落城、そして滅亡
Ⅳ
郭の方から怒号と鬨の声が繰り返し聞こえる。天守閣の広間で、秀頼は扇子で膝を叩きつづけていた。明らかに苛立っている。
理由は明白であった。
淀君が、千姫の小袖の裾にどっかと座り込み、脇を四人の侍女たちが囲んでいた。侍女たちは女だてらに、腰に脇差など差している。これは千を守るためではなかった。千が逃げ出そうとした時に千を刺し殺すための、いわば刺客団なのである。
千の頬は蒼白だった。恐怖しているのではない。恐れがあるとき、千は目を閉じて震えるくせがある。今の千は目を閉じるどころか、完全に瞳が据わっている。千は激怒していた。
戦闘は最早城内に移っていた。大手門が破られ、徳川勢は城内へ侵攻している。城内から迎え撃つ部隊も出され、三ノ曲輪は大混乱となっている。広間の護衛である真田大助以下の者達は、広間の中を右往左往している。
「慌てずともよい!」淀君が彼らに言った。「そちらは我らの周りを固めておくとよいのじゃ!」
「殿。」大野治長がそっと耳元で囁く。「これでは、千姫様を大御所様の下へ送り返すことが・・・」
「何を申しておるのだ、治長!」淀君の金切り声が治長の言葉を遮った。「千は返さぬ!家康に対するせめてもの復讐じゃ!孫娘をも殺してまで主君を殺したかったかと、末代までその非情さを言い伝えられればよいのじゃ!」
淀君の言葉とその勝ち誇ったような歪んだ表情に、治長は呆然とした。この女は恨みでしか、ものを考えられないのか。
そのとき、秀頼が小さく呟いた。
「・・・最早、余地なし、か・・・」
振り返ると、秀頼は沈痛な面持ちで一瞬目を閉じた。それは悲しみというよりも、むしろ諦念に似た感情を、治長に感じさせた。
秀頼は目をかっと見開き、右手を振り上げ、強く畳を叩いた。
次の瞬間、淀君とその侍女達の背後に、静かにすっと黒い影が降ってきた。侍女達が気付くか気付かないかのうちに、影たちは彼女達を抱えて、天守閣の屋根から下へ下へと降りてゆく。
「こ、これは・・・!」
護衛陣が狼狽して太刀を抜くが、その時にはもうすでに、五人の影と淀君、そして四人の侍女は、その姿を消していた。
「と、殿!」治長が仰天して秀頼を振り返る。「これは一体・・・!」
「治長。」秀頼は治長を遮った。「おぬしの手の者に、千を送り返すのに最も適した男はおらぬか?」
「…されば…」治長は冷静さを取り戻し、少し考えた。「米村権右衛門がよろしゅうござるかと。」
治長の後ろに控えていた、顎鬚を蓄えた武士が頭を下げる。
「よい。だが、一人では心もとないな…」
「さらば、堀内氏政を。」
「うむ。」秀頼は頷いて立ち上がった。「お主らは下城し、蔵に入れ。そしてそこを最期の場所とせよ。わしはここに残る。」
「な、なんと!?」真田大助が声をどもらせる。秀頼は曲輪を見下ろした。最早徳川方の将兵は、二ノ曲輪の深部に達していた。
「ここはわしの世界じゃからな。」秀頼は感傷深げに言った。「それなら死ぬのもここでいい。」
なおもためらう大助に、治長が言った。
「大助、城門のところの松明を持ってゆけ。確かあの蔵には、火薬の樽が詰めてあったはずだ。」
つまり、蔵を爆破するつもりなのである。大助はとうとう理解し、部下達を急かして広間を出て行った。
「殿・・・」
治長は呟く。徳川の軍勢はとうとう一ノ曲輪の城門に取り掛かっており、破られるのも時間の問題であった。
「わしはよい。佐助もおる。」秀頼は頷いた。「それよりも、母上の死骸を残さぬようにしてくれ。首が大納言殿に見つかるのは面倒だ。」
「・・・左様でしたか。」治長は一瞬ひらめいたように頷いて、頭を下げる。「御意。」
大納言とは、将軍徳川秀忠のことである。豊臣家を滅ぼしたい秀忠にとって、淀君と秀頼の首がなければ夜も眠れないはずであった。
その首を渡すな、ということだ。つまり、木ッ端微塵にするのである。
治長は広間を出るとき、一瞬振り返った。
「どうか、ご無事で(、、、 、、、、)・・・」
そして治長は、広間を急くように出て行った。それから秀頼は振り返り、そこにいる二人の武士を見る。
「それでは、千を頼むぞ。米村、堀内。」
「はッ!」権右衛門と氏政は平伏し、それから権右衛門が千を振り返る。「さ、まいりますぞ!急がねばなりませぬ!」
だが千は、まだ迷っているようであった。権右衛門が、一瞬戸惑う。「姫様・・・」
千は秀頼を見つめる。秀頼は千に一つ頷き、それから小さく言った。
「もはや、行け。」
千は頷き、権右衛門を振り返って、呟いた。
「参ります。」
***
天守閣、一人ぽつんと立ち尽くしたまま、秀頼は戦場を見下ろした。裏門を出てきた白い衣が三つ、戦場の真っ只中を貫き、茶臼山の方へと向かっている。二人の武将とその配下総勢二十名、それを円形に囲んで、それを見つけて襲い来る将兵たちを、敵味方構わず斬り伏せていた。
白い衣の中には、千とその女中二人がいる。
この女中のうち一人はちょぼ(、、、)といい、彼女が大坂に入った七歳の頃からついていた侍女である。そして大坂落城ののちも、千につき従い続けた侍女でもある。
「殿・・・」後ろから声がした。「遅くなりまして・・・」
秀頼は振り返った。秀頼から少し離れたところに、忍び装束の佐助が控えていた。肩口に刀傷、この男にしては珍しいことには、息が上がり、汗などかいている。
「敵か?」
「将軍手飼いの忍びどもと闘りあいまして・・・」佐助は軽く頷いてみせる。「しかし問題はありませぬ。あの程度のものならば、私一人の腕でも十分に殺せました故。」
「お主の腕だからこそであろうが。」秀頼は苦笑して、それから眉を引き締めた。「行くぞ。」
「御意。」
秀頼は広間を飛び出した。佐助もそれに続く。
階段とは逆の方向へ走ると、廊下の端にある、小さな壁の隙間を押した。ぐっとその板張りがへこみ、空間が現れる。佐助がその隙間に手を入れ、ゆっくりと引っ張った。
細い、人一人がようやく通れるほどの階段が現れた。秀頼は何も言わずにそこへ駆け込む。佐助もその後に滑り込むと、板張りをもう一度引き出し、ぐっと押し返して、元に戻した。がつっと、嵌まり込んだ音がした。
城内は静かになった。
わずかの後、城外、蔵が轟音を立てて爆発した。その火は天守閣にまで登りつめ、炎をまとった木片が広間にまで到達した。その火は畳を飲み込むように広がり、やがて天守は、炎に包まれた。
***
慶長二十年五月八日、大坂城は火の海となり、ここに豊臣家は滅亡した。淀君と豊臣秀頼の首は発見されず、将軍秀忠は焦燥に駆られ、すぐに残党狩りの命を出した。これ以降数十年、残党狩りを続けたという事実が、徳川方の焦燥と執念を示している。