
「さすがフェルデ...って、あれ?」
そこに居たはずのフェルデがおらず、ベリアムは辺りを見回した。
「どこに行ったのかな?
セレンティアが立ち上がり、工房を覗き込む...
「セレンティア...」
入り口の方向から声がした。声の主は明らかにフェルデだ...
「どうしたの?」
肩越しにベリアルが顔を覗かせる。
顔を見合わせる二人の前に、困惑顔のフェルデが現れ、続いて見知らぬ騎士が歩み寄った。
「セレン!」
アーレスはその名を呼んで走り寄った。
セレンティアがいる...騎士達に囲まれ、怯えた様に立っていた。
…アーレス様!
セレンティアも気づいて向き直る...泣き顔を浮かべてアーレスを見やった。
アーレスは迷わずセレンティアを抱きしめた。華奢な体を胸に収めて引き寄せ、その温もりを噛み締める...
「ああ、セレン...無事で良かった...」
心からそう思う。セレンティアが悪意のある者に誘拐されたのだとしたら、こんなに早く見つかりはしなかっただろう...
「何故こんなことに...どうして城下町にいたんだい?」
問いはしたが、セレンティアから答えを聞くつもりはなかった。セレンティアは泣いており、とても答えられる状況ではない。
「セレンはどこにいた?」
身柄を保護した騎士にアーレスは尋ねた。
「楽器を扱う工房です。店の者から直接通報がありました。」
「工房?」
「その者の話では、その...同行者が...」
騎士が眉を寄せて口篭る...
「同行者?」
アーレスは反問した。
「その者がセレンを拐かした犯人か?」
険しい形相のアーレスに、騎士達は恐縮して頭を下げた。その躊躇ぶりには著しい違和感があり、疑問を感じる。
「アーレス殿...」
背後から声が聞こえた。
「詳細は私から説明させていただきます。」
振り返ると、そこにはマティウスが立っていた。憂いを帯びた表情で、俯きがちにアーレスを見つめていた。
「すべては愚かな弟がしでかした事...どの様な処分も甘んじてお受けする所存です。」
「弟?」
「はい。セレンティア嬢を拐かしたのはベリアム...我が弟です。」
マティウスの吐露に、アーレスは呆然となった。抱きしめていた腕を緩め、セレンティアを見遣る...
「...真実かい、セレン?」
セレンティアは顔を上げて頷いた。素性は知らなかったが、フェルデがそう呼んでいたのだからそうなのだろう…
「なんということだ...」
アーレスはため息を吐いた。
「今、ベリアルはどこに?」
「塔の部屋に。」
「セレンが落ち着いたら事情を聞こう。」
「よしなに...」
アーレスはセレンティアに寄り添いながら歩き出した。
無傷で帰って来た養い子に安堵する...たとえ身内と言えども、セレンティアを傷つければ容赦はしない...
「大変な目に遭ったね...」
アーレスの優しい口調にセレンティアは頷いた。言葉もなく、ただ寄り添ってアーレスの温もりを確かめた。
*
ネスバージ国 王城
アル・ファムドは自室の机に向かい、羊皮紙の上にペンを走らせていた。
書き終えた書面は三枚に及び、まもなく四枚目の括りも終える...ルポワドの王太子妃に献上するものであるため言葉は慎重に選ばなければならない。愛弟子マリアナとしてならいざ知らず、妃殿下宛の手紙となれば、検閲されるのが常であるからだ。
「これで良い。」
今一度目を通してから封をした。早駆けの騎士に託せば万全。三日日もあればマリアナの手元に届くだろう。
贈答用の飾り箱に手紙を納め、扉の外に控えている従者を呼んで手渡した。「早急に」と伝えると、従者はすぐに踵を返して走り去った。
「私の見識が役立つと良いのだが...」
ファムドは引き出しを開け、マリアナの手紙と、一緒に送られて来た首飾りを取り出した。首飾りは銅製の物で、上品な装飾の台座に、数個の月長石がはめられている...
“ファムド先生の小麦色の肌に似合うと思います”
添えられたメッセージは王太子妃ではなく、マリアナ自身の言葉だった。その彼女の細やかな思いやりが、ファムドには何よりも嬉しい贈り物だった。
「せっかくの贈り物...持ち腐れては意味をなさぬな。」
ファムドは微笑み、それを首に巻きつけた。今日は暑い...首もとを開けても構わないだろう。
「...お、その姿、何とした?」
アドモスのもとへ参じると、彼はすぐに指摘した。
「そなたにしては軽装ではないか...それに、この首の飾りは...」
「マリアナ妃より賜った品です。」
ファムドは答えた。
「ほう…マリアナからそなたに...ふむ。」
アドモスはしげしげとファムドの姿を見やった。
「よく似合っておる...マリアナの見立ては素晴らしい。」
「はい、まことに。」
ファムドは微笑み頷いた。これまでもルポワドからの献上品が幾度か届いていたが、アドモスに贈られた織物や装飾品は、全てマリアナ自ら選んでいるとのことだった。
「実に口惜しい...マリアナこそが我が妃に相応しい者であった。ゼナの血を受け継ぎしあの娘こそが...」
目を細め愚痴をこぼすアドモス...この王は、手元から失った今でさえ、“養い子”を深く愛している。
… 私はどうだ。
ファムドは自らに問いかけた。
静かな森にひっそりと生きていた少女...
賢く聡明で、書物を読むのが好きな子だった。突然訪れた異国人を「異国の先生」と呼び、いつも後に着いて懐いていた…
…この気持ちを「愛」と呼ぶのなら、私もそなたを愛しているのかもしれない。
アドモスの肩越しに夏の花が揺れる...マリアナの金糸の髪に似た、黄金色リンドウだ。
…マリアナ。
ファムドは目を眇めた。
『真実の書』を与えた愛弟子。
その美しい微笑みに、そっと心を傾けた。
「妃殿下、ネスバージよりお便りが届いております。」
庭園の木陰でシャルアと過ごしていたマリアナのもとに、小姓の少年が現れて告げた。
「まあ...ネスバージから?」
マリアナは喜びの声を上げた。待っていた便り...きっとファムドからの返信に違いない。
「ありがとう、ご苦労様。」
マリアナは飾り箱を受け取りつつ少年を労った。小姓といってもまだ14歳...日頃リュシアンに振り回されている不憫な子だ。
「それなあに?」
シャルアが尋ねた。
「何が入っているの?」
「お手紙よ...お隣の国から届いたの。」
「おとなり?」
「そうよ...ネスバージという国。」
「ネブパー?」
シャルアの言葉にマリアナは思わず笑った。幼い子供との会話は本当に楽しい。
「お山を越えて来たのよ...凄いわね。」
「お山?」
シャルアは首を傾げた。シャルアはまだほとんど城の外へ出たことがない。シュベール城へ行ったのがせいぜいだ。
「そうね…ネスバージのお山は遠いけれど、近くの丘なら行けるわ…バレル君と会うのにちょうどいいかも...」
独り言を言うマリアナの横で、シャルアが箱を開けようとしていた。「飾り箱」の蓋を開けるにはコツがある…かつてブローボーニに滞在していた頃に、ファムドがそれを教えてくれていたのだった。
「開けてあげるわ.。」
マリアナが箱を手にして、いくつかの手順を踏んだ。すると難なく「鍵」が解け、上蓋が開いた。
「わぁ!」
シャルアは声を上げ、箱の中を覗き込んだ。
中に入っていたのは封蝋を施した手紙。その横に二色の巾着が入っている。
「ファムド先生...」
マリアナは目を細め、手紙を取り出した。整った文字に目を走らせる。シャルアがそっと巾着に手を伸ばしたので、「待って」と優しく嗜めた。
「まあ...」
マリアナは口角を上げた。
巾着の中身は「砂糖菓子」だという。
ブルーム用のものと、シャルア用のもの、袋で色分けがしてあるようだ。
『青の袋、公爵の御令息用に滋養効果のある菓子状の薬丸を調合した。与える際は少し小さく砕くほうが良い。薬湯と合わせて服用する様に。なお、黄色の袋は単なる『砂糖菓子』だ。シャルア様がむずかる際に口に入れ、ゆっくりと舐め溶かして食すように。』
…優しいお心遣いに感謝します。
マリアナは手紙を抱きしめた。書かれていたのはそれだけではなく、ブルームの生活に関する見解と助言だった。
「シャルア...黄色の袋を開けてごらんなさい。」
マリアナは言った。
「きいろ?」
「そう、どっちかしら?」
シャルアは手を伸ばし、少し迷ってから黄色の袋を掴んだ。
「こっち、」
「正解。」
マリアナが頷くと、シャルアが嬉しそうに笑った。小さな手で袋の口を開いて中身を覗く。
「おかし?」
「ドロップよ。お口に入れてゆっくり舐めるの。」
マリアナは丸い粒を摘んで自分の口に入れた。味見をしてから王子の口にも入れる。
思ったほど硬くない…これなら小さな子供にも安心だ。
「おいしい!」
シャルアが言った。
「良かったわね…青い袋はブルーム君の分だから、持って行ってあげましょう。」
「ブルーのところにいくの?」
「ええ 今すぐに。」
「ボクもいく!」
「もちろんよ。」
母と子は手を繋いで歩き出した。
シュベール城は目と鼻の先、きっとシャリナが喜ぶだろう…
つづく




