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リトル・バスタード

作者: ハジメ イチワ

 ドアにノックの音がしたのは、なけなしのバーボンの瓶の底に残った最後の一滴を飲み干した時だった。


 時刻は午後5時半を少し回っている。


 机の上のコップの水は、さっきあったばかりの地震の揺り返しで、ゆらゆらと揺らいでいる。

 ストラは、机の上に乗せた足をゆっくり降ろした。

「どうぞ、鍵はかかっていない」

 薄い合板(ごうはん)のドアにはまっている()りガラス、ストラ・ダイク探偵事務所と逆文字で書いてある、を通して写る影は、女のものだった。

 案に違わず、ドアが開いて入ってきたのは若い女だった。


 それも、これといって特徴のない平凡な娘だ。

 ネブラスカ辺りの国道沿いのカフェで、お仕着せのエプロンを着て働くのがお似合い、といった容貌で、あか抜けない安物の白いワンピースを着て、合成皮革のヒールを履いている。


「あなたがストラさん」

 意外に通る声で娘が言った。

「そうですよ。どうぞおかけください。ミス……」

「イシュカ・マイカート。イシュカとお呼びください」

 娘の粗末な身なりから考えて、金にはなりそうに無いとふんだストラだったが、最近の不況の影響による仕事不足が、彼に丁寧な言葉使いをさせた。

 それに、娘のよく輝く眼に、何かを感じたせいもある。

 いずれにせよ、ただの人探し程度の仕事だろう。

 新しいバーボンの瓶を買うために一働きするのも悪くない。

 この事件が始まった時、彼が最初に持った感想はそんなものだった。


「わかりました。で、ご用件は?

 ああ、その前に、当探偵事務所の規約を申し上げておきます。

 費用は一日二百ドル。諸経費は別途いただきます。あと、もし捜査途中に、身の危険が生じるような場合は、私の判断で捜査をやめるか、あるいは危険手当を適宜(てきぎ)いただきます。よろしいですか」

 娘は、軽く頷いて言った。

「わかりました」

「で、ご用件は?」

「実は、私には、バクスターという歳の離れた兄がいるのですが、その兄が、この街に来て行方がわからなくなってしまったのです。そこで、あなたに探し出していただきたいのです」

「お兄さんが、こちらに出て来られたのはいつ?」

「半年前です」

「いつから行方不明に?」

「三ヶ月前です」

「通常は、そうした用件は警察に頼むはずですが……」

「警察には行きました。でも、家出人の捜査には乗り気ではなくて……」

 もちろん、そうだ。年間に数万人の行方不明者を出すこの街で、本腰をいれて行方不明者を捜すほど、警察は暇じゃない。

 もっとも、行方不明者が死体に変われば、話は変わってくるが。


「田舎ならともかく、大都会での人捜しは簡単じゃない。人も多いからね」

 ストラは一応(しぶ)ってみた。あまり簡単に飛びつくと、安っぽい探偵と見られる。

 娘は、黙ったまましばらくうつむいた。

 そして、手にした赤いハンドバックから封筒を取り出した。

 安物のバッグの中から、出てきた封筒には、手の切れるような札束が入っていた。

 ざっと見積もって、千ドルはある。

「これは、とりあえずの手付け金です」


 貧乏な探偵にとって、千ドルの威力は大きい。ストラは、声が裏返らないように注意して言った。

「なるほど、何か事情があるらしい。わかりました。話を伺いましょう」

 娘は、椅子に座り直すと話し始めた。

「私と兄は、サウス・ダコタの田舎町で育ちました。

 父は、その土地で、かなり大規模に工場を経営していましたので、私たちの暮らしは、裕福だったと言って良いと思います。

 母は、私たちを生んですぐに亡くなりましたので、私と兄は、父ひとりの手で育てられました。

 父は、三年前に亡くなりましたが、その時、私と兄には数万ドルずつの遺産が残されました」

「お兄さんは、遺産を持って家を出たのですか」

「兄が行方不明になってから、弁護士に頼んで預金を調査してもらいましたが、遺産にはまるで手をつけていません」

「つまり、金目当てに誘拐などされたのではない、ということですね」

 娘は、部屋に入ってくる時から大事そうに持っていた封筒を差し出して言った。

「弁護士に言って、兄に関する書類を作ってもらいました。詳しくは、ここに書いてあると思います。どうでしょう」

 娘は背筋をまっすぐに伸ばし、ストラを見た。

「引き受けてくださいますか」

「わかりました。お引き受けしましょう」

 そう言って、ストラは、封筒の書類を確かめた。

 ちょっと顔を曇らせて言う。

「お兄さんの写真が無いようですが?」

「兄は、大変な写真嫌いでしたので、ほとんど写真を撮らなかったのです。

 その上、家を出るときに、残りもほとんど焼いてしまったのです。

 唯一、手元にあるこの写真は、兄が学生の頃のもので、しかもあまりうまく写っていません」


 娘の差し出した写真は、確かに輪郭がぼやけてはいたが、白黒の模様の中かから、聡明そうな男の顔がなんとか判別できた。兄妹といっても似ていない。


「預かります」

「どうぞ」

 ストラが、書類を机にしまって鍵をかけるのをみて、娘は腰を浮かした。

「では、帰ります」

「どうか、ご安心を。責任を持って捜索します」


「いや、安心はしない方がいいぜ」

 突然、太い男の声が部屋に響いた。

 娘は、驚き、バッグを握りしめる。

 ドアが開いて、大きな男が入って来た。

 警官の制服を着ている。


「なんだワムスか」

 ストラは、硬い声を出した。

「まあまあ、そう怒るな」

 男の顔を見て、緊張に体をこわばらせていた娘の表情も(なご)んだ。

「あら、あなたは……」

「やあ、お嬢さん」

「何だ。君たちは知り合いか?」

「なに、この方が警察に来られた時、話を聞いたのが俺だったのさ。それで、誰か警察以外に、人捜しをする人はいないかって言うんで、ここを教えた」

 大男は、床に転がったバーボンの瓶を拾ってゴミ箱に入れると続けた。

「つまり、俺は、お前の商売を助けてやったってわけだ」

「よけいなお世話だな」

 二本目の瓶をゴミ箱に捨てようとしていたワムスは、勢いよく瓶を机に置いた。

 ドン、と大きな音がして、机の上の電話の受話器が外れる。

 コップから水がこぼれた。

「一体、お前はどうしたってんだ。ノートンが死んでからってもの、警察は辞めちまうし、やっと取った探偵免許で事務所を開いても、これといった広告もなしじゃあ……」

「関係ないだろう」

 外れた受話器を戻しながらストラが言った。

「いや、関係はあるさ。俺はな、ノートンにお前の事を頼まれているんだ」

「なら、なおさら関係ないな」

「おい、あまり突っ張るんじゃないぜ。警察はな、お前に関しちゃ、何かとキナ臭い噂も嗅ぎつけてるんだ」

「そいつは光栄だな」

 二人が睨み合ったまましばらく時間が流れた。


「それでは、私は失礼します」

 険悪なムードを破って娘が言った。

 立ち上がりかける娘を制して、ストラが、

「待ってくれ。これから車で出かけようとしていたところだ。よかったら送っていこう」

「どうせ、久しぶりに入った金で、酒場に繰り出すんだろう。俺もついて行くぜ。紹介料だ」 

「勝手にしろ」


 ビルを出ると、外はもうすっかり夜になっていた。

「最近では、この街も世知辛(せちがら)くなって、路上駐車ができにくくなった。車は少し先に停めてあるんだ」

 そう言って、ストラは歩道を歩き出した。娘がそれに従う。

 ワムスがその後に続く。


 つい今しがたまで降り続いた雨は、煉瓦造りのビルを黒っぽく濡らし、決して充分とは言えない薄暗い街灯が、地面の水たまりに反射して、うら悲しい気分を誘う。

 雲が流れ去った空には満月が浮かんでいるはずだが、ビルの谷間までは、届いていない。

 路上に置かれた巨大なゴミ収集箱からは、紙屑が溢れ、いつもは路上に寝ころぶホームレスの姿さえも、今は目に付かない。

 地震など起こったことのない、このマンハッタンで、なぜか、ここ数ヶ月頻発する地震に恐れをなして、どこかに逃げ込んでいるのだ。

 もっとも、何事にもすぐ慣れてしまうニューヨーカーの大部分は、地震にすらあまり注意を向けなくなってきている。

 ここは、ロサンジェルスとは違うのだ。微震はあっても、大地震など来やしない。そんな気持ちがマンハッタンには蔓延しているのだ。

 さすがは、エンパイヤ・ステートビルと、クライスラービルの建つ三角州だ。

 そう思ってストラは唇を皮肉っぽくつり上げた。


 並んで歩きながら、自然な歩調でストラから遅れると、イシュカは警官に話しかけた。

「お聞きしていいかしら」

「何だ?」

「さっき、おっしゃっていたノートンって、誰なの?」

「奴の息子さ。一年前に病気で死んだ。奴はいい警官だったが、それ以来駄目になっちまった」

「奥さんは?」

「別れた女房は、確か西海岸の方で再婚したって話だ」

「つまらないおしゃべりは止してくれ」

 ストラが前を向いたまま言った。


 ふと口調を変えて言う。

「それはともかく、あの妙な格好をした男たちは、君の知り合いか?」

 突然、路上に降ってわいたように、六人の男の影が現れたのだった。

 男たちは、着物に袴、頭には鉢金をつけ、それぞれが日本刀や鎖鎌といった武器を手にしている。

 と、見る間に、三人の行く手を阻むように、道いっぱいに広がった。

「どうやら、こいつらは、話に聞く日本のサムライらしい」

 ストラは、二年ほど前、ノートンにせがまれて出かけた百貨店主催の日本展を思い出して言った。

 じりじりと包囲の輪を狭めてくる男たちを見ながら続ける。

「俺か君、あるいは警官に用があるらしいな」

「スタイルからすると、それもヤバそうな用らしい」

 ワムスが楽しそうに言った。警察官のくせにこういう騒ぎに眼がないのだ。

「武器はあるの?」

 意外なほど冷静な娘の声だった。

「撃たれるのが嫌だから、銃は持ち歩かない主義なんだ。が、警官なら銃ぐらい持っているだろう」

「俺も銃は嫌いさ……。それに拳の方が役に立つ」

 言葉を言い終わらぬうちに、男の一人が襲いかかってきた。

 街灯を反射して、不気味に輝く青白さから、その切れ味は剃刀(かみそり)よりも鋭いと思われる刀の一撃を、ストラは危うく避けた。

 そこへ鎖鎌(くさりがま)の分銅が飛んでくる。


 慌てて拾ったゴミ箱の蓋で鉄塊をかわしながら、半歩下がったところへ、次の男の一太刀が降りかかる。

 この男たちはプロだ。

 しかも、よく訓練を受けた。

「普段から、もう少し運動をしておくべきだった」

 最後に斬りつけてきた男に、スーツの裾を切られたストラは自嘲する。

 男たちは、二つのグループに分かれた。

 一つ目のグループは、ストラを威嚇(いかく)しながらとり囲んだ。

 無言の殺気を発して斬りかかってくる男をかわしながら、探偵は、鳩尾(みぞおち)に蹴りを入れ、連携して襲ってきた男の股間を蹴り上げた。

 もう一つのグループは、ワムスを襲っていた。

 大男は、巨体に似合わぬ素早さで、斬りかかる男の腕をつかむと、赤ん坊の頭ほどもある拳を男の腹部にたたき込む。

 背骨を不自然に曲げた男は、数メートル吹っ飛んで、巨大なゴミ箱に沈んだ。

 眼の端でそれを捉えたストラは、苦笑した。

 この現代の蛮人ともいうべき警官は、できれば敵には回したくない男だ。


 娘は、壁と二人に囲まれてとりあえず守られていた。

 だが、悲鳴に気づいて振り返ると、いつの間に近づいたか、男たちの一人が、娘をはがいじめにしようとしているところだった。

 ストラは、手にしたゴミ箱の蓋を、男の顔めがけて投げつけ、ひるんだところを体当たりで跳ね飛ばす。

「どうやら、お目当ては君のようだな」


 その時、轟音と共に、赤紫色の光が露地を覆った。

 光が消えた後には、さらに二十人ばかりの武装した男たちが立っていた。

「おい、また増えやがったぜ

 ワムスが()えるように言った。

 形勢はどうみても三人に不利だった。

「やれやれ」

 ストラはつぶやいた。

 大きくため息をついて、

「俺の命が欲しいか?別に惜しくはないからくれてやってもいいが、彼女を渡すわけにはいかない。もう、危険手当をもらってしまったからな」


 そう言った後で、小さく何事かをつぶやく。

 遠くから山鳴りのような音が近づいて来て、やがて轟音となった。

 突如、男たちの体が紫の炎に包まれる。

 全員が、一言も発することなく、苦悶に身をよじりながら燃え続け、やがて、サムライたちは、手足から中央に向けて溶けるように消滅していった。

 数秒後、路上にはストラたち三人の姿のみがあった。

「いったい、どうなったん……」

 ワムスは呆然とつぶやいたが、最後はストラの叫びでかき消された。

「とにかく走れ、俺のフォードまで」


「君は何者だ?」

 露地を走り抜け、急いで車に乗り込み、急発進させながら、ストラは尋ねた。

「どうして、あんなヤバい奴らに狙われる?」

「さっき話した通りよ」

「そんな訳がないだろう。奴らは普通じゃない」

「それなら、あなたもね――普通じゃないわ」

「……」

「私も、魔法は知っているけれど、あれほど鮮やかな手並みを見たのは初めてだわ」

「魔法――すると噂は本当だったんだな」

 後部座席でワムスが唸った。

「おかしいと思っていたのさ。ここ一年で、お前の事務所の周辺で、魔法だとか、魔術を見たって奴が、わんさかと出始めやがったんでな。

 この科学文明の時代に魔法も何も無いと思って、取り合わなかったんだが……

 目撃者の大半がホームレスだったり、小僧だったので信用もできなかったしな」

 しゃべり続けるワムスを無視して、イシュカが言った。

「正直に言います。さっき、私が話したのは、ほとんどが嘘です」

「だろうな」

 四十三番街を左に折れて、今、車はセントラル・パークを左に見ながら走っている。

「でも、これからお話することは、あなたに信じてもらわなければなりません。なぜなら、このまま放置すると、この世界が消滅してしまうからです」

「君の『バクスター』を探さないと、か?」

「そうです。実は、バクスターは、私の兄ではありません。彼は、世界を救う人物なのです」

 娘の眼は、薄暗がりの中で怪しく輝き始めている。

 その表情は凛々(りり)しくさえあった。


「世界ねぇ」

 ストラはつぶやくように言った。

「バットマンの守備範囲はゴッサム・シティだ。スーパーマンは、アメリカとアメリカン・ウェイを守る男。で、俺の守備範囲は、このニューヨーク、せいぜいマンハッタン島だけだなんだ。とても世界は守れないな。この仕事は降りさせてもらうぜ」

「世界が滅びたらこのマンハッタンも無くなるわ」

 割り込んできた車にクラクションを浴びせながら、ストラは言った。

「それもいいだろう。いっそのこと無くなれば……」

 これは本当の気持ちだった。もうこの世界に未練はない。

「危険手当は払ったはずよ」

「金は返すさ」

「意気地なし」

「俺を怒らせようとしても無駄だ」


 突然、どん、屋根に音がした。

 驚く間もなく、屋根を貫いて刀が車内に突き立てられる。

「何だ!」

「屋根の上に誰かが乗っているのよ」

 ストラは、ハンドルを左右に切って振り落とそうとしたが、さらに、一太刀、二太刀と屋根から鋭い刀の刃先が突き出され、それを避けるためにうまく運転ができない。

「!」

 後部座席のワムスが、声にならないうめき声をあげ、のけぞった。

 押さえた左腕から鮮血がほとばしる。


 午後八時を回ったフィフス・アベニューには車が溢れていたが、屋根に人間を乗せた異様な車の姿を見て、周囲の車は次々と急ブレーキを踏む。

 あちこちで自動車がクラッシュし、炎を吹き上げた。

「よし」

 このままでは、いつか刀の餌食(えじき)になる、と考えて、ストラは大きくハンドルを切って、炎に浮かび上がったセントラル・パークの生け垣にフォードを乗り入れた。


 ガン、という衝撃と共に、フォードは数メートルジャンプする。

 アメ車特有のおおざっぱなサスペンションのおかげで、着地後、大きく二、三度左右に揺れたが、屋根の上の襲撃者はショックで振り落とされたようだ。

「やったか」

 サスペンションがいかれたのか、右にかしいだフォードは、フェンダーを地面にこするように走り続けている。


 しばらく公園の芝生を吹き上げながら走ったところで異変は起こった。

 突然、車が赤紫色の炎に包まれたのだ。

「ヤバイぜ。これはさっきと同じ光だ!」

 ワムスが叫んだ。

「飛び降りろ」

 三人がドアを開け飛び降りると、フォードは、セントラル・パークの闇に飲み込まれるように、徐々にその姿を消していった。さっきの男たちと同じように、溶けるように消滅したのだ。

 最後は、マッチの炎のような紫色の光がわずかに残っただけだったが、それもやがては消えてしまった。

「怪我は無いか」

 起きあがり、服についた草を払いながら、ストラは言った。

「ええ」

 イシュカも立ち上がり、ワンピースの裾を整えている。

「傷はどうだ、ワムス」

「かすり傷さ」

 大男の左腕の傷は、すでに血も止まっているようだ。

「ひどい話だ。あのフォードは、まだローンが残っているんだぜ。千ドルでは割にあわない」

「まあ、命あっての物種(ものだね)ってことだな。さて、これから、どうする?」

 ワムスは言い、改めて辺りを見渡したが、月が雲に隠されているため、景色がよくわからなかった。

「くそ、早くパーク全部に、街灯をつけて欲しいもんだ。そうすれば、夜の犯罪はもっと減る」

 大きな背中をどやしつけて、ストラが言った。

「とりあえず、道に出てイエロー・キャブを拾おう」

 歩き始めた時、風が吹いて雲を払い、明るい月が公園を照らし出した。

 ストラが低く言った。

「どうやら、そうもいかないらしい。さっきの奴が来やがった」


 公園が、暗闇のベールを取り去るように、端から明るく浮かび上がっていくと、二十メートルほど手前に、一人の男が立っていた。

 網笠をかぶり、着流しの着物を来ている。

 腰には、無反(むぞ)りの日本刀を一振(ひとふり)差している。水走一文字(みずはいいちもんじ)、通称ミズイチと呼ばれる名刀だが、無論ストラにはわからない。

 男はゆっくりと笠をとると、抑えた声で言った。

「無用な殺生は好まん。女を渡せ」

「嫌だ、と言っても、無理矢理連れて行くんだろう」

「よく分かっている」

「どうやら、お前が、今までの奴らの親玉らしいな。さっきの奴らにも言ったが、依頼人を渡すわけにはいかないのが、探偵稼業の辛いところさ」

「そうか。ならば、死ね」

 じりじりと、サムライは距離を詰めてきた。

「やめて」

 イシュカの声が公園に響く。

「どうして信じてくれないの、重蔵!アズサを傷つけたのは私じゃないわ」

「しらじらしいことを……」

 男は、ゆっくりと腰を落とし、抜刀すると、刀を耳の横で垂直に構えた。

 刃先に念を塗る、と言われる馬庭念流(まにわねんりゅう)の必殺の構えであったが、これも、ニューヨーカーのストラには分からない。

 両者の距離は、(およ)そ九フィート、約三メートル、通常の一刀では、まず届かない距離だ。

 が、底冷えする冷気を感じたストラは、とっさにもんどり打って、後ろに倒れた。

 信じられないことに、ストラの首のあったあたりを弓形に刀は真横に()いでいた。

「ほう。馬庭念流弓一文字(ゆみいちもんじ)をかわしたのはお前が初めてだ」

 重蔵が心なしか嬉しそうに言う。

 僥倖(ぎょうこう)で、初太刀(しょだち)はかわしたものの、それが続かないことは、ストラにはよく分かっている。

「ストラ、さっきの術を使え!」

 ワムスが叫んでいる。

 ストラは、片膝をつくと、地面に向かって何か叫んだ。

 すると、ところどころ芝生のはげた地面がモコモコと盛り上がり、人型をした木の根が飛び出した。

呪符根(じゅふね)人形か、無駄なことを」

 重蔵の刀が閃くと、たちまち人形は四散し、空中に消える。

「効果無し、か」

 今度は、重蔵が空に手をかざし、数語、つぶやくように言った後、

「雷電」

と叫んだ。

 にわかに空に黒雲が生じ、雷鳴が轟きだすのを見て、ストラは拳を突きだし口中で呪文を練った。

 雷雲から稲妻が走るのと、ストラの体を青白い光が取り巻いたのは、ほぼ同時のことだった。

 ドーム状にストラを守った光が消えたあと、月に照らされた公園の芝生は、ストラを中心にくっきりと円状に焼き払われていた。

「どうやら、術は互角のようだな」

 重蔵が、にやりと笑う。

 食い入るように二人の男の戦いを見つめていたワムスは、いつの間にか彼とイシュカが、先ほどの男たちに取り囲まれているのに気づいた。

 二十人はいる。

 男たちは徐々にその輪を縮めてきた。

「ちくしょう」

 ワムスは唸った。

 無言のうちに、男たちは二人に飛びかかってきた。

 戦い出すと、ワムスの凶暴な肉体は、彼の信頼に応えて半自動的に行動する。

 一人目の男を強靱な拳で吹っ飛ばし、二人目の男の腕を刀ごと抱き込んで、叩き折った。

 三人目の男の突きをかわして、首を締め上げ、盾とする。

「下手に攻撃すると、こいつの命は……」

 ないぞ、と言い終わらぬ内に、彼に向かって数本の刀が突き出された。


 ワムスは、盾にした男を突き飛ばして後方に倒れる。

 串刺しになった男の口から吹き出る鮮血を見て、彼は呻いた。

 こいつらは、俺がいつもあしらっている、ただのチンピラ共じゃない。

 初めてワムスは恐怖を感じた。

 首の後ろの毛が逆立つ。


 その時、

「下がっていて下さい」

 今までワムスの巨体の影に隠れていた娘は、そう言うと、数歩前に出て奇妙な構えをとった。

 膝までの白いワンピースを着た娘が、居並ぶ白刃の壁と対峙している、その光景は、どこか現実離れしたものに思えた。

「よせ、君の手に負える相手じゃない」

 ワムスの声に、娘は振り返らずに答えた。

「なら、あなたの手に負えるの?」

 言うなり、娘は前方に走った。先頭にいた男に突進する。

 斬りつけてくる白刃の下をかいくぐり、イシュカは、男の左胸を軽く二回突いた。

 一瞬、動きの止まった男を突き飛ばし、隣の男の胸も同様に叩く。

 イシュカは、素早い動きで、数人の男にそれを繰り返した。

 その後の光景は、ワムスの理解を超えていた。


 胸を叩かれた男たちは、突き飛ばされたままの格好で地面に倒れ、しばらく凍り付いたように動きを止めていたが、やがて、手にした刀で、我が胸を突き刺したのだ。それも、二度、三度と。


 とん、と、跳ねるように戻ってきた娘にワムスは尋ねた。

「あれは何だ?中国あたりの拳法か。ツボかなんかを突く」

「いいえ、もっと別なものなの。でも、恐ろしいのは……」

「何だ?」

「私の技が通用するということよ」

 意味不明な言葉を残し、娘は、再び男たちに向かって行った。

 しかし、さすがに、今度は、男たちも容易にイシュカを近づけなかった。


 距離をおいて、小柄を投げつける。

 素早い動きでそれをかわした娘は、地面を叩くと何事がつぶやいた。

 男たちは、突然足下にぽっかりと開いた穴に、飲み込まれてしまった。

 たちまち穴はふさがる。

 かろうじて穴の縁につかまった者は、あわてて、穴から這い出ると抜刀した。

 しかし、二十人以上いた男たちは、今や、三人を残すのみとなってしまった。

 そのころ、ストラは、魔術の掛け合いに疲れ、肩で息をしていた。

「無駄なことはやめろ」

 重蔵と呼ばれた男は言った。

「この世界には、お前の探す男など存在しない……」

 氷穴から吹き出る冷風のような声で、重蔵は言った。

「なぜ、そう言い切れる」

 その時、遠くから、パトカーのサイレンの音が近づいてきた。

「ことが大げさになりすぎたようだ。娘は、今しばらくお前に預けておこう」

 そう言いつつ、重蔵の姿は徐々に薄れていった。

「まて、なぜバクスターがいないと言うんだ」

 ストラは叫んだが、重蔵は、その問いには答えず、

「今日は、よく俺の術を封じおったな。お前の言霊(ことだま)も相当なものだ」

 薄れ行く姿のまま、薄く笑った。

「コトダマ?何だそれは。俺が使うのは、ただの魔術だ」

「言霊、それは夢と(うつつ)邂逅(かいこう)……。ひとたび、術者の口から発せられた言葉は現実となる。また逢おう」

 言うにつれ重蔵の姿は見えなくなり、声も徐々に小さくなって消えていった。

 遠くから、パトカーのサイレンの音が近づいてくる。

「大丈夫か」

 振り返ると、ワムスとイシュカが立っていた。

「ああ、大丈夫だ。そっちも大丈夫なようだな」

 二人が頷くのを見て、ストラは言った。

「よし、四十三番街まで出て、タクシーを拾おう」

 二人は頷くと、サイレンから遠ざかる方向に走りだした。


「これからどうするの」

 イエロー・キャブに乗り込み、ドイツ系移民らしい運転手に、苦労して自宅の住所を伝えたストラに、娘が言った。

「わからない。だが、どうやら、もう後には引けないようだ」

「引き受けてくれるの」

「仕方ない。危険手当も、もらっているしな」

「ありがとう」

「ただし、君が知っていることを、すべて話してくれることが条件だ」

「わかりました。全部話します」

「それで、お前はどうする」

 ストラは、後部座席に三人が並んで座ったため、ひときわ窮屈な思いをしている、大男に向かって言った。

「何がだ」

「あんな化け物が出てくるようでは危険すぎる。お前は、もうこの件から手を引け」

「そうね。あなたは、もう降りた方がいいわ。そして、すべてを忘れるの」

 二人から同時にそう言われて、ワムスは不機嫌になった。

「なぜだ」

「ここからは、普通の人間じゃ無理だからよ」

 大男は憮然として言った。

「俺じゃ役不足ってんだな」

「それにお前には理由が無いだろう」

「お前にだって無いだろうが。理由か?面白そうだからってことじゃたりねえのか。いったい、何がどうなってるのか分からないが、とにかく、お前たちと一緒にいると、退屈だけはしそうにないからな」

「おい、こいつは遊びじゃないぜ、ワムス」

「どうせ、家族も係累も無い身の上だ。俺は、好きな事をやって死ぬのが望みなのさ」

「警官を辞めることになってもか?」

「その通りだ」

「意外だな。お前は、警官って仕事が好きで、そいつが天職だとばかり思っていた」

 友人の言葉に、ワムスは肩をすくめ、自嘲するように言った。

「いや、実を言うと、合法的に人が殴れるってのが、俺の警官としての生命線であり……」

 ワムスは、イシュカが、良く光る鋭い眼差しで見つめているのに気づくとそこで言葉を切り

「とにかく俺は、もう決めたんだ」

と言った。


 無論、ワムスには他に理由があった。

 彼は、もうずっと以前に、ノートンの「父を頼む」という最後の願いを叶えるためには何でもする、と心に誓っていたのだ。

 身内のいなかったワムスには、ノートンこそが、本当に自分の係累と呼べるものだった。

 親友の子供として、赤ん坊の頃からノートンを世話をしてきたこの大男にとって、幼くして母親と別れ、年齢のわりに大人びたノートンは、実の息子以上の存在だった。

 ノートンが死んだ時、本当に精神状態が危なかったのは、ストラではなく、ワムスだった。

 だが、彼には、ノートンとの約束があった。その約束が、ワムスと現実社会をつなぐ碇となって彼を支えたのだ。

 だから、今、ストラが危険な男たちと戦うと決めた以上、彼が、その盾になって死ぬのは当然だった。


「わかったわ。それでは、私について来てください」

 そう言うと、イシュカは、タクシーの運転手に向かって、ドイツ語でグリニッジビレッジ電話局に行くように指示した。

「おい、電話局になんか行っても何にもならないぜ」

「とにかく、私を信じてついて来てください」

 そう言ったきり、イシュカは口を閉ざした。


 数分後、三人は、電話局に到着した。

 グリニッジビレッジ電話局は、カント・アベニューの角に建っていた。

 今はもう時刻も遅くなり、人通りも少なくなっている。

「さあ、着いたわ」

「こんなところに、何があるというんだ」

 ストラの問いかけに答えず、

「こっちよ」

 イシュカは、角を曲がって表通りから裏通りに歩き出した。

 電話局の裏手に回ると、半地下に降りる階段があり、その先にドアがあった。

 イシュカに続いて階段を降りたストラは、ドアの前で立ち止まった娘を押しのけてドアを開けようとした。

「駄目だ。鍵がかかっている」

 どうするんだ、という非難めいた探偵の視線を背に、イシュカは、

「私たちは電話局の中に入る必要はないの」

 そういって、電話局の茶色いペンキの剥げ駆けたドアに向かって掌を当て、何かつぶやいた。

 突然、ドアが乳白色に輝いて揺らめきだす。

「さあ、私の後についてきて。一本道だから迷うことは無いと思うけど」

 言うなり、イシュカは、ドアに向けて足を踏み出した。

 まず手がドアに埋まり、やがて、体全体がドアの向こうに消えて行く。

「おい、どこに行くんだ」

 呼びかけに答えず、娘の体はドアの向こうに消えた。

「くそっ、行くしかないな」

 そう言って、ストラも、手をドアに押し当てた。


 抵抗など無いのかと思ったが、そうではなく、ドアにはゼリーのように軽い弾力があった。

 それに逆らって手を押し込むと、突然抵抗が無くなり、吸い込まれるように体全体がドアの中に入り込んだ。


 ドアの内部は、ストラが経験したことのない世界だった。

 まず、目に入って来るのは極彩色の万華鏡のような色の変化のみだった。

 体の方は、寒熱冷暑は感じないが、異様な方向に体がねじられている感じを強く受ける。

 腕がぐるりと体を取り巻き、掌は、どう考えても頭の中にあるように感じたかと思うと、次の瞬間には、手と足が、まるでロープ同志を結びつけるように、考えられない角度でねじ曲げられ結びつけられているような感じがする。

 そんな状態のままで、もの凄い勢いでどこかに流されているのを感じるのだ。


 いい加減、気分が悪くなった時、急にその感覚が無くなって、ストラは、しっかりした地面の上に立っていた。

 あたりは真っ暗で、何も見えない。

「大丈夫?」

 背後で心地良い声がした。イシュカだ。

「ああ」

 振り返ったが何も見えない。

「どうしてこう暗いんだ」

「この部屋には、窓がないの。ちょっと待ってくださいね」

 そう言うと、足音がだんだん離れて行った。

 やがて、かなり離れたところでドアが開き、閉まる音がした。

 ストラは、ふと気がついて、

「おい、ワムス。無事か」

と、大男の名を呼んでみた。

「うう、うむ。大丈夫だ」

くぐもった声が答える。


 しばらくすると、またドアの音がして、足音が近づき、

「もう少し待って、今は、まだ外に出られないから」

という声がした。

「あと十分くらいで外に出られると思うわ」

「分かった」

「その前に、あなた方に言っておくことがあります」

 改まった口調で、イシュカが言った。

「なんだ」

「あなた方は、今、私の世界に来ました」

「君の世界?」

「そう。この世界で、私はもとの姿にもどりましたが、あなた方は、私があなた方の世界でそうだったように、少し容姿が変わっているかも知れません」

「すると、さっきまでの君は、本当の姿ではなかったのか。そう言えば、今と声が少し違うな」

「そうです。詳しいことは、あとでお話しますが、とにかく、今は、そのことでショックを受けないようにしてください」

「信じられん。が、もしそれが本当だとすると、俺の姿も変わっているんだな」

 ワムスが浮き浮きとした口調で言った。声の調子が少しおかしい。

「もしかしたら、俺は天下の二枚目になっているかもしれんな。いや、それより、もっと小柄になりたい。体が大きいのは、じつはひどく不便なんだ」

「知らなかった。そうなのか?」

「お前みたいに、身長六フィート程度なら問題ないだろうが、俺のように七フィート近いと服も数が少ないし、どこでも頭をぶつけちまう。それに、子供には怖がられるし、夜道を歩くだけで人に怪しまれる」

「そうだったのか……」


 その時、遠くから、ベルの音が聞こえてきた。

「さあ、もう大丈夫よ。今、明かりをつけるから、ちょっと待ってくださいね」

 すぐ近くでマッチをする音がした。

 一呼吸おいて、黄色い光で部屋が浮かびあがる。

 まず気づいたのは、彼らは今、煉瓦造りの狭い部屋の中にいるという事だった。

 いたるところに、焼き印が押された、大きな木箱が乱雑に積み上げてある。

「気分はどう?」

「ああ。特に悪く……」

 頷きながら振り返る、ストラの声が途中で止まった。

「君は、イシュカか?」

「そうよ。どうかしたの」

「いや、だが、君は……」

 きれいだ、そう言いかけて、ストラはかろうじてその言葉を飲み込んだ。

「何でもない」


 しかし、事実は、娘は美しかった。

 淡いランプの光に浮かび上がったイシュカの姿は、まるで泡から生まれたばかりの妖精だった。

 銀色に近い金髪が柔らかく波打ち、薔薇の花に似て官能的な唇はピンク色に輝いている。そして、これだけは、先ほどまでと同じ青い瞳が、愛らしい表情の中で、きらきらと輝き、その中に宿る強い意志を示していた。

 今は、古風なドレスを身にまとっているイシュカは、微笑みながら言った。

「何なの。変な人ね」

 確かに知っているけれど、まるで別人の娘から親しげに話しかけられるのは、何だか妙な感じだった。


「おい、俺の体、そんなに大きくないな」

 背後で柔らかく高い声がした。

 振り向いたストラは、驚いて目を見開いた。

「君は……ワムスか?」

 驚いたことに、あの大男は、すらりと背が高く、肩幅の広い、きれいなうなじをした……女性になっていたのだった。

「うむ。男としては、そう大きくは無いが、女性としては、かなり大柄と言えるな」

 ストラに指摘されて、腕や指先を見、顔に手をやると、ワムスはうろたえた声をあげた。

「なに、女性!うおっ、本当だ!おいストラ、どうしよう」

「こんなことはよくあるのか?イシュカ」

「いいえ、私の知る限り初めてのことだわ。でも、女性になると言っても、この世界だけのことだし、どうかしばらく我慢してくださいな」

「ということだそうだ」

「しかしなあ……」

 なおも困惑するワムスの背中を叩いて、ストラは促した。

「気にするなよ、ワムシー」

「こらこら、勝手に人の名前を女性形にするんじゃない」

「これから外に出ます。さっきのベルは、ここの昼休みのベルなので、今は、人はほとんどいません。あなた方の服は、この世界のものに変わっていますから、黙ってついてきて下されば、怪しまれることはないでしょう」

「わかった」

 ドアを開けて外に出ると、ランプの光で明かりには慣れたつもりであったはずが、窓越しに差し込む昼間の光のために、しばらくは何も見えなくなった。

 やがて目が慣れると、そこは見渡す限り広い荷物の集積場だった。

 人の姿は無い。

 壁にかかった大時計は、午後一時過ぎを示していた。


「さあ、こちらへ」

 イシュカの導くままにその建物を抜け、屋外に出ると、そこには、数多くの馬車が停まっていた。

 塀越しに見える数多くの家の煙突からは、もくもくと黒煙があがっている。

「おい、まさかここは……」

 イシュカは悪戯っぽく笑いながら言った。

「ようこそ、1882年のロンドンへ」

 呆然とする二人に、イシュカが言った

「まず、私の家に行きましょう。ついて来て下さい。ここから歩いて十分ほどの距離ですから」

 歩きながら、娘は説明した。

「今、私たちの出てきた建物は、ロンドン中央郵便局です」

 イシュカを先頭に、三人はロンドンの街を歩き出した。

 先頭を行くイシュカは、背筋をまっすぐに伸ばし、堂々とした態度で歩いていく。

 その後を、ストラ、ワムスの順に続く。

 ワムスが最後なのは、初めて着るスカートに足を取られてうまく歩けないからだ。

 進むにつれ、通りは、だんだんと賑やかになり、両側に様々な種類の店が並びだした。


 ストラは、通りのショーウインドウに自分の姿を写してみた。

 服装こそ黒のフロックコートという、この時代に則したものだが、容姿は、ニューヨークの頃とあまり変わっているようには見えない。彼は安心するような、物足りないような、複雑な心境になった。

 秋のロンドンの空は、晴天であるにもかかわらず、どことなく薄暗く、どんよりと曇って陰鬱な感じがした。

 だが、いたる所で落とされている馬糞を踏みそうになるから、空ばかり見ているわけにもいかない。

 歩道には、着飾った男や女が歩いているかと思うと、おそらく何日も風呂に入っていないであろう汚れた顔をした浮浪者が、靴を磨かせてくれないかと後をつけてくる。


 ロンドンの街も、ニューヨークと同じで、大都市の光と影の面を持っていた。

「晴れているのに、なぜ空が曇っているように見えるんだ」

 ストラはイシュカに尋ねてみた。

「霧のせいよ、と言いたいけれど、実は、ロンドンは、家庭や工場で使われる石炭のために晴れない黒煙にいつも覆われているの。冬になると霧と黒煙で、十フィート先も見えないくらいよ」

 彼女は、歩いて十分程度の距離と言ったが、実際は二十分以上かかった。

 ストラが好奇心から、すぐに立ち止まるのと、ワムスの歩く速さが遅いためだった。

「ついたわ」

 イシュカの住まい、典型的な中産階級のアパートだった。

 一階のドアを開けて階段で二階に上り、さらに突き当たりのドアを開けると、居間が現れる。

「どうかお座りください」

 イシュカは、二人に椅子を勧めると、奥の扉を開けて出てきたメイドに、コーヒーを持ってくるように言った。

珈琲(コーヒー)で良いですね。この国では、陽の高いあいだから、お酒を飲む習慣はありませんから」

 飲酒癖を皮肉られて、ストラは言い返す。

「英国人は、紅茶ばっかり、がぶ飲みするんじゃなかったのか?」

「私たちは、珈琲(コーヒー)も紅茶も飲みます」

 肩をすくめてワムスが言う。

「帝国主義的なやり方だな。植民地から来るものなら何でもありがたがる」

 だが、皮肉な言葉も、女性となったワムスの口から発せられると迫力がない。

「母が挨拶できれば良いのですが、最近はすっかり体が弱って、今日は、ご挨拶を遠慮させていただくとのことです」

 ストラは頷いた。


「さあ、話してくれ」

 飲み物が運ばれると、ストラは切り出した。

「訳がわからないことは、もうたくさんだ」

「分かりました」

 イシュカは、窓際のソファに座ると話し出した。

「事の経緯をお話するためには、まず、私の母の事から話さなければなりません。

 私の母の職業は霊媒師でした」

「霊媒師?霊媒師って、あの世とこの世を取り持つあれか。エジソンが晩年凝っていた」

 ストラがつぶやく。

「そうです。エジソンと言う人は知りませんが」

 ワムスが我が意を得たり、という顔で頷いた。

「そうだな、1880年と言えば、コナン・ドイルがまだシャーロック・ホームズを書かずに、貧乏のどん底の生活をしていた頃だ。まだ英国でエジソンは有名じゃない」


 もとのワムス、今は、浅黒く美しい婦人が、男言葉で乱暴に話すのを聞くのは奇妙な感じだった。

 ストラが話をうけて言う。

「ドイルも晩年、心霊を信じていたがな……続けてくれ」


 イシュカは語った。


 彼女は、1862年にロンドンで生まれた。

 彼女が生まれた時、母親は、産業革命が成し遂げられたロンドンで、急速に必要になった労働力、つまり紡績の女工として働いていた。

 鉄道技師をしていた父親は、彼女が生まれる直前に、列車事故で亡くなった。

 イシュカが生まれてしばらくすると、母親は、幻聴と幻覚に悩まされるようになった。 彼女の幻聴と幻覚には、いろいろなものが含まれていたが、決まって見るのは、見たことも無いアジアの街と、自分たちの街に似ているが、もう少し科学の進んだ都市の二つであった。

「つまり俺たちのニューヨークと……」

しがらみ重蔵のいる一七八二年の京都です」

 イシュカの母も、初めのうちは、何とか幻覚を治そうとした。医者に診てもらうと、出産と育児の過労によるヒステリー症状だと言われるだけで、治療の方法は無かった。

 そのうち、彼女は、幻覚があまりに現実的であるため、やがてその世界は、どこかに実在している、ということを確信するようになった。

 もともと感受性の強い女性であったが、幻覚を見るようになってからは、加速度的に霊感は鋭くなり、イシュカが五歳になるころには、死後数日間なら、死者の魂を宿して、生きている家族と話をさせることができるようになった。

 噂を聞いて訪れる人の列が家の前にできるようになると、彼女は工場を辞め、専業の霊媒師として生活を始めた。

 訪れる人々に、貧富の区別無く応じているうちに、彼女の生活は裕福になっていった。

 母は、元来、あまり教養があるとはいえない女性であったが、自分が幻覚で見る世界を他人に理解してもらおうと、余った金と時間で教師を雇い、様々な知識を得ることに心血をそそぐようになった。

 そのことは、結果的に、娘のイシュカに、当時の女性の水準では考えられないほど色々な教育を与えることになった。

 イシュカは、母から良く二つの世界の話を聞いていた。

 刀、サムライ、探偵、自動車、飛行機、電話。自分の世界にはないものに慣れ親しんで、彼女は育ったのだった。。

 そのうち、イシュカも他の二つの世界の存在を確信するようになり、いつかは、この十九世紀のロンドンとは違う世界を訪ねてみたいと思うようになった。

 そんな時、母が一つの悪夢に苦しめられるようになった。

「どんな悪夢なの」と問う彼女に、母は、

「『(ドラゴン)』がくる」

と言った。

「『龍』が世界をめちゃくちゃにして、なにもかも破壊してしまう。それを防ぐために、バクスターを探しなさい。この世界だけでなく、後の二つの世界も含めて」

 ワムスが口をはさむ。

「バクスターってどんな奴なんだ?俺が知っているバクスターは、出世のために上司にアパートの鍵を貸す、C.C.バクスターだけだ」

「バクスターは、『龍』を退治できる、ただ一人の人物らしいのです」

「『龍』って、あの中華街で、爆竹を鳴らしながら舞い踊るあれか」

 ワムスが尋ねる。

「いいえ、あんなものじゃないわ。もっと恐ろしく、途方もない力を持っている怪物よ」「いったいどんな力だ」

 ストラの問いに、イシュカは、ぶるっと肩を振るわせて言った。

「三つの世界を混ぜ合わせる力……」

「なんだって」

「今、少しずつだけど、世界が混ざりだしているの」

「混ざる……」

「そう、あなたのこの世界と、私の世界と、しがらみ 重蔵の世界」

「だが、そいつはなんだかおかしいな。俺たちのニューヨークと、このロンドン、そして重蔵の日本は、時代こそ違え、同じ地球上の場所だ。それが、どうやって混ざるんだ?」

「混ざるという言い方が本当に正しいかどうかはわからないわ。

 それに、三つの空間が完全に混じり合った場所は、何も存在しない空間になっているの。私たちは、そこをケイオス空間と呼んでます。『龍』はその中を飛び回っているのです。そして、龍が飛び回るたびに、ケイオス空間は少しずつ拡大しています。ケイオス空間の周りは、絵の具がにじみ始めているように、それぞれ二つの世界の境界が接していて、そこに、世界を行き来する通路ができるのです。さっき通った通路もその一つです」

「君は、今までに、何度ニューヨークに行った」

「5回くらいかしら。子供の頃から話には聞いていたけれど、いいところね、ニューヨークは。あの活気ある世界は、行くたびに、何かしら新しい印象を与えてくれるわ。この件が片づいたら、ぜひ、他の場所も回ってみたい」

 夢見るように言った後、口調を変えて、

「私は、行くたびに、いろいろな方法でバクスターを探そうとしたのですが、効果がありませんでした。そこで、今回、初めて警察や私立探偵を雇うことにして、ロンドンの弁護士に依頼して、バクスターの資料を適当に用意させたのです。あまり、漠然とした依頼だと、受け付けてもらえないと思ったものですから」

「すると、写真も偽物?」

「いいえ、写真だけは本物です。母が念写したものですから」

「そうか」

 しばしの沈黙が訪れた。

 イシュカは珈琲コーヒーを飲み、異世界から来た二人は、今、手にした知識を、なんとか消化しようとしていた。

 やがて、ストラは、珈琲コーヒーを一口すすって言った。

「そのケイオス空間というのは、君の話だと三つの世界に共通に存在するようだ。

 だが、俺たちの世界では、そんな空間や龍を誰も見た事がない。これは、一体どういうことなんだ」

 イシュカは、飲んでいたコーヒーカップから口を離し、答えた。

「ケイオス空間は、3つの世界で存在する場所が違うのです。あなた方の世界では、ニューヨークの地下3マイル(約5キロ)にあります」

 ストラは、あやうくカップを落としそうになった。

「すると、最近の地震はそのためなのか?」

「そうでしょう」

「ということは、放っておくと、マンハッタン島そのものが、ある日、地下に陥没するということもあり得るな」

 そう言って、ワムスは腕を組んだが、豊かな自分の胸の感触に驚いて、慌てて腕組みを解いた。

「そして、私たちの世界では、ケイオス空間は、ロンドン上空10マイル(約16キロ)にあるのです」

「あのロンドンの空……」

「そう、本当は、霧と黒煙だけが原因で、あんな空の色になっているわけではないのです。まだ、ほとんどの人が気づいてはいませんが」

しがらみ 重蔵の世界では、どこにあるんだ」

 重蔵の名を聞いて、イシュカは表情を曇らせた。

「実は、彼の世界がケイオスの一番深刻な影響を受けているのです」

「というと」

「日本では、地上すれすれにケイオス空間ができてしまったのです」

「すれすれ……。今、ケイオス空間の大きさはどのくらいだ」

「直径1.25マイル(二キロ)あまり」

「すると、重蔵の世界では、ケイオス空間は人の目に見える訳か?」

「それだけでなく、紫色の空間を飛び回る龍も見えています。

 人々は、終末が近づいたと奇怪な宗教にのめり込んだり、あるいは異常な散財をして破産したり、略奪行為をしたりする者も少なくありません。それに、ケイオス空間の周辺にいると、空間が拡大した時に、巻き込まれて犠牲になる人たちもいるのです」

 続けてストラは尋ねた。

「奴は、君を妹の敵と言っていたが、あれはどういうことだ」

「それは、私が初めて京都に転移した時の事件が原因なのです」

 イシュカは、突然、悪寒に襲われたように、ぶるっと肩をふるわせた。

「あの時、私は初めて『龍』に遭遇したのです」


「君は『龍』を実際に見たのか?」

「二つの世界の接点、私はホワイト・ポータル呼んでいますが、それを越えて京都の街に入ったとたん、私は、異様な雰囲気を感じ取りました。

 何度か違う世界を行き来していると、異世界に入った途端に、雰囲気が変わるのがわかるようになります。

 しかし、その時感じた空気は、今までに感じたことの無いほど不気味なものでした。

 言葉で表すことは難しいけれど、今思うと、あれは『死の匂い』が充満した空気だったのでしょう。

 地面に降り立った途端、風が渦巻き、空には稲妻が縦横無尽に走り回っているのが見えました。

 空の色は不気味な黒紫色です。

 しばらくすると、風は突然止んで静かになりました。

 見回すと、周りの木々は根こそぎ倒れ、半マイル向こうには巨大な窪みが穿たれています。

 その窪みの縁に、若い女性が倒れているのが見えました。

 頭から血を流しています。

 急いで走り寄って抱き起こすと、その女性は、『だめ、来ないで』と言って、身をよじって私から逃れようとしました。

 慌てて追いかけているうちに、いつの間にか、私は大勢の男たちに取り囲まれていたのです。

 その中のひとり、おそらくはリーダーと見られる男が進み出て、女性を抱き上げました。

『アズサ、一体誰がこんな目に?』

 すると、女性は、私を指さして、

『この女が不思議な術を使って』

 そう言うなり意識を失ってしまったのです。

 私は、誤解を解こうとしましたが、男には通じません」


「そいつが、しがらみ 重蔵だな」

 イシュカは、拳を強く握りしめていた。

「私は、必死に、事実を伝えようとしました。

 だけど、彼は、私の言うことを信じなかった。私こそが、妹に意識不明の重傷を負わせた張本人だと思い込んでいるのです」

「なるほどな」

「彼らは、執拗に私を追いましたが、私は、何とか逃れることができました。

 当時、まだ日本では、私の魔法の力は弱かったので、かなり苦労しましたが」

「ところで、重蔵の本当の姿はどんなふうだ?」

 思いついたようにストラは尋ねた。

「どういう事ですか?」

「ワムスが女になったように、奴も、向こうでは俺たちが見たのと違う姿をしているのだろう?」

「いいえ、今、気がつきましたが、重蔵は元のままの姿です。何も変わっていません」

 ストラは、考え事をするように、こめかみをさすりながら尋ねた。

「イシュカ、他の世界に自分たちの道具は持って来られるのか?」

「道具は無理です。ただ自分の意識だけがよその世界に転移して、その意識にあった容姿と服装が実体化するのですから。あなた方も、転移した時にこの世界の服を着ておられたでしょう。どういう仕組みになっているかは、わかりませんが」

「意識の実体化……。すると俺の意識は女なのか。そんな」

 呆然とワムスがつぶやく。

「すると、パークで見たしがらみ 重蔵も、向こうの姿と同じなのか」

 しばらくしてストラが言った。

「奴らは、何か独特の方法を持っているのかも知れない。そう考えなければ、奴らが自分自身の武器を持っている理由が分からない。いずれ、奴とは決着とつけないといけない。その時に真実が分かるだろう」

「他にご質問はありませんか?」

 イシュカの問いに、ストラとワムスは顔を見合わせ、頷いた。

「今のところは、これで結構だ」

「よろしいですか。では、今度は、私の方から、あなた方に質問をさせてください」

「ああ」

「まず、あなたは、いつから術を使えるようになったのですか」

「1年前からだ」

「ノートンが死んでからだな」

 ワムスが尋ねた。

「そうだ」

「もっと詳しく教えてください」

「ある古本屋で本を買ったんだ。題名は『カトマイ』だった。で、その本に書かれたことを実行すると、いろいろな術が使えるようになったのさ」

「カトマイ……」

 イシュカは、部屋の隅の机に近づき、そこに置いてある、分厚く古い本を手にして戻った。表紙に「カトマイ」とある。

「これですか」

 しばらく、その本に眼を通したストラは、

「クリックというのが分からないが、それ以外はだいたい、この本に書かれた内容と同じだな」

「すると、その本を読んで同じようにすれば、俺も魔術が使えるようになるのか?」

 ワムスが期待を込めてそう言った。

「残念ですが、そうなるとは限りません。呪文を使うには適性が必要なのです」

「が、可能性はあるな。俺もぜひ後で試してみよう」

「ところで」

 ストラが口を開いた。

「君はどうやって、その本を手に入れたんだ?」

「この家は家具や蔵書ごと買い取ったのですが、これはその蔵書の中にあったのです。

 本の整理をしている時に私が見つけました」

「誰の家だった?」

「前の持ち主は、前インド提督ハドリー卿のご子息という高い家柄の方だったのですが、相続税を払いきれずに、手持ちの屋敷や部屋を売りに出されたのです」

「なるほどな」

 その言葉を待っていたように、ワムスが口を挟んできた。

「話は終わったか?だったら、魔法の話を教えてくれ。簡単に頼むぞ」

「わかりました。まず、私から話します。それで、もし足りないところがありましたら、補足してください。いいですか、ストラさん」


 ストラが頷くと、イシュカは話し始めた。


「カトマイ」

 その書は説く。

 この世の中のすべてのものには、二つ名前がある。一つ目は、人間が個人を識別するために使う使う名前。もう一つは、命令名コマンド・ネームだ。

 これこそが、真の名前、ものの本質名といっても良い。

 もし命令名を知れば、森羅万象、すべてのことを意のままに操ることができるのだ。

 逆に、もし本名をもし知られれば、その者は、他人の思いのままに操られることになる。

 それゆえ、人は、まず、いかにして本名を隠すかを覚えなければならない。

 また、それに付随して、この世界には、あらかじめ世界に組み込まれる形で、さまざまな命令名が撒かれている。

 これを基本命令と呼ぶが、重要な基本命令を以下に列挙する

 まず「移動命令」これは生物、非生物に関わらず可能実行可能である。ある物体を瞬時に、移動することができる。

 次に「複製命令」これは非生物のみ可。物質を複数する。

「そいつはいいな」

 話を遮ってワムスが言った。

「それを使えば、いくらでも金を作れる。何百万ドルでも」

「ああ、ナンバーが、全部同じ札が、何百万枚も手に入るな」

「あ、それはいかんな」

「まあ、札束でなくてもいい。金塊なら問題はないからな」

 大きな瞳をつり上げるようにして、ワムス尋ねた。その仕草が、結構艶っぽい。

「じゃ、なぜ、お前はそうしなかったんだ。しけた探偵稼業なんかやめて」

「さあな」

 ストラは肩をすくめて言う。

「ただ、金は楽をしてもうけるもんじゃない。そうだろう」

「お前なら、そう言うだろうな。続けてくれ」

 イシュカは説明を再開した。

「カトマイ」はこう続ける。

 命令名を用いた命令の実行には、いくつかの制約が存在する。

 非生命体に、生命を吹き込むことはできない。

 故に、死者を生き返らせることはできない。

 また、名前の後ろに、区切り言葉で区切って、特殊化の呪文をつければ、さらに複雑な命令を与える事ができる。

 しびれを切らして、ワムスが尋ねた。

「漠然としすぎてるな。具体的に、あの稲妻を発生させるのはどうすればいいんだ」

「あれは、それほど難しくない。うまく対象物を選んで、基本命令を使えばいいんだ。まず、空中の電荷を複製で増加させ、対象物の電位を下げてやる。それだけで、高い電位から低い電位に高電圧が流れるのさ」

「突然、体から火が吹き出るのは?」

「綿や化繊といった、相手の衣服の素材の命令名を使って、分子振動をあげてやるのさ」「随分、科学的なんだな」

 ワムスが関心したように言った。

「いや、それほど科学的じゃない。ある文法にしたがってコマンドを組み立てるだけだ。一度、パターンを覚えると、思ったより簡単に使えるのさ」


「ストラさんは、そうおっしゃられますが、ただコマンドを使える、というのと、そのコマンドを、とっさの戦いの時に使いこなせるというのは、まるで違うことなのです。

 静かな場所で、精神を集中させて、ただコマンドを使うのでさえ才能が必要なのです。

 まして、それを戦いの場で使える人は、ほとんどいないはずです。

 だから、ストラさんやしがらみ 重蔵は特別な人間なのです」


「精神を集中させれば、その『コマンド』ってやつは使えるのか」

「適性があれば、ですが」

「そうだったのか。俺は、最初から使えたが」

 ストラは驚いていた。

「そんな人は、ほとんどいません」

「そう言われてみると、重蔵一味も、重蔵以外は誰も術を使わなかった」

「なあ、ストラ。俺の見るところ、お前の使う魔法とイシュカの使う魔法は違うような気がするんだが」

「ええ、確かにそうです。私の魔法もは、基本的にはストラさんと同じなのですが、このロンドンでは、命令を口に出して言うより、命令を与えたい対象の各部位を素早く二回叩く事で、命令を実行する技が有効なのです」

「命令の対象を叩く?」

「そう、素早く二回叩くのです。

 あらゆるものには、命令に応じた叩く場所があって、その部分を素早くタップすることでコマンドを発するより簡単に術を使えるのです。

 これは、どうも、魔法としては呪文魔法より後期のものらしいのです。

 他の世界では、基本的に私の魔法は使えません。ですが、さっき重蔵に襲われた時には、あなた方の世界でも使えましたね」

「基本的に、世界によって、使える魔法が異なるのか」

 ワムスがつぶやい。

「今まではそうでした。でも、『龍』による世界の融合が進んで、違う世界でも魔法が使えるようになって来ているのです。だから、私はあなたに尋ねられた時、魔法が使えることが恐ろしいと言ったのです」

「すると、重蔵の操る『言霊(ことだま)』もコマンドと同じと考えていいのだろうか?」

 ストラが言った。

「おそらく」

「だが、奴は、一八世紀の知識の人間だぞ。どうして、あれほどの術が使える?その頃の科学はそんなに進んでいたのか」

「それは分かりません」

「あるいは、奴は、ただ『コマンド』を丸暗記して使っているだけなのかも知れない」

「いいえ、コマンドの実行は、そんなに単純じゃないわ。さっきも言ったように、状況に応じて、細かく使い分けなければならないです」

 珈琲コーヒーを飲み干すと、ストラは立ち上がった。

「どうやら、あいつは何か我々の知らない秘密を知っているらしい。今度は、こちらからあいつに会いに出かけなければならないようだ」

 思いついて続ける。

「それに、この間、奴は、バクスターを探すのは無駄だ、と言っていたしな」

 カップをテーブルに置くと、ストラは言った。

「重蔵のいる日本に行ってみるか?」

「そうしましょう」

 そう言って、ストラとイシュカは、ドアに向かって歩き出した。

 あわてて、娘の背に向かってワムスが言う。

「おい。出かける前に、俺に男物の服を貸してくれないか」

「この時代に女性が男性の服を着て歩くことはありませんわ。女性用の乗馬服ならありますけど」

「だったら、それを貸してくれ」

「でも、あなたのような美しい女性が、場違いな乗馬服を着てロンドンの街を歩くと、目立ち過ぎますわよ」


 それを聞いて、ストラは改めて女性化したワムスを見た。

 ブルネットの髪に漆黒の瞳、美しい鼻筋と情熱的な唇。浅黒い肌。そして、古風なドレスが隠そうとしても隠せない美しい体のライン……

「君はそのままでいろ」

「おい、人ごとだと思って!」

 ストラは、泣き言を言い出すワムスに取り合わず言った。

「ただし、言葉使いは直せよ」

 イシュカがそれに続ける。

「それと、歩く時は外股にならずに、一本の線を歩くような感じで背筋を伸ばしてね」

「そんな意識した歩き方なんて、生まれてからしたことがない。まあ、わかった。努力してみよう」

 肩を落としたワムスは、小さい声でストラに言った。

「だが、一つ問題がある」

「何だ」

「トイレに行きたくなったら……どうする」


「重蔵の世界との接点は、船着き場なんだな」

 口笛を鳴らしてハンサムと呼ばれる二輪馬車を停めたストラは、イシュカが御者に告げた行き先を聞いてそう言った。

「ええ、なぜかは分からないけれど、どこの世界でも電話局や、郵便局や船着き場の近くにポータルはあるの」

 走り出す馬車の揺れに体を預けながら、イシュカは答えた。

「重蔵の世界でも?」

「あの世界では、飛脚と呼ばれている原始的な郵送手段の中継所の近くだったわ」

「ヒキャクってなんだ」

「確か、手紙を持って何十マイルも走る郵便屋のことだったな」

「人間が足で走るのか。車は無理でも、どうして馬を使わないんだ」

「馬も使ったらしいが、人が走る方が多かったらしい。それに重蔵の顔を見ただろう。なんだか知らんが、世の中の苦労を一人で背負い込んでますっていう顔をしている。どうも日本人というやつは、楽しむより、苦労する方を好む人種らしいな」

「お前は日本のことを、よく知っているじゃないか。戦争で行ったことがあるのか」

 ワムスの言う戦争とは、もちろん第二次世界大戦のことだ。

「いや、ノートンにせがまれてメーシーの日本展に行った事があるのさ」

 馬車が左右にしなりながら停まった。

「着いたわ」

 ハンサムを降りると、水の匂いが鼻についた。

 ハドソン川の河畔には、黒塗りの船が数隻、並んで停められ、その向かいには、船の荷物を一時預けておくための倉庫が数多く立ち並んでいる。

 水夫と思しき男たちが、急がしそうに行き来し、その頭上を、巨大な木箱が滑車を使って持ち上げられ、接岸された船に積み込まれている。


「こちらへ」

 イシュカに案内されるままに岸壁を進み、壁に「シリアル製粉所」と書かれた倉庫の前で三人は立ち止まった。

「この場所も全部、君のお母さんが教えてくれたのか」

 荷運び用の大きなスライドドアの横にある、小さな扉を開けながら、イシュカは答えた。

「そうです」

 倉庫の中に人気はなく、しばらく使われていないようだった。

「こちらです」

 娘の後をついて、さらに進むと倉庫の奥に小さな扉があった。

「これが京都に続くホワイト・ポータルです。今、通路を開けますから」

 前回と同様、イシュカが扉に掌をあて呪文を唱えると扉が輝きだした。


 今回の転移は、2回目だけに、そう長くは感じなかった。

 気がつくと、ストラは、粗末な小屋の中に立っていた。窓の無い部屋であったが、いい加減な造りのせいか、板張りの壁の隙間から光がもれていて暗くはない。

「着いたようだな」

 言ってみて、自分の声が低く変わっているのに驚く。どうやら、また容姿が変わったらしい。

「今度は男だな」

 大きな声に振り返ると、男が風雨にさらされて色あせた僧衣を来て立っていた。天井に頭がつきそうだ。

「お前、ワムスか」

「そうだ」

「元の大きさに戻っているぞ」

 その時、突然、小屋全体がぐらぐらと揺れだした。

「外へ脱出するんだ」

 扉を開けて外へ飛び出すと、横殴りの風が頬と叩いた。

 前へ進もうとしても、なかなか進まない。

 風にとばされそうになる。

 あたりを見回した時に、異様なものが目についた。

 1マイルほど先の地面から、黒く細長いひものようなものが空に伸び、徐々に広がってジョウゴのような形を成しているのだ。

 最上部は霞んで見えない。

 その、地面の上のヒモ状のものが、めまぐるしく回転運動をしながら地表のものを吸い上げている。

 竜巻だ。

 ニューヨーク育ちのストラでも、竜巻の恐ろしさぐらいは知っている。

 このままでは、ドロシーとトトのように、家ごと空に吸い上げられてしまうだろう。

 逃げようにも、竜巻の先端部は目前に迫っていて、走って逃げられそうにない。


 覚悟を決めたストラは、地面に掌を当てると呪文を唱えた。

 たちまち地面が盛り上がって、巨大な植物の根が飛び出し、再び地面に突き刺さり始める。

 幾度と無くそれが繰り返される、巨大な木の根のドームがストラたちを覆い隠した。

 やがて、あたりが轟音に包まれた。木の壁に、激しく風や石がぶつかる音がする。

 風の音は、しばらく続いたが、やがて小さくなり消えて行った。


「行ったみたいね」

「即席のシェルターだが、なんとか、もってくれたようだ。だが、どうして竜巻なんか発生したんだろう」

「たぶん、ケイオス空間が広がった時に周辺の空気が消滅して、空気が急に吸い込まれたせいでしょう」


 ワムスと共に、イシュカの姿も変わっていた。

 そして、今度のイシュカも美しかった。

 髪は短く束ねられ、手足をべにの手甲、脚絆でかため、えんじ色の塗り笠と小振りな杖を手に持っている。

 大きく、つり上がりぎみの目は、気の強さを示して話すにつれて煌めいていた。

 ストラは、ざっと自分の服装調べてみた。

 どうやら、彼は、旅装の侍として、この世界に転移されたらしい。

 今、彼は、卯の花色の地の袖無し羽織を着て、呂鞘には蛇皮をまいた無反りの大小を腰にさしていた。

 刀の位置を整えた後、壁に手を当て、呪文を唱えると木のドームはかき消すように無くなった。

 辺りを見渡すと、先ほど出てきた小屋は土台だけ残してなくなり、近くの森の木も半数以上が根こそぎ持っていかれ、残りもほとんどが倒されている。

「おい、小屋が無くなったぜ。帰りはどうするんだ」

 ワムスが心配そうな声を出した。

「大丈夫です。あの土台の扉があったところに、木を立てかければそれがホワイト・ポータルになりますから」


「見ろ、ストラ」

 ワムスが叫んだ。

 大男の節くれ立った指が指し示す先に目をやると、そこには闇が広がっていた。

 頭上にある太陽の位置から考えて、まだ時刻は昼ごろのはずだったが、地平線の一角から盛り上がった漆黒のベールは、円弧を描きながら反対の地平線に落ち、およそ空の五分の一までが黒く塗りつぶされている。

「あれがケイオス空間か……」

 ストラがそうつぶやくのを聞きながら、ワムスは全身に鳥肌が立つのを感じた。体格に恵まれた彼は、今までに、めったに精神的な恐怖を感じた事は無い。

 だが、今、彼は心底恐怖を感じていた。ここから見ただけでも、黒い何かがそこにあるのでは無くて、何も無いが故に黒くなっている、というのが分かるのだ。


「さて、これからどうする」

 ワムスと同じ感想をもったのかどうか、落ち着いた口調でストラが言った。

「近くの宿場町に行けば、宿もあるし情報も仕入れられるでしょう」

「見知った場所か」

「ええ、なじみのお店も何軒かあります」

 頷くと、彼はイシュカを促して歩き始めた。

 荒れ野をしばらく歩くと、野良道にあたった。

 道に沿って、さらに二十分ほど歩くと大きな街道筋にでる。

 そこは、様々な格好をした旅人が往来していた。

 振り返って見ると、あれほど巨大で恐怖を感じさせた黒い半球は、今越えて来た丘の向こうに、小さい黒い固まりとなって見えているだけだった。

「このあたりの者は、世界の異常を恐れていないようだ」

 人々の表情の明るさに、ストラは驚く。

「天変地異が起こっても、それを恐れる人と、慣れてしまう人の二通りがあるようです」

 手にした杖に結んだ鈴を、小さく、ちりちりと鳴らして歩きながらイシュカが言う。

「このように、平気で往来を歩いている人たちもいれば、ひとところに集まって、恐ろしさに震えて、信仰にすがろうとしている人もいるのです」

「マンハッタンでもそうだった……。それにしても」

 あらためて、旅装束の娘を見遣りながら、

「この世界に来てからというもの、君の話しぶりも、だんだん時代がかったものになってきたな」

「あなたも同じような話し方ができるはずです。げんに、今、あなたはこの国の言葉を苦もなく話しておられるでしょう。できるなら、この世界の話し方に慣れられた方が良いと思いますよ」

「心がけよう。多分できるはずだ。日本に転移した時に、こまかな記憶が頭のなかに植え付けられたらしいからな。しかし、覚えたことのない記憶が頭の中からわき出てくるのは、実に奇妙な感じだ」

「もうすぐ、山羽の宿と呼ばれる宿場町に着きます。その前に、この世界での名前を決めておいた方が良いと思います」

「そうだな。しかし、日本人の名前なんて、急に言われても思いつかない」

「俺もだ」

「それでは、私に決めさせてくださいな」

 イシュカは、左手の指を顎に当てて、しばらく考えていたが、

「では、ストラさんは坂本龍馬、ワムスさんは西郷吉之助と呼びます。どちらも、日本史では有名ですけど、この時代の人はまだその名前を知らないはずだから」

「いいよ。どんな名前でもこだわらない」

「そうだな。それでいい」

 しばらくすると、道の通りに餅や茶を供する露天が立ち初め、すぐに建物が、かたまって建っているのが見えてきた。

「山羽の宿です。そのまま私と一緒に歩いて下さい」

 宿場町に入ってしばらく通りを行くと、軒先に笠が掛けてある、大きな建物が見えてきた。

 「はたご」とひらがなで書いてある。

 建物の前まで来ると、イシュカが振り返った。

「これから旅籠に入りますが、みなさんは勝手がおわかりで無いでしょうから、とにかく私のする通りにしてください」

 そう言い残し、旅籠の暖簾をくぐっていった。ストラたちも後に続く。

「ごめんください」

「はい」

 呼びかけに応えて出てきた男は、イシュカの姿を見ると、丁寧に腰を折り、

「これはお雪さん、お久しぶりですね」

と言った。お雪というのが、ここでの彼女の名前らしい。

「また、お世話になりますよ。こちらは私の連れで、坂本竜馬様と西郷吉之助様」

「わかりました。おい、おその、お三人に、お水をお持ちして」

 はいと応えて、奥から娘が一人、手桶に水を満たして持ってきた。

 慣れた手つきで、イシュカが足を洗い始めると、ストラとワムスもそれに習おうとした。

「あ、お武家さま、私がやりますから」

 おそのと呼ばれた娘があわてて、桶からストラの足を持ち上げ、まめまめしく洗い始める。

「どうやら、この宿は、殿方の足はお女中が洗うのが売り物だったようです」

 ワムスが、同様に足を洗われている時に、イシュカがストラに小声で耳打ちした。

「女性はどうするんだ」

 ストラも小声で聞き返す。

「もちろん、自分で洗うのです」

「その不公平さが、よくわからんな」

「まあ、そういうしきたりなのでしょう」

 部屋割りは、ストラとワムスが相部屋で、イシュカは別部屋となった。

 通された部屋で、旅装を解いていると、イシュカがふすまを開けて部屋に入ってきた。

「さて、どうやって、重蔵と接触するかだが」

「実は、もう、さっきから俺たちの後をつけている奴がいた」

 ワムスが言った。

「だろうな。ここらへんは、奴のテリトリーだ。」

「そうだとすると、気を緩めずに相手の出方を待つとしよう。ところで、イシュカ」

「お雪とお呼びくださいませ、竜馬さま。この世界で、その名はおかしく聞こえます」

「では、お雪。おまえは、ここの支払いをどうしたんだ」

「それは……」

 イシュカは言い渋った。

「それに、俺へ支払った千ドルも。まさか、偽金(にせがね)を作ったんじゃないだろうな」

「いいえ」

「俺たちの魔法は異常な力だ。だから、なるべく他の人に影響を与えないように使わなければならない、と俺は考えている」

「わかりました。本当の事をいいます。実をいうと、銀を作ったんです」

「銀?」

「この時代は、銀の切り売りで支払いできるんです。だから、空気中の元素を集めて変換し、銀を作ってそれで支払いを済ませたのです」

「なるほど、その手があったか。それで俺への支払いは?」

「あれは、ダイヤモンドを作って宝石店で売った代金です」

「ふむ、まあ、それならいいだろう」

「お堅い奴だな、お前は」

 あきれたようにワムスが言った。

「何でもできるから、やってはならない事をはっきりと理解しておかなければならないんだ。こんなことは、警官のお前が、先に気にするべきことだろう」

「『元』警官さ。今の俺は、ただの西郷吉之助。何者かは知らんがな」


 翌日、早立ちをした三人は、嵐山を回って、昼過ぎに京の街に入った。

 これも、イシュカのなじみの、但見屋という旅籠に泊まる。


 次の日から、重蔵の接触を待ちつつ、ストラとワムスは京の街をそぞろ歩いた。


 ある日は、糾の森から、深泥が池、はては叡山の麓まで山行をした。

 また、ある日は、加茂川で針の無い釣り糸を垂れて道行く人と話をした。

 時には、そのまま意気投合して、家まで押しかけ、騒いだあげく、女房から茶漬けを出されたこともある。


 そうして、二人は、京の茶漬けの意味を知ったのだった。


 イシュカは密かに何事かを探索している様子であったが、尋ねても何も言わなかった。 そうして、一週間が過ぎようとしていた。


 その夜、ストラとワムスは三条大路を右に折れ、西大宮大路を南下しつつ、但見屋に帰ろうとしていた。

「いや、今日は酔うた」

「まこと、この地の酒は極上、極上」

 二人とも、すっかり言葉がこの時代のものになっている。

「おれは、酒に酔うたのではないぞ。ここの人に酔うておるのだ」

「京の人間は、冷たいとよく言われるそうだが」

「なんの、この街で冷たいと言うのなら、マンハッタンやロンドンの人間はどうなる」 「そうだ!」

「そんなこと言う奴は、一度ブルックリンに来てみろってんだ!」

 人の気配が取り囲むのを感じて、二人は黙り込んだ。

 抜刀した男たちが闇の中から現れ、二人を取り囲む輪を作った。

 ニューヨークで襲ってきた連中だ。

 淳和(じゅんな)院の横門が二人の背後、すぐ近くに見えているが、この時間、門はすでに閉められているから逃げ道にはならない。

「待っていました、と言いたいところだが、せっかくいい気分でそぞろ歩いていたところを邪魔しおって」

 ワムスが同意する。

「まったくだ」

「酔っているのか」

 低い声がした。

 背の高い影が、輪を分けて現れた。

 しがらみ 重蔵の姿を見て、二人の酔いはすっと抜ける。

 もともと、アルコール度数の低い日本酒は、ジンとバーボンに馴染んだ体にはこたえないのだ。

「酔ってなどおらぬさ」

「この世界での姿はそれか……お互い、まだ名乗っていなかったな」

 冷たい眼で男は言う。

「俺の名はしがらみ 重蔵」

「俺の名は、ここでは坂本龍馬だ」

「りょうま?聞かぬ名だ」

 重蔵はゆっくりと抜刀した。青眼に構える。

「抜け」

 ストラは抜かない。

 いや、正確に言うと抜けないのだ。

 剣術の勝負で、アメリカ育ちの彼が、剣技の権化である重蔵に勝てるはずがなかった。

「今日は、術くらべは無しか」

 刀の柄に手もかけず、そう尋ねる。

「さきの勝負で、術の腕は互角だったからな。今度は剣の腕で勝負するさ。さあ、(いさぎよ)く我が水走一文字(みずはいいちもんじ)の露と散るがよい」

 卑怯、とストラは思わなかった。

 重蔵は本気だ。

 いかなる方法を用いても、ストラを(ほうむ)り、イシュカを手中に収めるつもりなのだ。

 相当な手練れでありながら、いつも部下を連れて攻撃を加えてくるのは、その考え方の現れだ。

 この国で、アメリカ流のフェア・プレイを説いても仕方がない。

 それならば……ストラは、すぐ横に垂れ下がる松の木を手折り、呪文を口中で念じた。

 何も起こらない

「やれやれ」

 あきらめて、刀の鯉口(こいぐち)を切る。

 それは、この世界に来た時に手にしていた刀ではなく、青江恒次(かねつぐ)の作とされる業物(わざもの)であった。

 数日前にイシュカが手に入れ、渡してくれたものだ。

「こんなものは必要ない」

 しぶるストラに、

「でも、重蔵の部下に襲われた時に必要よ。今の刀だと、あなたには短かすぎるでしょう。どんな刃物でも良く切れる方が安全なのよ」

 確かに、今までの刀は、一般人より耳から上だけ背が高いストラには少し短かった。

 常人には長すぎる、二尺八寸の業物は、長さも重さもちょうど手にしっくりと馴染み心地よかった。

「やるか」

 ゆるりと刀を抜いた。

 地肌が青く、にえがつよい古今の名刀は、ストラの手もとで、ぎらりと光を放った。

 構えると自然に平星眼(ひらせいがん)になる。

 もちろん、剣術の極意などわからないから、唯一精通する格闘技のボクシングを応用する。

 足を前後して立ち、体重を前3、後ろ7に配分する。


 次いで、呼吸を整え、体をリラックスさせて、反射神経を最大限に研ぎ澄まし、相手の出方を待った。


 無言の気合いを発して、重蔵が飛んだ。

 間合いを一気に縮めると、袈裟懸けに斬りおろしてくる。

 凄まじい速さであった。

 ストラの命がかろうじて助かったのは、刀身の二尺八寸という長さと、彼の膂力(りょりょく)の強さのおかげだった。


 刃の流れる蒼光に、反射的に持ち上げた恒次(かねつぐ)裏鎬うらしのぎで、水走一文字が弾かれる。


 重蔵が、崩れた体勢のまま、先ほどと寸分違わぬスピードで横なぎに斬りつけるのを、後ろに飛んで避けた。

 そこへ突きが来た。

 今度も、危うく避けたが、左肩に薄傷を負った。

 痛みはまだ感じない。


 ストラにとって、これほど生きた心地がしなかったのは、ハーレムの露地で銃撃戦に巻き込まれて以来のことだ。

 荒い息を整えて恒次を構えなおすと、再び重蔵と対峙する。

「どうした、ストラ。魔法を使え」

 そう言うワムスも、武装した男たちに囲まれて、身動きが取れなくなっている。

 だが、ストラにはどうすることもできなかった。

 このように後手後手にまわる防戦一方では、最後には斬られてしまうに違いない。

 じりじりと後退するうちに、御所の塀まで追いつめられた。

「短い因縁だったが、死ね!」

 鋭い突きがストラを襲った。後ろに下がると、刃先がさらに伸びて胸元を襲う。二段突きだ。


 塀に当たってそのまま串刺しになる、と思った時、ストラは壁ごと後ろ向きに倒れていた。

 淳和院の塀が大きく崩れている。

「大丈夫?」

 仰向けに倒れたストラに、声が降ってきた。

「イシュカ」

 星明かりにぼんやりと娘が浮かんで、ストラを見下ろしていた。

「お酒に溺れるから、こんなことになるのよ」

 違う、と言おうとしたが、壁の穴から重蔵が出てきたので、慌てて立ち上がる。。


「下がっていてくれ。あいつの相手は俺がする」

 イシュカは無言で、懐から(いばら)を取り出し、二つ折りにした。

 何事かつぶやく。

 茨は細長く伸びて、鋭いエッジを持つ槍になった。

 空に投げ上げる。

 槍は、空中で分裂し、激しい勢いで重蔵を襲った。

「ち、こざかしいまねを」

 激しく降り続く槍の雨を、右に左に打ち落とすうちに、重蔵の周りに茨の檻が出来始めた。

 たちまち、重蔵は茨に取り囲まれて、身動きできなくなった。


「呪文使いと戦う時は、相手に忙しく仕事をさせておいて呪文を封じ、その間に自分の術中にはめるのがコツよ」

 イシュカは、重蔵が檻を破ろうと様々な呪文を使うのを見て言った。

「その茨は破れないわよ。ケイオス空間、あなたたちの言う、『龍』のねやの近くに生える茨を使っているから」

「『龍』の力を浴びて育った茨か。くっ。小娘だと思って油断した」

「随分、探したのよ。『龍』の波動を浴びて枯れずに育つ植物を。本当にあるかどうか自信が無かったのだけど、今日、やっと見つけたの」

 これまで、ストラたちと別行動を取っていたのは、この植物を探すためだったようだ。


 その時、壁の穴から巨大な顔が突き出される。

「そっちはどうなった。俺の方は片づいたぜ」

「ワムス。無事だったのか」

 外を見ると、十数人の男たちは、全員、言葉もなく倒れていた。

「お前が、壁ごと倒れてから、奴らの動きがおかしくなったんで、その間に全員やっつけたのさ」

 もちろん、イシュカの細工に違いない。

「しかし、俺は術が使えないのに、どうして君は使えるんだ」

「わからないわ」

 そう言って、茨の檻に囚われている重蔵に近づく。

「聞きたい事があるの」

「妹の敵に、何を話せというのだ」

「私は、アズサさんを傷つけていません」

「嘘をつけ」

「あなたの心は、憎しみで凝り固まっています。だから、真実が見えないのです」

 檻に手を掛けて、重蔵が押し出すように言った。

「真実が見えておらぬのは。お前たちのほうよ」

「なんだと」

 ワムスが塀の穴から入り込んで来た。

「檻の中で、何を強がってる」

「あなたは、バクスターという人がニューヨークでは見つからないと言いましたね」

「バクスターという人、か。それも、お前たちが真実を知らぬ証拠よ」

 ワムスが檻を叩いた。

「いいかげんにしろ。このままだと、すべての世界が消えてなくなっちまうんだぞ」

「馬鹿なことを。『龍』は、我々を新しい世界へ誘ってくれているだけだ」

「一つ聞かせてくれ」

「なんだ」

「中世に生きるお前が、どうして稲妻を起こしたり、複雑な魔法を使えるんだ

 ストラの問いに、

「魔法?あんなものは簡単だ。エレキの性質を使えば良いだけだからな」

「エレキ?電気エレクトリックのことか」

「風来先生は、何もかもご存じだった。エレキの仕組み、言霊(ことだま)の使い方。『龍』のこともすべてな」

「風来先生?風来山人。その名は……」

 イシュカがつぶやいた。

「知っているのか」

 ストラが問う。

「ええ。この時代の事は一通り学びましたから。ですが、その名の方は、獄中で亡くなっているはずです。もう何年も前に」

「亡くなられたさ。世の中に愛想を尽かされてな。だが何年も前ではない」

「今年は天明二年。西暦で言えば1782年です。あの方が亡くなったのは、たしか3年前の安永八年のはず。しかも獄中で」

「黙れ。先生が湿った暗い獄の中で死なれるものか」

「では、あなたが連れ出したのですね。脱獄の噂通りに」

「いったい誰なんだ?あの方だけじゃわからん」

 しびれを切らして、ストラが尋ねた。

「風来山人と称する本草学者、戯作者にして天才科学者。またの名を福内鬼外。晩年、秋田屋九五郎を斬った咎で獄死した人物です。現世の名を平賀源内」

「平賀源内?知らんな」

「後に、この国では、知らぬ者がいないほど著名な天才です。特に、応用科学に長けていた人物でした。洋画の制作、摩擦発電器エレキテルの復元製作」

「なるほど。辻褄つじつまがあってきたな」

 ワムスは、納得し、

「その平賀って奴が、重蔵の黒幕ってことだな」


 その時、突如、空に一条の稲妻が走り、雷鳴が京の街を引き裂いた。

「あれは!」

「『龍』よ。なぜ、こんなところに」

 遠くに、紫色に輝く龍が現れ、その姿を中心として、暗黒が広がりつつあった。

「大変だわ、都の上に新しいケイオス空間を作る気なのよ。本格的に、世界を破滅させようとしているんだわ」

 夜空の稲妻に呼応して、重蔵を囲んだ茨の檻が、脈打つように動き出した。

 重蔵は檻の中でゆっくりと鯉口をきり抜刀した。

 ぐわ、ぐわと膨れあがる動きに会わせて、重蔵が和泉兼定を一閃させると、きれいな切り口を見せて、檻は寸断された。

「お前たちが、バクスターを探しているとは、とんだお笑いぐさだな」

 言いながら、重蔵は檻をまたぎ越える。

貘廃バクスタルとは、川越藩秩父鉄山の鉄、陸中仙人山の亜鉛についで、先生が大山崎あたりに埋まっていると言われた鉱石のことだ。人の名前などではない」

「鉱石?」

「秩父や仙人山の開発に失敗された先生が、秋田屋殺害の冤罪の獄から脱出されたあと、埋蔵される場所の特定に心血を注がれた鉱石だ。別名、殺龍石。もっとも、先生は一流の諧謔で貘廃と名付けられたがな」

 重蔵は、檻を出る時に千切った茨をイシュカに投げつけ、呪文を唱えた。

 たちまち茨が成長し、三人を取り囲む檻になる。

「しまった」

「形勢逆転、だな」

 檻に近づきながら、重蔵は続ける。

「先生が、一年前に急死されたあと、わしは遺書を見つけた。それは、自分を認めなかった世の中への呪詛の言葉で満ちていた」

「そんなことはないわ。平賀源内は、多くの人に認められたはずよ。『ああ 非常の人 非常のことを好み 行い是れ非常 何ぞ非常に死するや……』」

「玄白老(杉田玄白)の言葉だ。先生が伝馬町牢屋敷から脱獄されたおり、幕府が体裁を取り繕って、獄死と報じた時に書かれた」

「福内鬼外名で書いた歌舞伎『神霊矢口渡しんれいやぐちのわたし』に、皆は熱狂したはずです。土用の鰻だって、皆が、昔からある風習だと思うほど流行した……」

「よく知っているな」

 会話は続く。


 だが、それを聞きながら、ストラは別な事を思いついた。

「ちょっと待て」

「なんだ」

「お前の『言霊』は、ひょっとして源内の死後に覚えたものじゃないか」

 重蔵は、異なことを()く、という顔をして見せ、

「先生の遺稿の中に、その記述があったのだ。『龍』現れしおり、不可思議なる力発現す、と。そして、そこには、言霊の説明と応用法が記されていた」

 ストラとイシュカは顔を見合わせ、頷いた。

「その遺稿ってのは、どうやら平賀源内が書いたものではなさそうだぜ」

「何を言う」

「俺たちも、体裁こそ違え、同じ書物で呪文を知ったのさ。住む世界によって表現は変わっているようだが、内容はほぼ同じだ」

「ほざけ」

「『龍』は、拙者に新しい力を与えてくれた。これから三つの世界が混じり合って、新しい世界が始まる。松平定信など、今の権力者もその座を追われることになろう。先生の予言どうりに新しい世界が始まるのだ」

 イシュカは、茨の檻から、空を指さして叫んだ。

「あなたは、あの空間で私たちが生きていけると思っているの?」

 指さすその先には、徐々に範囲を拡大しながら脈動する黒紫色の空間があった。

「よく考えて、遺書ではなくて、生きていた頃のあなたの先生を思い出して!」

 娘の強い口調に重蔵はひるみ、

「『龍』が行っているのは破壊よ。あなたの先生は破壊を望む人だったの?」

 重蔵の表情が動いた。

「そういえば」

 彼は、持ち続けていた釈然としない気持ちが、すっと落ち着くのを感じた。

「先生は、数多くの西洋文化に接しておられながら、決して兵器の開発をされなんだ。それが、一番簡単に金と権力を得る方法だったにも関わらず……」

 水走一文字の切っ先が、徐々に下がり始めた。

「騙されては駄目!」

 乾いた女の声がした。

「アズサ。どうしてここへ」

 彼のすぐ後ろに、青ざめた顔の娘が立っていた。

 ふらふらと重蔵に近づく。

「兄者。殺して、この者たちを。殺して!殺して!!」

 もとは美しかったであろう娘の顔は、今は悪鬼のような形相になっている。

「兄者、なぜ私の言うことを信じて下さらぬ。父母亡き後、ずっと助けおうてきた兄妹ではないか」

「アズサ」

 重蔵は、妹に近づいた。

「アズサ、お前は頭を打って気が動転しておるのだ。兄と一緒に屋敷に帰ろう」

 優しく妹を抱き上げる。

「兄者」

「静かにしろ」

 優しく言う。

「何も案ずるな」

「兄者」

「あいわかった」

 アズサは、儚げに重蔵の胸に身を預け、言った。

「お前は役立たずだ」

「何をする!!」

 重蔵は、アズサを振り落とした。

 脇腹を押さえた指の間から、血がしたたり落ちる。

 投げ出された姿勢から、器用に地面に降り立った娘は、無表情に懐剣を両手で握り、素早く兄に近づいた。

 首筋をめがけて斬りつける。

「よせ、アズサ」

 もんどり打って地面に倒れた重蔵を、なおも娘は斬りつけている

「なぜ、やり遂げないだ。お前が、やつらを消去しやすいように、何もかもお膳立てをしてやっているのに」

「やめろ」

「源内の奴を消去し、お前宛の遺書を造るという、面倒なこともやってやったのに」

 話す娘の声に、年老いた女の声が重なりはじめた。

「どうして、奴らを消してしまわないんだい。簡単なことじゃないか。お前は生まれついての人殺しなんだよ」

 しだいに娘の姿がぼやけて、老女の姿がそれに重なった。イシュカを振り向く。

「お前もお前だよ。精神疲労の母親にとりついて、詳しく教えて導いてやっているのに、おかしな男に心を奪われて……」

「お母様……」

 イシュカが呆然とつぶやいた。


「お前にバクスターを見つけさせ、重蔵に殺させる。単純なシナリオなんだよ。単純な方がうまくいくからね。バクスターが人間じゃなかったのは予定外だけど……。まあいい。ケイオス空間は増殖し始めた。もう誰にも止められないよ」

「くっ」

 兼定を杖代わりにして、重蔵は立ち上がろうとしていた。

 しかし、力つきて倒れ、娘を睨み付ける。

 老婆の顔は、今は娘に戻っている。

「怒っているの。駄目よ兄さん。あんたに私が切れるもんかえ。今は、私が操っているけど、この世界じゃ紛れもなく、この娘はお前の妹なんだからね。あんたにゃ斬れっこないよ。結局はあたしが勝つんだ」

 歌うようにそう言った。

「もう、この世界も消えて……」

 突然、娘の顔が、笑顔を顔に張り付けたまま硬直した。

 信じられない、という顔になる。

「兄さん。なぜ」

 くずおれた娘の後ろに、重蔵が立っていた。

 手にした兼定は、妹の血で濡れている。

「俺を試すな……」

 重蔵は、ぼそりと言うと、よろめいて片膝をついた。

 アズサの姿は徐々に薄くなり、やがて溶けるように消えていった。

「とんでもない女だな」

「よすんだ、ワムス」

 ストラは、友人の僧衣を引いて黙らせ、

「ところで、重蔵」

 茨の檻から呼びかけた。

「これからどうする?」

 重蔵は答えず、茨に近づき、裂帛の気合いで二度斬りつけた。


 いかなる方法か、内側にいるストラたちは無傷のまま、茨の檻に大きな口が開く。

 重蔵は、懐紙で拭って兼定を鞘に納めた。

「わしの腹は決まった。『龍』を斬る」

「傷はいいのか?」

「いらぬお世話よ」

 ワムスが肩をすくめた。

「よし、今までの話から考えると、バクスターがあれば『龍』に対抗できるらしい」

 ストラが言った。

「だから、バクスターを手に入れなければならん」

「貘廃は、大山崎にある」

 重蔵が答える。

「そうだ」

「大山崎と言えば、最初にできたケイオス空間の真ん中あたりね」

「行くか。だが」

 ストラが、京の都に広がる暗黒空間を見上げてつぶやいた。

「間に合うか?」

「急ぎましょう」


 四人は西大宮大路を北上し、二条大路を西に走った。

 空に浮かぶ巨大な空間のおかげで、京の街も騒然となっていた。

 すでに真夜中近かったが、人々は路上にあふれ、口々に空を指さし騒いでいる。

 二条城まで来た時、物見のためか、軽装の武士が、馬に鞭をくれて走り出してきた。


 その数三騎。


 重蔵は、最初の武者の足を跳ね上げ、巧みに馬から落とすと、自らが馬に飛び乗って大山崎めがけて駆けだした。

 ワムスもそれに習う。

 破戒僧の華麗な手綱さばきを見て、ストラが感心したようにつぶやいた。

「そういえば、あいつは騎馬警官をやっていた事があったな」

 ストラは、三番目の馬の前に立ちふさがると呪文を唱えた。

 と、甲冑が生き物のように動いて体を締め付け、武者は苦しさの余り馬から転げ落ちた。

「呪文が使えるようになったな」

 馬にまたがる。

 イシュカを引き上げようとすると、娘はするりと、ストラの前にまたがった。

「あなたは、馬に乗ったことがないでしょう」

「君はあるのか?」

「私は英国人。英国は乗馬の本場よ」

 そういうと、馬に鞭をくれ、猛烈なスピードで重蔵とワムスの後を追い始めた。


「わかったわ」

 しばらく走った時、馬上、風に髪をなびかせながらイシュカが言った。

 しっかりと鞍を挟む白い太股が、闇にまぶしい。

「何がだ?」

 振り落とされないように、娘の細い胴につかまりながら、ストラが叫ぶ。

「さっき、私だけが魔法を使えた理由がわかったの」

「なんだ」

「今日、一日中、私はケイオス空間のすぐ近くにいたからよ」

 ストラは頷いた。

 つまり、ケイオス空間の波動が、何らかの形でイシュカに蓄積されていたのだ。

 あの茨のように。


 大山崎に着いた時、夜明けまでにはまだ時間があった。

 ケイオス空間は、以前遠くから見た時よりはるかに巨大になっていた。

 ぽっかりと地面に開いた穴の縁から中を覗いてみたが、何も見えない。底まで、どれくらい距離があるか分からない。いや、果たして、底があるかどうか。

 吹きなぶる風が、ストラの着物の裾を乱す。風は、心なしか生臭い匂いがした。


「この中に飛び込むのか?」

 ワムスが唸った。

「そうだ」

 ストラが応える。

「では、参るか」

「待って」

 飛び込もうとする重蔵を制して、イシュカは言った。

「入る前に、不可侵の魔法を使っておくわ」

「なんだそれは」

「私たちのプロパティを変えて、外部の変化を受け付けないようにするの。ある程度身を守れるはずよ」

 娘は胸に手をあてて呪文をつぶやいた。

「アトリビューションの変更か。まあ、やらないよりましだな」

 ストラも、ワムスに向かって呪文をとなえ、次いで自分にも同様にした。

 やがて、

「行くか」

 そう言うと、四人は無限の暗闇に身を躍らせた。


「なんだ、ここは?」

 すぐ近くで、ワムスの声が聞こえた。

 気づくと、まっすぐな通路が、はるかに続く、奇妙な場所に四人は立っていた。

 背後は行き止まりになっている。

「思っていたのと違うわね」

 イシュカは、輝く金髪を揺らしながらそう言った。

 ロンドンの顔に戻っている。

「どこかのビルの中って感じだな」

 ワムスは巨体を振るわせて言った。


 ストラは自分の顔に触れてみた。どうやら、容姿はもとの世界のものとなり、服装のみ、新しい世界に会わせて変わっているようだ。

 全員、体にぴったりあった黒地のツナギ姿だ。

 肩と胸の部分のみ赤く装飾されている。

 イシュカが指を鳴らすと、掌にユリの花が現れた。

「魔法は使えるようね」

 娘は、花の匂いをかぐと、それを髪にさした。

 優しい花と対照的に硬い表情が美しい。 

 ロンドンの服装では分からなかったが、豊かな胸からくびれたウエスト、優しい腰つきへの素晴らしいラインが、簡素な服装で一層強調されている。

 イシュカから目を通路に移して、

「どうやらこの通路の先に、バクスターがあるらしい」

 ストラは言った。

「気にくわないな」

 ワムスも言う。

「安易すぎる。罠かもしれない」

「だとしても、行くしかあるまい」

 重蔵は口中で何かつぶやくと、空中に現れた水走一文字を、左手で掴んだ。


 四人は歩き出した。

 ストラ、ワムス、イシュカ、重蔵の順番だ。

 数メートルおきに、通路のつなぎ目がある。

「どこまで続いているんだ」

 うんざりした口調でワムスが言った。

「さあな」

 重蔵とイシュカは無言だ。

 同じ道が延々続くため、時間の感覚が麻痺し、気がゆるんだころ、 突然、通路の前後に隔壁が降り四人を閉じこめた。

 驚く間もなく、シュッと音がして、部屋の空気が一瞬で消えた。

 突然過ぎて、口を閉じることもできず、肺の空気をほとんど持っていかれる。

 こうなると、呪文魔法は使えない。

 ストラは焦った。

 人は真空状態でも、しばらく生きられるが、長くはもたない。

 ワムスは走りだし、隔壁に体当たりした。

 だが、手ひどく跳ね返されてうずくまる。

 重蔵の居合いも弾かれた。 

 最後に、イシュカが壁に飛びつきノックした。

 壁が赤く光り、次いで白く輝き始める。

 意識が薄れかけた時、壁が溶け落ちて大量の空気が流れ込んできた。

「危なかった」

「しかし、この仕掛けからすると、この先になにか大切なものがあるのは間違いないようだ」


 それから、四人は何度も罠に出会った。

 次の仕掛けは、床全体が消失した。

 その次は、酸性の腐食駅が部屋に満たされた。


 「おかしいな」

 ワムスが皆の気持ちを代弁した。

「確かに。最初の仕掛けはともかく、あとの罠は、わしたちの言霊をもってすれば、簡単に防げるのはわかっているだろうに、なぜ繰り返すのだ」

「そこに何か意味があるのかも知れない」


 次は、壁が左右から押し迫ってくる仕掛けだった。

 ストラが、壁の間に黒曜石の柱を出現させて脱出する。

 しばらく歩いた時、

「本当に、なんだかからかわれているみたい」

 疲れた表情を見せて、イシュカが言った。

 ストラは、ふ、と笑って、

「花をどこかで落としたようだ」

 と言った。

 イシュカは、髪に手をやって、

「きっと、さっきの壁よ。もう、腹が立つわ」

「せっかく似合っていたのに残念だ」

「ありがとう」

 イシュカは、心なしか嬉しそうに答え、驚いたように、

「ちょと待って」

 そう叫んだ。

「あれを見て」

 十メートルほど向こうに、ユリの花が落ちていた。

 イシュカの髪にさしてあったものだ。

「どうやら俺たちは、同じところをぐるぐる回っているだけらしい」

「回るたびに、同じ場所で、新しい罠を仕掛けてくるんだ」

「巧妙なからくりじゃな」

「まっすぐに見える道だが、実は、輪になっているのだろう。

 そして、罠の間隔から考えて、それほど大きい輪ではない」

「道が輪ならば」

 重蔵が言う。

「そう、輪ならば右の壁か、左の壁の向こうに、何かがあるはずだ」

 ストラが続けた。

「右か左か」

「左だな」

「よし左からいこう」

 しがらみ 重蔵が水走一文字を抜き、何かつぶやきながら、円を描いた。

 ちぃん、と金属の音がして、壁に円形の切れ目がついた。

 ワムスが壁を押す、がびくともしない。

「妙じゃな、この壁は少なくとも九尺(約2メートル70センチ)は斬れているはずだ」

 重蔵が再び斬りつけると、今度は、半球形に壁は抉れた。

 二メートルほど奥まで抉られているが、まだその先に壁は続いていた。

 イシュカ穴に入り込み、壁に手をあてると腐食がはじまり、ぼろぼろと壁は奥に崩れていった。

 十メートル以上掘り進んでも、向こう側には出なかった。

「どうやら、こちらは、だめ、ということか」

 そう言って、皆は、もとの通路に帰り始めた。

「くそっ」

 最後に残ったワムスが、穴の一番奥を、力まかせになぐった。

 すると、意外なことに、鈍い音を立てて、壁は崩れさった。

「何だ」

 ワムスが、のぞき込むと、そこには黒紫の空間があった。

「ケイオス空間だ」

 驚いて戻ってきた三人は同時に言った。

「すると、バクスターは反対側」

 突然、ケイオス空間が金色に輝き始めた。

 空間をのぞき込んだワムスが叫んだ。

「おい、ヤバイぜ。『龍』が、こっちに来やがった」

「おぬしが、貘廃を取ってこい」

「お前一人じゃ無理だろう」

「早く行け、ここは俺が防ぐ」

「私が一緒に残るわ」

「しかし」

「早く行け、言ったろう『龍』はわしが斬る、と」

 ストラは頷くと、回廊に走り戻った。

 反対側の壁に向かって呪文を唱える。


 壁の表面は泡立ち、みるみる溶けていったが、それは表面だけで、あとには虹色に変化する、奇妙な壁が残った。

 虹色の炎が壁になったような壁だ。

「ファイア・ウオールだな」

「それは防火壁のことだろう。行くぞ」

 揺らめく虹色の壁に、ストラとワムスは飛び込んだ。


 そこは、すべてが灰色で統一されされた部屋だった。かなり広い。

 背後には入ってきたばかりの虹色のドアが見えている。

 ずっと向こうの白い円筒のテーブルが置いてあり、その上に奇妙な陶器が置いてあった。

 二人はテーブルまで走った。

 まず、ワムスが陶器をつかんだ

「何だこれは」

「クラインの壺だ。内と外の無い四次元の壺、ということだが、よくわからん」

「へんてこな形をしているな。これが入れ物だとして、どうやって開けるんだ」

「それなら分かる。こうやるのさ」

 ストラは、いきなり壺をテーブルに投げつけた。

 砕ける、と思った瞬間、壺は透き通るように消え、テーブルの上には、金色に輝く銃と弾丸が現れた。

 不思議なことに、その横に壺がまた出現している。

「これがバクスター?。コルトかベレッタって感じだが」

 ストラは、銃を手に取って、銃把に刻まれた名前を読んだ。

「ウイルス・バスター」

 ワムスが叫んだ。

「そうか、バクスターではなく、バスター(破壊者)だったんだ。どこかで情報が間違ったんだな。だが、ウイルスってのはなんだ?」

 弾丸の箱には「リトル・バスタード(はみ出し野郎)」とある。

「よし、行くか」

 銃を手に持ち、弾丸をポケットに突っ込んだストラは、部屋の隅に向けて走った。

 思いついてテーブルに戻り、壺をワムスに放り投げる。

「持って来てくれ」

 走りながら、弾丸を装填する。

 全部で十発あった。

 虹色の壁に飛び込むと回廊に出て、そのまま、さっきイシュカと別れた場所に走る。

 ケイオス空間に通じる穴の前には、誰もいなかった。

「どこに行ったんだ」

 ワムスが叫ぶ。

「決まっているさ」

 そう言って、ストラは虚無の空間をのぞき込んだ。

 どれくらい離れているか分からないが、遠くで『龍』が踊るように飛び回っているのが見えた。

「あそこにいるようだ」

 そう言って銃をスライドさせ、薬室に弾丸を送り込むと、

「壺をくれ」

と言った。

「大丈夫か」

 クラインの壺を受け取りながら、ストラは精悍に笑った。

「リトル・バスタードを、全弾、打ち込んでやるさ」


 壁の裂け目から、中に入ると、ストラは落下し始めた。

 落下とは言ったものの、感覚が麻痺しているようで、本当に落ちているかどうかはわからない。

 試しに、呪文で重力のパラメータを変更してみると、速度が鈍り進行方向を変えることができた。

 これで、この空間を自由に移動できる。

 ストラは、高速で『龍』に近づき、額の中心に向けて五発撃ち込んだ。

 さらに、目に向けて三発撃つ。

 しかし、打ち出された弾丸は、すべて『龍』の体に、弾き返された。

「だめだ。われわれの武器や言霊は、奴には効かぬのだ」

 遠くで、重蔵が叫ぶのが聞こえた。

「今のがバクスターなの?駄目よ。あの化け物には効かないわ」

 圧倒的な力の差を見せつけられて、イシュカの言葉も沈んでいる。

 どうする……ストラは自問した。

 再び『龍』に挑みかかった重蔵の水走一文字が『龍』の角に弾かれ、根元から折れた。 イシュカの繰り出すエネルギー球は、『龍』に吸収されている。

 『龍』は、恐ろしいエネルギー体だった。

 あの外殻を破らないことには、リトル・バスタードを内部に撃ち込む事はできない。

 我々の力より力の強い『龍』の力。

 この世界の最高の力。

 この世界の……だったら、この世界のもので無ければ……。


 突然、ストラは理解した、なぜ、ウイルス・バスターがクラインの壺に入っていたかを。

「重蔵!イシュカ!!」

ストラは、二人を呼び寄せた。

「なにか方法があるの?」

「できるかどうかわからないが、この壺を、重蔵の刀に変化させてくれ。おそらく、三人の力をあわせないと無理だと思う」

「分かったわ」

 三人は、それぞれに、壺に呪文を唱えだした。

 壺はなかなか変化しなかった。

 『龍』は、異変に気づいて突進してくる。

 壺が徐々に、水走一文字に形を変えだした。

 ただし、美しい透明ガラスのような材質の水走一文字だ。

「まだだ」

 巨大な『龍』は、恐ろしいスピードで近づいてきた。

「もう少し」

『龍』の姿が眼前に迫った時、ストラが言った。

「よし、これで、あの『龍』を斬ってみてくれ」

「承知!」

 重蔵は、迫り来る『龍』の前足をかすめて、胸元に飛び込んだ。

 片腕を爪にかけられ、血しぶきが飛ぶ。

 だが、重蔵は、そのまま『龍』の胸に近づくと、気合いと共に横に薙ぎ払った。

 耳をつんざくような声で『龍』が吼えた。

 重蔵の斬った後から、きらきらとガラス片のようなものが流れだす。

「いまだ、胸の傷にリトル・バスタードを撃ち込め」

 遠くから、三人の戦いを見ていたワムスが叫んだ。

 ストラは、構えた銃を中心に、独楽のように回転しながら『龍』に近づいて行った。

 『龍』がエネルギーを放った。

 衝撃波が彼を襲う

 ぎりぎりまで近づいた時、ストラは、『龍』の胸からまき散らされている白いものの正体に気づき、背筋が寒くなった。


 それは、氷でできた数字だった。

『龍』は、血のかわりに、数字をまき散らして苦しんでいるのだ。


 何者だ、お前は……。だが、これで終わりだ。


 心でそうつぶやき、ストラは最後の一発を発射した。

 撃ち出されたリトル・バスタードは、『龍』の直前で、金色に輝く鳩になり、『龍』の胸の傷に飛び込んで行った。

「おお」

 重蔵は呻いた。

「源内先生!!」

「どういうことだ」

「平賀源内の号は鳩渓なの」

 鳩が『龍』胸に突き刺さった瞬間、すべては黄金色に輝き、次いで暗転した。


 それから、どれぐらい時が経ったか、ふと気づくと、先ほどとよく似た、どこまでも続く回廊に四人は倒れていた。

 はるかかなたから、何かがこちらにやって来る。

 最初は豆粒のようで、形状も定かで無かったが、近づくにつれ、それは巨大なスクリーンであることが分かった。

 スクリーンは、四人の前までくると、音もなく停止する。

 やがて、スクリーンが明滅し、乱れた画像が映り始めた。

 何度か正常に戻ろうとするが、なかなかうまく映らない。

「何なんだ」

 ワムスが文句を言った。


 しばらくすると、ぼんやりと、やがてはっきりとした映像が映りだした。

 ストラたちが着ているのと同じ服を着て、男が頭を抱えながら話している。何かの記録のようだ。


「もう、うんざりだ。毎日毎日、兵器の開発ばかり。自分の人生に飽き飽きしてきた。このままでは気が狂いそうだ。ああ、イシュカ。愛しいイシュカは地下都市で、無事にいるだろうか?三日前も敵機の来襲があったと聞いているが……」

 画面が切り替わり、さっきの男が、部屋を歩き回りながら、興奮して話している。

「昨日、面白いことを思いついた。神になるんだ。世界の創造だ。右手で生き物を殺す兵器の開発をするなら、左手で新しい世界を創造すればいい。

 そうすれば、魂の帳尻はあう。

 数は、そうだな、三つだ。三つ世界を作ろう。

 私には英、米、日の血が混じっているから、ロンドン、ニューヨーク、それに京都にしよう。

 時代はコンピュータ・エイジ以前がいいな。

 時代は、一八世紀と一九世紀、それに二十世紀がいいか……」


 画面が乱れて切り替わった。


「すべてを最初から作るのは大変だから、それぞれの世界を、先日の歴史実験でエミュレートしたMS DOSとWINDOWSとUNIXのオペレーティングシステムの上に作ろうと思う。我ながら良い考えだ。

 これなら、三分の一の労力で世界を造れるはずだ。それぞれの時代のデータは、いくらでもデータベースにある。本物以上の世界になるはずだ……」

 画面が再び乱れた。

「ただ見ているのも面白くないから、自分のDNAから抽出した性格パラメータを元に、私の分身を生活させる事にした。地球に置いてきた愛犬ワムスのデータも擬人化しよう。

 そうだ、ノートンも生活させよう。大事な弟だからな。それに、あいつはワムスのお気に入りだし。あと……イシュカのデータを黙って使うと彼女は怒るかな」


 暗転。再び、嬉しそうな男の顔がスクリーンに映り、話し始める。


「順調だ。どの世界も活気に満ち溢れている。活気がありすぎて、小さなイザコザが起こり始めた。これからは、文化の進化に歯止めをかけなければならないだろう。異常な野心を持つ者は、自動的に短命に終わるようにするつもりだ。局長みたいな権力の権化は、僕の世界にはいらない。戦争は現実だけでたくさんだ」


 次に映ったのは、不安げな男の顔だった。


「まずいな、少しプログラムが大きくなりすぎた。メイン・システムの兵器開発を圧迫し始めている。しかたない。演算速度は少し落ちるが、サブ・システムの方に移動することにする」

 突然、音が大きくなった。警報が鳴り響いている。

「2108年5月8日、午前3時58分、敵の攻撃を受けた。

 敵のステルス・パルスのジャマーが、ステーションを直撃したようだ。

 今までうまく見つからずに来たんだが、悪運は続かなかったようだ。

 これより、メイン・システムの兵器開発データを脱出ポッドにダウン・ロードして脱出する」


 画面が一瞬暗転して、再び明るくなる。


「だめだ、強力なコンピュータ・ウイルスを外部から直接メイン・コンピュータに打ち込まれてしまった。あっというまにポッドのコンピュータもやられた。先月開発したLH580なら何とか対処できるかもしれないが、攻撃が続いていて危険だ。

 とにかく脱出して、手動で地球に着陸する。幸運を祈っててくれ」


 男は、画面から消えかけて、再び戻って来て言った。


「コンピュータ。今までの記録をアーカイブして地球に送信」


 スクリーンが暗転する。

 後には静寂が残った。

 誰も、何も言わなかった。今知った事実が、四人の心に重くのしかかっていたのだ。


「ありがとうございました。あなたがたのおかげで、ウイルス・プログラムは駆除されました」

 突然、奇妙に人間離れした声が聞こえた。

「誰だ?」

「私は、地球と月の間に浮かぶ、全長20キロ、全幅12キロの実験ステーションのサブ・システムです。メイン・システムは、551年前に停止しました」

 ストラが口を開いた。

「今の話だと、俺たちは、プログラム上のデータに過ぎないのか」

「その通りです。あなた方は、ある技術者が作り出した、プログラム上で生活しています」

「さっきの男だな」

「そうです。彼の名前は、ジェームズ・エバタ。日英米の血を引く兵器開発部のチーフでした」

「あの『龍』は、ウイルス・プログラムだったの?」

 イシュカが言った。

「なぜ、あんなものが俺たちを襲ったんだ?」

 重蔵が尋ねる。

「流星が原因でした」

「流れ星?」

「メイン・システムが静止してから550年後に、流星が偶然ステーションを直撃し、その衝撃で、メイン・システムが一部復旧したのです。

 復旧したメイン・システムは、直ちにバックアップシステムを立ち上げようとしました。

 もちろん、メイン・システムの大部分は破壊されていましたから、すぐにシステムはダウンしましたが、そのわずかな時間に、メイン・システムに残っていた『龍』ウイルスが、サブ・システムに進入してきたのです」


 無機的な声が話し続けた。


「それは不幸な事故でしたが、幸運もありました。ウイルス・プログラムとしては、完全無欠だった『龍』ですが、メイン・システムが立ち上がった時間が短すぎて、すべてをサブ・システムに送り込む事ができなかったのです」

「もし、完全な『龍』が進入していたら……」

 イシュカが尋ねた。


「一瞬で、すべての世界はなくなっていたでしょう。

 それでも、メイン・システムと違い、貧弱な防衛システムしか持たないサブ・システムにとって、『龍』は脅威でした。

 システムは、ウイルスを駆除する補助プログラムとして、UNIX内に、データベースを参考にして平賀源内というキャラクターを作り出しました。

 本来なら、彼が、メイン・システムのデータバンクから、プログラムLH580、通称『ウイルス・バスター』をダウン・ロードするはずだったのです。

 システムの動きを察知した『龍』は、巧妙にも日本の指導者を操作して、結果的に歴史にそったやり方で平賀源内を抹殺しました。

 しかし、『龍』にも予測がつかない事が日本では起こっていました」


「源内先生に、俺という弟子がいたことか……」

 しがらみ 重蔵が呆然とつぶやいた。


「そうです。平賀源内は、それと知らぬうちに、エバタのDNA情報を受け継ぐしがらみ重蔵という弟子に、自身の使命を受け継がせていたのです」

「私たちが、魔法を使えたのは、なぜだ?」

「ウイルス・プログラムによる軽度のシステム破壊で、今まで禁止されていたシステム・コマンドを、内部データである、あなたたちが使えるようになったのです。

 システム・コマンドは、あなた方の世界のそれぞれのシステム、MS Ddos、WINDOWS、UNIXの命令に則したものでした。

 狡猾な『龍』ウイルスは、あなた方の能力を見抜くと、コンピュータ内部からの破壊をあなた方に手伝わせようとしました。

『龍』は、ニューヨークでは本屋の老人に、英国では霊媒師の女性に、日本では若い女性になりすまして、あなたたちに近づきました」


「母さん……」

 イシュカが胸の前で手を握りしめた。

「アズサ」

 重蔵も呻くようにつぶやいた。


「なぜ、ウイルスが龍の形をしていた?」

 ストラが訊いた。

「あれは、当時、人類が戦っていたエイリアンの姿です。実際、エイリアンはエネルギー体だったのですが、彼らは、地球人とコンタクトをとる時は、いつもあの姿を使っていました。何か象徴的な意味があったのかもしれません」


「地球上の人類はどうなった?」

「わかりません。ただ、過去五百年のあいだ、地球からはいかなる電波も放射されていません。また、放射能等の生活活動の痕跡もありません。これから推察すると、地球上の人類が絶滅した確率は98パーセント以上です」

「つまり、俺たちが唯一の人類の文化遺産ってわけだな」

 ストラは自嘲気味に言った。


「俺たちは、これからどうなる」

「今までと何も変わりません」

「変わらない?」

「破壊された街を復元し、あなた方をそこへ戻します。レジィ・マイカートとしがらみアズサも、ウイルスに冒される前の状態に戻し、すべては元通りになります」

「元通りか……」

 ストラはつぶやき、

「それも良いだろう。だが、ひとつだけ頼みがある。この馬鹿げた術の使い方や、『龍』に関して起こった事件の記憶を俺の頭から取り除いてくれ」

 ワムスも必死に叫ぶ。

「俺も頼む。俺が犬のデータを元に造られているなんて、覚えていたくない」

 イシュカもうなずく。

「それに、俺たちが、機械の中の夢のような存在で、その機械が宇宙に浮いているなんて事実は、知らない方が幸せさ」

「それがしも、そう願う」


「ただ、進歩の規制はやめてくれ」

 ストラは力強く言った。

「もし、何かの手違いで、俺たちが俺たち自身を滅ぼしても、それは運命さ。ウイルス・プログラムにやられるのとは違う」

 コンピュータは、しばらく黙っていたが、

「わかりました。システム復旧後は、あなたたちの世界を完全に独立させ、今までのような規制をはずして、独自の歴史を歩むようにします」

「頼む」

「では、これからあなたたちを元の世界に戻します。その後、余裕をみて、三十分後にあなたたちの記憶を消します。帰られてから、何か要求があれば、その間におっしゃってください」


 コンピュータが沈黙すると、それまで黙りこんでいた重蔵が、振り返ってストラの肩を掴んだ。

「お別れだな」

 ストラが言った。

「残念だ。お主とは勝負をつけたかったが」

 重蔵はそう言い、

「師の最後の願いを叶えてくれたお主を斬る訳にもいかぬのでな」

「決着をつけるまでも無い。俺の負けさ」

 重蔵は、拳でストラの肩を軽く突くと、イシュカに近づいた。

 短く言う。

「すまぬ」

 イシュカは、その言葉を制するように手を挙げた。

「そんなことを言わないで」

 イシュカは、にっこりと笑って続ける。

「だって、あなたは、もっと憎々しげでないと……」

 重蔵は、初めて見せる晴ればれとした表情で言った。

「お前は、本当にいい女だなあ」

 イシュカをストラに向けて、軽くとんと押し、

「よし、戻してくれ」

と言った。


 数瞬後、しがらみ 重蔵の姿は無かった。彼は日本に帰ったのだ。


 ストラは、重蔵に押されて近づいたイシュカの手をとった。

 改めて握ってみると、思った以上に小さく、可憐な手だった。

「よくやったな、イシュカ。この手で、君は偉大な仕事を成し遂げたんだ。おめでとう」「ありがとう」

「ロンドンに帰っても、母親と元気で暮らすんだぞ。まあ、こんな事を言っても、どうせ、忘れてしまうんだろうが……」

 イシュカの口が、何事が告げようとして開かれ、言葉を発せぬまま閉じられた。

「さようなら、イシュカ」

 ワムスが言った。

「さようなら、ワムス。そして、さようなら、ストラ」

 イシュカの青い瞳は、一瞬曇ったように見えたが、すぐに彼女は背筋をまっすぐに伸ばし、はっきりした声で言った。

「戻してちょうだい」

 光が走った。

 次の瞬間、イシュカの姿は無かった。

 彼女は行ってしまった。 

 それは、一瞬にして永遠の別れだった。


 ストラは、イシュカの消えた空間をしばらく眺めていたが、ワムスに振り向くと軽く頷き、スクリーンに向かって言った。

「俺たちが最後だな。じゃあ、元の世界に戻してくれ」

 言い終わると同時に、ストラとワムスは、ストラ探偵事務所に立っていた。

 転がったバーボンの瓶を蹴飛ばして、ストラが言う。

「終わったな」

「ああ、終わった」

「どうだ、一杯?」

「どこに酒があるんだ?」

「とっておきの一本の場所は、母親にも言っちゃいけないと親父に教わったもんさ」

 そう言いながら、机の横の板壁を拳で叩くと板は簡単に外れ、その後ろの窪みにバーボンの瓶が一本立っていた。

 戸棚からグラス二つ取り出し、袖で拭ってバーボンを注ぐ。

 無言のまま、二人は酒をあおった。

「いいのか」

 ワムスが、ぼそりと言う。

「何がだ?」

「とぼけるな。イシュカのことだ」

「彼女がどうした」

「気づいていただろう。彼女は、お前と一緒に残りたがってた」

「どこに残るんだ。ケイオス空間にか?それとも、ここか?俺は酔いどれ探偵さ。このニューヨークの片隅をはいずり回って生きていく。彼女はこの世界の俺にふさわしくない。だからと言って、お上品なロンドンは俺の好みじゃない。あるいは京都なら……」

「京都なら……か」

「日本は良かったな」

「ああ、最高だった」

「よし、乾杯だ」

「京都に!」

「日本に!」

 グラスが鳴り、二人の喉が鳴った。

 無言の祝宴が続いた。

「だが、俺は一体なんだったんだろう。」

「何だ?」

「お前や重蔵やイシュカは、データの出所がはっきりしていた。だが、俺は何者でもなかった。俺は何者だ?」

「さあな。だが、人は皆、そう思って生きていくものだろ。それに、俺みたいに犬のデータだと分かるよりいいんじゃないか。案外、お前は、エバタの買っていたネコのデータだったりするかもしれん。記録に残っていないだけでな」

 バーボンの残りが少なくなった頃、ワムスが時計を見て言った。

「もうすぐ三十分が経つな。俺は、これから署の方に回ってみるよ。じゃあな」

「ああ、またな」

 ストラは、しばらくワムスが去ったドアを見ていたが、やがて、勢いよく瓶に残ったバーボンを飲み干した。約束の三十分が経った。




 ドアにノックの音がしたのは、なけなしのバーボンの瓶の底に残った最後の一滴を飲み干した時だった。


 時刻は午後5時半を少し回っている。


 ストラは、机の上に乗せた足をゆっくり降ろした。

「どうぞ、鍵はかかっていない」

 薄い合板のドアにはまっている()りガラス、ストラ探偵事務所と逆文字で書いてある、を通して写る影は、女のものだった。

 案に違わず、ドアが開いて入ってきたのは若い女だった。


 それも、すこぶるつきのいい女だ。

 事務所の淡い光に浮かび上がったその姿は、まるで泡から生まれたばかりの妖精だった。銀色に近い金髪が柔らかく波打ち、薔薇の花に似て官能的な唇はピンク色に輝いている。そして、青い瞳が、愛らしい表情の中できらきらと輝き、その中に宿る強い意志を示していた。

「あなたがストラさん」

 よく通る声で娘が言った。

「そうですよ。ようこそ、ミス……」

「イシュカ・マイカート。イシュカとお呼びください。あなたが秘書を必要だと聞いてやってまいりました」

 そんな予定はないし、そんな余裕も無い、と、喉まで出かかったが、口をついて出た言葉は、まったく別なものだった。

「まあ、お掛けください。お話を伺いましょう」

 何かが始まる予感がした。


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