第7話 落命
中央兵舎から外に出ると、いつの間にか空を曇天が覆っていた。そういえば今日は大雨になりそうだと言われていたような気がする。
訓練兵団の兵舎まで距離はないとはいえ、雨に降られるのは避けたい。寄り道はせずに戻ることを決意したアナトは、ふと少し変わった空気を感じて足を止めた。
疑念の正体は人の少なさだ。兵舎の正面を警護していたはずの兵士たちの姿がどこにも見えない。
うっかり一般人が兵舎の中へ迷い込んだりしないように、正面には常に一人は兵が配置されているはずだ。だが、そのいるべき人員も見当たらない。
「まとめてどっかでサボってんのか...?そんな奴らじゃないはずだけど」
そう言って首を傾げるアナトの後ろで、がさり、と葉が揺れるような音がした。
咄嗟に振り向くと、中央兵舎の裏手に、回り込むように移動する人影を視界に捉える。
見張りの兵士だろうか。しかしわざわざ裏手に回る理由もない。若干の警戒心を抱きながらも、アナトは兵舎の壁沿いを回り、人影が消えた裏手側を覗き込む。
だが、そこはなんの変哲もない、雑草の生い茂った空き地に過ぎない。そして、兵士どころか人影らしいものも一向に見当たらなかった。
「気のせいか...?」
白昼夢でも見たかのような気分で、意味もなく数歩、アナトは足を前に踏み出す。
瞬間。
とす、という軽い感覚が、背中を押した気がした。
「ん?」
感じた違和感に、アナトは思わず足を止める。背後に何者かの気配を感じる。ファランではない。奴ならばもっと騒がしく声をかけてくるはずだ。
そう考えた瞬間、何かに躓いたわけでもないのに、スッとアナトの両足から力が抜けた。
「え?」
かろうじて踏みとどまり、己の両足に起きた異変を探るべく、アナトは視線を足元に落とす。そして、気がついてしまったのは、あまりにも取り返しのつかない異常。
___鋭く光る刃の先端が、アナトの胸を深々と貫いて飛び出していた。
「あ、ご」
状況を理解した瞬間、熱い塊が喉を迫り上がってきて、たまらず大量の血を口から吐き出す。
遅れてやってきた痛覚が、嘘のような痛みを脳髄に叩きつける。冗談のような生体からの危険信号に、冷静な判断力を働かせる余裕は散り散りに失われていった。
何が、
どうして、
誰が、
なぜ、
ファランは、
攻撃が、
目的は。
馬鹿みたいに荒れ狂う思考の中で、かろうじて機能した理性が、アナトに背後を振り返らせ、敵を視認させた。
明滅する視界に、それでも捉えたのは、見覚えのない少年。
しかし、その特徴は嫌と言うほど分かっている。黒い髪、血のような赤い瞳___悪魔だ。
なぜ、敵兵が、こんな前線から遠く離れた地にいるのか。その疑問に答える術をアナトは持たない。
だが、自分を刺したのが悪魔である、と理解した瞬間、世界が急速に色を失っていく。悪魔の攻撃は不死をも殺す。《リンク》による不死身の力も、奴の前では意味を成さない。
咄嗟に腰に下げた黒刀に手を伸ばそうとするが、すでに力を失った腕は、脳からの指令を受け付けようとしない。
助けを呼ぼうと口を開くが、漏れ出すのはごぼごぼという濁ったうめき声。次から次へと溢れ出す血塊が、アナトの声帯を完全に塞いでしまっていた。胸からも夥しい量の血液がとめどなく溢れ出し、もう何分も経たない内に呼吸が消失するであろうことを否応なく予期させる。
戦場で戦うことは覚悟していた。そうすれば、いずれ顔も知らぬ誰かに引導を渡されるであろうことも。
しかし、戦場から遠く離れた、なんの変哲もない日常の一コマで、抗う術もなく命を奪われることは予想だにしていなかった。
床に流れ出したあかいろが、この非現実にすぎる現実を、嘘のように描き出している。
致命傷を与えたと悟ったのか、背後に黙して立つ悪魔の少年は、流れるような手つきでアナトの体から刃を抜き取った。
その行動で、さらに致命的なまでの血が体から失われ、アナトはその場に重力に引きずられるようにして倒れ込んむ。
視界が歪み、目の前が暗くなる。少年は立ち去っただろうか。聴覚がもう機能を放棄している。
もう何も見えない。
聞こえない。
わからない。
何もかもが消えて。
何が起こったのか、理解する暇もないままに、アナトの意識は永劫の闇へと引き摺り込まれていく。
最後の一瞬、頭の中をよぎったのは、水色の髪の少女。
彼女が無事であることだけを、アナトはただ祈った。