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払雲花伝〈ある花人たちの物語〉【呼び水版】  作者: 讀翁久乃
                         ※)以下、修正予定。暫定的内容
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目次5: “君はそれでいいの…?” 皐月に問う声 【完】

※)文字数容量の都合により、分割掲載に修正しただけで、内容は 2021.04.15 投稿分に掲載されていたものと同じです。



 【 智津香、涙ながらの懇願 】


飛叉弥と盤猛親子の合わせ技で、汚染土壌の浄化には目処が立った(ファイトレメディエーション)。宋愷そうがいを取り逃がし、いよいよ、ケリゼアンの解毒薬完成に挑む最終段階へ着手する皐月。摂取量を増やし、一気に症状を進め、五感が狂うという死の一歩手前――そこでようやく得られる、ヒントをつかもうとする。智津香はしかし、心聞(しんぶん)の最期が思い出され、皐月の覚悟に心が追い付かず……。

……………………………………



「頼むよ……、皐月――……」


 お前は、急がないでおくれ。


「智津香先生……?」


 ひいなが、か細い声で呼びかけた。


 責任があったから――責任を果たす当てがあったから、生きてこれた。それは、唯一与えられた “糧” だった。



「でも…、私が一番償わなければならないあの子は…っ――…」



 心聞はもう、いない――……。



「お前も、この一件に関わって、だいぶ気づいてるだろうけどね……」


 智津香は一つ鼻をすすり、背筋を正した。


「ケリゼアンの脅威は、私の息子が生み出したものなのさ」


 ケリゼアンが見せる死に際は、心聞が智津香に見せた死に際だった。


 手を伸ばして、何かを訴えようとして、だけど、いざ聞こうと手を伸ばし返した時には、もう遅かった。

 “応え” は永遠に闇の中。ごめんよと、一番に謝りたい人を――その償いの当てを失う思いが、どれほどのことなのか。



「だったら、なおさら急がなきゃまずいだろ……」


 あんたには、まだ償わなければならない当てが沢山ある。みんな、あんたの息子が残したものだ。



 *――……龍牙…っ、……



 花の雨に散ったはずの、あの日の思いがこみ上げる。定めとは時に残酷で、時に不滅の絆を見せてくれるものだ。


「逃げたくても、逃げられなかった。生まれた時から。逃げたくなくても、逃げてきて……」


 それでも自分は今ここで、償うチャンスに巡り合っている。当てを失う事はない。智津香が自ら向き合おうとしない限り、因果が自ずと “向き合う当て” へ導いてくれる。



「大丈夫だよ、俺は――……」


 一転して、ふわりと包み込むように和らいだ声音が、智津香の胸をしめつけた。


「あんたの息子が残した。あんたに託して、今も、求めて続けてる……」



 応えて欲しいと。



「ずっと、伸ばし続ける。こうやって、他人の手を借りてでも――……」



 節くれだった指先をすくい取り、皐月は添えるように微笑んだ。




 *――答えてください、母上……っ! 



 智津香はあの時、振り向かなかった。応えてやらなかった。あの子が最期に何を言いたかったのか、あの伸ばされた右手は――……。


「――…っ。――……」


 引き結ばれた唇の上を伝いおち、顎先(あごさき)に溜まった雫がこぼれ落ちる。




「俺も、あんたを信じてる」



 さぁ、今度こそ、この思いに応えなければならない――。



 *――智津香……



 夫もかつて、同じ言葉を繰り返した。

 躊躇うのは分かる。でも逃げるな。払ってきた犠牲を無駄にできない。

 もう時期に、日が暮れる――。



 *――母上…っ! 何をしているのです! 早く……ッ!!



 押し寄せてきた夕日の中、二つの声が交差する。

 うつむいた影で歯を食いしばる智津香の脳裏を、黄金色の記憶が駆け抜けていく。



 *――母上は、このお国で最高のお医者様なんだよ?



 どんな怪我でも病気でも、たちむかってく、強ぉ~い人なんだよ? それでね、すっごく優しいの。だから……





 *――絶対に逃げないって……信じてたのに…っ。――…






 慌しく扉を閉められたあの日――、すぐにでも追いかけて、少しでも話をしていれば、その後のことは、起こらなかったのかもしれない。

 宋愷(そうがい)の弟子になどならなかったのでは――……、数多(あまた)の命を奪ってしまうような魔薬など、生み出さずに済んだのではないかと、悔やまない日はなかった。


 だが、心聞(しんぶん)は自責の念に堪えかねたわけではなかったと思う。あくまでも、解毒薬の生成を試みていたのだと。

 それで――……、自らケリゼアンに侵された人々の苦しみに喘ぎ、味わいながら死んでいったのだと思う。




 呆然と、今はもういないと分かっているはずの息子の自室に向かう妻の腕をとって、口ひげを撫でながら、いつも穏やかな夫が、初めて怒鳴り声を上げた。


 *――智津香…ッ!!


 智津香、智津香と何度も叫んで、ようやく我に返った妻を、彼は後ろから抱きすくめ、震えながら訴えた。


 お前は何も悪くない。何故って、どんな時でも懸命に、手を尽くしてきたじゃないか。


 *――あれだけの災害が起こった場合、時には、まだ息があっても…っ!


 救える命を確実とするめ、最期の灯に背を向けなければならないことだってある。医者だからこそ我が身を守らなければっ……、医者なら、致し方ないということも……、



 *――振りきらなければならなかったということも、私はお前が…っ、一番辛かったのも分かっているッ!



 *――瞭安(りょうあん)…っ。…


 *――お前は逃げたわけじゃないよ…っ。…? これからもっと、もっと…っ。――……





 苦しむのだから――――。

 


 より多くの人を、救わなければならない定めなだけだ。

 逃げたわけじゃない。何故って、こんなに辛く、孤独な道があるだろうか。



 智津香――……君はそれでも、…………生きろ………



 そう呟いて、ともに荒波を越え、異国の地にて研究を支えてくれた夫も――……、微笑みを最期に逝ってしまった。







 【 子どもたちの決意。大人たちの前に立ちふさがれ 】




「大変だ!」


 集まってきた村人の前に、巡回をしていた男たちが、大梧、(ソン)達生(たっき)与児(ヨジ)と、平太の首根っこをつかんで据え付けた。


「放せよッ!」


 蔵に残された純な食料は、あと残りわずか。ここ二、三日の間、子どもたちの不自然な行動が気になって、目をつけていればどうだ。



「あの少年の居所が割れた! どうやら、こいつらに蔵の中の食料を運んでくるよう仕向けていたらしいッ!」


「違うよ…っ! それは俺たちが勝手に…っ」


 大梧たちの物言いなどそっちのけで、衝撃に顔を見合わせた大人たちが、森の入り口に促されていく。



 これは――……っ。


「何事じゃ…ッ!」


 異変に気づいた保爾(ほうじ)草鞋(わらじ)も履かず、表に飛び出した。だが、まろびそうになりながらも、慌てて引き止めようと駆け寄ってくる彼を、村人は見向きもせず次々と連なる。



 川が流れるように、淡々と歩み続けてきた先陣が、ついに出口を目前にして松明(たいまつ)を振った。



 このままじゃ……っ。


 ぎゅっと眉間をしかめた平太は、思うと同時に腕を払った。


「あっ、こら…っ!」


「平太…ッ!」


 大梧たちの叫び声が重なる。だた一人、拘束を解いた平太は一目散に走り出した。





【 “お腹が空いた人は、みんな悪人になる” 】


最後のケリゼアンを服用した皐月の容態急変は、これまでと異なり、戦慄を覚えるほどであった。智津香・柴らの、明らかな焦燥を目の当たりにしてしまったひいなは、いてもたってもいられず、澤眞の家を飛び出した。慌てて後を追う逸人。

 皐月の居場所を突き止めた村人たちが、森へなだれ込んでいくのを黙認し、幼い少女が、怒りに目を見開いて放つ言葉……。「これで、いいの」恥をかくのは、自分じゃない。隠さなければならないようなやましいことなど、何一つあの先には、待ち構えていないのだから―――。

………………………………




「ひいな……ちゃん?」


 ひいなは、憂色を漂わす満帆の呟きを背に、一層うなだれていった。


「……の時も……」


 握りしめられた拳が、ギリギリと音を立てそうなほど震えす。


「あの時もッ! みんなは、何度言っても信じてくれなかった…ッ!!」



 余繁ヨハンは――父は悪いことができるような人じゃなかった。確かに、賊に食料を分け与えていたことは否定しない。だが、その真意は周囲が囁いてきたものとは、いずれにしろ、かけ離れている。


「みんな…っ、一緒だって言ったのぉ…っ。――……」




 *――いいかい? ひいな。食べ物にとって一番不幸なのは、食べてもらえないことなんだよ……



 みんな必死なんだよ。お腹が減っているとね? 人ってみんな、心も減ってしまうものなんだ。父さんも、母さんも、ひいなもそう。



 だからお腹を満たすために、心を満たすために……


「お父さんは…っ。……、分けてあげたの!」 


 誰にだってそうだった。なのに……




「何も分かってないのは、みんなの方じゃないっ…ッッ!!」




 啓はびくりと震えて、我に返った。

 泣き叫ばれたその瞬間、まるで突き飛ばされたような衝撃に、思わず足がもつれた。


 しばらくして、気おされていた逸人の拳にも、ぐっと決意が(にぎ)られた。



「俺には、よく分からんないけどさぁ……」



 都に帰れば、花人を悪くいう奴もいる。子どもの自分たちには、理解しかねることだと言われれば、それは本当だろうから否定はしない。


 花人に何があるのか、あいつに何があるのか、誰が本当のことを言っていているのか、そんな難しいこと、聞かれても分からないけど―――



 だた



「教えてくれよ。なんで何も悪くない奴が、肩をすぼめて生きなきゃいけないんだ……」


 ひいなの父親さんも、俺の母ちゃんも、花人も



  あいつも――……。





 沈黙が降り注ぐ。背中を押してくるものは何もなかったが、啓は荒々しく舌打ちしすると、勢いよく地を蹴った。









 【 終章。皐月がどこで、何をしていたのか―― 】




「止まれ…っ! 止まってよ、みんな…っ!!」


 ここから先は行かせない。そう決然と、両手を広げて立ちふさがった息子に、村人たちの間から父親の握り拳が突き上げられた。


「平太ッ!」 


「お前さん! 皆の前だ、みっともない真似はよしとくれよ…っ!」


「構わないよ、母ちゃん! これでいいんだ……」 


 例え、村から追い出されるようなことになっても、後悔はしない。



 松明を持った大人たちの影が迫ってくる。平太は心の中でもう一度、考えてみた。

 ――皐月は怒るかもしれない。けど……



「どくんだ平太ッ! 今からするのは、子どものお前たちには関係のない話だ。遊びに行くんじゃないんだぞッ!?」


「分かってるっ! そんなの分かってるよぉ…っ! けど……っ」



 裏切れない――……。何だか分からないが、無性に湧き上がってきたそんな闘志が、平太を妙に勇気付けていた。

 逸人が皐月を慕う気持ちが、自分には分かる気がする。何をどう裏切りたくないのかは分からない。だが、自分は単に、あの少年がそのつど向けてくれた優しさに応えたいだけだ。


「どきなさいッ!」



「――いいや。ここから先は、通せねぇ……」


 平太は驚きに目を瞠った大人たちから、背後の小屋を振りかえった。



………………………………

嘉壱はいよいよ腹に溜め込んできたものをぶちまける時だと思った。

そこに啓が立ち向かう。

………………………………



「どけよ……」


「通さねぇって言ってんだろうが……」


「どうして――? それが、あいつの命令なの? それとも自分の意思……?」


 嘉壱の表情が、目にも清かに険しくなってきた。

 その時、


「…っ!?」


 部屋の奥から、ただならぬ物音が聞こえた。――やっぱり中にいる……っ!



「おい啓…ッ!」


 たちまち蒼白になった啓は、嘉壱の腕を振り払った。沸きあがってきた焦燥感に、立ちふさがる障害物はすべて、なんであるかも認識しないまま押し退けてやった。


 土間の段差を踏み越える。引っくり返された鑵子(かんす)から、濛々(もうもう)と立ち上る蒸気と、村人たちの不安げな面持ちを背に、戸の引き手へと指先を伸ばした。



 高まる鼓動。(つば)を呑む。もう、何も聞こえない。ただ――




 ただ――……




 引き戸の向こうにあった光景を目にした瞬間、啓の脳中は文字通り “真っ白” となった。



「ゲームオーバーだ。皐月―――」







 【 “君はそれでいいの――?” 皐月に問う声 】


夢を見ている皐月。真実はすべて明らかになるべきか――。

涙の後始末って大変なんだよね。

………………………………



 平等、平等と人は言う。だが、本当に平等であるべき事を、人は拒み、嫌がるものだ。


 いいか? 世の中には、知らないほうがマシだったと思うことが、沢山散らばっている。知らない方がいいのなら、伏せておくのも悪くないだろう。


 それが例え、真実を有耶無耶(うやむや)にすることであったとしても、誰かが、ひどく傷つくのを見るよりはマシだ。ひどく傷つき、泣き止ませるのに悪戦苦闘するよりは―――。


 知らないままでいれたなら、他人を心のままに、恨み続けるだけでいい。


 人の涙の後始末は、一番面倒なことだから――……。 




 *――でも、君はそれでいいの……?




 かまわない。

 そうだ――、天に杯を掲げよう。涙も雨の雫と(あざむ)こう。

 兄弟たちのためだ。慈雨として(たた)えて見せよう。

 


 湖ができるほど、たくさん集めるのだ。



 しかし――……、死ぬ間際というのは、ひどく喉が渇くと聞く。

 ならば、涙は玉とあざむこうか。 

 しょっぱくては、余計に喉が渇く。

 


 そうだ。玉がいい。だから――――…………





 ――――お前はそれで、何を守れる――――









 【 お前は何も悪くない。誰も悪くない…… 】



須藤皐月として摩天に育ち、気味悪がられていた幼少期、友人になってくれた少年が、炎に巻かれて自分への恨み言を訴えた。信じていたのに、と。

 “八年前の事故” に関わる悪夢から覚めた皐月の側にいたのは……?

……………………………………



 自分は本当に生きてるのか――? だが、いま見たのは、明らかな地獄だった。



 喉が、からからに渇いている。ああ、そうだ。確かそこに水が――……。

 ゆっくりと視線を異動させて、皐月は息を止めた。


 

     ぴしりと、糸が張られたような緊張が走る。

 

 


 傍らにいたオレンジ頭の少年が、視線を注がれて口を引き結んでいく。


 びっくりした。こんな近くにいて、気づかなかったなんて……。

 しばらくして皐月は、かさつく唇を動かした。




「……――どうした……」


 

 黙ってないで、いるならいると、声を発してくれればいいものを。




「啓――………」




 啓はびくりと肩を震わせた。膝の上でにぎりしめている拳が、小刻みに震えだす。



「……な…、…っ。――……」 


 何も知らなかった。知りもしないで、自分は――――……。




「…な…」



 ふと耳に届いた呟きに、啓は顔を跳ね上げた。


「え…?」



 何か、いい言葉を―――。

 どんな言葉をかけらたいいのか。

 その涙を、震える肩を、どうしてやればいいか。



 悩んでも、結局、これしか出てこなくて――……。





「気にするな……」



 皐月はもう一度、保証するように苦笑をこぼして見せた。


 お前は何も―――、悪くないんだから――………。








 【 “仰いで天に()じず” 】 完


空を見上げて、いつも確かめる。自分の善悪。仰げれば上等。でも、やっぱり少し、怖いかな――……。

……………………………………



「……なんだ、柴か。びっくりした」


「びっくりしたのはこっちだ。また勝手に居なくなったと思ったら、こんな所で転寝など……」


 よくなったとはいえ、まだ本調子に戻ったわけではないと、智津香も言っていたではないか。


「怒られるぞ?」


「じゃあ、言わないで黙っててよ」


「またそんな無茶苦茶を…」




 “熱い” ――と。皐月はただ、そればかり繰り返していた。最初は寒いと言ったが、確認したらすぐに否定した。 


 寒くはない。寒いわけがない。寒さなんか感じない。感じたことはないと――。


「あの時は、本当にどうしようかと思ったぞ」




   *   *   *




 *――なに言ってんだい皐月…ッ! ちゃんと応えな…っッッ!!



 馬乗りになった智津香が胸倉をつかむと、静まり返ってしまった皐月は次に、押し寄せる津波の如く訴え始めた。



 *――……い、……ついよ、……あつい、熱いッ!!



 やめろっ…ッ!! 燃える…っ、止まれ、止まれよッ! 苦しい、息が……っ、出来ない! 誰か…っ、誰か止めてくれええぇぇ――――……ッッ!!



 喉元をかきむしるように暴れだした―――。




   *   *   *   




 性懲りもなく再び寝そべってしまう現在の彼を横目に、ため息一つ、柴は仕方ないな~…、という顔で傍らに腰を下ろした。


 今思えば、あれはケリゼアンとはまったく別の苦痛による絶叫だった。しかも、 “皐月本人” だったのかさえ疑わしい。誰かは分からないが、こいつ意外の視点が混じっていたように思う。



 正直に言え。全…ッ然っ、記憶無いだろう。



 そう、反省を促せなくもないが……、さすがにかわいそうなので、また日を改めることにしよう。



 谷間に咲き乱れる紫苑の花の波間を、はしゃぎまわる子どもたち。

 彼らとも、明日でお別れだ――……。



   ×     ×     ×



「もう、帰っちゃうんだってね」


 崖の下から吹き付けてくる風に、前髪が遊ぶ。表情を暗くしている平太に、逸人は目を瞬かせた。

 そして、にっと口元をつりあげ、得意げに胸をそらしてやった。


「また来るさ! それまでにはちゃんと、腕っ節きたえとけよ?」


「ハハ。なんだよ、それ。逸人くんこそ、もうちょっと背ぇ伸ばしなよ」


「う…、うるせぇなっ! 人が気にしてることをぬけぬけとっ」


「逸人ー、うるさいぞーお前~」


 皐月のかったるそうな抗議など意にも返さず、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。


 柴は朗らかに笑った。


「すっかり仲良くなったな。あれじゃ、別れるのが辛いだろう」




「……――そうかな」


 皐月はわずかに目許の笑みを薄めた。

 別れても一時。彼らにはまだ、多くの時間が残されている。



「生きてさえいれば……、またいつだって会えるよ」



 生きてさえいれば――……。柴は、そう呟く彼に習って空を仰いだ。そこには、いつも雲が流れている。



「そんなに……空が好きか?」


「?」


「空の何が好きなんだ」


 色か。透明度か。雄大さか。開放感か――。



 これに皐月は瞬きすると、薄く笑った。


「 “仰いで天に()じず” ……ってことわざ知ってる――?」


 俺がどんな悪態をつかれようと、誰に何を囁かれようと、堂々としていられるのは、自分を見失っていないからだ。


「自分は、そんなことを言われる覚えなんてない。少なくとも、周りが言っているようなことは、何一つしていない。――まぁ、認めて開き直ってる時もあるけど…」



 *――真実は、誰が有耶無耶(うやむや)にしようと、己の内に必ずある……


 だから、胸を張っていればいいと肩を叩かれた。自分に嘘がないのなら、臆する必要などないと。自分まで、目を逸らすことはないと――。



 これまでの行いを反省してみて、心にやましいことがなければ、天を仰ぎ見ても恥ずかしいと思うことなんてないはずだ。


「 “潔白” っていう証拠なんだって。だからいつも、空を見る……」



 誰がなんと騒ごうが、解釈しようが構わない。自分としては、今日も空を直視できれば、それで上等だ。


「でも本当は――……、今でも、少し怖いんだよね」



 この空を、仰ぎ見ることが。




「怖い――? なぜだ」


 柴は、何の気なしに訊ねた。




「皐月……?」


 見れば、その笑みは、どことなく自信にかけ、切なさを帯びていた。



「目が……」




 合ってしまいそうだから、かな――……。



 微かな語尾をさらって、紫苑の花畑を、秋の風がかけ抜けていった。





                            【END】




 

“仰いで天に()じず” ――について


 子どものころ、祖父にもらったことわざ辞典の最初に載っていたんです。

 作者の座右の銘となりまして、この言葉を知っていてよかったなぁ、と思うことがたまーに。


 欲深いですから、聖人君子のようには生きられませんが……、主人公には、それなりになってもらいます。 “君子三楽” ――せめて、どれか一つくらいは掴ませたいというわけで、鬼修行あるのみ。


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