場面1:華瓊楽奎王とのロマンス⁉
◍【 堕天女 】
今日も蔓綏河沿いをうめつくす高楼のそこかしこで、男女の影絵が舞い踊り、笑い声があがっている。
柳の並木道には絶えず酒気をまとってご機嫌な人々が行き交い、燈籠の灯りがにじむ川面には、緩慢な二胡の音色に乗って画舫が流れ、いずれも鼻腔をくすぐる脂粉の香りに、ふわふわと夢心地の様子である。
高地にある楼閣ほど馬車を要するため格が高く、特に旧瓔珞院という最上の廓には、迎賓や宮廷行事の際、技芸を披露する役割を兼ねた一流の妓女らが集っている。
しかし今宵、最もにぎわっているのは、おそらくここ―――。
「紗雲ちゃあああーんっ!」
「よっ! 蔓綏いちぃぃーッ!」
「こっち向いておくれぇぇぇ~!」
割れんばかりの拍手と鳴りやまない指笛を一身に受け、稀代の美人奇術師と謳われている彼女は、嫋やかに辞儀をした。
愛嬌をふりまく性質ではないが、腕に絡めている薄紗を扇子代わりに舞い、口元に添え、時おりゆったりと情感に満ちた仕草をする。観音菩薩のようにしなやかなその手ぶりを見るだけでも、目の保養になると大評判。
今日は物体の瞬間移動や、透視といった手品の他に、剣舞、弄玉、綱渡りなどの曲芸も披露し、立見客まで大盛り上がりである。
「なるほど……確かに、場末の酒場には似つかわしくない “上玉” ……」
熱狂的と言っていい空気感を味わいながら、四人掛けの席についている男の一人は、言葉とは裏腹に眉根を寄せ、好ましくない面持ちだ。
うねり上がっている周囲の客とは、明らかな温度差がある。科挙に落ち続け、文筆業で生計を立てているような冴えない風体で、どこか気品漂う老爺と相席していた。
楼閣の一階にある舞台――そこは温室兼中庭のような吹き抜けの空間で、当初は楽団を雇い、演劇などを催していたらしい。
だが、次々に新しい趣向の楼閣が立ち、客足が遠のいた近年は、茶館を兼ねなければ生き残れない経営状態となっていた。
そこに現れた救世主が、今まさに喝采を浴びている、その名も “月嬌の紗雲” ――。
領巾越しにしか窺い知れない凛とした色白の容貌は、さながら薄雲に見え隠れする月のようだと、女将がひねりだした芸名も受け、すっかり有名人である。
妓女でもないのに、ついにはその番付である “花案” にまで名前が挙がるほどとなり、噂はいや増して広がった―――。
「想像していた以上に、これは見過ごせない事態じゃろう。 “蔓綏八艶” ……わしも初めは、まさかと目を疑ったわい」
かつて、妓女たちの頂点といえば、第二の後宮と謳われた百馥園の宮妓だった。しかし、声色歌舞をこよなく愛しながら、その教坊の解体に踏み切った当代の頓珍漢な国王のお陰で、すべてがこの花案に集約されてしまったのである。
さすがに元一流の宮妓・官妓は甲乙つけがたいが―――とにかく、巷の民妓のみで優劣を競っていた場が拡充し、ピンからキリの幅が広がったことによって、いつの間にか、今回のような規格外の土俵入りと躍進が可能となってしまった。
「どうやら、大会前に雁雪という若い絵師が『華楽・新風美女列伝』なる画集を出版したのも影響したらしいのぉ。ほれ――」
各地の妓女を品評した書物というのは以前からあり、姉妹編や続編を待つよう結ばれてきた。それぞれの妓女についての紹介、花への見立て、総評が書き連ねられている。それを模し、対抗するかのように、巷の美人だけを集めた画集だ。
《 月嬌の紗雲は、月より舞い降りたる嫦娥か、そうでなくとも、天上から流謫された天女に違いない。指通りが良さそうな射干玉の髪。これを凡人輩がすくい取るのは厭うべしである。闇に香り立つような美しさの中に、雷光の神々しさを併せ持つその横顔は、まさに花の雨――濃密な夜を好む、漆黒の女神の如し―― 》
隠者風の白ひげをたくわえた老爺は、懐から引っ張り出したそれを卓上に開いて見せ、ため息をついた。
「一部上流階級の間で、家妓にしたいという声に拍車が掛っていると聞く……」
「家妓などとんでもない。妾同然ではありませんか」
「しかし、この画を葬るのはちと惜しい」
花天月地に領巾を翻して舞う髪の長い女が、色彩のない墨絵であっても、見事に艶っぽく表現されている。
生暖かい朧月夜の風に飛花を吹き上げ、柳の枝のように曲線を描く彼女は、確かに下界の男になど目もくれないだろう涼やかな伏し目気味の表情で、実物の特徴をよく捉えていると思う。
「まぁ、同じように馥郁と散る花ならば、わしはやはり、紫の藤のほうが “あやつ” には似合う気もするが、――正確な観察眼と、個性を最大限に引き出す描写力を持っていることは確かなようだ」
「図画院のひよこ(宮廷画家見習い)らも、素材としてこの画を欲しがっておるようじゃ。ここまでくると、百馥園ごと断ち切ったはずの色欲を刺激され、国王との甘い恋愛事件もあり得るのでは? との噂も……」
画集から視線だけ上げて見つめてくる対面の二人に、阮睿溪はそっぽを向いたまま、低い声を発した。
「勘弁してくれ。……」
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この酒楼は、中央が吹き抜けとなっている各階に、透かし彫りがされた木製の腰壁が巡らされている。一階から流水紋、喜窓紋、梅花紋と意匠が違い、三階部分は牀が向き合わされた要人席になっている。
薄紫や若草色の羅帳で遮蔽することができ、よく言えば古典的、悪く言えば典型的な内装であった。古くとも一級の細工なら格調高いといえるが、飾り壺にしろ、衝立にしろ、ここのはただ古いだけ。時代遅れの感が否めない。
そんな酒楼が男女官民一様の盛り上がりを見せ、最盛期以上の羽振りとなっているのは、ひとえに “天女様” のお陰である。
彼女は、枯れ木に花を咲かせられるのだ―――。
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華瓊楽国・百八代国王――睿溪は、市井にお忍びで出向く際、東扶桑のさすらい剣士を装って “武尊” と名乗っている。
席を取ったのも、軽く仕切られているだけの中二階であった。一般人に紛れ、平然とこの宵瑯閣を訪れたが、紗雲が舞っていると聞きつける度、覗きに来るからといって、別に召し上げたいと思っているわけではない。
武尊は目を三角にして、卓子をぶっ叩いた。
「贔屓にしているつもりもないぞッ」
「本当ですか? “彼” が以前破壊した街の修繕費として背負った借金ですが、それも武尊様が頻繁に通われたから、完済できたと聞いていますよ?」
芸は売っても身は売らない。一対一では酌をしない。そういう条件付きだったところを、あえて個室で相手をさせ、相当の金をにぎらせた、と――。
壽星台閣・珠聯補長(人事院総裁)――朝灘は、呆れた物言いで続ける。
「しかも、あれは実際、飛叉弥が各方面に個人的な理由でつくった借金だったのでしょ?」
「そうじゃった、そうじゃった」
璧合院太仙老(元老院議員)――燦寿は、長いあごひげをしごきながら懐かしんだ。
「しかし、借金と言うても、飛叉弥の酒代の付けなんぞ、たかがしれた額じゃよ」
今時の若者らしからず、哀れなほど禁欲的な生活を送っている。どれほど苛酷な戦場を治めようと、やつらの場合、任務はあくまで慈善事業と自国の組織が定めている以上、収入源にはなり得いのだからな。
「小遣い稼ぎに賭場へ行き、イチャモン付けてふんだくれる金も微々たるものじゃろうし、いっちょ前に養わなきゃならない “女” もおる」
そんな男がよりにもよって、重度の酒と煙草依存症ときた。必死に踏み倒しやすい店を探し歩き、なんとか酒にありつけている状況だなんて、他人事とは言え、想像するだけで涙が出てきよるわ。
「あれでいて、この国の元祖救世主様だぞ?」
口を尖らせながら酒を干す武尊の対面で、うむうむ、と燦寿も深刻そうに肯く。
「……。目を付けられた店が、一番不憫だと思いますがね」
確かに節約志向が過ぎて、薬品用や燃料用のアルコールにまで手を出さないとも限らない。そう考えると、恵んでやりたくなるのも分かる……。
朝灘は聞いているうちに微妙な気持ちになってきて、ひとまず手元のつまみに箸をつけることにした。
台閣の高官は、ここより遙か高台にある旧瓔珞院に赴くのが普通だが、今日は遊興に来たわけではない。
武尊お気に入りの “紗雲ちゃん” が、朝灘の同輩の間でもてはやされ始めたことから、いよいよ誰かの私物にされかねないと焦り、対策を講じにやってきたのである。
「とにかく、呑気に見物している場合ではないでしょう。彼女は “男” ですよ――?」
しかも、この国の有事に備えるべき軍人で、正真正銘の “現救世主” という立場まで知れたら、 “彼らをとやかく言う者たち” を勢いづけてしまうんじゃないかと、私はそれを危惧しているんです。
イラつきを見せる朝灘を横目に、確かにな、と燦寿が同意を示した。
「そもそも、なぜ紗……いや―― “皐月” の奴はまた、こんなところで伝家の宝刀を披露する羽目になっておるんじゃ。あやつは実際、女装趣味があるわけでも、男色家でもないじゃろ。自分の身に、ある種の危険が差し迫っていることを知らんのかいな」
須藤皐月――それが、稀代の美人奇術師という面をかぶっている、紛れもない最強軍人の名である。
否、彼が真に得意とするのは、雑技団でいうところの “変面” だ。氏素性はもちろん、公にしている事柄の大半は、虚構と言っても過言ではない。その真のプロフィールを知る者は、数えるほどしか、この世にいないのだから――。
武尊は朝灘と視線をぶつけ、じっと制止してからため息一つ、今日までの経緯を知らない燦寿に説明を施す。
「実は――今年、翰林図画院に入った某権門出身の子息の周辺で、妙な噂が立っていてな」
親の七光りによる放蕩ぶりもさることながら、美妓を対象に肖像画の腕を磨くと言って、まったく筆を握る気配がない上に、ルート不明の如何わしい白粉や、砂糖菓子のような嗜好品を大盤振る舞いしていると言う。
「接近できるやつを回してくれないかと、例の如く、夕食時に萌神荘へ上がり込んで、晩酌といきながら飛叉弥に相談してみたのよ」
男も女も容姿端麗と決まっている、花の国の夜叉―――花人。中でも酒好きな蓮壬彪将飛叉弥という男は、酒席を共にすれば、それこそ雨夜でさえ観月している気分に浸れるような、白髪の見目麗しい美青年である。
今やこの国で知らない者はないほど、彼らも色々な意味で有名人だが、やはり諜報員としての能力は群を抜いており、蛇の道は蛇――。
「ようは “こちらの組織” に、少しばかり協力して欲しいと頼んだわけだ」
花人に匹敵するかどうかはともかく、華瓊楽の諜報員も、おおよそ常人ではない。それが珍しく手こずっているようだし、これを好機と捉えてはどうかと――。
「未だに険悪な間柄だろ? いざという時、ちゃんと団結できるのか心配だ。懇談会を開かれるのとどっちがいいと尋ねたら、即行で合同調査案を呑んだ。てっきり、薫子あたりを貸し出してくれると思いきや――」
「現れたのは、 “紗雲” に扮した皐月……、というわけか」
だいだい読めて来た様子の燦寿に、朝灘は沈黙をもって首肯した。
「過日の花案に選出されていたことや、画集が出回っている件を知っているのかは定かでありませんが……、いずれにせよ、何か弱みを握られて応じたとしか思えません」
「飛叉弥のやつめ、また借金絡みの適当な嘘八百を並べて、強引に引きずり出したようじゃの」
“月嬌の紗雲” は、皐月が何らかの事情で資金調達をしなければならない時に手を出す、最後の手段であるはず――。
燦寿は同情半分、やれやれ、とあらためて思案に入る。
「私はすぐにでも止めさせたほうがいいと思うのですがぁ…」
「いや――有名になったからには、こいつを逆手に取らない手はない」
焦っている朝灘から目を反らし、腰壁に肘をかけた武尊は、吹き抜けの下を神妙な面持ちで見下ろした。
「そろそろ気づいている頃だろう」
実は潜入させられたこと。なぜ自分が、今回の任務の助っ人に抜擢されたのか。
「気づけば、自ずと動いてくれるさ」
「どうだかのぉ~。あやつは朝も昼も寝ぼけ面な上、素性が素性なだけに、空とぼけることが常態化しておる。はっきり面と向かって頼まなければ、気づいていない体を装い通すかもしれませんぞ――?」
「とにかく、幕はまだ明けたばかりだ」
武尊は不敵に鼻で笑った。
腐っても鯛ということわざがあるが、堕とされた天女も、どれだけ不貞腐れようと、本来の自分を完全に見失うことは無いはず。
“堕天女” とて “規格外” とて “異分子” とて―――彼は誰よりも、己の性というものと真剣に対峙してきた男だ。迷える子羊だろうが亡者だろうが、導く笛の吹き方も、鈴の振り方も、それなりに心得ていよう。
一国の王が期待を込めて見つめる先―――、終始完璧だったにもかかわらず、のそのそと舞台から下りる途中、その “異色の芸達者” は、未だに治まらぬ拍手喝采を浴びながら、なんでもない所ですっ転んでいた……。
(2021年07月04日 10時49分:投稿)
(2025年11月11日、現位置に移動)




