揺れ動く心
アーレスが躊躇うほど、ソランの意思は明確だった。
晩餐には「是非に」と言ってセレンティアを迎えに行き、大広間に現れた際には手を取って歩いていたし、食後のひとときも「的当て」の遊びを教えながら積極的に話しかけていた。
もちろん、セレンティアは一言も返すことはできない。身振りや手振りで懸命に気持ちを表現するのみで、そういった所作に慣れていない者には理解し難いことだろう...
ところが、ソランは違っていた。
彼はセレンティアの唇の動きを読んではそれを理解し、「会話」を楽しんでいた。まるで声が聞こえているかのように、自然なやりとりを成し遂げていたのだ。
…セレンの瞳が輝いている。
アーレスは驚きを隠せなかった。
…これほど早く、セレンティアが他人に打ち解けるのを見るのは初めてだ。
「おお、20点...凄いね!」
セレンティアの投げた小さな矢が中心近くに当たり、ソランは拍手をして褒め称えた。
「君は筋がいいよ。練習すれば大会に出られるかもしれないな。」
…大会?
「うん、今、城下で流行っているんだ。」
…楽しそうですね。
「時期が合っていたら参加できたんだけど…」
…急には無理です。
「大丈夫さ。僕の主催なんだから。」
セレンティアは目を丸くしてソランを見つめた。
…町の人達と一緒に参加するのですか?
「領地の民と交流するのは城主にとって大切な事だからね…」
ファルコ城の主だという以外にソランの立場は解らないけれど、町の人たちを大切という彼の言葉は、とても素敵だとセレンティアは思った。
「セレンは円盤投げも上手だよ。」
アーレスがさりげなく矢を投げ中央に当てながら言った。
「円盤投げ?」
「前の視察の時に、村の少年たちが遊んでいた物を借りたんだ。」
「セレンが少年と投げ合いを?」
「...いや、私とさ。」
「君と⁉︎」
ソランは驚いて声を上げた。
「想像し難いな...」
「昔は一緒に遊んだじゃないか。」
「それはそうだが...」
今は優雅で上品な印象しかないアーレス...この公爵家の子息は、ユーリとシャリナが親代わりとなって接したためか、どこか謙虚で気取るところがない。
「久しぶりのことだったから私は少し息が切れたけどね…セレンは全然平気だった。」
アーレスが視線を合わせて来たので、セレンティアは頬が熱くなった。今夜の彼は胸元がわずかに開いたチュニックを着ていて、いつもよりもずっと素敵に見える…
「そうか…君は活発な女の子なんだね。」
ソランもそつのない動きで自分の矢を投げた。勢いに乗った穂先がアーレスの矢のすぐ脇に当たる。的の中心に矢が並び、セレンティアは目を見開きながら拍手をした。
二人の貴公子に挟まれて過ごす夢のような時間…
…こんなに幸せで良いのかな?
セレンは思った。
…アーレス様と一緒に旅ができるだけで幸せなのに、ソラン様にもおもてなし頂けるなんて…
「さあ、君の番だよセレン…今度は30点を狙おう。」
ソランは矢を手渡しながら微笑んだ。
「的の中心を良く見て…」
瑠璃色の瞳をした可憐な少女が、頬を薔薇色に染めながら嬉しそうに頷いて見せる…
ソランは狙いを定めるセレンの背後に立ち、その手を導いた。
「よし、そこだ!」
指示通りに矢を放つ…すると、中心線の際ギリギリの場所に当たった。
「おっと…これは審議が必要だね。」
アーレスが言い、的の近くに歩み寄る…間近で確認し、笑顔で振り返った。
「…30点だ。」
セレンティアはソランを見やった。彼が手のひらを見せると、セレンティアも手を合わせた。
仲睦まじい二人の様子に心が揺れる…
…なぜ、こんなに胸が騒ぐのだろう…
その理由を探っていると、不意に細い指先が視界に入った。
気づけば、セレンティアが自分に矢を差し出し微笑んでいた。
「こんなことなら、花の一輪も用意しておくべきだったか…」
自室の窓辺に立ち、星空を眺めてソランは呟いた。
今更だったが、婦人への気遣いに欠けていると反省する。
「年端も行かない少女だと侮っていた…養い子だからと、子供の姿を想像していた…」
…まずいな。
妹と考えるには、セレンティアは可憐過ぎる…宮廷の華美な花々とはまったく違う、春の丘にひっそりと咲く小さな花…
「そんな君を、僕は見つけてしまった…」
…彼女を妻に迎えたいと思うのは無謀だろうか?
ソランは真剣に考えた。
セレンティアとともに、この城で生きていきたい…
…今すぐには無理でも、その気持ちだけはアーレスに伝えるべきだろう。
「君が誰であっても、僕は構わないよ。」
セレンティアの笑顔に顔が綻ぶ...
… これは重症だ。
「カインがいないと暇だ…」
マリアナの隣に横たわっているリュシアンが不満げに呟いた。
「アーレスも外遊中だし、鍛錬する相手がいない。退屈過ぎるぞ。」
「騎士団の方々は?」
マリアナは尋ねた。
「あの者達は僕に遠慮ばかりして、本気で相手をしようとしないからつまらないんだ。」
「それは当然のことよ...本気でやれだなんて無茶だわ。」
「だが、カインは違うぞ...あいつは平然と僕を組み伏せて来る。躊躇うことなく、理路整然とな。」
リュシアンは瞳を輝かせながら言った。その顔は嬉々としていて、いかにも満足気だ。
「アーレス様も?」
「カインほどじゃないが、遠慮は全然してないな…ときどきコテンパンにされる。」
「まあ、意外ね。」
「アーレスは昔からそうだ。「焔の騎士」の異名は伊達じゃない。」
「確かに、槍試合の時も、とても強かったわ...」
マリアナが納得すると、リュシアンは口をへの字に曲げた。体を起こして姿勢を変え、身体を重ねる。
「そなた、僕がカインやアーレスよりも弱いと思っているだろう?」
マリアナは目を見開き、リュシアンの瞳を見つめた。
王太子は、二年前の槍試合に出場できなかったことを、今も悔やんでいるのだ。
「弱いなんて…そんなこと思っていないわ。リュシアンはバルドに私を迎えに来てくれた…死んでしまうかもしれなかったのに、勇敢に救い出してくれた…それだけで、十分に強い証明になるわ。」
マリアナの手が優しく背中を撫でると、リュシアンは口角を上げて額を押し付けた。
「そう思っているのなら良いが…証明というにはちと足りぬ…やはり槍試合で勝利して見せねば。」
「王妃様がお許しにならないわよ...また泣かせてしまうつもり?」
「母上は過保護が過ぎる...僕はもう子供ではない。」
…過保護じゃなくて、慎重なだけよ。
マリアナは心の中で否定した。王太子の破天荒さと無謀っぷりは国中の者が知っている...それが「勇猛」であるかないかは紙一重なのだ…
…ルポワド王家の男子はリュシアン一人...お義母様が慎重になるのも無理はないわ。
「…カインはいつ帰って来る?」
「20日後と聞いているけれど...」
「リオーネの子を連れて戻るのであろう?」
「ええ。」
「いよいよ、シャルアとの対面だな?」
リュシアンは、小さなベッドで寝ているシャルアに視線を移して口角を上げた。さっきまではしゃいでいた王子は、今はピクリともせず熟睡している。
「バージニアスの子は、いずれ「黒騎士」になる。僕とカインの様に、深い絆で結ばれるだろう...」
「そうね。」
マリアナは頷いた。
バレルは賢く素直な性格の子だった…きっと、シャルアと仲良しになるに違いない。
「そうか、アーレスの様に、そなたと外遊するのも一興だ。父上に許しを願ってみるか?」
「陛下のご機嫌次第ね…」
「うむ、確かにな…」
よほど暇を持て余しているのか、リュシアンは本気で外遊を考え始めた様だった。
…カインに早く帰ってきて欲しいのは私も同じ...むしろリュシアンよりずっと恋しい…
手渡した『香り玉』は虫除けのお守りだが、カインを「誘惑」から遠ざける「おまじない」でもある…
…あなたが帰って来たら、大好きな焼菓子を作るわ…カイン。
マリアナは密かに、遠方の「黒騎士」に想いを馳せた。
「...絵?」
バレルが不思議そうな表情で首を傾げている...大きな空色の瞳が描かれた「何か」を見つめていた。
「セオ先生...」
助けを求めるようにセオノアのほうを見遣る...
「しかくいリンゴってあるの?」
…ないわ。
セオノアが答える...心の中で。
「とっても斬新な絵だわ...カイン様らしい鋭さを感じるわね。」
「えー」
バレルは理解に苦しんだ。この絵はリンゴというより、太ったレンガにしか見えないのだ。
「おじうえって...絵が下...」
「...あらっ、もうこんな時間!少し早いけど、おやつにしましょう!」
セオノアは咄嗟に話題を切り替え、声を上げた。
「お手伝いして、バレル!」
「おやつ...?」
バレルはすぐに瞳を輝かせた。伯父の描いた絵を投げ出し、セオノアの後を追う。苦笑しながら頭を掻くカインを残して隣の部屋に移動し、棚に用意してあった果物と焼菓子をテーブルの上に置いた。
「どうぞこちらへ、カイン様」
セオノアの誘いにカインが応じる…慣れているのか、バレルが手際良く木製の杯を運んで来た。セオノアは「いい子ね。」と褒め、デキャンタに入った果実酒を杯に注いだ。
「美味そうだ...」
果実酒ではなく、焼菓子のほうを見つめてカインが言った。
「木の実入り?」
「ええ、干し葡萄も。…お口に合うと良いのですが...」
「セオ先生のお菓子は、とってもおいしいよ。」
バレルは得意げに言った。子供用の椅子にちょこんと座り、足をぶらぶらさせている。
「ありがとうバレル...」
愛しむように、セオノアがバレルを見つめた。
…シセルの言っていたことは本当だな。
カインは思った。
「アノック子爵はバレルを我が子のように思っています。実際、絵を描くことについては、私も何も口出しはできませんので...」
…なるほど。シセルとアノック子爵は付き合いが長い...俺とリオンが13歳の頃からだから、10年以上か...
二人の信頼関係は今だに揺るぎなく続いているらしい...それだけに、シセルは彼にバレルを託しておけるのだろう...
「さあ...召し上がれ。」
セオノアの許可が出ると、バレルは早速お菓子に手を伸ばした。口いっぱいに頬張り、頬が膨らむ。
カインも口に入れながら「くるみと葡萄って合うんだね…」と感想を言った。
「...ところで、先ほど仰っていたマリアナ様からのご依頼の件なのですが...」
セオノアは果実酒を口にしながら言った。
「喜んでお受け致します。是非、ご同行させてください。」
「いきなりですまない。事前に伝えておくべきだった。」
「問題ありませんわ。今は仕事もありませんし、バレルと一緒に王城に行けるなんて嬉しい限りです...シャルア王子にもお眼通りが叶うのはとても光栄なことですもの。」
「そう言って貰えると助かるよ。妃殿下は早いうちに王子を落ち着かせたいと仰っていた..絵を描くにしても、バレルと一緒が望ましいとお考えだ。」
「早速、準備を始めます。」
「そうか…じゃあ、俺も妃殿下に手紙を書くよ。」
セオノアは目を細めて頷いた。カインの口調はリオーネのそれによく似ている。東ルポワドの『統治者』である事など微塵も感じさせない、とても素敵な好青年だ…
…ユーリ様はよきお子様達を残されたわ。その系譜はバレルへと受け継がれ、後世へと引き継がれて行くのね…
「絵を描くことにご理解下さり、感謝致します。公爵閣下。」
セオノアが謝意を述べると、カインは笑って頷いた。
「騎士は『趣味人』でもあると指南書には書かれているんだ。嗜みを持つことは大切だよ。」
言いながら、隣に座っているバレルに視線を移し、皿に手を伸ばした。菓子を取ろうとするが、指先が空をさまよう…
「...あっ、俺の分がないぞ!」
カインは声を上げた。
皿にはすでに何も乗っていなかった。伯父の声にバレルが体をビクリとさせ、持っていた最後の焼菓子を手から落とした。
「これがオゴール砦か...」
アーレスは海岸を背にした城塞を見上げながら言った。
見晴らしの良い崖の際に立つ城塞...敵の侵攻を拒むように、周囲には長い城壁が張り巡らされている。
ソランは急斜面に馬を走らせ、城門に向かう橋を渡った。アーレスの周りには騎士達が並んでおり、警護は万全を期していた。
「開門!」
番兵の号令がかかると、鉄城門が開かれ、馬を止めることなく内部へと進む…そのまま中広場まで駆け抜けると、ソランはようやく馬を止め、後続に合図を送った。
アーレスは整列し出迎えた騎士達を馬上から眺めた。砦にいるのは兵士ばかりで、その他の人の姿は見当たらない。
…セレンを置いてきて正解だったな。
一人にするのは忍びなかったが、同性の召使い達が相手をしてくれるというし、視察は短時間で終わらせるつもりだった。砦の指揮官、すなわちソランの父リラン・ファルコンに会うことが、今日の目的なのだ。
「ようこそおいでくださいました。アーレス様。」
初老を迎えた騎士が歩みを進めて出迎え、その場で跪いた。
「ご拝謁を賜り、恐悦至極に存じます。」
アーレスは口角を上げた。リランには初めて会うが、さすがに砦の守護者たる貫禄がある人物だ。
「短い時間ではあるが、世話になる。」
「むさ苦しい場所なれど、ご随意にご覧下さい。」
「もとよりそのつもりだ…」
爽やかな笑顔を浮かべるアーレスを、ソランは複雑な気持ちで見つめた。
ルポワド貴族の最高位であるパルティアーノ公爵家の嫡子...この麗しいまでの貴公子が、セレンティアへ特別な感情を抱いていると気付いたばかりだったのだ。
…されど本人はまだ気付いていない。
ソランは眉根を寄せた。養い子の後見は養育者...つまりはアーレスに託されている。セレンティアに結婚を申し込むには、アーレス自身の許可が必要だ。
…アーレスがセレンティアに異性として好意を抱いているとしたら、僕の申し入れを受け入れるだろうか...?
セレンティアは平民の出身で、公爵家の嫡子であるアーレスとの身分差は歴然としている...乗り越えられる壁ではない。
…アーレスに限ってセレンティアを愛妾にする様な真似はしないだろうが…
焦りを感じた…今のうちに駒を進めておきたいと思った。
砦の内部を見て回り、武器や備蓄について一通りの説明を受けると、アーレスは騎士らを集めてその労をねぎらった。
用意していた金貨をリランへと託し、短い時の酒宴を楽しむ...
兵士と騎士が一緒になって、オゴール砦は和やかな空気に包まれた。
アーレスを中心に、器用な騎士が楽器を奏で歌を披露する。
すると、一人が曲に合わせて踊り出し、数名がそれに従った。
手拍子と、笑いと、飛び交う揶揄。
愉しむアーレスを横目に、ソランは父に決意を伝える機会を待った。父を納得させなければ、話を先に進ませることができないからだ。
「今度は私が奏でよう…」
アーレスが立って、リューズを借りて手に取った。皆の注目を浴びながら『焔の騎士』が穏やかな曲を奏で始める…
…今が好機だ。
ソランは意を決してリランに近づき、耳打ちで彼に告げた。
「父上、結婚したい相手がいます。」
「...なに?」
突然の告白に、リランが目を丸くする。
「…結婚と言ったか?」
「はい。」
リランは持っていた杯をテーブルに置いた。ソランの表情は真剣で、酔っている様子も見られない。
「相手は誰だ?」
「彼の養い子です。」
ソランはアーレスを指差した。
「アーレス殿の⁉︎」
父の驚きを他所に、ソランは頷いた。
「歳はまだ14歳ですが、とても賢い娘です。身分は平民でもパルティアーノ夫人のもとで育てられ教養もあります。ただ、声を失っていて話すことができないので、その点はご理解いただきたく...」
リランは唸った。その噂は耳にしていたものの、まさかソランが妻に望むとは...
「アーレス殿のご意向か?」
「いいえ、彼は何も知りません。僕とセレンは昨日会ったばかりで、彼女にもまだその気持ちを伝えてない。あくまで、僕自身の希望です。」
「ソラン...」
リランは眉を寄せ、身を乗り出して言った。
「昨日会ったばかりでその考えは…ちと早急ではないのか?」
「そうかもしれない...ですが、セレンは特別だと感じた…僕は彼女を愛しています。声は出なくとも会話はできる...なんら障壁はありません。」
リランは益々困惑した。こんなにも真剣なソランは初めてであり、その意志は相当に固そうだった。
「...解った。先ずはその娘に会おう。」
リランは言った。
「仮にもパルティアーノ家に関わる娘だ...婚約となればそれなりの手続きと礼儀が必要となる...」
「承知しております。」
「叶わぬ場合もあるぞ…」
「善処いたしましょう。」
リランは深くため息を吐いた。
「よかろう…」
「感謝します、父上。」
父の返答を聞き、ソランはひとまず安堵した。アーレスは明日の早朝に発つ予定であり、セレンティアに接するのも今夜が最後だった。
演奏が止み、口笛と喝采が湧き起こる。
アーレスが立ち上がり、ソランの横に歩み寄った。
「楽しくて仕方がないんだが、もう戻らなければ...セレンが待っている。」
ソランはアーレスを見上げた。穏やかな表情…告げるなら今しかない…
「アーレス、実は...」
口火を切るソランを、アーレスは不思議そうに瞠目した。
つづく




