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第一章 誕生! 両長召抱人・市村鉄之助

市村鉄之助くんの新選組入隊時期は、史実では慶応三年の秋ですが、ストーリーの構成上慶応二年の秋としてあります。

                        1

  

 市村の洟垂はなたれ小僧――、それが大人たちの鉄之助に対する最初の評価だった。

 以後は阿呆だ馬鹿だ、ひよっことろくな呼ばれ方をされなかったが、世の中の事も知らず、のほほんと育ったという自覚がそれなりにあったため、鉄之助は「この野郎」と思いながらも言い返す事はしなかった。

 ただこれが兄弟間となるとまた違って、言い返そうものなら倍になって返ってくるため、鉄之助は未だに兄の辰之助には口も剣の腕も適わない。

「お前が阿呆なのは、誰に似たんだろうな……?」

 盛大な溜め息をつかれ嘆かれても困るが、改めて言われると鉄之助でも心は折れる。

鉄之助こと、市村鉄之助は武士の子として生まれたが現在いまは兄と二人、浪々の身である。

 主家をもたぬ浪々の身というのは何とも切なく、働かねば金は入って来ないし路頭に迷う。

 幸い親類に厄介になる事ができたが、いくら親類だからといつまでも居着かれたりしたら迷惑だろう。

 先ずは職を得ねばならないと、兄の辰之助がいう。

 戦国の世ならいざ知らず、現在の武士は刀は滅多に抜かない。

 よりよい立場に就くため頭を使う。出世第一というのが、泰平の世で生きる武士の生活信条らしい。

 鉄之助には出世欲など全くなく、頭を使うのは好きではない。何しろまだ十三の鉄之助に、武士というものは――、と説いても釈迦に説法というものである。

 この時の鉄之助は、そんな少年であった。

 既に夏の盛りは過ぎ、田では稲穂の首が垂れ始める頃である。

「ふぁ……」

 鉄之助はいつものように土手に寝転び、雲を眺めていた。そばで川に釣り糸を垂しているが今日は不猟で、小魚一匹も餌に食いつかない。

 最近の市村家の夕餉は芋鍋が多く、この分では今晩は芋煮鍋確定である。

 別に芋煮鍋でもいいのだが、三日も続くとさすがに飽きる。何しろ今年は芋がやたら実り、芋だけは山ほどあった。

 芋の他に菜っ葉もあるが、それもどうか。

 贅沢を言うつもりはないがもう少し何とかならないものか――、茜に染まる空に問うても答えはなく、鉄之助は帰路に就いたのだった。

そんな鉄之助の兄・辰之助は名を市村辰之助といい、鉄之助より八歳上で、もう大人である。

 さすが大人とあって鉄之助よりはしっかりしていたが、こうと思うと突っ張る無鉄砲に所が偶にある。

 以前などは、山で危うく遭難しかけた。

 お陰で鉄之助は、辰之助が何か言い出しても「またか」と聞き流すくらいの耐性が出来た。

 この時までは――。

 

「鉄之助、俺は決心したぞ!」

 それは――、辰之助のそんな言葉から始まった。


                     △▲△▲△▲△▲


「京に行く~!?」

 恐らく鉄之助にとっては人生初、一生に一度の大声が出たかも知れない。と言っても鉄之助はまだ十四年しか生きていないが、人は予想もしなかった事で驚くと、口が塞がらなくなるものらしい。鉄之助は口を開けたまま固まった。

 この日の夕餉は鉄之助の予想通り芋煮鍋となり、囲炉裏では自在鉤じざいかぎに吊された芋煮鍋がグツグツと煮込まれ、ちょうど食べ頃だった。

 だがあまりの衝撃に、鉄之助の腹で煩く鳴いていた腹の虫もピタリと止んだ。

「京って、あの京ですか……? 妖怪がうじゃうじゃいるという……」

 鉄之助は京の都をまだ見た事も行った事もないが、鉄之助の頭の中では狐狸妖怪が百鬼夜行をしていた。

「いったい、いつの時代の話をしているんだ。お前は……」

 辰之助は呆れ顔だが、鉄之助が幼い頃に見せてもらった絵巻物には恐ろしげな妖怪がたくさん出てきた。お陰でその日の鉄之助は眠れなくなるわ、かわやに一人では行けなくなるわ、散々だった。

 どうやら現在の京に妖怪はいないらしいが、代わりに人間が暴れているらしい。

 鉄之助は怖い所には行きたくはないのだが、兄・辰之助は京に行く気である。

「いやだなぁ……、辰兄たつにい。いくら俺がぼーとしているからと、そんな冗談……」

「鉄之助――、俺は至ってまじめだ」

 混乱する弟を余所に、辰之助は冷静だった。

「でも……、辰兄は確か仕官先を探していませんでしたっけ?」

「その間に、野垂れ死ぬ」

 辰之助はそう言って、天井に視線を運んだ。共に鉄之助も視線を運べば、天井に穴が空いており、空が見えた。

 早めに修理をしなければ、部屋の中で傘を差さねばならない。

  

 鉄之助が生まれたのは米国艦隊来航メリケンかんたいらいこうの6ヶ月後の安政元年、当時の世は尊皇攘夷の嵐真っ只中だという。

 既に二百年以上続いた鎖国体制は崩れ、米国に続き異国船が次々と海を渡って来たらしい。

 鉄之助が生まれた美濃大垣(※現・岐阜県大垣市)は、戦国乱世時には戦国武将・斎藤道三と織田信秀(※信長の父)が美濃を巡ってぶつかり、その後は様々な大名家当主が大垣藩主となったという。

 市村家は昔から美濃大垣藩主・戸田家に仕え、鉄之助・辰之助の父である市村半右衛門は藩の財政を担当する蔵奉行に就いていた。ところが鉄之助が5歳になったある日、突然父は藩から放逐ほうちくされてしまった。

 大垣藩主と父との間に何があったのか、鉄之助は聞かされてはいない。

 その後に父と兄・辰之助と共に親類を頼って近江国・国友村に移り住んだが、その間に美濃大垣藩への帰参の許しはなく、二人の父・半右衛門は亡くなった。

 故郷・美濃大垣を離れて10年、武士の子として生まれた兄弟の夢はいつか美濃大垣に帰る事。しかしこのままでは市村家存続の危機と、辰之助は仕官口探しに奔走していた――、と鉄之助は記憶している。

 鉄之助は現在の暮らしも満更ではなかったが、そう思えるのは子供のうちだけだと辰之助はいう。

 浪人暮らしでも仕官先が運良く見つかる場合や、寺子屋の師匠・内職など職にありつければいいが、その職もなく仕官先も見つからないとなると人は腐るらしい。遂にとんでもない暴挙にでるようだ。

 京では一部の者が不逞浪士となり、民家に押し入っては金をむしり取っているという噂である。

 これは兄を止めなくてはならない――、鉄之助はそう思った。

「辰兄、鬱憤うっぷんが溜まるのは理解わかりますが京まで行って爆発させなくても。向こうの人に迷惑ですよ」

「お前なぁ……、その妙にズレた考えどうにかならんか?」

「違うんですかぁ?」

「違うわ。あほ」

 何でも新選組が、新規隊士を募っているという。

「しんせん……、ぐみ?」

 鉄之助は首を傾げた。

「会津公配下の新選組ならば、仕官の道も開けると思うのだ」

 会津公とは京都守護職にして、会津藩主・松平肥後守容保の事らしい。

「辰兄はいいですけど、俺何もできませんよ? 剣だって使えないし、不器用だし」

 鉄之助は元服すらしておらず、失敗をする自信だけはあった。

「俺はその事が気がかりなんだ。お前が何かやらかしそうで怖い」

 鉄之助からすれば何かやらかす以前に、門前払いにあいそうな気がした。

「では取りやめって、言う事で」

「京に行けば、お前の好きな甘い物が食えるぞ。鉄之助」

 芋煮鍋に延びていた鉄之助の手が、ピタッと止まる。

「……あまい……もの?」

「ああ。凄く美味いそうだ。そうかぁ、行きたくないかぁー。いやぁー、凄く美味いのに残念だなぁー」

 大袈裟に残念がる辰之助は頻りに「残念だー」を連呼した。

 そう聞かされてしまうと、頭の中には甘い物しか浮かんでこなくなる鉄之助である。

「行く!」

 かくして、鉄之助は――。


(――最悪だ)

 街道沿いに立つ地蔵を前に、鉄之助は嘆く。

 嘆かれた地蔵も困るだろうが、鉄之助にすればこの先にいい事など全くある気がしなかった。

 近道だという道はどう見ても人が歩く道とはいい難い悪路で、本当に近道なのかさえ疑わしい。

 一刻ほど前に右だ左だと分かれ道で揉めた相手は、鉄之助の歩に合わせる事もなく前を歩いている。

(辰兄め……)

 まんまと辰之助に乗せられてしまった感が拭えないが、おめおめと国友村には戻るわけにもいかない。

 鉄之助は、嘆くのを取り越して泣きたくなった。

 足は痛いし腹は空くし、ここで熊にでもばったり会ったら逃げ切る自信は鉄之助にはない。

 鉄之助は何度か辰之助に置いて行かれそうになりながら、必死にその背を追ったのだった。


  ◆◆◆


 平安遷都数百年――、現在も王都として栄える京。

 京人が『お西さん』と親しみを込めて呼ぶ、浄土真宗の寺・西本願寺――。

 立冬が過ぎると木々の枝は殆どが葉を落とし、石畳は枯れ葉に埋まる。掃いても風によって撒き散らされ、どこまで綺麗にするか妥協案を模索しなくてはならない。でないといつまでも掃除をし続ける羽目になる。

 鉄之助はガックリと肩を落とし、溜め息をついた。空を見上げればこの日の夕焼けは、朱や橙に薄紫と、複雑な色合いをしていた。

「鬼副長の、馬鹿野郎ーーーーー!!」

 夕焼けに向かって叫べば、寺の梵鐘ぼんしょうの音と一つになった。 

「人使いが荒すぎなんだよ……! あの人」

 鉄之助は縁側に座って頬杖を突くと、空に向かって愚痴った。

 塀の上でからすが毛繕いをしていたが、鉄之助の愚痴が聞こえたのか鴉は「クァ!」と鳴いた。

 その鳴き声が「あほー」と聞こえたのは、鉄之助の空耳か否か。

「そりゃあさぁ、甘い物が食えるとコロッと信じて、辰兄について来た俺も俺だけど……」

 柿を一つ失敬すれば食えたものではなく、鴉がまた鳴いた。

「お前――……、今度こそ、あほーと鳴いただろう!?」

 寺の中で柿泥棒をしておいて鴉を責めるのもどうかと思うが、鉄之助の暮らしは一転した。

 

 鉄之助たちが京に入ったのは、国友村を立って一月後の事であった。

 京の玄関口・三条大橋を渡る頃には秋は深まり、赤とんぼが鴨川の水面を滑るように飛んでいた。

 兄・辰之助曰く、新選組の屯所は西本願寺という浄土真宗の寺にあるという。

 随分変わった所にあるもんだなと思いながら西本願寺の門前に立てば、中から出て来た僧侶に迷惑そうな顔をされた。

僧侶でありながら何て態度だと憤慨した鉄之助だったが、この寺が新選組の屯所となった経緯を聞けば「なるほど」と僧侶の態度に納得した鉄之助であった。

 何でも西本願寺は浄土真宗本願寺派の総本山だといい、西本願寺本尊・阿弥陀仏も、新選組と同居する事になるとはさぞ驚いた事だろう。

 しかし物珍しいと思うのは、最初のみだった。到着した翌朝「起きろ!」という怒声に、鉄之助は飛び起きた。

何せこれまで、まったりのんびり生きてきた鉄之助である。寝起きもいい方ではない。

 ただそんな鉄之助にも、苦手なものがある。一つは雷で、一度家の近くに落ちた事があり、以来苦手になった。

 鉄之助が聞いたその怒声はまさに雷に近く、鉄之助を一瞬にして覚醒させた。

 何でも新選組の新人は幹部と言われる人間より早く起きて、掃除をするのだという。

 庭掃除に行けば、犬のものと思われる衝撃的な置き土産と遭遇した。しかも「嫌がらせか?」と思うほど毎回遭遇すれば、心も折れようというものだ。

 何でもこれまでに、見習い隊士が三日で逃げ出しているという。逃げ出した理由は他にもあるだろうが、確かに新選組で活躍したいとやって来た者にとっては、犬の置き土産を毎回拾いたくはないだろう。

 掃除が終われば新選組最高幹部、局長と副長へのお茶出しである。

 局長と副長への茶の好みは違っていて、局長は茶は濃いめで、茶請ちゃうけは和菓子。

 副長はやや渋めで茶請けは沢庵で、沢庵がなければお茶のみ。

 何でも副長の親類が住んでいるという小野路村おのじむら(※現在の東京都町田市)から、沢庵を送って貰っているのだという。

 新選組局長・近藤勇は豪快に笑えば冗談も言い茶を持って行く事に鉄之助も躊躇ためらわないが、問題は副長・土方歳三の方だ。

 部屋の前で「市村です」と入室の許可を求めると、一拍おいて「入れ」と声が返って来た。

 障子を開けると、土方は文机に向かって座っていた。土方の容貌は精悍で、意志の強そうな目が特徴的だった。髪を総髪にして一つに括り、文机に向かうその背で髷が小気味よく揺れていた。

「さっき……、馬鹿野郎と叫んでいた奴がいたが?」

 土方は茶器を口に運びながら、鉄之助を睨んで来た。

 どうやら鉄之助の叫び声が聞こえていたらしい。

「えっ……、だ、誰でしょうね……?」

「鬼副長と……」

「ほっ、ほんとに誰なんでしょうね?」

 愚痴まで聞こえていたら相当な地獄耳だが、どうやらそこまでは聞こえていなかったようだ。

 鉄之助はこの土方の、両長召抱人りょうちょうめしかかえにんだった。

 両長召抱人は新選組に新しく追加された役職で、局長と副長の身辺雑務をこなす小姓の事だという。

 更に水汲み、薪割りと追加され、「馬鹿野郎」と吠えたくもなる鉄之助だった。

 仕事が終わる頃にはヘトヘトで、兄・辰之助から新選組について教えて貰っても、鉄之助の意識は半分眠気に負けていた。

 兄・辰之助は局長・近藤勇附見習い隊士となり、同じ屯所の中にいても今や顔を合わせる事は多くはない。

 両長召抱人は他の隊士に比べ巡察などする事はないと聞いていたが、これが思った以上に忙しい。

「あの……他に御用は?」

「今はない」

「そうですか……」

 何もないと言われると、鉄之助は困った。

 この日に限って剣の稽古を付けてくれていた相手は巡察にでかけ、国友村を出る時に持って来た本は全て読んでしまった。

 国友村にいる頃は川に魚を獲りに行っていたが、ここは京の都である。既に鮎の時期も過ぎているだろうし、鴨川がどれくらい深いのかも謎だ。何もする事がないというのは、これが以外に辛い。

「あの……」

「今度は何だ」

「厠へ行っても?」

「……勝手に行け」

 鉄之助は土方の部屋を出ると厠へ向かった。

(さぁて困ったぞ……。何をするか……)

「ふぁ……」

 厠を出た鉄之助は、庭の真ん中で欠伸をした。見上げる空は青く、いわし雲が浮かんでいる。

 屯所の庭に降りてみたが、今度は眠気が襲ってきた。

 寝ぼけまなこを擦りながら歩き始めれば、袈裟衣けさごろもの僧侶と出会った。

(あれ……? どうして屯所に坊主がいるんだろ)

 僧侶はニコニコと微笑んでいる。

「――今日は、ええお日和ですな?」

「え、あ、はい」

「お茶でもどうですやろ? ちょうど、虎屋の羊羹ようかんもおましてな」

「羊羹!?」

 鉄之助が思わず声を大きくすれば、僧侶に笑われた。

 虎屋と言えば、鉄之助でも知っている羊羹が代名詞の老舗である。しかも――、ただである。

 西本願寺僧侶と新選組の関係は、いいとは言えないという。

 僧侶が嘘を言うとは思えないが、鉄之助は、念のために聞いてみた。

「あの……、俺のようなものでもいいんですか?」

「かましまへん。ほな、参りましょ」

 穏やかに笑む僧侶の顔が、まさに仏様に見えた鉄之助であった。

 何か大事な事を忘れている気がしたが、羊羹の誘惑にあっさり乗った鉄之助である。それは思い出される事はなく、綺麗に頭の中から消えていったのだった。


                            2


「何が馬鹿野郎だ……。人の気も知らねぇくせに!」

 文面に筆を走らせながら土方歳三は一人、愚痴っていた。

 京に来て数年、土方はまもなく三十路みそじになる。

 京は平安遷都より数百年続く王都である。武士政権となり応仁の戦や南北朝分裂なとで揺れたことがあったが、王都としてその与える影響は変わる事はなかった。現在に至るまでの間、新選組もいろいろあった。

 二度の政変に池田屋事件、将軍を警護する為に結成された嘗ての浪士組は、今や百を超す大所帯となった。

 もちろん京洛は現在いまでも嘗ての過激攘夷派が何処かに潜んでいるかも知れないし、不逞浪士も闊歩している。以前は土方も自ら巡察や捕縛に動いたが、留守が多い局長・近藤の代理としての指揮命令。更に会津藩公用方の応対にと屯所での仕事が多くなった。

 茶を運んでくる隊士はいるにはいたが特に誰と決まって折らず、いつもいる訳ではない。

 以前、炊事場へ行けば「何か粗相をしましたでしょうか!?」と真っ青な顔で聞かれた。土方としては茶が欲しかっただけなのだが、突然土方が現れると誤解を生むらしい。

 ただ座っていても、廊下を歩いても怖がられる。

 鬼となると宣言したのは土方本人だが、損な役回りだと嘆息して前髪を掻き上げた。

「クソガキ……」

 土方は怒るとつい、言葉が乱暴になる。

 故郷・武州多摩では『バラガキ』と呼ばれて暴れていた頃の癖は、なかなか抜けてはくれない。

「今度何かやらかしたら、ただじゃおかねぇ……。ふんっ、鬼副長で結構!」

 怒りのまま筆を降ろせば、文字とは言い難い造形が出来た。

 両長召抱人という役職ができる以前は、土方の部屋に平隊士がやって来る事は滅多になかった。彼の部屋にやって来る人間と言えば、局長の近藤に十の小隊を率いる各組長、そして新選組の裏の裏と呼ばれる監察の人間である。

 両長召抱人という役職を作ろうと言いだしたのは、近藤だった。


「両長召抱人?」

「お互い忙しい身だ。身の回りの世話をする隊士が必要かと思うんだが」

「あんたはいいとしても、俺には必要ねぇよ。先の政変(※蛤御門の変のこと)からこの京は少しは静かになったが、まだ油断はできん。これ以上の面倒事はたくさんだぜ」

 だが最終決定権は、局長である近藤にある。

 そんな新選組に、新選組に入りたいと鉄之助は兄と共にやって来た。

 美濃大垣藩の出だが、何でも大垣藩士だった父が藩から放逐されて、以後は浪士となったという。

 辰之助の方は二十歳を過ぎていたが、鉄之助の方はまだ元服前だ。まつ毛が長く目がぱっちりとし、中性的且つ愛嬌のある顔立ちをしていた。ただ物珍しげにきょろきょろと、全く落ち着きがない。

 新選組に入るには浪士だろうと町人だろうと腕に多少の自信があればいいが、ここは死と隣り合わせの新選組なのだ。

 僅かな不注意が、命取りになる。

 追い返そう――、土方はそう思った。

ところがである。

「トシ、どうだろうか? 彼を両長召抱人とするのは」

「はぁ?」

 局長・近藤勇の言葉に、土方は語尾を上げた。

「近藤さん、ちょっと待て。まさか、こいつを俺に寄越すのか?」

 土方のいう《こいつ》とは鉄之助の事だが、近藤は土方の心中など知るはずもなくと笑っている。

 近藤とは長い付き合いになる土方だが、近藤は来る者拒まずを地で行く男だった。

 頼ってこられると嬉しいのは土方も理解るが、近藤という男は偶に曲者も招く。

「これでお前の仕事も楽になるな、トシ。良かったな」

 土方としては全く良くないのだが、こうして鉄之助は土方の所にやって来た。

 それから数日経って鉄之助は土方の危惧した通り小さななドジを踏み、怒鳴れば目を潤ませて見つめ返してくる。

唯でさえ多忙だというのに、土方は子供の相手はしたくはなかった。だが、近藤に「よろしくやってくれ」と言われれば「否」とも言えず、鬱憤うっぷんが増す一方である。

 鉄之助がやって来る以前、土方にはこれまで三人ほど両長召抱人が付いたことがあった。

 しかし三日もせずに逃げ出して、今度も逃げ出すだろうと土方は思った。


 午過ひるすぎ――、土方は午前ひるまえから掛かっていた文を漸く仕上げた。

 そろそろ茶が飲みたいのだが、茶を頼むにも鉄之助は呼んでも返事はない。

「まったく……」

 土方は、嘆息した。

 鉄之助が両長召抱人として土方に就いて二十日、この間に鉄之助は何度か消えた。

 脱走ではなく、鉄之助は消えるのだ。これが綺麗に存在を消してくれるため、最初は誰もが逃げたと思った。

 最初に鉄之助が消えた時は、町で迷子になっていた。

 次に消えた時などは、押し入れから出てきた。何でも近所の子供と隠れん坊をしていて隠れたのはいいが眠くなり、そのまま胸ってしまったらしい。

(鉄之助の野郎……、俺の仕事を増やしやがって)

 使い物にならなければ、近藤から言われたからだろうと辞めさせればいい。

 土方は何度かそう思った。

 なのに鉄之助は三日ももたずに逃げ出した他の両長召抱人とは違って、土方が何度怒鳴ろうと側にいた。

 近藤は「鉄之助はいつか、大物になる」という。

 土方は額に掛かる髪を掻き上げ、声を発した。

「山崎!」

「何か御用ですか? 副長」

襖がすっと開いて、一人の隊士が片膝をついた。

 彼の名は山崎丞やまざきすすむという。役職は諸士調役兼監察しょしちょうやくけんかんさつ

 諸士調役兼監察は敵方に潜入して情報収集をしたり、対象を尾行したり、首謀者捜索のため市中から多くの情報を汲み上げることを職務としている。監察の任務は組織内の違法行為や脱法行為の捜査と、局中法度に応じて処罰するための証拠集めや調査である。

「鉄之助が消えた。探せ」

「またですか……」

 山崎も慣れたものだ。その顔は少し呆れ顔だ。

「ああ、まただ。またそこら辺にいる筈だ」

「畏まりました」

 土方は鉄之助一人捜すのに監察方を動かしたくはなかったが、山崎は人捜しの玄人くろうとである。

 山崎が去って、土方は再び文机の前に座る。

 土方の新しい両長召抱人となった市村鉄之助――、果たして近藤の言う通りに大物になるかならないか。

「まったく――……、また面倒くせぇ奴が来たもんだ」

 鉄之助が来た事で、土方の周りは当面静かになる気配はなさそうだった。


                         ◆◆◆

 

 京洛に梵鐘の音が鳴り渡る。その残響に顔を上げれば、気持ちいいくらいに晴れた空の青が飛び込んでくる。

(いい天気だ……)

 鉄之助は幼い頃から、甘いものが大好きだった。

 まだ美濃大垣にいる頃に、父・半右衛門が長崎の知人から貰って来たという『カステラ』という菓子は、しっとりした味わいで粗目糖の食感が抜群だった。饅頭に団子、草餅に金つば、どれも魅力的で、お陰で甘党になった。

 今、鉄之助の前には羊羹がある。

 一度食べてみたかった老舗・虎屋の羊羹。一般的な小倉羊羹よりも小豆の粒の量が少なめで、粒のかたさもやわらかいのが特徴の煉羊羹ねりようかんである。

 鉄之助はやけに線香の匂いがする座敷で、羊羹を口に運び茶をすすった。

「お若いのに感心ですなぁ」

 そう言ったのは、鉄之助を茶と羊羹でもてなしていた僧侶だ。

「それほどでもないですよぉ。失敗ばかりですし……」

「いやいやそないな事あらしまへん。あ、羊羹もう一つどうぞ。まだありますよって」

 庭を歩いていただけで何故もてなされているのか鉄之助には理解らなかったが、人は欲求不満が溜まると、幻覚を見るようだ。鉄之助はこの時、そう思っていた。

 鉄之助は適当に相槌あいづちを打ちながら、二切れ目の羊羹を口に運ぶ。

「最近は物騒ですよって」

 僧侶の話はいつ終わるのだろうか? この僧侶、よほど話し好きなのかそれとも他にする事がないのか、話を終わらせる様子はない。

(確か俺、厠に行ったんだよな……?)

それは、間違いない。「厠に行きたい」と訴えると土方に睨まれたが、生理現象だけは我慢できない。

「羊羹――、お嫌いやどしたかな?」

鉄之助が羊羹を口に運ぶのを止めたため、僧侶が僅かに眉間にしわを寄せた。

「え、いえ……」

「あ、お茶のおかわりどしたか?」

 鉄之助としてはそのどちらでもなかったが、どうも夢にしてはおかしい。

(えっとぉ……、確か厠を出て……)

 何せ陽気が陽気である。眠気と戦いながら歩いていると、僧侶と出会った。

 新選組の屯所は、西本願寺敷地内にある。僧侶と出くわしても不思議ではないのだが。

「ほんにお若いのにお参りに来はるとはええ心がけですなぁ」

(――ああ、な~るほど)

 鉄之助は漸く、参詣客だと勘違いされている事に気がついた。

「実はこの寺に物騒な侍がいますのや。新選組といいましてな。全くけったいな連中でして」

(どうしよ……)

 鉄之助は羊羹と茶を馳走になった手前、その新選組の人間だとは名乗れなくなった。

 確かに鉄之助は、言わなければ新選組隊士とは見られないだろう。

 刀を差していないし、巡察や捕縛に向かう新選組隊士のように黒装束でもない。何処かの武士の子が参詣に来たんだな、と勘違いされも当然かも知れない。

 何でも屯所移転の時に新選組と西本願寺側は揉めるに揉めて、ごり押しの形で新選組が居座ったらしい。

(そう言えば、辰兄がそんな話をしていたような……)

 西本願寺内に新選組が屯所を移した理由は、西本願寺が攘夷派の急先鋒・長州藩と親しい関係にあった為だったらしい。

 西本願寺が織田信長と抗争を続けていた戦国時代、長州藩は西本願寺を支援していたという。その縁で京における長州藩士の緊急逃げ込み場所としての側面もあったようだ。

 蛤御門の変後は長州勢力は一掃されたといい、今なお居残る新選組に僧侶たちは憤慨しているようだ。

「阿弥陀さまのおわすこの寺に、血生臭い侍がぎょうさんいてたら、誰も来てくれへん。酷い話ですやろ?」

「え……、そ、そうですねぇ……」

「わてらとしては、あないなけったいな連中には一刻も早う出て行って貰いたいんですわ」

 鉄之助にはもう、目の前の僧侶の話は聞こえていなかった。

 どうやら屯所の庭だと思って歩いていた場所は、西本願寺側の敷地だったようだ。

 どうりで僧侶と鉢合わせになるはずである。

(おいおい……、寺ン中に入っちゃったよ。俺……)

寝ぼけていたとはいえ、ここは穏便に帰りたかった。

「ところで――、ご祈祷はどなたの?」

「えっとぉ――……」

 どう返事をすればいいのか、答えあぐねていた時だった。

「待ちなはれ!! あんたはん方、寺を穢そうという魂胆でっか!?」

「大袈裟だなぁ。うちのモンがお邪魔しているようなんでな」

 どうやら誰かが、僧侶と揉めているようだ。

 迷惑な訪問者だな――、鉄之助は最期の一切れを口に運んだ。

「鉄之助」

 障子の方に視線を運べば、二人の男が立っていた。

 そこにいたのは、山崎丞と副長助勤の一人・永倉新八だった。

 何故か、二人とも唖然とした顔をしている。

「お二人でどうかされましたか? 永倉さん、山崎さん」

 鉄之助の問いかけに、永倉が何とも言えない顔で答えた。

「どうかってお前なぁ、お前が消えたっていうから来たんだよ。まさか、坊主と茶を飲んでるとは思わなかったぜ」

 永倉は大きく溜め息をつくと、髪を掻き上げた。

 新選組二番隊組長・永倉新八はこの日、四条河原町で不逞浪士が暴れていると聞いて四条河原町にいたという。

 浪士たちを捕らえ奉行所の役人に引き渡した永倉は、土方の指示で鉄之助を探しに来たと言う山崎丞と出会ったという。

「副長は、鉄之助くんは屯所の外には出ていないと言われていましたが――」

「いくら土方さんでも、テツが寺でのんびり茶を飲んでいるとは思ってはいない思うぜ? 山崎」

「ははは……」

 方向音痴だという事を全く自覚がない鉄之助は、そんな事になっているなど知らないため笑うしかない。

 帰れば土方の雷を覚悟しなければならないだろう。お陰で鉄之助の眠気は吹き飛んだが。  

 可哀想なのは、鉄之助の相手をしていた僧侶である。新選組の文句を散々並べていた所に、その新選組の隊士が現れたのだから無理はない。しかも参詣客だと思って話し込んでいた少年が、新選組の人間だと知って完全に硬直し青ざめていた。

「お、お邪魔しました……」

「…………」

 鉄之助の辞去の挨拶に、僧侶はまだ固まっていた。

(だいじょうぶかな……)

 鉄之助が僧侶の身を心配するも、当の鉄之助自身が大丈夫ではなかった。

 屯所に戻れば案の定、土方の雷が炸裂した。


「おまえなぁ――……、町で遭難しかけるのは仕方ないとしてもだ。どうして屯所うちで迷う? 鉄之助」

 新選組屯所・副長室。「馬鹿野郎!」という怒号から始まった土方の説教に、当の叱られている鉄之助は「さぁ?」と首を傾げた。

「俺たちは暇じゃねぇんだ。呆れて物が言えん」

「さすがは西本願寺ですね? 副長。供え物の羊羹も高級品」

 土方のこめかみに、新たに怒りの血管が浮いたのは言うまでもない。二度目の雷が鉄之助に落ちた。

「頼むから、俺の仕事を増やさないでくれるか?」

 こめかみに太い血管を張り付かせる土方を見て、鉄之助は仰け反った。

「鉄之助、剣術の稽古は?」

「向こうにいた頃に少しは……」

「ならば今すぐ始めろ。でないと――、死ぬぜ」

土方の言葉に、鉄之助は首を傾げた。

「死ぬ……?」

「脅しじゃないぜ。町にいる馬鹿どもは子供だろうが容赦はしねぇからな」

「馬鹿どもって、不逞浪士の事ですか?」

「特に新選組隊士と理解ったら命の保証はできねぇ。それだけ俺たちは奴らに嫌われている。逆恨みもいいところだ」

 鉄之助は土方の言葉に身体が震えたが、恐らく言っている事は正しいのだろう。

 

 鉄之助が殆どの仕事を終えたのはそれから一刻後、廊下を暫く進むと庭で話している数人の隊士がいた。

 中でも目立っていたのは、羽織袴姿で綺麗に髷を結った隊士だ。

 新選組の中で日頃から羽織姿でいる人間は、鉄之助の知る限りでは三人しかいなかった。一人は局長の近藤勇、もう一人は副長の土方歳三、そしてもう一人は――。

「会津公(※京都守護職)傘下と聞いて来たが、案外大した事はないじゃないか」

「伊東先生にかかっては、何れは――」

「ふふ。先走りはいかんぞ。篠原くん」

 伊東と呼ばれた男は扇子を口に当てて、笑っていた。男の名は伊東甲子太郎といい、新選組の参謀兼文学師範に就いている男である。

 鉄之助は、そんな伊東と目が合った。

「君は確か――……」

「両長召抱人の市村鉄之助です」

「両長召抱人……? ああ、確か土方くんの所に来たと言う新しい隊士の……」

「こ、こんにちは……」

 返事としてどうかと思うが、じっと見られるのは鉄之助は苦手である。思わず半歩、後ろに下がった。

 伊東は眼は神経質に切れ上がり、鼻筋が通って頬骨が高く、伊東もなかなかの美男である。だが鉄之助は、何となく伊東が苦手だった。見つめられる事はもちろんだが、伊東の物言いがどうもひっかかる。

「君も大変だね。よりにもよって彼の側とは。あの性格では人が寄りつかないのも当然。さぞかし気苦労が多い事だろう。何なら、私から局長に言って君を私の所へという事も可能だよ」

 この日の伊東は上機嫌だったみたいで、何処かに行くところだったらしい。

 鉄之助が答えあぐねていると、伊東といた隊士の一人に怒られた。

「無礼だぞ! 貴様。伊東先生に向かって……っ」

 掴みかかりそうな勢いで前に出て来たのは篠原泰之進といい、山崎丞と同じ諸士調役兼監察の隊士らしい。

「やめたまえ、篠原くん。君は直ぐカッとなるからいけない。市村くん、と言ったか。今度私の講義を聴きに来るといい。世の中の動きを知る事は悪くはないよ。行こうか、諸君」

 羽織の裾を翻し、伊東は篠原とその他数名の隊士を引き連れて鉄之助から離れて行く。

 嫌味を聞かされたり怒られたりとと、今日の鉄之助は厄日のようだ。

 羊羹は美味かったが、碌な事が起きない。

「あの伊東の前でよく堪えたな。市村」

「斉藤さん」

 鉄之助が振り向けば、稽古着姿の男が木刀を持って庭を歩いてきた。

 副長助勤にして三番隊組長、斉藤一である。

 副長助勤とは、局長、副長に次ぐ幹部で新選組でも精鋭である。内務では局長・副長の補佐。一歩外に出れば一隊を率いて巡察や事件解決に当たるという。

 斉藤一は寡黙であまり目立たないが、新選組では屈指の剣豪として知られる。

「そこにいたのなら、助けて下さいよ」

どうやら斉藤の三番隊はこの日は非番で、組長である斉藤は素振りの稽古に励んでいたらしい。

「安心しろ。奴は子供は喰わん。だが――、奴のところに行くのはやめておけ。本当に喰われるぞ」

「そんな――、伊東さんをバケモノのように……」

「そのうちお前も理解る」

「斉藤さんは伊東さんは苦手なんですか?」

「俺の場合は、腹に一物ありそうな奴は嫌いなんだ。ああいう手の奴は、笑顔で人を斬りそうだ」

「でも、うちの参謀なんですよね……?」

「ああ。だから俺は奴の事は広言はしていない。ま、子供のお前には理解らんと思うが」

「俺、もう子供じゃありませんよ? 斉藤さん」

「夜中、俺の布団に戻り混んで来たのを忘れたと……?」

 斉藤は寡黙で目立たない男だが、時折その真面目な顔が土方と同じ仏頂面になる。

「あは……、そんなことありましたっけ?」

 どうやら鉄之助は夜中に厠に起きたのはいいが、自分の部屋と間違えて斉藤の布団で朝まで熟睡したらしい。

「それより、今日は稽古をしたのか? 市村」

「今日は忙しくてなかなか……」

「まったく……。木刀を直ぐに持って来い」

「へ?」

「へ、じゃない。土方さんからお前に剣を教えてやれと言われている」

「はい!?」

「俺が相手じゃ嫌だと?」

 鉄之助にすれば、斉藤も怖い。

 沖田より二歳年下らしいが、そうは見えない。

「とっ、とんでもない……、です」

「言っておくが、俺は子供だろうと容赦はせん。いいか? 逃げるなよ」

 斉藤は三番隊組長であるとともに、剣術指南でもあった。

(斉藤さんも鬼だな……)

 鉄之助の心の声が聞こえたのか、斉藤が「何か言ったか?」と振り返る。

「い、え……、何も」

 鉄之助はこの日みっちりと、斉藤に扱かれたのであった。

 

                        3


 十一月下旬――、すっかり紅葉した西本願寺境内。

 紅葉は眺めている分にはいいが、毎日掃除をする方はたまらないものだ。

 嘗ては寺の僧侶たちが掃き清めていたという北集会所の庭は、現在は新選組の敷地となった為に、掃除をするのは隊士の仕事となる。掃いてははらり、また掃いてははらりと落ちてくる枯れ葉は翌朝には地を覆う。

 最近は犬が置いて行った衝撃的な物体とは鉄之助は遭遇する事は減ったが、偶に見かけるとうんざりとなる。

(腹減った……)

 特に仕事がなければ町へ何か食べに行ってもいいのだが、何しろ鉄之助は方向音痴である。

 確か貰った餅があったな――、と空を見つめる。。

「よぉ、テツ」

「おはようございます。永倉さん。お出かけですか?」

鉄之助が声の方を振り向けば、視線の先には三人の隊士がいた。副長助勤の永倉新八に原田左之助、そして藤堂平助の三人である。三人が辰の刻(※午前8時)を過ぎても屯所にいる事は、どうやら巡察は夜かそれとも非番か。

 新選組の市中巡察は午と夜中の交代制。午は辰の刻に屯所を出て、暮れ六つに帰ってくる。夜中の組は戌の刻(※午後20時)に屯所を出て、丑の刻(※午前2時)に戻ってくるらしい。

「原田が俺たちに馳走してくれるというのでな」

「おいっ、永倉ぁ! 勝手に決めんじゃねぇ!」

 二番隊組長・永倉新八は、新選組一の剣豪だという。江戸下谷三味線堀の生まれで、流派は神道無念流の腕だという。二番隊組長であるとともに、剣術指南役でもあるらしい。

「左之助さん、奢ってくれるって言ったじゃねぇか?」

 そう言ったのは最年少の副長助勤にして八番隊組長・藤堂平助である。藤堂平助は武州生まれの江戸育ちで、流派は北辰一刀流らしい。そして十番隊組長。原田左之助に至っては伊予松山藩の生まれで、種田流槍の使い手なのだという。

「平助! 俺は奢るとは言ってねぇぞ」 

「いいじゃんか。左之助さんの事だから大金があっても、どうせ一人でぱぁーと使っちまうんだ。なぁ? 新八っつぁん」

「そういえば俺が貸した一両……、まだ返して貰っていなかったな? 左之」

「お前ら! 俺が貰った金をっ」

懐具合を当てにされ、原田左之助は悔しそうだ。永倉が言うには、三条制札事件の恩賞金が出たらしい。

「制札?」

「なんだ、テツ。そんな事も知らねぇのかよぉ」

 藤堂に続いて、永倉が言う。

「ま、幕府の御触れを書いた札だな」

何でも三条大橋西詰さんじょうおおはしにしづめという所に、制札を立てる高札場があるらしい。

 きっかけはその制札が何者かによって三度に亘って引き抜かれ、鴨川に捨てられた事からだったという。

 事件が起きたのは、この年の慶応二年九月十二日だったらしい。度重なる引き抜きに高札場を警護せよとの命令が、会津公を通して新選組に来たという。

 新選組が警備に当たっていたところ土佐藩士八人が三条大橋西詰に出現、制札を引き抜く動きを見せたそうだ。土佐藩士出現の報を受け原田率いる十番隊が現場に急行、逃走を開始した土佐藩士たちと刃を交えたという。

 恩賞金はその事件で活躍したものに出たらしい。

「それより早く行こうぜ! 左之助さん」

「お前ぇは、活躍してねぇだろうが! 平助」

「お前も来るか? テツ」

 永倉に言われ、鉄之助は首を振った。

「いえ、皆さんで楽しんできて下さい」

 三人を見送り、鉄之助は土方の部屋へ向かった。この日は土方は所用で出掛け、夕刻まで帰っては来ない。

 部屋の主が留守の間に、両長召抱人のする仕事がある。部屋の換気と簡単な掃除だ。

 何せ新選組は、男所帯である。偶に誰のものとも知れぬ褌が、松の枝で干されている事もある。

 以前の西本願寺屯所は、不衛生で病人も多かったという。

 鉄之助の部屋は土方の部屋からさほど遠くない場所にある。新選組では幹部は別として、平隊士は大部屋が基本らしいが、鉄之助の場合はまだ子供という事と、直ぐに土方の所に飛んでいけるように近くの部屋にされたというのが正しいかも知れない。

(相変わらず、殺風景な部屋だな……)

 土方の部屋は広さにして六畳あるかないか、対して局長・近藤勇の部屋は二間合わせて十二畳である。

 近藤の部屋は床の間や違い棚など意匠がなされているが、土方の部屋は近藤の部屋を簡略したもので質素だ。

 鉄之助が片付けなければならないほど物は散乱してはいないが、偶に書き損じの書が丸められて落ちている時がある。

 それにもう一つ――、鉄之助が掃除以外に土方のいない部屋に入る理由。


「いいか? 鉄之助。俺のいない間この部屋に良く鼠が入る。見かけたら即刻追い出せ」

「鼠なんか出るんですか? この部屋」

「ああ。この部屋限定のどでかい奴がな。安心しろ。お前には害はない」


 鼠なら鉄之助も国友村で何度も見ているが、土方の部屋に出る鼠はどんな鼠なのだろうか。期待半分怖さ半分、鉄之助は座布団のほこりを縁側で叩こうと思い、障子のへりに手を掛けた。

 だが鉄之助が開けるよりも先に、障子が開いた。

「やぁ。鉄之助くん」

「沖田さん……?」

障子を開けたのは、副長助勤にして一番隊組長・沖田総司だった。何故か煎餅の入った袋を胸に抱いて。

「……副長ならお留守ですが……」

「見たら理解るよ。いないから来たのさ」

 沖田は新選組の中では屈指の剣豪だという。だが鉄之助の目の前にいる沖田は、何処にでもいそうな普通の青年に見えた。

 一番隊を率いるほどの人物が煎餅を囓りながら立っている――、役職とは正反対の姿に戸惑うのは、鉄之助だけではないだろう。

「お、沖田さん……、ここで何を?」

 沖田に驚いた鉄之助だが、当の本人は煎餅をかじりながら「私がここにいたのは土方さんには内緒だよ」と言って、土方の文机にある文箱を開けた。どうやら鼠は、沖田の事だったらしい。

「お、お、沖田さん~っ!?」

「声が大きいよ。あ、あったあった♪」

 沖田は大胆にも中から鶯色の表紙がついた冊子を取り出して、ぺらっと捲っている。

 土方から追い出せと言われている鉄之助だが、鼠の正体が沖田だと言う衝撃が大きく、唖然とするばかりだ。

「それ、絵草紙か何かですか?」

 冊子の表紙には短冊状の紙が貼られ『豊玉発句集』とある。

 鉄之助は書かれているものを見せて貰ったが、上手いのか下手なのかよく理解らなかった。

「有名な人ですか?」

 沖田は笑って「ある意味、有名人だね」と笑う。

「梅の花 一輪咲いても 梅は梅」

「面白いだろう? 本人は上手いと言っているんだろか始末に困る」

「どんな作者か会ってみたいですね」

「そろそろ、帰ってくるよ」

「え……」

 そうしていると、誰かが二人がいる部屋に向かって来る足音が聞こえた。どうやら、土方が帰って来たらしい。

 沖田を見れば、何と押し入れに入ろうとしていた。

「沖田さん……?」

「鉄之助くん、ここは一蓮托生。私は隠れるので、後はよろしく」

「ええええっ」

 トントンという足音は大きくなり、ぱんっと障子が開いた。

「お、お帰りなさい……。副長」

 土方はいつもの仏頂面で、鉄之助の顔を見るなり眉を寄せた。

「何かあったか……?」

 鉄之助は押し入れに隠れた沖田を恨めしく思うのだった。 


                            ◆◆◆


(沖田さん、大丈夫かな……)

 炊事場の上がり框に腰掛けつつ、鉄之助は湯が沸くのを待っていた。

気掛かりなのは土方の部屋にはまだ沖田がいて、押し入れに隠れたままだという事だ。

 何のために沖田は土方の部屋に侵入していたのか鉄之助は知らないが、鉄之助は困った。

「そもそも、俺まで巻き込まなくてもいいじゃないか」

 頬杖を付き鉄瓶を見つめ、鉄之助は愚痴った。

 鉄之助が土方の部屋を出て暫く経つ。沖田はもう、押し入れから出たかも知れない。

 鉄之助は「うん」と己の考えに頷いて、茶を煎れると土方の部屋に向かった。

 ――のだが。

 

「……あれ?」

 土方の部屋に行けば、土方は帰って来たままと同じ姿勢で腕を組み入り口に向かって座っていた。

 つまり、沖田はまだ押し入れの中という事になる。

「何だ?」

「ふ、副長。今日はいい天気なので散歩は如何ですか? 紅葉狩りとか?」

「俺は暇じゃねぇ。それに、さっき外から帰ってきたばかりだぞ」

「そ、そうですよねぇ……? あ、厠は行かれました?」

「鉄之助、俺が部屋にいちゃいけねぇ訳があるのか?」

 やはり鉄之助の行動は、怪しすぎたようだ。鉄之助は泣きたい気分である。土方に睨まれて、ごまかせる訳がない。

「それより――、また鼠が入ったようだな」

「ね、鼠ですか?」

「俺は鼠が出たら、追い出せと言わなかったか? 鉄之助」

 土方に再度睨まれて、鉄之助は「ごっくん」と生唾を飲み込むんだ。

「その鼠の所為で、一番困るのは誰だと思う? 鉄之助。巡察を増やされる隊士たちだ。何せ、うちの副長助勤の一人は鼠に偶に化ける。まったく困ったもんだぜ。なぁ? 総司」

 鉄之助が言わずとも、土方は既に沖田の気配に気づいていたらしい。

「……くしゅんっ」

 押し入れから聞こえてくるくしゃみに、土方が「やっぱりいやがった」と呟く。

「総司、出て来い。毎回毎回、人の部屋に忍び込みやがって!」

「酷いなぁ」

「酷いのは、てめぇだろうが! 総司、さっさと出て来て盗んだものを出しやがれっ」

「土方さん、そう怒ってばかりいると皺、増えますよ? もう年なんだし」

 押し入れから「よっこらしょ」と出てきた沖田総司は悪びれる風でもなく、冊子でぱたぱたと自身を扇いでいた。

「うるせぇ! 俺はまだ三十路前だっ。馬鹿野郎!」

 土方が冊子を奪うと、沖田は「お邪魔しました」という声と共に部屋を去って行った。

「その句集……」

「見たのか? 中を」

 土方の鋭い視線が飛んできて、鉄之助は飛び上がった。

「み……、見ました」

「いいか、見た内容は忘れろ! 思い出すんじゃねぇ! そして誰にも喋るんじゃねぇ」

「局長にも……?」

「当たり前だ! もし誰かに漏らしてみろ。鴨川に投げ捨てる!」

 どうやら《豊玉》の正体は土方だったようで、鉄之助は真冬の鴨川で土左衛門どざえもんにはなくたくはないので頻りに頷いた。

 怒りを静めた土方は、やや短めな刀を鉄之助に差し出した。

「これは……」

「刃引き(※刃を潰して切れなくする事)してあるため実戦向きじゃねぇが、ないよりはマシだ。これでも相手のすねや腕の骨を折るぐらいにはなるだろう。鉄之助、この間も言ったがこの町には不逞浪士に反幕府派と危険な奴が多い。自分の身は自分で守る事ができねぇと、お前は遅かれ早かれ死ぬ」

「副長……」

 土方から受け取った刀はずっしりと重く、それが『両長召抱人としての責任』の重みなのだろうと思った。

 何れ自身の腰に、本物の刀を差す日がやって来る。

 それは現在よりも重いものになるかも知れない。

「大事に使わせて頂きます」

「鉄之助、お前がこの先どんな道を選ぼうと、怖い目に遭わないとは限らねぇ。だがな、そこで逃げるか戦うによってもその後の人生も違うんだぜ。悪い奴にやられたまんま悔い残して死ぬか、それとも精一杯悔いなく生きて散るか」

「副長――……、どうして俺が死ぬ前提なんですかぁ?」

「ふんっ。その言葉、強くなってから言え。今のお前はどう見ても『悪い奴にやられたまんま悔い残して死ぬ』だぜ」

 鉄之助の不満に、土方は不敵な笑みを浮かべる。

 土方の言葉に、それ以上言い返せぬ鉄之助であった。

 確かに、現在の鉄之助の力では戦う事もできない。生き抜く力を身につけねば、ただ空しく朽ちるのみ。

 ここは国友村ではない。

(俺に、やれるのかなぁ――……)

 黄昏時、西の空は夕陽が残した赤が映えていた。

 鉄之助は土方から貰った刀を握り締め、庭に降りた。

 空を仰げばよい明星みょうじょう(※金星)がキラリと光る。

 両長召抱人・市村鉄之助――、彼の新選組隊士としての日々はまだ始まったばかりである。



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