【*】『思い出の波休間に』……燕竺朝顔 / 奥方の庭
一場面投稿。
※)後日、物語のどこかに挿入する際、修正する可能性があります。
『思い出の波休間に』に入れる予定。
【読む世界畵:嵐と旱魃を呼ぶ朱花】
【塵積版:食事中に喧嘩してはならない】の内容に関連しています。
“五十鈴さんって、一体どこから来た人――?”
ネタばれが大丈夫な方でしたら、このままお読みください。
*――花盗人さん、盗んで欲しい花があるのです
容易いことだと言った。
*――鈴はね、きっとここにいてはダメなのよ……
ませているだけで、まだ明らかに幼い姫君の微苦笑を浮かべた横顔は、今もあの海洋国の鮮やかな花々のように覚えている。
朝日の届かぬ御簾の向こうで、玉の如き雫を伝い落としながらも波風に耐え、夕立にうなだれ。
悪夢のような濃霧の夜にも果敢に立ち向かったというのに、あえなくその短い生涯を閉じることになった。
まるで、人々の一日がはじまってもいないうちに絞んてしまう朝顔と同じく。
二度と得がたい掛け替えのない存在のため、悲鳴一つ漏らさず、あの小さな体が血飛沫を上げたのだと想像すると
堪らない――……。
*――姫様、この人はどこからかお花を盗んで来るのです。
花人ではなくて、花盗人です
もう摘んで来ないぞ、と腹を立てながらも花売りを装い、思い返せば自分は、明らかに癒されに行っていた。
神楽鈴のように玲瓏なあいつの声と、無邪気な姫君の笑い声に。
ただ、平穏に暮らしている様子が知れればそれで良かった。
だが、ほんの束の間、海が凪いだ波間のような時間を共に味わったことすら、今となっては贖罪の必要を感じる。
*――なんでも盗めるのですか?
*――なんだ。見てみたい花でもあるのか?
*――そうではなくて、盗めるのか聞いているのです
容易い、容易いと言いながら、何一つ守れないくせに、未だ散っては咲き続けるかの花を捧げるしか、能が無いのだから困りもの。
*――盗んで欲しい花があるのです
花言葉は “固い約束” ――……。
*――飛叉弥……、鈴のこと――……頼んだよ……
人間で、はじめて “同類” と思えた男の妹。
幼くして母親を亡くした姫君が、はじめて心から慕い、その命を賭して守った彼女は――
花人とは結ばれ得ない、 “霓尾” の血を引いているというのに―――。
*――盗めるのか聞いているのです
――――【 燕竺朝顔 】―――
* * *
巨大な扇のような棕櫚竹の葉と、御簾の飾り房が風に揺れている。
高貴な紫色。
白い薄紗もそよいでいる。寝室の蚊帳だ。縦長の窓が開け放たれていて、そこから、なんとも奥ゆかしい白檀の香りが漂ってくる。
重厚な衝立越しにのぞき見えるのは、今年で十一歳になる海凪姫が憧れを抱く化粧台。
ここは母様の部屋――と言いたいところだが、そうなって欲しい彼女に限って、 “侍女が良い” の一点張りであった。
側室として嫁いできてからだいぶ経ったが、よほどこの秦馬家に馴染めないのか、召使すらも寄せ付けない。
無理やり家族から引き離し、求婚を成立させたような男となど共寝したいわけもなく、その点は海凪も当然だと思っている。実の父親ながら相手にされずにヤキモキしているのを、内心、ざまあないと笑ってやっているくらいなのだから。
実の父よりも、母親気取りの側室たちよりも、
独りだってへっちゃらそうな、 “彼女” と話がしたい。
色々なことを教わりたい。
優しくて、字を書くのも上手で、もちろん本も読める。
薬草のことをよく知っていて――。
なにより、強く穏やかな心を持つ五人目の継母―― “鈴” のことが、海凪はいつの間にか大好きになっていた。
彼女の部屋の中庭で、今日も満開の朝顔に水をやっている。
貴重な薬になるというから、育て甲斐もひとしお。
蘆那珠王国では、たびたび質の悪い疫病が流行るのだ――。
「海凪様、そこのしぼんだ花柄を、いくつか摘み取ってくれますか?」
「え――?」
小鈴が転がるような声に振り返った海凪は首を傾げた。
いつもの柔和な微笑みだが、ふふ、と笑う楽し気な鈴に、なにやら企みを感じた。
一体これをどうしようというのか、完全にしおれておちょこ口のように縮んでしまっている紅と藍のそれを摘み、海凪は鈴がいる広縁に駆けていった。
「何をするの?」
金魚鉢が傍らに置かれている。飛びつくようにやってこられて驚いたか、中で尾をゆらゆらさせていたランチュウが、俊敏に身を翻した。
お腹が “ぷっくり” しているので、名前は “福丸” ――。こいつも独りだったから、自分たちの仲間に入れてやることにした。
その尾のように真っ白な裾、袖の衣をまとっている鈴は艶やかな黒髪を胸元に下したまま、今日も寝間着と変わらない格好。
だが美しい――……。
「障子紙を染めてみましょう」
「しょうじがみ?」
「燕竺朝顔の花がらを、こうして水の中で揉むとぉ――……」
福丸も興味深そうだ。金魚鉢の硝子越しに、鈴の膝元で青く染まっていく盥の中の水をのぞきこんで、元々丸い目をさらに丸く見張っている。
息を呑んだ海凪の目もきらめいた。顔の上で揺蕩う水面の影よりも、その光は童女の心そのもののように踊った――。
――――【 白き怪しき 】――――
大根の異名を “すずしろ” という。
「蘿蔔」や「清白」と書く――。
清い白――……。いいではないか。
婚礼の儀は等に終わっているが、この屋敷に来て以来、ずっと白い衣を着ている。
純潔を表す色だ。
これは謂わば白装束。
いつでも蘆那珠の碧海に
飛び込めるように―――。
*――この間、中庭で湯あみをしていたって話、聞いた……?
*――海凪様と水遊びをしていたんじゃないのかい
*――ちょっと覗いてみたんだけど、気持ちが悪いほど真っ白な足でさあ
*――男衆ときたら、そんな生足の何がいいんだろうねぇ
*――ああ、笑っちゃうよね、まったく
兆十殿に覗き見がバレてどやされたとか
*――でもさ? 死にかけの乞食やら病人にしかもてはやされずに、
寺院で兄貴と二人、ひもじく暮らしてた卑しい女が、
肉付きはそれなりにいいわけよ
*――あはは! じゃあ “大根足” ってやつだ
*――今度から “大根の奥方様” って呼んでやろうかねぇ! ははは!
――――【 奥方の庭 】――――
「海凪様、鈴殿、花売りが何本か買ってくれないかと来ておりますが――」
尋ねながら、兆十がいぶかし気に塀のほうを見たままなのは、その花売りの様子がどうも気になるからであった。だが、元梟者の兆十のように鼻が利くわけでない海凪は、当然ながら無邪気にはしゃぐ。
「お花? いいわね! 毎日、庭先の同じ花ばかり眺めているんじゃつまらないし。鈴も、たまには目新しい花が欲しいでしょ――?」
海凪は続けて、ぷんすかと頬を膨らます。鈴の部屋は、以前にもまして飾り気がなくなった。なんやかんやと理由をつけ、側室たちが物を借りにやってきて、一向に返さないからだ。
せめて広い庭を与えてやりたいところだが、侍女という身分にこだわっている以上、もとの大屋敷には戻れない。
「私は今あるものだけで十分です」
「そんなこと言わないで、お花くらいお部屋に飾ったら?」
鈴は少し迷ったが、生け方を教えてとせがんでくる海凪に苦笑して、
「では――……、私もよろしいですか? 兆十殿」
「あ? ああ! もちろんいいですとも」
「じゃあ――……」
と、笑った。だが、鈴ではない。その声はふいに、潮風に乗って門のほうから吹き込んできた。蘆那珠では珍しいと思うほど、さわやかな風だった。
棕櫚竹の葉が触れ合って鳴り、重たい印象の鈴の黒髪を煽り上げ、そよがせ――
どれがいいか、お好きなものを選んで下さい。
「奥方殿――……」
花売りと思しき男がいつの間にか、庭先まで踏み入ってきていた。
「これっ! 勝手に入ってきたらいかん!」
元から怪しんでいた兆十はすかさず窘めたが、鈴は風が吹きやむと同時に苦笑して制した。
「奥方なんて、大層な身分ではありません。私は海凪様の侍女で、鈴と申します」
「――……鈴殿」
男は編み笠の影で反復しながら、少し笑った。怪しい男だが、嫌な笑い方ではない。海凪はそんな印象を抱いて静観していた。
男は鈴に視線を注いでいるようだが、兆十を含めたその場の三人を前に、きちんと花籠を下ろし、片膝をついた。
「どれにします? できるだけ水揚げがよくて、日持ちする花を揃えてまいりましたが――」
花籠の前にぴょんとウサギのごとく飛び跳ねた海凪はしかし、花ではなく、男の編み笠の中をじーと上目にのぞき見た。
「み、海凪様っ!」
慌てる兆十を視界の隅に、海凪はにんまりと笑いかけた。
「やっぱり――。お前、町から来た花売りにしては、きれいな顔ねぇ」
「姫様は、花より男の顔に興味がおありで――?」
「恋人はいる?」
「……。」
「姫様あああ…っッ!?」
しゃがんだ自分の膝に頬杖をつく海凪が、兆十には男を誘惑しているポーズに見えるらしい。絶叫が上がっている。
「……。随分おませですね、お姫様」
「なぜずっと顔を伏せているの? 一応貴族の娘の前よ? 編み笠を取ったらどう?」
「暑いので被ったままでいたいのです。お許しを」
「河童みたい。もしかして頭の上にお皿があるとか、干からびてるとか…」
「言っておきますが、ハゲではないです」
ぐぐぐと編み笠を押し上げようとする女児の両手首をつかみ、ギギギと必死の抵抗をする辟易気味の―――……
河童や鬼の類にしては、微笑ましいやり取りだ。
「ふ…」
男と海凪は同時に鈴を見た。
鈴が口元に手を添えて、体を前後に揺らしながら笑っている。
海凪はこれに嬉しくなって、わくわくと花を選び始めた。
「河童さん! この花はなあに?」
「河童じゃないです花売りです。それは桔梗です」
「じゃあこれは!?」
男も少しおかしそうに、微苦笑をこぼした。
「夏菊です。――……こっちは河骨――……」
「骨っ!?」
「のような節があるでしょう。川面の上に咲く。だから河骨と言うんですよ、お姫様」
とても優しい声色だ――……。鈴は笑みに目を細め、庭先で始まった花の講義を聴きながら、不思議と兄を思い出した。
*――これは浜昼顔、こっちは浜木綿だよ?
鈴、ちゃんと覚えたか?
*――覚えました!
*――本当か~? 鈴は忘れっぽいからなぁ
「さっきからお姫様、お姫様って、あなた私を馬鹿にしていないッ?」
「それより早く花を選んでくださいお姫様。暑さで死にそうです……」
「お花が? それともお前が――?」
「両方です……」
「ほれ」
「――?」
花売りの男―――飛叉弥は急に割って入ってきた兆十のムスッとした声に、顔を上げて小首をかしげた。
「麦茶じゃ」
「は?」
「姫様と鈴殿に飲んでもらうついでじゃ」
「……。」
ふふ、と鈴がまた楽し気に笑った。兆十から麦茶を受け取りながら、
「どうぞ。遠慮なさらず。あなたは、いい人そうだから」
暑くて死にそうなのでしょう――? こちらの日陰へ入って、少し休んでいかれたらどうです。と提案した。
柔和だが、彼女は知的な目をしている。そう感じ取りつつも、飛叉弥は鼻で笑った。
「――…… “大根” などとあだ名されている奥方とは、どのようなお人かと思えば……、道理でお庭番殿がピリピリしなけりゃならないわけだ。お気遣い痛み入るが、そんなに暇じゃ…、あっ。こらッ」
海凪が花籠を抱え上げて立ち上がり、鈴の隣に行ってしまった。
あろうことか、飛叉弥が秦馬家の姫君に舌打ちするのをしっかり聞いた兆十は、やはり気に食わない顔で尋ねる。
「で――お前さん、本当は何しにここへ来た。何者だ――?」
「……、やましいことは何もない。ただ花をくれてやりに来ただけだ」
「くれてやるって…」
「ああ。気に入ったなら、全部やる。金はいらない。選び終わるのを待っていたら日が暮れそうだしな」
馳走になりました――姫様。
そう声を掛けられ、振り返った海凪は眉を下げた。
「え? もう行ってしまうの? お花は?」
「今回は差し上げます。その代わり――」
「――?」
鈴は飛叉弥と目が合った気がして、小首をかしげた。
「またあらためて、花を売りに来てもよろしいですか――」
「ダメじゃ。やっぱりダメな気がするッ」
「あんたには聞いてない」
兆十をいなす飛叉弥を前に、海凪はきょとんとしていたが、
「良いでしょう。お前の花、私がひいき的に買い取ってあげます。また、良いものが手に入ったら、ここの門をくぐっていらっしゃい」
鈴と待っています。
「姫様っ!」
「あと兆十もっ」
すかさずどやしつけてきた爺やに、海凪は指で耳栓をして付け足した。
飛叉弥は口端をつり上げ、くすっと笑い、編み笠を深くかぶり直しながら軽く会釈して帰って行った。
やはり、その笑みは不敵ながら、決して嫌な笑みではなかった――。




