表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
秀頼と千  作者: 鷹山治憲(月隈朱莉)
1/5

五月六日


 慶長二十(1615)年、五月六日、夜。

「千。」

 天守閣の窓の際、秀頼は呼んだ。千は振り返り、裾を曳きずりつつ秀頼の隣に立った。

「あれが何か、分かるか?」

 秀頼は岡山と呼ばれる丘の上に灯る、いくつかの灯りを指した。千は吐き捨てるように言い放つ。

「わが父、秀忠の本陣。」

 まもなく子の刻(午前0時ごろ)になろうとしている。それなのにあれほど晧々と灯りがあるというのは、用心深いのか、あるいは臆病なのか。どちらにせよ、奇妙なことである。

「あのお人はどれほど臆病なのでしょう?」

 千は蔑むようにそれを眺めている。軽蔑しているのだ。娘婿である秀頼に対し、これほどに強引な手を用いて戦を仕掛けてきた父を、千は許す気などなかった。

「そう言うな。」秀頼は苦笑した。「そなたはあそこに戻らねばならんのだ。」

「いやでございます!」千は瞠目して金切り声を上げた。「千はもはや豊臣の女でございます!あなた様の妻でございます!千もあなた様と共に、この命を捧げるつもりでございます!」

「ならぬ。」秀頼は悲痛な表情で、けれどやさしい声音で首を振った。「そなたは本来、豊家の人間である前に徳川家の娘だ。豊家が滅びれば、徳川家は向こう百年の平和を築くだろう。大御所様にはそれだけの力も持っておる。それを、わしと共に滅びる必要はない。」

「いやです!いやでございます!」千は半泣きだった。「私の祖母も、関白様の北ノ庄攻略の折、落城前に私たち姉妹を落として命を絶ったと伺っております!その夫と共に!千はあなた様から離れとうはございませぬ!どうか・・・」

 千は秀頼の腕にしがみついた。岡山の松明が風に揺らぐのを眺めながら、秀頼は唇を噛んだ。出来うるなら、千を離したくはなかった。幼いころからであったとはいえ、夫婦として共にあり、過ごしてきたのである。母、淀君に頭を抑えられていた秀頼にとって、千の存在は救いであり、慰めであり、喜びでもあった。千が輝かしくたおやかに育ってゆくのを最も間近で見てきたのは、ほかならぬ秀頼なのである。

 しかし秀頼は、それを告げることは出来なかった。

「生き延びるのだ。」秀頼は切実に言った。「中納言(会津藩主・上杉景勝)殿を通じ、すでに大御所様には話を通してある。そなたは明日、頃合を見計って城を出、岡山へ向かうのだ。修理(大野治長)の手の者を付ける。」

 千はぐすぐすと泣いた。自らの妻であるとはいえ、まだ一九歳の女子なのである。大阪に来たばかりのころ、こんな風によく泣いていたのを、秀頼は覚えている。そのたび、まだ十一歳の歳であった秀頼は彼女を慰めた。母を恋しがる彼女にとって、淀君はあまりに彼女の母とはかけ離れていた。


 同じ親を持つ、相対する性質を持つ女性達。

 太閤豊臣秀吉の側室・淀君と、江戸幕府第二代将軍徳川秀忠正室於江与(於江ノ方)、そして京極高次未亡人常高院(またはお初ノ方)。この三人は近江の大名であった浅井長政と、織田信長の妹小谷の方(お市ノ方とも)の娘達である。当代きっての美男子である浅井長政と、これまた一の美女とされる小谷の方の娘である。三女とも、美貌の持ち主であった。天正十一年(1583)、お市が北ノ庄城にて、二人目の夫である柴田勝家と共に命を落とした後、豊臣秀吉(当時羽柴)の御預となり、長女淀君は側室となり、三女於江は徳川秀忠に嫁ぐこととなった。

 この姉妹は、父と伯父譲りの激し易い心をもっていたが、その激し易さはそれぞれ違った性質を持っていた。

 淀君は根っからのお姫様育ちであり、しかも北ノ庄落城のころにはすでに物の道理を理解する歳になっていた。そのためであろうが、常に権威的で、強気な性格の持ち主であった。それはたとえるならば、冬眠後の熊のような凶暴さであった。非常に自己中心的、且つヒステリックに自らの主張を押し通す。

対して於江の強さは、静かな活火山のような強さであった。逸話がある。千姫の結婚の際、夫秀忠が娘の豊臣家への嫁入りを渋ったことから、身重であるにも関わらず千をつれてひとり大阪に下り、伏見で次子である初姫を出産した。物に動じず、自らの意思を信じ、そうと決まればそれを遮二無二、実行する。その意味で、淀君よりはいくぶん聡明であり、賢い女性であった。

筆者、余談。天正三年(1575)、浅井・朝倉の連合軍と、織田・徳川の連合軍が近江国姉川にて戦闘した合戦がある。世に言う姉川の戦いである。筆者は思うのである。もしも朝倉義景が勇猛な武将であったならば、この戦は起こり得ず、したがって淀君がこうも驕慢になることはなかったであろう、と。織田信長はものの見える武将であった。だからこそ、若く聡明でまた斉藤家とも渡りあう武力さえ持っていた浅井とはお市を通じて同盟を結び、朝倉領へ侵攻したのである。また、明智光秀は反乱を本能寺で起こすことはしなかったであろうし、秀吉はああも簡単に天下を掌握することは出来なかったであろうし、そして何より、太閤側室の淀君は存在しなかったはずである。朝倉義景という越前一国をほぼ治めたのみの小大名の存在が、とある姉妹の人生を一つ大きく作り変えてしまったというのは、歴史の皮肉と言うほかない。

以上、余談である。



「そなたに見せとうはないのだ、わしの愚行を・・・」秀頼は千をそっと抱きしめた。「これからこの城は血よりも紅い場所になる。そなたはまだそのような場所まで来るべきではない。」

「わたくしとても、戦国の女にございます…私も祖母のように、最期の時まで、あなた様の隣にいとうございます!」

 秀頼は唇を噛む。政治的な道具として使われ、その生涯を母・淀君の強い支配のもとで過ごしてきた千にとって、自らの死すら選べぬ状況は許しがたいものなのだろう。

 秀頼は千の体を話すと、彼女の瞳をすっと覗き込んだ。

「わしは最後に、秀忠公に対する楔を打とうとしておる。」

「くさび?」千は涙でぬれた瞳を大きくきょとんと開いた。本当に意味がわからなかったのだ。

「ああそうじゃ、くさびじゃ。」秀頼は頷いた。「わしの人生は、まだ長いじゃろう。それにおぬしを付き合わせるわけにはゆかぬ。」

 千は瞠目し、それからうわっと秀頼に泣きついた。

「できるのなら・・・もしも、それが叶ったのなら、」秀頼は頷き、千の頭を撫でた。「わしはそなたに会いに行こう。約束だ。」

 千が唇を秀頼にがつんとぶつけた。秀頼は、柔らかくそれを受け止めた。


***


「お教えなさらぬほうがよろしかったのでは?」

 秀頼が盃を傾けていると、その後ろからぬっと影が現れた。忍び装束、顔は、まるで猿のようにも見える。千はとうに寝所に戻っていた。

「気が付いたら、もう言うておったわ。」苦笑意志ながらボソッと呟き、秀頼は頬をつるりと撫でた。「支障が出るか?佐助。」

「なんとも・・・」

 佐助と呼ばれた男は首を捻った。佐助は千の大胆さと果断さを知っている。評価していると言っていい。

 この佐助は、真田佐衛門佐(さえもんのすけ)信繁の子飼いの忍びである。信繁は、一般的には

幸村

の名で通っている。秀頼の作戦のために、秀頼の傍にあるよう、信繁が佐助に命じたのである。

「供に落ちるなどと言い出しかねませぬからな、あの姫君は。」

「まあな。だが大丈夫だろう。」

秀頼は手酌で酒を注ぐ。

「今はまだ混乱しておるだけじゃ。あやつは聡い。それに、」秀頼はふっと微笑んだ。「母上やわしよりも、数段肝が据わっておる。やはり於江様の娘だ。自分がついてゆけば足手まといになるだろうと分かっておる。わしが消えれば、もう二度と会うこともないであろうことも、な。」

 秀頼は再び盃を見たすと、佐助に差し出した。佐助は拝受し、盃を一息で乾して見せた。

「しかし、いつのまに中納言様にお話しを通しておられたのです?拙者、弱輩ゆえ、全く気付くこともなく・・・」

 佐助の言葉に、秀頼は一瞬意外そうな顔をした。それから合点が言ったように頷くと、盃をまた乾して畳に置いた。

「今行ってもらっておるのだ。おぬしの主にな。」

 佐助は驚いた。秀頼はニッコリと微笑む。

「知らんでも当然だ。極秘中の極秘であったからな。あやつ本人に行ってもらわねば、千の助命は話も通るまい。」

「そうか・・・」佐助は納得して頷いた。「山城守様ですな。」

 直江山城守兼続。上杉家の執政である。

 信繁は一時期、上杉家にいたことがあった。その父・真田昌幸が、自らの居城である上田城を守るため上杉に従属し、その援けを得て、当時駿・遠・参・信・甲五カ国の太守であった徳川家康を退けた。その従属の証として、信繁を差し出したのである。つまり、人質である。

 この時、信繁まだ十八歳。直江兼続が彼に教えた軍法・思想は、どうやら彼の一生に大きな方向性を見せたようである。

「山城守どのに話を通しておけば、上杉家の方針は決まる。上杉を動かしているのはあの男だからな。それに、」秀頼はにやりと微笑んだ。「家康公は上杉家に一目置いておるようだ。二条城でお話したとき、そのことを言外に洩らしておられた。信繁は、山城守どのを敬愛しておったしな。」

 窓から差し込んでくる月を睨み、秀頼はふっと微笑んだ。半月である。盃を掲げ、月をその中に汲み取り、秀頼はそれを、目を閉じて乾して見せた。


***


 同刻、信繁は淀川の上にあった。かなり小さな船で、信繁のほかにはもう二人、船頭と女が乗っているだけだった。この女は、信繁手飼いのくノ一で、紅という。

川面に浮かぶ月は半月、夜の帳は川面を布のように塗りつぶし、船の舳先が切り裂いて進むほか、ぴたりと凪いで動きもしない。

「もうすぐ寿屋や。」船頭が櫓をくっと捻りながら、ひどい訛りで言った。「裏口に付けるで、そないせんと、あんたも往生しはるやろ。」

「済まぬな、ご老人、気を使わせて。」信繁が言うと、老人は「ええねん、ええねん。」と手を振った。

「これも仕事やさかい。それに、秀頼様の御為やったら、こないな仕事、安いもんや。」

 余談ではあるが、当時から現代まで、大坂の市民の人気は圧倒的に豊臣家に依っていた。自分たちの土地の大名であったことは言わずもがなであるが、秀吉がばらまいた黄金の為に大坂の町が潤い、人々の生活が豊かになったことも大いに関係している。徳川家は病的なほどに大坂を恐れ、金銭的に締め上げた。そのことによっておこった大坂の一時的衰退は、結果後世の家康への評価にまで影響を与えている。

 船が石段の脇に着く。信繁は陸に上がると、船頭に軽く頭を下げて、柳亭のなかへ入っていった。

「あ、真田さまやおまへんか。」女将が気付いて声をかけてきた。京から出てきた女性で、もうすぐ十年になるといっていたが、未だに京訛りがある。「かのお方はもう入ってはります。一番奥の部屋どすわ。」

「ありがとう。」信繁は微笑んでから、下女の案内で奥に入って行った。

 右、左、と曲がりくねる廊下。その突き当たりのところでようやく下女は立ち止まり、襖を開いた。

 行灯を灯しただけの室内は、奇妙に薄暗い。西に縁を置いた書院の間である。その縁に泰然と座っている、初老の武士が一人。その涼やかな表情は、清廉でいて威厳を持っていた。

「兼続どの・・・」

 信繁が呟くと、武士はゆっくりと振り返り、微笑んで、手にした盃を掲げて見せた。

 直江山城守兼続。智・勇、共に優れた、古今無双の名将である。

「義」の心を以って「利」を穿つ上杉家に在って、執政職としてその軍事・政治のすべてを司る男である。その生涯を主君・上杉景勝と上杉家のために捧げ、豊臣・徳川の二政権をしたたかに泳ぎぬいた。米沢のころに兼続が行った治水事業のうち、松川に築かれた石提は

 直江石提

と呼ばれている。後年、米沢上杉家には、上杉鷹山という財政再建を行った名君が現れるが、その鷹山が敬慕し、その治世を倣ったとされるのが、この直江兼続である。この邂逅から五年後の元和五年に、六十歳で死んでいる。

 家康はこの兼続と、その主君上杉景勝の二人には特に気を遣っていた。この二人は、単なる主従以上の心で繋がっている。幼いころからそばにあり、互いの意思疎通に言葉すら必要とせぬこの二人は、政治的な判断でさえ「義」の一字を貫く。関ヶ原合戦のきっかけとなった上杉討伐も、この直江兼続が家康に送った

 直江状

がきっかけとなっている。この書状もまた「義」の精神にあふれたものであった。

 もともと上杉家は豊臣政権下における五大老の一人であり、関ヶ原合戦当時は家康の名目上同僚であった。今でこそ臣従して幕府に屈しているとはいえ、今だ謙信から続く武勇は鳴り響き、家康が警戒するのは当然の相手である。

 故に上杉家の意見として大御所家康に奏上しておけば、これは通る。そして上杉家の意見をまとめるには、兼続を通すのが最もよい。それが信繁の読みだった。

「二十年ぶりでございますか。」盃を受けながら信繁が呟くと、兼続も小さく頷いた。

「酒田の丘の上か。」

「懐かしゅうございます。」

 月の中に、二人で見下ろした海港が浮かぶ。越後で取れる青苧を詰め、大坂へ運ぶ。酒田は日本海側を通る船の中継港でもあり、その関銭と青苧の売上は、当時の上杉家の重要な収入源となっていた。兼続はその事を、別段隠すでもなく、あっけらかんと信繁に教えてくれた。一介の人質に過ぎぬ男に対してである。それからほどなくして真田上田城が徳川家の包囲を受けた際、兼続は人質である信繁に上田城へ戻ることを許した。その後は父昌幸に留められ、越後へと戻ることは叶わなかったが、信繁の中には確実に、その「義」の志が息づいていた。

「生きてこのように、兼続様ともう一度盃を交わすことが出来たのが、私の人生で最大の喜びであります。」

「何を大袈裟な。」兼続は苦笑し、それから渋面を作った。「…いや、その通りじゃな。もはや戦いは決する。明日の決戦で、徳川方は大坂城を攻め落としにかかる。仮に持ちこたえたとしても、野戦は十中九まで徳川方の勝ち。明日か明後日が潮時だろう。秀頼公はとても助かるまい。」

「上様は、」と、信繁は秀頼をそう呼んだ。「千姫様を城から落としなさるおつもりです。」

「…秀頼公ならそうなさるであろうが…」信繁は顎を撫でた。「しかしご母堂は?」

「ご母堂様は秀頼様が抑えるとのことでございます。」信繁は盃を置いた。「徳川方が城へと押し込んできた隙をみて、城門の隙間から抜け出し送り届けます。明日になるか、明後日になるか、それは分かりませぬ。」

「分かった。」兼続は頷いてみせた。「大御所様に申し上げておこう。」

「ありがたく存じます。」

 信繁が平伏すると、兼続は盃を差し出した。

「今はただ飲もうぞ。明日の運命に。」

 信繁が盃を受けると、兼続はなみなみと酒でそれを満たした。信繁はそれをじっと見つめ、やがて一息でそれを乾した。空になった盃の濡れた底に、月がそっと映っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ