ファルコ城のソラン
「ははうえ、僕、馬に乗ったよ!」
リオーネを見つけると、躊躇いもなくその懐に飛び込んでバレルが言った。
「あら、初乗りね。」
息子抱き上げ、リオーネが息子に頬を寄せる。背後から歩いてくるシセルとカインを一瞥し、再びバレルを見遣った。
「感想は?怖かったんじゃない?」
「ううん、ぜんぜん怖くなかった。ずっとおじうえがついていてくれてたから。」
「...そう、それは安心だったね。」
「あしたもあさってもれんしゅうする...だってすごく楽しいもん!」
リオーネは目を細めて微笑んだ。
可愛いバレル..大人達の事情などつゆ知らず、とうとう騎士への第一歩を踏み出してしまった。
「...じゃあ、明日はママも練習を見に行こうかな...昼食は皆んなで外で食べる?」
「うん!」
バレルは瞳を輝かせながら無邪気に頷いた。
「まだまだ母親ベッタリだな...」
傍に立ったカインが言った。
「まだ5歳だもの...でも、パパにはもっとだよ。」
リオーネが眉を跳ね上げる。
「パパは優しいもんね…」
リオーネの言葉に、バレルは振り返って父を見やった。シセルは静かに微笑みを浮かべていて、じっと自分を見つめている...
「…おりる。」
バレルは告げるとリオーネから離れ、シセルの手を握った。
その小さな手を、シセルもそっと握り返す…
「バレルの午後の予定は?」
カインが尋ねた。
「この後は座学…それか終わったらセオ様の授業よ。」
「アノック卿が来られるのか?」
「ええ、週に一度の授業だから。」
「…そうか。」
丁度いい。とカインは思った。マリアナからの依頼について、セオノアと話をしなければならない。バレルを王都に連れて行く際に、セオノアにも一緒に同行してもらうつもりだった。
「一緒に行っても良いか、バレル?」
「おじうえも絵をかくの?」
「絵は...そうだな…うん。」
頭を掻きつつ、カインは曖昧に答えた。絵を描くためにペンを持ったことはないが、ただの見学ではバレルが納得しなさそうだ...
「いいよ。ぼく、おじうえの絵が見たい!」
「う...」
カインが小さく唸ると、リオーネが吹き出して笑った。双子の弟が絵が上手いとは思えない...これは少し見ものだ。
「それはそうとして...今日の座学は俺が教えるよ...シセル。」
咳払いをしつつ、カインは告げた。
「…宜しいのですか?」
「そのために帰って来たんだ。俺がいる間はリオンとゆっくりしているといい。」
「...あら、気が利くわね。公爵閣下?」
リオーネが口角を上げて言った。
「じゃあ、お言葉に甘えて...」
夫の躊躇いをよそに、リオーネが腕を絡ませ寄り添って来る…その珍しい所作に苦笑を浮かべつつ、シセルは丁寧に頭を下げた。
「…よし、行くぞ、バレル!」
カインはバレルを高く抱き上げ、肩車で歩き出した。嬉しそうに声を上げるバレル...伯父と甥っ子は、颯爽と廊下の向こうへ歩み去った。
「...寂しい?」
リオーネはシセルを見上げて尋ねた。
「正直…ね。」
「そうよね。」
「...だが、バレルはユーリ様の孫だ。騎士の才が備わっていると思うと、成長が楽しみでもあるよ。」
「うん、私も同じ。」
二人は笑顔で納得し、寄り添って歩き出した。
リオーネが肩に頭を寄せると、シセルの腕がリオーネの背に回される…
「...ね、シセル。」
「うん?」
「バレルがブランピエールを名乗るのはずっと先の事だけど...」
「ああ。」
「バージニアスの子供、もう一人必要じゃない?」
「…えっ」
シセルは思わず歩みを止めた。
「...どういう意味だ。」
リオーネが意味ありげに微笑む...こんな表情は珍しい。
「言ったとおりの意味…」
思いがけない言葉に、シセルは呆然と妻を見つめた...リオーネの眼差しは真剣で、少しの曇りも見えない。
「リオン...」
シセルは言った。
「...本気か?」
「こんなこと冗談で言いません…まあ、要らないって言われても、もう手遅れなんだけど...」
「な...なんだって!」
シセルは思わず大声を上げた。その声に周囲の人々の動きが止まる。驚きの表情を浮かべ、一斉に二人を注視した。
「…まさか...いるのか、ここに!」
「そのようです、教官。」
リオーネが頷くと、シセルはさらに目を大きく見開いた。
...何という奇跡だ!
「要らないなどと…口にするものじゃないぞ。」
シセルは嗜めると、リオーネを両腕で抱きしめた。
「私が喜ばないとでも思ったのか?」
「いいえ、全く…」
リオーネは首を横に振った。
「望んでいたのは知っていたもの。」
「リオーネ…」
シセルはリオーネを見つめながら微笑んだ。
嬉しい報告…かけがえのない命が、妻のお腹に宿っている…
「…嬉しいよ。バレルもきっと大喜びだ。」
「そうね。」
唇を重ねる二人…
いつもながらの仲睦まじい姿…周囲はほっと安堵し、再び自らの仕事に戻った。
旅路からようやく解放されたセレンティアは、アーレスに手を引かれて馬車を降り、石畳へと足を着けた。
目前にある石組みの壁に視線を滑らせ。天を仰ぎ見る…
…これが、ファルコ城?
石壁も屋根も、何もかもが新しい。小麦色をした新築の城…こじんまりした佇まいがどこかペリエ城に似ていて、なんだか懐かしい気持ちになる…
あたりを見回しているとアーレスの手が添えられ、二人はゆっくりと歩き始めた。気づけば大勢の人が集まっており、エントランスの中央に、一人の青年が立っていた。
「ソラン!」
アーレスは声を上げた。その表情はとても嬉しそうだ。
「アーレス殿…」
ソランは小走りに歩み寄り、笑顔でアーレスの手を握った。
「よくぞおいでくださいました。歓迎いたします、パルティアーノ卿。」
「なんだ、形式ばって…アーレスでいいよ。」
アーレスは苦笑した。
「同期のよしみじゃないか...」
「そう言ってもらえて、とても光栄だよ。」
ソランが穏やかに答える...その声は優しげで、せrセレンティアにはとても好感の持てる人物に思えた。
「元気そうで、何よりだ。」
「丈夫なのだけが、僕の取り柄さ。」
互いに肩を叩き合うと、ソランがセレンティアへと視線を移した。
「...この子が君の養い子かい?」
「ああ…セレンティアだ。」
セレンティアは膝を折って挨拶をした。名乗れないことで、「不躾」だと思われないよう、恭しくお辞儀をする。
「かわいい子だな...想像していたよりずっと美しい貴婦人だ...」
ソランの賛辞に、セレンティアは思わず赤面した。
…美しいなんて言われたのは、生まれて初めてだわ…
「初めまして、セレンティア嬢…僕はソラン・ファルコ、この城の主だ。」
ソランは名乗り、自らセレンティアの手を取った。
騎士が貴婦人にする儀礼的な挨拶だったが、セレンティアにとっては初めての体験だ。
「殺風景な城で申し訳ない…召使いも不慣れな者が多いが、その点は勘弁して欲しい。」
「気にするな…かえって気楽だよ。」
アーレスの意見に、セレンティアも頷いて見せた。
「男爵は、まだオゴール砦においでなのか?」
大広間に案内され、席に着いたアーレスは尋ねた。
家令はいても、出迎える家族は見当たらない。.自分と違い、ソランには両親が揃っていたし、一つ違いの姉もいるはずだ…
「ああ、父上は砦に居留している…昨年母が亡くなって、部下に囲まれていたほうが気が紛れるそうだ。」
「アン・マリー殿は?」
「姉上はブーベン卿に嫁いだ。母上が亡くなってすぐのことだ。」
ソランはセレンティアを導いて、長椅子に座らせた。廊下を歩いている時も、手を携えていた彼だった。
「お悔やみ申し上げる...お母上は優しく美しい方だった...とても残念だ。」
「ありがとうアーレス...君からの賛辞、母上も喜んでおられるだろう。」
ソランの目が僅かに潤む...彼の悲しみを察し、セレンティアも涙ぐみ、そっとソランの手を握った。
「...というわけで、この城には僕しかいないんだ。だから緊張しなくていいよ。」
ソランは明るい笑顔を取り戻して言った。
「新築の城か...本当に羨ましい...」
アーレスは小さく呟いた。自分の城を持つというのはどんな感じだろう…こじんまりとした城に、愛する妻…不思議な感覚だ…
ほどなく召使い達が現れ、果実酒と焼き菓子がテーブルに置かれた。セレンティアには別のグラスが手渡され、綺麗な色をした果実の飲み物が入っていた。
「ようこそ、ファルコ城へ!」
ソランはグラスを高く掲げ上げて歓迎の意を表した。
アーレスも習い、「ファルコンの繁栄に!」と声を上げる。
セレンティアも控えめにグラスを持ち上げた。その後はふわふわな綿入りの長椅子で、二人の騎士の会話に耳を傾けた。沢山の高貴な方々と会わなくてはならないと気を張っていたのに、何だか少し拍子抜けしてしまった...
「公爵閣下が再婚されるなんてなぁ…」
ソランがグラスを傾けながら言う。
「そのうえ、ご子息まで誕生された…確か名前は...」
「ブルームだ。」
「ああそうだ…公爵殿が溺愛なさっていると、専らの噂だが...」
「ああ、母上ですら困惑しているほどにね。」
「...弟君は、美男なのかい?」
「とてもね。」
ソランは笑った。
「アンペリエール夫人が母上になり、兄弟が生まれるなんて、人生わからないものだな...」
「全ては、ユーリ殿の導きさ...それがなければ、いかに父上が望もうと、母上は再婚を承諾なさらなかったと思う。母上がシュベール城に来てから父上は変わった...本当にうーユーリ殿には感謝しているよ。」
アーレスの穏やかな表情に安堵する。実母との関係はもとより、父親であるパルティアーノ公爵とも疎遠だったアーレス...夫人の存在が、彼を幸福へと導いてくれたようだ。
「君の周囲は賑やかで羨ましいな。僕はこの城に一人…まさに独身貴族だ。」
ソランは微笑みながら大人しく座っているセレンティアのほうを見遣った。撫子色のドレスを着た少女は愛らしく、殺風景な部屋に、一輪の花が咲いているようだった。
「本当によく来てくれたね...ここは西の果て...遠かっただろう?」
セレンティアは頷いて見せた。この地に着くまで丸二日…馬車の中で夜を過ごしたのだ。
「...素直なお嬢さんだ。」
目を細めるソランの眼差しが熱い...
アーレスは違和感を感じた。
...母君の逝去、姉君の結婚...そのうえ、父君が赴任地を離れないとなれば、ソランは新築の城で一人きり...妻を迎えたいのは当然のことだろう。
…だが、セレンはまだ十四歳だ。
複雑な気持ちに陥った。幼かったセレンティアを知っているだけに、縁談などまだ早すぎると思う。
…母上もその事をほのめかしていた。.私がそう思っているだけで、周囲には立派な貴婦人に見えているんだ。
「姫君はとても眠そうだ…晩餐まで休んでおいで。このお菓子を食べ終わったら、部屋に案内させよう...」
ソランはセレンティアにふわふわな焼き菓子を手渡すと、笑顔を浮かべた。優しい気遣いにセレンティアの心が温かさに満たされる…
…ソラン様は、とてもお優しい方だわ。
その後、セレンティアが別室へと誘われ召使いとともに部屋を出ていってしまうと、アーレスはいよいよ「本題」の話を始めた。
ファルコ城のあるボナーの地は、西ルポワドの大領主パルティアーノ公爵家の支配地であり、かつて初代ファルコン男爵が国王より拝領された封土だ。
北に進めばオゴール砦があり、城砦が海峡の向こうゼネブト・バドラーヤ国を見据えている…
「バドラーヤがルポワドに関心を向けているのは確かな事実だ。」
ソランは静かな口調で告げた。
「母上が病床であっったため、僕は欠席したが、馬上槍試合にバドラーヤの騎士が数名参戦していたと聞いたが…」
「ああ、父上に怪我を負わせた者がそうだ…異国人ゆえ、騎士道を知らぬ様子だったが、手応えからして、相当な猛者なのは間違いないと父上が断言しておられる。」
「その者の調査は?」
「むろん調べてみた。だが、彼らは痕跡なく姿を消した。バドラーヤ人であるということも、真実かどうかは分からない。」
「特務の騎士でも、尻尾を掴なかったのかい?」
「…そういうことになる。」
頷くアーレスに、ソランは眉を寄せながら唸った。
…国境は封鎖し、片時も監視を怠っていないはず…どうやってルポワドから出国した?
「槍試合は他国の戦士にも扉が開かれていた…とはいえ、バドラーヤの民が、本拠地の我が王都にまで乗り込んで来たのは初めてだ…」
「うん、あの騎士は最後までヘルムを外す事なく、誰にも面を晒さなかった…バドラーヤ人ではないにしろ、自らの正体を隠す必要があったのかもしれない。」
アーレスの心にも判然としない何かが引っかかっていた。
…バルドとの和平条約が結ばれて以降、諸国の平和は保たれている…しかし、ゼネプト・バドラーヤは謎多き民…まだまだ得体の知れない部分が多い。
「関心を向けているからと、必ずしも攻め込んで来るとは限らない。少なくとも、今はまだその段階だよ。」
ソランは僅かに口角を上げて言った。
「我が領地の収益はそこそこ安定している。税もきちんと収めているし、ボナー・ファルコは万全だ。」
「税の心配など微塵もしていないさ。君はしっかり者だからね。」
「それはどうも。次代の公爵殿に恭順の意を…」
ソランは胸に手を当て首を垂れた。
心優しい好青年。
…彼の印象を、セレンはどう感じたのだろうか。
…お風呂?
召使いの女たちが、セレンティアのために湯を注いでいる。
与えられた部屋でうたた寝をしていると、彼女たちが訪れ、
「入浴のご用意をいたします。」と告げた。
旅の土埃で汚れた服は洗濯のために持って行かれてしまい、湯浴み用の薄衣で湯桶に浸かる。
召使いが体を洗ってくれるので、セレンティアは大人しくじっとしていた。強い癖毛も埃を被って傷んでいたが、召使達は丁寧に洗い流して布を巻きつける。
「お召し物はどちらに?」
その問いに、セレンティアは隅に置かれている衣装箱を指差した。中には数枚の服が入っていたが、木綿の生地に包まれた物だと身振り手振りで説明する。
全身を拭ってもらいながら目にしたのは「お城に上がる際に着なさい…」とシャリナが持たせてくれたドレスだった。
「なんて可愛らしい…」
召使達は一様にセレンティアを褒め称えた。マーガレットを散らした少女らしいデザインで、ふわっとして動きやすい。
…ありがとう。
セレンティアは声なき声で言った。
「光栄です、姫様…」
セレンティアの感謝に、彼女達は喜んで膝を折ったが、貴族ではない自分が姫様と呼ばれるのは、少し引け目を感じた。
…私は本来、あなた達よりずっと貧しい身分なのに。
片付けを終えて召使い達が居なくなり、その後はぼんやりと外を見眺めていると、扉を叩く音が聞こえた。
「…入ってもいいかな?」
それはソランの声だった。声が出ないので、扉を開けてソランを見上げる…ソランは新しいドレスに着替えたセレンティアを見るなり瞳を輝かせた。
「おお…まるで花の妖精のようだね…」
ソランは賞賛し、その場で膝を床に着けた。セレンティアが困惑するのも気にせず、跪いたまま指先にキスをした。
「麗しの君…さあどうか、僕の手をお取り下さい。」
つづく




