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アポロ∞

作者: 新界徹志

十年前、ヒューストンに渡り、宇宙飛行士の訓練中である幸田が突然、帰国することになった。

幸田が宇宙飛行士の試験にパスした時、本人や家族、親戚はもとより地元の知人、友人らは皆、我が事のように大喜びした。何分にも小さな町ゆえ、その噂は立ち所に広まり、地元の話題を一挙にさらった。彼は地元の誇りであり名誉であり、彼は忽ち英雄に祭り上げられていった。彼が日本を発つ時は地元あげての大騒ぎとなり大勢の地元民が空港に見送りに駆けつけた。萩原たち仲の良い高校の同窓生らも二十名ほどが大挙して空港に向かった。ごった返す空港のロビーで、萩原は幸田と固い握手をし、その前途を祝した。

あれから、幸田は一体どうしていたのだろう。最初の頃は、「日本人飛行士幸田護、宇宙に発つ」のニュースが紙面を賑わすのを今か今かと地元の人々は期待した。しかし、別の日本人飛行士が次々、ロケットに乗り込むのに対し、幸田の名前がとんとあがることなく、彼の噂も聞かれなくなっていった。

辛うじて彼の消息を知るのは、家族や親戚以外には親友の萩原だけとなったが、その彼も一昨年の暮れにクリスマスカードが届いて以来、連絡は途絶えている。今年の正月に賀状を送ったがその返事さえ来ないのである。一昨年暮れのクリスマスカードにはメールアドレスが載せてあったので、そのアドレスにメールを送ったが、それもなしの飛礫つぶてである。宇宙飛行士の夢を諦めたのか、あるいは大病でもしたのか、萩原は親友の安否を気遣った。家族に問い合わせてみようかとも思ったが、幸田の両親や兄弟とは別に親しい間柄でもなく、気が引けていた。

そんなところに一週間前、幸田から突然、帰国の報を受けたのだ。まさに突然という感じがした。

幸田には似合いそうにもないアニメキャラが描かれた絵はがきに、

「来週、帰国する。都合がつくようなら会いたい。」

とあった。近況など一切記されておらず、帰国の日程や滞在予定もなかった。元来、筆無精な男であり、用件も二、三行で簡単に済ませる男ではあるが、これではどうしようもなく、萩原はメールで用件を確認した。

二日ほど経って返ってきたメールには、九月四日に帰国し、五日間滞在するとあり、日本を発つ前日の七日にどこかで会えないかとあった。後はまたメールでやり取りしようとあり、携帯電話の番号と携帯メールのアドレスも添えてあった。

萩原は早速、高校時代に仲の良かった安村、高嶺、宮城にも連絡を入れた。そのことを幸田には確認を取らなかったがこのメンバーなら文句は言うまい、萩原はそう思った。

萩原を含め四人は高校卒業後、それぞれ別々の道に進み、今はそれなりの活躍をしている。幸いなことに四人とも都内で働いており、たまにそれぞれが互いに顔を合わせ、居酒屋に行くようなことがあるようだが、四人が揃うのは数年ぶりである。彼らにとっても良い機会なのである。

彼らの地元は古い風情がそこかしこに残る田舎町ではあるが、都心に出るにはさほど不便はない。それ故、結婚してまもなく都内に移り住んだ高嶺以外はまだ地元に残っている。残っていると言っても決してくすぶっている訳ではない。平日は毎日、満員電車に揺られ都内の会社に通勤しているし、休日も家族で新宿や池袋にショッピングに出かけたりもする。尤も、子供らも成長するに従い、家族で出かけるのを楽しみにすることもなく、妻のご機嫌伺いに渋々、買い物に付き添わされると言ったところである。

そんなことだから、再会場所を都内のホテルにすることにした。



幸田は幼い頃から星空を観察するのが好きで、幼稚園の頃に両親に買って貰ったおもちゃの望遠鏡で毎日、星を眺めた。

お年玉や毎月の小遣いを貯めて、小学二年の時に高価な望遠鏡を買ってからは、単なる趣味には収まらず、図鑑と睨めっこで大人顔負けの知識を得、天体観測は天文学の領域にまで踏み込むほど本格的になっていった。

一九九二年、彼が小学四年の時である。

彼の人生を大きく変える衝撃的な出来事が起こった。毛利もうりまもるという日本人飛行士がスペースシャトルに乗り込み、九日間、宇宙に滞在したのだ。その様子をテレビで見ていた彼は沸き立つ興奮を押さえることができなかった。

天文ファンである彼の心を揺り動かしたのは勿論だが、漢字こそ違えど、自分と同じ「まもる」という名前にアイデンティティを見出し、

「僕も宇宙飛行士になる。」

と家族の前で宣言したのである。

子供の頃の動機など、それくらいに全く無邪気なものだ。

両親もそう考え、そのうち熱も冷めるに違いない、と高を括り、「頑張れ」と無責任に励ましていた。宇宙飛行士になるというのは、医師や弁護士になるよりも遙かに難関であり、考えようによってはノーベル賞を受賞するくらい、あるいはそれ以上に困難でまた名誉に思える時代だった。まして日本人が宇宙に行くなど、夢のまた夢、本気でそんなことを考えるような者などいないだろう。成長すれば、いやが上にも現実と向き合わされ、そんな夢など知らぬ間にしぼんでゆき、そればかりかそんな夢を見た記憶さえ薄らいでゆき、思い出すのも恥ずかしくなるに違いない。両親がそう考えるのも当然であった。

ところが、幸田の夢はそんな安っぽい代物ではなかった。覚めていくどころか、成長するに従いますますその夢は熱を帯び、形を結ばせようと幸田は懸命になった。小学六年の頃だったか、彼は母親に名前を衛と改めてくれと言い出した。いくら毛利飛行士に憧れたからと言って、名前まで改める必要もあるまい。両親はそう考えたが、幸田にしてみれば真剣だった。名前を改めるには家庭裁判所に行って申告すれば良い、そんなことまで調べていた。幸田の真剣な気持ちは分かるが、親としてはどうしても譲れなかった。そもそも「護」という名前は、父が「世界の秩序を護り、平和な社会を護り、そして家族の暮らしを護る人間になって欲しい」という願いから付けたものだった。父親から願いを込めて授けた名前をそうやすやすと変えることなどできるものか。それに名前を変えたからと言って、宇宙飛行士になれるというものではない。どうやって調べたのか知らないが、家庭裁判所に申告すれば必ず受理されるというものではない。それなりの理由が必要なのだ。万一、受理されるようなことにでもなれば、子供の名に託した親の願いが、子供の稚拙な願いによって踏みにじられることになり、それでは親の尊厳もあったものではない。幸田の父は息子をとくとくと解いてようやく納得させたのだった。

幸田は親の説得には応じたものの、その後も未練たっぷりに、全てのノートの裏に「幸田衛」と記していた。そのことを両親も気付いてはいたが、気付かぬふりをした。

天文好きの少年が、自分と同じ名前の宇宙飛行士に憧れ、切っ掛けはその程度のものであった。だが、幸田の願いは固かった。単なる願望は信念に変わり、そのために並外れた努力も惜しむことはなかった。自分の部屋には壁や天井に毛利飛行士やスペースシャトルの写真を幾枚も張り、ドアと机の横の壁には、「絶対、宇宙飛行士になる」と大書した紙を貼った。

幸田の夢は鉄道好きの少年が乗務員になることを夢見るのと同じくらい、スケールこそ違えど、純粋でひたむきだった。毎晩、壁や天井に貼った写真を眺め、「きっと宇宙飛行士になる」と唱えて眠りに就く。宇宙飛行士になるために必要なものは何でも身に着けようとした。成績が優秀でなければならないと聞かされると、幸田はそのために必死に努力した。両親にすれば自発的に勉強する姿勢は頼もしくあった。宇宙飛行士になりたいという夢など関係なく、我が息子がそれで励んでくれるのであれば、それだけで御の字だった。彼は宇宙飛行士になるには数学が得意でないといけないと言われれば、その通り、素直に数学を勉強するし、語学も堪能でなければいけないと言われれば、教材を買って英会話の勉強をする。宇宙飛行士になるためという言葉に釣られ、それを真に受けて熱心に取り組むのだ。持って生まれた才能にも恵まれていたのだろうが、そうした努力が実って学業もスポーツも彼は優秀な成績を修めた。

成績は小学校から高校まで常に学年トップ、高校の模擬テストでは全国でトップテンに入ったこともある。

スポーツも大したもので、小学生の頃に始めたサッカーで中学には県の代表選手に選ばれるほどであった。プロチームから注目もされ何度かアプローチがあったものの、サッカー選手になるつもりなど毛頭なく、高校に入るとあっさりと止めてしまった。その代わりに入ったのは体操部だが、そこでも彼は優秀な成績を修め、床と鉄棒では県大会でベスト八に入賞した。だがそれも卒業と同時に止めてしまい、大学に入ると、今度はアメリカンフットボールを始めた。強豪チームではないので、レギュラーになることはできたが、たいして活躍できる状況ではなかった。しかし、彼にしてみればそんなことはどうでも良かった。宇宙飛行士には不可欠のチームプレーを身に着けることができ役立ったと考えていた。

その大学であるが、宇宙航空研究開発機構(JAXA)に近いからと言う理由だけで彼は筑波大学を選んだ。宇宙飛行士になる、彼にとってはそれが全てであり、他の事は皆、そのための手段でしかなかった。

大学を卒業すると、迷うことなくJAXAに就職した。JAXAに就職すれば宇宙飛行士になれるというものでもないし、宇宙飛行士の募集は不定期であり何時いつ実施されるかも分からない。従って、JAXAに就職することが夢の実現に結びつくとは言えないのである。しかし、それくらいのことは彼も承知の上である。ならば、何故、JAXAに就職することに決めたのか。それは条件が同じならば、できるだけ近い場所にいる方が幾らかでも有利になるのではないかと言うことだった。そこには確からしさというものなどない。場合によっては、この先、何年も宇宙飛行士の志願者募集はないかも知れない。そうなれば、どこにいようと関係はないのだ。だが、裏を返せば、それは自分以外にも宇宙飛行士になりたいと願っている者にとって全く条件が同じになるのだから、万一に備えて僅かでも有利な条件に身を置くことが重要なのではないか、彼はそう考えたのだ。自分が若い間に募集があるかどうかは運任せであり一つの賭けのようなものだ。だが、宇宙飛行士になると言うことをそういう運を天に任せると言うこともあるのではないかと考えた。第一、宇宙飛行士になることだけを夢見てきた自分にとって、他の職場に就職するなど思いつくことはなかったのだ。

彼が二十六歳の年、JAXAは宇宙飛行士の志願者を募集した。すぐさま彼はこれに応募した。一次選抜の面接や筆記は難なく合格した。健康面でも何ら問題はなく、TOEIC920点の英語力を生かし、専門分野の設問にほぼ完璧に回答し二次選抜もさほど苦労せずに通過した。三次選抜の長期滞在適正検査では試験官も驚くほどの能力を発揮し、それも通過した。彼にすれば、高校受験や大学受験よりもこの試験に照準を合わせて、小学生の頃から積み重ねてきた訓練男賜物であったのだ。

そうして宇宙飛行士の候補者となった彼は、国内でのトレーニングを積み、二十九歳の若さで遂にISS搭乗指名に登録されることになった。これで子供の頃からの夢が半ば達成されたようなものだった。彼は得意満面、本場アメリカに乗り込んだ。それが十年前だったという訳だ。だが、そこからの道のりが容易でなく、幸田は未だに宇宙に飛び立てぬままでいる。



萩原は、高校時代の友人たちに電話すると、皆、快く応じた。高嶺は土曜日も勤務日となっているが、幸田と再開するならと有給休暇を取って参加することにした。人数と日程が決まると、萩原は得意先のホテルに予約を入れた。土曜日で宿泊客も多く、ホテルに入っているレストランや料亭は何れも満席である。しかし流石に銀行の副支店長ともなると融通が利く。萩原が電話をかけると、支配人はすぐにホテル内のレストランに問い合わせ、会食の出来る部屋を用意してくれた。待ち合わせをホテルの一階ロビーとし、高嶺らに連絡をした。勿論、幸田にも連絡を入れ、その時、安村、高嶺、宮城の三名も誘ったことを伝えた。了解を得ずに決めてしまったことを今になって後悔し、言葉を躊躇ったが、幸田は

「いや、それは嬉しい。あいつらにも会いたかったんだ。だけど、連絡先が分からなくて、お前に苦労をかけたくもなかったしな。」

と言って喜んだ。

幸田は帰国すると、JAXAに赴き、現地での状況を報告した。そしてその日は都内で一泊し、翌朝早くに、実家に帰省した。両親と姉、弟は大喜びだったそうだ。姉夫婦の子供らは宇宙飛行士の叔父に会えて得意気であり、あれこれ質問を浴びせたそうだ。幸田が渡米してから生まれた弟夫婦の子供らと顔を合わすのは初めてで、暫くは恥ずかしそうにしていたが、従兄姉が気さくに伯父と接するのにつられ、次第に打ち解けた。

昼は、母と姉が拵えた料理をご馳走になり、その後、暫く寛いだが、夕方には家を出て都内に戻った。三日目はスポンサー企業として名乗りを挙げてくれている企業の重役たちやJAXAの役員、文科省、経産省、国交省の官僚たちと面会した。多忙なスケジュールをこなし、あくる四日目は午前中だけ、どこから仕入れたのか、彼の帰国を嗅ぎつけたマスコミの取材を受けた。取材と言っても特ダネがある訳でもなく、記事が没になることを承知の上でマスコミは駆けつけてきた。一時間ほど取材に対応した後、午後から急に地元の議員の来訪があった。幸田は時計を見て、半時間だけならと応対した。

萩原、安村、高嶺、宮城の四人は、約束の午後四時に萩原の予約しておいたホテルのロビーに集まった。

「幸田が地元選出の国会議員と面会して遅れるらしい。急に連絡を寄越しておきながら、約束の時間に遅れてきたらしいんだ。幸田の奴、『こっちは秒単位で動いているのにこんなんじゃ宇宙になんか絶対に行けやしないな。だから、日本はいつまで経っても有人飛行まで辿り着けないんだ。』ってぼやいてたよ。」

萩原が言うと、皆、笑った。

「もうすぐ選挙だから、議員もひとつネタが欲しいんだろ。何せ、幸田は地元のヒーローだからな。」

高嶺がからかうように言うと、安村も

「そうだな。俺たちが会いたいと言っても、選挙前で忙しいからと言って断る癖にな。」

と皮肉った。

暫く経って、ロビーのソファに腰掛けて雑談しているところに、幸田が現れた。

「すまん、すまん。待たせて悪かった。」

幸田が頭を下げて詫びると、宮城は

「いや、まだ五分も過ぎてないから気にするなよ。」

と言った。

「いやあ、五分は大きいぞ。それじゃ、計画通りにロケットは飛ばせられないよな、なあ、幸田。」

萩原が言うと、

「まあ、そうだ。議員さんには参ったよ。」

と幸田は殊更に議員というのを協調するように言った。

「幸田も来たし、上がるとするか。」

萩原は四人を促し、エレベーターに乗ると、二十階のボタンを押した。エレベーターを降りるとレストラン街である。ホテルには七階にもレストラン街があるが、それは七階までのショッピングモールに付設したものであり、買い物客向けのリーズナブルな店が並んでいるのに対し、最上階のレストラン街は高級な店ばかりが並んでいる。レストラン街を歩いて行くと、その奥に古式ゆかしい佇まいの料亭がある。玄関の前には日本庭園風にしつらえた小さな庭があり、水車が回っている。藍染めの暖簾が架かっていて、風情がある。支配人が押さえてくれていたのがその店である。萩原は店に入ると案内係に名刺を渡して、支配人に頼んでいた者だと自己紹介した。店内は幾つもの個室に仕切られていて何れも予約で埋まっているようだった。無理矢理、予約をキャンセルさせたのか、高嶺はそう聞いたが、どうやらそうではなさそうであった。案内係は店の奥に五人を通すと、そこは十畳くらいの大きな部屋で床の間もあった。恐らく、この店で一番の部屋なのだろう。壺や茶箪笥なども高級そうである。案内係は、

「このお部屋は滅多に使うことがありません。賓客がいらした時のためにお取りしてあるお部屋です。萩原副支店長様にはいつもお世話になっておりますので、ご用意させて頂きました。では、後ほど、お料理の方をお持ち致します。どうぞ、ゆっくりおくつろぎ下さい。」

と丁重に言った。

「萩原、副支店長ともなると大したもんだな。」

皮肉めいた言い方にも聞こえるが、高嶺は素直な感想を述べただけだった。

「それにしても、ここは随分高いんじゃないか。」

高嶺が続けて言うと、

「心配するな。予算通りに抑えてある。」

「予算たって、たったの五千円だぞ。こんなとこ、五千円で済む訳はないだろ。」

「良いんだよ。そんなこと気にするな。予算を超える分はこちらでどうにかするからなさ。」

「それも副支店長の力か。」

「違うよ。それは幸田のお陰さ。うちの支店長、俺と幸田が高校時代の友人だと知っててさ。彼も天文ファンで昔、宇宙飛行士に憧れていたらしいんだ。でも、その頃は、それこそ夢に思うことさえもなかった時代だからな。子供さんも天文ファンで宇宙飛行士になりたいって言っているらしいんだ。あ、すまん、幸田、色紙を預かって来てるんだ。サインしてやってくれよ。」

「ちょっと待ってくれよ。俺、芸能人やスポーツ選手じゃないんだぜ。サインなんて」したことないぜ。

「ま、良いさ。自分の名前をササッと書いてくれりゃ良い。」

「仕方ないな。結局、俺の名前を使って、支店長をたらし込んだという訳だろ。」

「ご名答。それじゃ、書いて貰おうかぁ。」

と言って、萩原は鞄からサイン色紙とサインペンを取り出して、幸田に渡した。

「何にしても大したもんだな、銀行さんは。その支店長だって、いくら店の経費で落とすったって交際費も限度があるから、どうせ料理代も値切ってるんだろ。それでも、銀行さんとのお付き合いは大事だから、店も簡単に応じたんだろうな。暖簾に腕押しというより暖簾に頭突きだな。」

高嶺がからかった。

「嫌な言い方するなよ。ま、今日は幸田の凱旋祝賀会のようなものだから、楽しくやろうや。」

「そうだな。」

幸田以外は皆、相槌を打った。幸田は照れ臭そうにしながら、

「ちょ、ちょっと待ってくれ。まだ宇宙に行った訳じゃないから、凱旋と言うのだけは勘弁して欲しいな。」

と言った。

「ま、良いじゃないか。さ、皆、席に着こうぜ。幸田はその床の間の前に座れよ。」

萩原はそう言って、幸田の背中を押して床の間の前に座らせた。あとの四人は二人ずつに分かれ座卓を挟んで座った。丁度、上手い具合に瓶ビールが運ばれて来た。

「さあ、乾杯といこうか。」

萩原はそう言って、幸田のグラスにビールを注いだ。他の者もそれぞれ隣の席の者のグラスに注いだ。全部、注ぎ終わったところで、萩原は、

「今日は十年ぶりに幸田君が帰ってきました。明日にはまた出発らしいですが、今日は高校時代の友人がこうして集まることが出来て嬉しく思います。幸田君が念願の宇宙飛行士になって、後はロケットに乗るのを待つだけ、早くその吉報が聞けるのを楽しみにしたいと思います。詳しい話はこの後ゆっくり歓談することにして、それでは皆さんの今後益々のご活躍とご多幸を願って、乾杯。」

「カンパーイ。」

グラスを掲げ、互いにグラスを合わせると、五人とも一気に飲み干した。

「流石だな、萩原。随分、慣れたもんだ。銀行じゃ、挨拶する機会が多いのか。」

安村が訊くと、萩原は

「いや、そうでもないさ。昔から、俺は話すのが好きだったからな。」

と応えた。

「そうか、そういや、お前、生徒会長だったものな。」

「そうだな。」

横から高嶺が入って相槌を打った。そして、彼は

「生徒会長、お注ぎしましょう。」

おどけて言い、萩原のグラスにビールを注いだ。

障子を通して映る空の色は未だ明るく、部屋の照明などいらぬくらいだ。そんな時間にビールを注いでゆったり寛ぐことに若干の違和感を伴いながら、五人はその快感を味わった。

「今年は秋の訪れが早いなあ。」

安村が唐突に言った。

「おい、まだ九月に入ったばかりだぜ。まだまだ暑い日は続くぞ。」

と、萩原が窘めるような言い方をすると、高嶺も

「否、今年は確かに秋が早い気がする。夕べなんか薄ら寒くて、下半身だけ冬布団を掛けて寝たよ。朝、目が覚めると肌寒くてな、肩までかけ直したほどだ。」

「お前の所は確かセントラルヒーティングじゃなかったっけ。マンション全体が一様に空調管理されてるんだろ。」

「だからだよ。それが良くないんだ。うちの会社がエアコン不要だと言って鳴り物入りで販売したんだが、初めの頃は良かったけど、十数年経ってみると設備は老朽化して温度調節が上手く行かないんだ。会社の方はさっさと手を引いて、メンテナンスもろくすっぽしない。」

「住宅会社とかデベロッパーってのはそんなもんさ。お前だって、どうせ売りっぱなしなんだろ。販売時には永久保証みたいなことをうたっておきながら、実際は業者任せにして、会社は一切、責任を取らずにおこうと言う姿勢だ。」

「ハギ、手厳しいな。でも、お前の言う通りだ。俺たちは社員割引なんて響きに乗せられて購入させられるんだが、何とも都合の良いマーケティングさ。誰でも自分の家は欲しいからな。」

「峯、でも、お前の住んでいる所は渋谷駅の近くで、居住地としちゃ一等地じゃないか。」

「ああ、そうさ。普通に暮らすには便利なところさ。五分ほど歩けば何でも揃うからな。居酒屋だってラウンジだってある。だけどな、、、。空調だけじゃないんだ、色々あってな。そろそろ引っ越そうかとも思ってる。」

高嶺はそう言って顔を曇らせた。事情を知る萩原と安村はじっと高嶺の表情を窺った。何か言いたげだが、幸田のために開いた会にふさわしくない話題であることは、彼も心得ているようだった。半年ほど前に、萩原が会った時には、高嶺はこのところ夫婦関係が上手くいっておらず、離婚するかも知れないと漏らしていた。その前に安村とも会って、居酒屋で飲みながら相談を持ちかけたとも話していた。どうやら、あれから状況は何も変わっていないらしい。萩原は高嶺の心中をおもんぱかったが、どうする訳にもいかない。ただ、この場ではその話題に深まっていくことは避けたい。

コ.コン。

引き戸を軽く叩く音がした。

和服姿の仲居さんが料理を運んで来たのだ。

「前菜は煮こごりに葉山椒を刻んで胡桃くるみと和えたものを添えてございます。」

そう言って、仲居は一人一人の前に料理を並べていった。

丁度、良い按配だった。

「美味そうだな。」

そう言って、萩原はほんの少し箸でつまむと口に運んだ。

「ああ美味い。本当に美味い。」

萩原は殊更のように言い、それにつられて皆も前菜に箸を付けている間にさっと話題を変えた。

「ところで幸田、こんなことを訊いても応えようはないかも知れないけど、いつになったらお前が宇宙に行けるのか、大体の目星はついているんだろ。」

「いいや、さっぱり、分からんな。」

「向こうに行って、十年になるんだぜ。そろそろ、、、なんて言ったところで、お前にどうすることも出来ないのは分かってるつもりだけど。それにお前の方が遥かに気が気じゃ内のも分かってるよ。それにしても長いよな。」

萩原の言葉に皆も内心、頷いている様子だった。だが、どう言葉をかけて良いかが分からずにいた。萩原は一番の親友だったからまだしも、他の三人の場合は訊きようによっては、幸田の気分を著しく損ねるようなきがしていた。 

しかし、幸田は存外、平気な顔で言った。

「長いように思うけど、それくらいは普通さ。特に今は過渡期で慎重に進めているのだと思う。人選も含めてな。ガガーリンやアポロ計画の時代から約半世紀が過ぎているんだ。その上、当時のようなアメリカとソ連が競い合う時代も終わった。冷戦が解け融和の時代になり、ソ連の崩壊によって一層、加速度的に進んだ。宇宙開発のスキームそのものが変革に迫られているように思うんだ。インターネットの普及もそれに大きく影響しているな。AIなんかは宇宙開発がその先駆けを担っていたようなものだけど、それが逆に宇宙開発のスキームに影響を及ぼしているようにも思えるんだ。宇宙が昔と違い、近くになってきた、簡単に言えばそういうことなんだけど、それが宇宙開発そのもののフレームワークを根本的に見直さなければならない最近じゃ、民間のロケット開発も進んで金さえ払えば、宇宙飛行士じゃなくてもロケットに乗り込むようになっている。」

「そうだな。俺たちでも金さえ払えば宇宙に行けるんだよな。」

安村が口を挟むと、高村が

「馬鹿、一回で何億円ってするんだぞ。そんな金、どこにあるんだ。」

と、こきおろすように言った。

「いやあ、何億円は言い過ぎだ。今は二千五百万円で行けるのもあるぞ。但しだ、たった四分間だけだ。そのために二千五百万円はそう簡単に出せやしないぞ。」

萩原は銀行員らしい尤もな言い方をした。

「それにだ、一般人でも行けると言っても、ロケットに乗り込むために訓練は必要なんだ。それに係る費用も必要だし、その間、仕事を休まなきゃならないから、暫く収入が途絶えるのも覚悟しなきゃならん。宇宙に行くのもそう容易い事じゃないんだ。」

「萩原の言う通りだ。俺たち宇宙飛行士に認定された者でも宇宙に行くには時間が係るというのに、一般の人がそんな簡単に行ける訳ないさ。」

「そりゃそうだ。否、そう簡単に行かれちゃ幸田としては堪ったもんじゃない、ってとこだな。」

高嶺はビールの泡を唇に蓄えながら言った。

「そういうつもりもないけど、まだまだ宇宙に行くのは難しいということさ。第一、ロケットを一機飛ばすのに係る費用が膨大だ。ロケットの開発が進んで来て随分費用は抑えられるようになったと言っても、小型ロケットでも二百億円くらいは係るんだ。しかもロケットは発射して数分のうちにその大半が廃棄されるんだ。無駄遣いも良いところだ。それでも開発しなけりゃいけないし、俺みたいに宇宙飛行士になりたいという人間がいるんだ。民間の宇宙旅行なんか幼稚園のお遊戯みたいなものだけど、それでも同じだけの費用と労力がかかっているんだ。まともに考えたら、俺でも少し疑問に思うな。」

「それでもお前はやっぱり宇宙に飛びたいんだろ。」

「そうだな。贅沢な夢だとは思うよ。でも、俺一人の願望じゃなくて、必ず役に立つと言う使命感のようなものはあるつもりだ。宇宙開発が過渡期に差し掛かっていると言ったけど、そういうことも含めて考え直さなければならない点があるんだ。今は昔と違って、唯、ロケットを飛ばして、宇宙空間に人を送り出せば良いという時代じゃなくなってきたと言うことさ。」

「それはどういう意味だ?」

萩原は幸田の言おうとすることが理解できずに訊いた。大筋では分かるのだが、アメリカやロシアを始め、他の国々も宇宙開発に乗り出している国々は何れも、人や物を単に宇宙に送り出せば良いなどとは考えていない筈である。また、現実がそうであったとしてもそれ以外に何が出来るというのだ。萩原は幸田の考えをもう少し詳しく知りたかった。

「さっき、宇宙開発のフレームワークそのものを見直さなければならなくなってきていると言っただろ。それは勿論、俺が勝手にそう考えているだけで、上の方じゃ実際、どう考えているのかは分からない。だがな、地上での情勢の変化が宇宙開発にも反映するのは間違いないことだ。今、地上では環境問題が深刻化しているだろ。水問題や砂漠化現象なども看過し得ない状態になっている。これらの問題は局地的に対処していたのでは根本的な解決などできない時代になってきている。地球レベルで考えて行って対処しないとどうにもならないところまで追い詰められていると言っても過言じゃない。宇宙ゴミと言うのは知ってるだろ。不要になった人工衛星が宇宙空間を漂流し、現役で活動している人工衛星やロケットの軌道の妨げになっているんだ。その数が増える一方で既に膨大な量になってきている。それらが地球の周りを埋めつくすようなことは決してないけどな。だが、慣性によって軌道は保たれているけど、人為的な操作はできないから、どうにもしようがないんだ。今後、それらが宇宙空間にあることによって宇宙開発の大きな障害となりうることは事実だ。しかし、それは一国ではどうにもならない。人工衛星は今やどこの国でも作ることができるから、色んな国がさまざまな目的で打ち上げている。中には国籍不明のものまである。最早、制御不能な状態になっているんだ。宇宙ゴミは一つの例さ。その他にも色々な問題がある。地上で起こる問題と同様、現在はもはやどんな問題も地球規模で考えなきゃいけない時代になってきている。寧ろ、宇宙開発の世界じゃそれが顕著なのかも知れないな。ロケットで人や物を飛ばすだけじゃ済まされなくなって、地上で起こる問題を抱えて宇宙に飛び立たなければならない、そんな状況になりつつある。俺はそんな気がしているんだ。」

幸田は熱弁を振るうでもなく、また、悦に入るでもなく、淡々と語った。それを他の四人は静かに聞き入っていた。哲学的とも思える幸田の話は、現在の彼の心情が深く籠められているのだろう、そう思われた。

その間にも時は過ぎ、窓側の障子がうっすら茜色に染まってきた。高層階の部屋のぶ厚い窓ガラスを通して夕映えが映り込むのが何とはなしに不思議に思える。否、寧ろ、この高さだからこそ遮るものも少なく、茜が鮮やかに映えるのかも知れない。

「日が落ちてくるのが早くなってきたな。」

安村が背中を振り返り言った。

「夏至を過ぎてふた月余りしか経ってないのになあ。」

彼はグラスに残っていたビールを飲み干し、空いたグラスをテーブルに置くと、すかさず萩原がビール瓶を傾けようとした。

「いや、ビールはこれくらいで良い。次は日本酒でも貰おうかな。冷やのコップ酒で良いよ。」

安村が言うと、萩原は

「じゃ、俺もそうするか。」

と言ってベルを鳴らして仲居を呼んだ。

仲居がビールと酒を持ってくると、そのすぐ後に次の膳が運ばれて来た。

小鉢に盛りつけた金目鯛の煮付けを見て、

「これも美味そうだ。」

「その辺の居酒屋で食うのとはやっぱり違うな。」

と口々に言い合い箸を付けた。

「こんなものが食えるのは幸せな証拠だな。」

高嶺が言うと、

「そうだよ。戦争なんておっぱじめられたら、こんな贅沢はできなくなるからな。」

金目鯛の一かけを摘まんで口に入れながら、萩原が言った。

「全くだ。このところ、日本も焦臭きなくさくなってきてるからなあ。北朝鮮のミサイルがどうだとか、安保法正がどうだとか、憲法九条がどうだとか。俺は政治のことはよく分からんが、どうにか早く落ち着かせて欲しいもんだな。」

「同感だな。憲法改正の是非を問うなんて言われてもだ、今の憲法が良いのか悪いのかなんてよく分からんし、どっちとも取れるよ。ただ、すくなくとも俺たちは今の平和憲法の下で生まれ育ってきて、そのお陰かどうかは知らんが、戦争というものを知らずにここまで育って来た。できれば、このまま戦争のない状態が続くことを願うよ。」

安村が言うと、他の者もそれぞれ頷いた。

「北朝鮮についてだが、」

幸田が両腕をテーブルに置き手を組んで、少し前のめりになって、まるでテレビのコメンテーターのような仕草と口ぶりで語り始めた。

「日本に帰ってきて驚いたのは、つい先日の北朝鮮の弾道弾発射実験をミサイル発射と言ったことだ。アメリカじゃ、そんな言い方はしないよ。それにアラートって何だ。まるで空襲警報みたいなものだろ。もし、本当にミサイルだったら、アラートを流したって、間に合わないよ。それに弾道飛行するには成層圏を超えてなきゃならないから、平面的に見れば軌道は北海道沖をすれすれに通っていることになるにしても、実際には遙か上空にあって地上には余り影響がない筈だ。影響のあるものを飛ばしていたりなんかすれば、それこそ忽ち戦闘状態だ。仮にミサイルじゃなくても、大きな物が落下してきたら、被害は相当大きいよ。北朝鮮は威嚇だけで、ミサイルなんか積んでいないだろうし、落下物も途中で摩擦によって消失するような物だと思うよ。破片程度は落ちるかも知れないがね。勿論、それだけでも被害は大きいが、そんなことのないように北朝鮮だって配慮してるさ。攻撃態勢に入っているわけでもないのに、日本政府は騒ぎ過ぎだ。却って国民を混乱に陥れるだけだな。アメリカじゃあそこまで騒いだりしない。尤も、遠く離れているからかも知れないがな。この騒ぎは何か別の意図があるように感じたよ。俺は北朝鮮よりもその意図を隠し持っていることの方が怖いと思ったよ。」

「本当に、アメリカじゃ、それほどの騒ぎにはなっていないのか。」

高嶺は幸田の話が俄には信じられなかった。

「ああ、そうだ。確かに北朝鮮の核開発や核実験は向こうでも大きな関心が寄せられている。だが、差し迫った問題とは捉えていないよ。それよりもISIS始めイスラムの問題の方が大きい。北朝鮮の問題はどうだって良いという訳じゃないんだ。少なくとも今のところは民間のテロ行為を行わないだけでも、危険性は少ないと見ている。」

「なるほどな。確かに、北朝鮮が街中まちなかで自爆テロを行ったりと言うことはしていないな。」

「そうなんだ。北朝鮮だって、アメリカとは仲良く付き合いたいと思っている筈だ。だってさ、兄貴分の中国がアメリカとかなり接近している中で取り残されている感があるのは否めないからな。」

あくまでも幸田の私見に過ぎないのだろうが、妙に説得があるように聞こえた。幸田はさらに続けた。

「北朝鮮しかり、ISISしかり、ミャンマーしかり、未だにテロや紛争が地上の各地で起こっているだろ。それらは宇宙から見たら、随分、馬鹿らしく見えるらしいぜ。宇宙に行った連中がよく言っているよ。知っての通り、宇宙ステーションじゃ色んな国の飛行士や科学者たちが乗り合わせている。そこではかつてのライバルだったアメリカとロシアが共同で研究を行っている。互いに情報共有して研究を進め、ステーションの中じゃ皆、和気藹々としているらしい。国の違いばかりじゃない、肌の色や性別を超えて人間として仲間として同等に付き合っているんだ。俺はまだ行った訳じゃないけど、それは何となく想像がつく。将来、宇宙を舞台にした戦争が起こる、なんて予言めいたことを言うジャーナリストなんかがいるけど、それは単なる空想にしか思えない。俺は寧ろ、地上の平和は宇宙からもたらされるくらいに思っているよ。」

「それはまた大胆な考えだなぁ。」

安村が言った。心底感心している風でもないし、さりとて単に調子を合わせたのでもない。唯それが安村の普段からの口ぶりというだけである。

「ああ、そう言えば、誰だったか忘れたが、日本人宇宙飛行士誰かもお前と同じようなことを言ってたな。宇宙から見る地球には国境なんてないんだ、って、そんな言葉だったかな。」

「それこそ、俺が尊敬して止まない毛利さんの言葉だ。それを聞いた時はまだ子供だったから、その意味が十分胸に入ってこなかったけど、大人になって、その言葉を思い返してみると、随分、噛み応えのある言葉だとつくづく感心するよ。宇宙に行ったものは誰でもそんな気持ちになるんじゃないかな。地球はひとつ、それがキャッチフレーズのようなものじゃなく、世界中の人々の胸に浸透するようになれば良いんだがな。」

誰も反論の出来ない命題であった。だが、同時に凡そ実現不能な命題にも思えるのである。幸田の話を聞いて、四人は頷くだけで話す言葉が見つからずにいた。

「段々、話が高尚になってくるな。」

萩原が半ば茶化すように言った。

「さ、難しい話はこれくらいにして、折角、仲居さんが料理を運んで来てくれているんだ。有難く頂こうじゃないか。ビールとか酒とかももっとちゅうもんしようじゃないか。」

話題は仕事のことや家庭のこと、その他雑多な事へと移っていき、盛り上がる中、時間は過ぎていった。料理の方もすっかりなくなり、窓の外も次第に暗くなってきた。

「それじゃ、この場はこのあたりでお開きにしようか。この後、すぐには帰らないだろ。屋上のビアガーデンにでも行かないか。」

萩原が問いかけると、高嶺が

「ビアガーデンか、それも良いな。でも九月に入ってまだ開いているのか。」

と訊いた。

「それは心配するな。確かめてある。彼岸までは一応、開いているようだ。」

「なら、良い。じゃ、俺は行くよ。」

「あ、俺も行く。」

「俺も」

銘々がそう言って、二次会はビアガーデンに流れる事に決まった。

「屋上へは、店を出て右に曲がったら階段があるから、そこから上ってくれ。」

萩原はそう言って皆を送り出し、勘定を済ませてから店を出、後を追いかけた。

「屋上に行くのは階段かぁ。どうしてエレベーターじゃないんだろな。」

高嶺がぼやいた。

「仕方ないだろ。勝手に屋上に上がって、飛び降りでもされたら困るだろ。」

安村が冷やかすような言い方をすると、後ろから萩原が、

「安村の言う通りだ。昔はよくホテルの屋上から飛び降り自殺を図る例があったんだ。それで信用を失って、客足が伸び悩むことがあるから、最近は濫りに屋上に入れないようにしているホテルが多いよ。ここのホテルも普段は屋上に上がれないようになっているんだ。ビアガーデンがオープンしてる期間だけ、それも営業時間だけ屋上を開放しているんだ。」

と説明した。

このホテルは七階までの各階が約四メートル、宴会場のある八階が約七メートル、九階から二十階までの各階が約三メートルの高さに設計されているから、屋上の高さは地上から約七十メートルとなる。そこから飛び降りなどしようものなら確実に即死である。そのためにホテルとしては従業員以外、屋上に上ることが出来ないようにしてあるのだ。ビアガーデンがオープンしていない期間や時間帯は、屋上へ通じる階段下は頑丈な鉄扉で封鎖されていて、そもそも立ち入ることができない。

階段は途中踊り場があり、そこで折り返しとなっている。

屋上まで上ると、扉の横には警備員が立っていた。

警備員に案内され、五人は受付に行き、チケットを購入し会場に入って行った。会場の周りは高さ五メートルほどの透明の防護壁が巡らされている。安全のためと防風のためのようだ。天井は開閉式となっているが、今は開けてある。会場内には既に大勢の客で溢れかえっており、一見したところでは五人が座れるようなテーブルが見当たらない。

「随分、客が入ってるんだな。こんな高い所のビアガーデンなんか流行りそうもないんだがな。」

「否、高いからこそ人気があるんだ。タカミン、お前だって、マンションの最上階に住んでるんだろ。それと同じさ。」

「最上階ったって、ここの半分の高さもないぜ。」

「それにしたって、地上にいるよりは高いことには違いない。高い所にいると景色は広がるし、それに地上の喧噪から逃れられる、そんな気がするじゃないか。お前が最上階を選んだのもそういう理由だろ。」

「ま、そうだな。だとしてもだ、ハギ、ビアガーデンをするにしては矢張り高すぎやしないか。」

「それは感じ方次第だな。屋上にいてると思うから、高さを感じるけど、さっきの店じゃ高さなんか気にもしなかっただろ。ここだって、壁と天井が透明なだけで、他の階に居るのと何ら変わらんさ。そこの扉を出たら、吹きさらしで違うだろうけどな。」

「確かに言われてみればそうだな。」

萩原と高嶺がそんな話をしながら会場内を巡っている間に、いつの間に先を進んでいたのか、会場の奥の方から幸田が大きく両手を伸ばし左右に振って、

「おーい、こっちだ。」

と叫ぶのが見えた。

幸田は一人、列から離れて席を探してくれていたのである。

「主賓に席を探させるようじゃ駄目だなぁ。」

萩原は自嘲するような言い方をし、

「さぁ、行こう。」

と他の者を促し、幸田の下に急いだ。

「こんなとこしか見つからなかったが、ここで良いだろ。」

幸田は言った。

「上等だよ。ここで十分さ。世話をかけたな。」

萩原は幸田をねぎらった。

「ただ、そこに室外機が並んでいるのが五月蝿うるさくて少し気になるが、別に構わんだろ。」

幸田がそう言うと、

「客の声の方がよっぽど五月蝿いよ。」

「そんなことより、見晴らしが良くて良いじゃないか。」

「他に五人が座れる場所はないから、座れるだけでも満足だよ。」

などと代わるがわるに答えが返った。

周りを見渡すと同じような高層ビルが幾つかそびえているが、それらの合間からうっすらと富士山が見える。天気の良い日中なら、くっきりと見えるのだろうな、と幸田は想像してみた。下界を見下ろすとまるで、道路や道路を走る車、信号機、道路標識、テナントの看板、などがミニチュア模型のようだ。通りを歩く人の姿など蟻の行列ほどでしかない。

「俺たちが向き合っている現実と言うのは所詮、こんなものなんだろうな。さっきのこうちゃんの話を引けば、俺たちがちっぽけなことで争ったり、競い合ったりしてることなんて、宇宙から見たらどうでも良いことばかりなんだろうな。」

萩原は椅子の背もたれに片腕を乗せ半身を振り返り、背後の下界に広がる景色を眺めながら、感慨深げに言った。いつしか旧友を呼ぶのも高校時代のように気安い呼び方に変わっていた。

「さて、飲物とつまみを取って来るとするか。幸ちゃんはここで留守番しててくれ。飲物はビールで良いよな。」

「うん。済まんな。ビアガーデンに来たんだから、最初はビールで乾杯しないとな。」

そう言って、萩原は、他の三人と一緒にテーブルを離れた。

「俺とヤスは飲物を取って来るよ。タカミンとオミヤは料理を頼む。」

二名ずつに分かれ、一方はビュッフェコーナー、もう一方はドリンクコーナーにそれぞれ行き、飲物と食べ物を取りに行った。テーブルに戻って来るとビールや料理を並べ、全員が揃ったところで改めて乾杯した。

五人は手にしたジョッキを思いっ切り傾け、一気に飲み干した。

頭を上げた時に、天上に煌々と輝く月を見て、今まで殆ど言葉を発することのなかった宮城が、

「綺麗な月だな。今日は十五夜か。」

と言った。

「十五夜は過ぎたよ。今日は月齢で言うと十七夜だ。十七夜のことを『たちまちづき』と言うんだ。スタンドアップの立つにウエイトの待つと書いて『立待月』、棒立ちして月の出を今か今かと待つからそう言うらしい。『十七屋、日本の内はあいと言う』ってね。昔の川柳だが、この十七屋というのは飛脚のことなんだ。立待と忽ちを掛けているんだな。忽ち着きって、今も昔も情報は早い方が良いと言うことなんだろうな。」

酒が入っているせいか、宮城は能弁だった。

「お前、良く知ってるなあ。」

安村が感心した。

「幸田のような天文学の知識はないけど、風流を楽しむという意味で、月読みするのは好きなんだ。十六夜いざよいだとか、寝待月ねまちづきとか、月には満ち欠けによってそれぞれ呼び名があるんだ。季語にもなってて、俳句に詠まれたりしているよ。俺は今、手習いのようなもんだけど句会にも入ってるんだ。」

「じゃ、何か一句詠んでくれよ。」

安村は冷やかしのつもりで無理な注文を付けた。皆も、

「そうだ、そうだ、一句披露してくれよ。」

と囃した。

「詠めと言われてもそんなすぐには浮かばないよ。」

と言いながらも、宮城はじっと目を閉じ、一句捻っている様子である。目を開けると宮城は

「秘め心 立待月に つきぬかな

と今、思い浮かべた句を詠んだ。

「どう言う意味だ。」

と安村に訊かれて、宮城は

「胸に秘めた恋心は未だか未だかと月が出るのを待つように、果てのないものだ、という意味と、秘めたままだから相手のもとにはいつまで経っても届くことがないという嘆きの意味とを掛け合わせてんだ。」

「へええ、大したものじゃないか。すぐに出て来るなんて、な。」

安村が言うと皆も頷いた。

「いや、駄作さ。人前に披露できるようなものじゃない。」

「ご謙遜、ご謙遜。」

高嶺が拍手しながらほくそ笑んだ。

「即興にしては上出来じゃないか。俺にもそんな才能があれば良いんだがな。」

「からかうなよ。お前の方が文学的才能は豊かだろ。高二の時、読書感想文で賞を取ってたじゃないか。」

「高校生の読書感想文程度じゃ大したことないよ。それに、今は俺、本も余り読まなくなったからな。読む本と言えばビジネス本ばかりで文芸作品はとんと読まなくなった。俳句も一時いっときやり始めたことがあったが、仕事にかまけて句会にも出なくなり、それっきりだ。サラリーマンってのはなかなか融通が利かないからな。」

「それは、俺だって同じだよ。」

「いや、これは失敬。そうだな、みんな、まだ働き盛りだものな。俺たちの年頃って、仕事以外のことに時間を割くなんて難しくないか。」

「そうだな。仕事一辺倒になるのは仕方ないさ。だからこそ、できるだけ余暇を楽しんでおかないと、将来、リタイアした時に困るんじゃないかって思うから、俺は句会に入ってるんだ。句会だけじゃないぜ。トレール・サークルにも入っていて月に一回、登山を楽しんでいる。まぁ、ハイキング程度だけどな。その他、週に二日はスイミングもやっている。」

「ヤギ、お前、色々、やってんだな。」

「自分のためだからな。家族を食わせていくためには仕事は大事だけど、それだけになると息苦しくなるだけだからな。昔の人の方がそういう余裕があったんじゃないかな、と思うんだ。戦国時代の武将だって、年がら年中、いくさのことを考えていた訳じゃないと思うよ。中秋の名月にはゆっくり月を眺めながら詩でも詠んだろうしな。忙しさのせいばかりじゃない。暦が変わったのが大きく関係しているように俺は考えてるんだ。今はさ、次の満月はいつだ、なんて考えるけど、昔はそんなこと考える必要はなかっただろ。朔日なら、その日は新月、十五日なら満月という具合に、月の満ち欠けと暦は一致してたんだからな。」

「暦が変わって人の意識も変化した、ってか。それは珍しい考え方だな。」

そう言ったのは萩原である。萩原は高嶺と宮城の会話を聞いて、満員電車に揺られ出勤し、日中は銀行でせわしく業務に追われ、夜遅く帰ってきて、家族とゆっくり過ごす間もなく、厳しいノルマに襲われる夢を見てうなされる姿を思い起こしていた。先日も、結婚記念日に家族でレストランに行く約束をしながら破ってしまったばかりである。料亭での旧友らとの食事会が急に後ろ暗いものに思えてきたところだった。

「勿論、そればかりじゃないさ。経済優先の今の社会の在り方がおかしいのだと思うけど、それは社会システムの問題だけじゃなくて、我々の生活と自然のリズムとの関係にもよるんじゃないかって思うんだ。」

宮城の考えは一見突飛そうではあったが、どこか理屈が通っているようにも思える。宮城は続けた。

朔日ついたちは月が立つという意味だろ、この場合の『立つ』はスタートの意味なんだがな。月の最後は昔風に言うとつごもり、月が闇に籠もると言う意味だな。一年の最後は大晦おおつごもり、これは今でも耳にすることがあるよな。十六夜いざよい躊躇ためらうという意味だけど、十五夜の次の日になると月が昇るのが遅くなるから躊躇っているように見えると言うんだな。昔はこうやって月読みを暦にしていたんだ。昔の人には、月はもっと身近なものだったんだ。月が自然の代表格みたいなものだから、人間は今より遙かに自然と近い関係にあって、決して疎かにすることなんかなかったんだと思う。それが自然との間に距離を置くようになって、経済一辺倒になっていったように思うんだ。」

「ヤギ、なかなか情緒的なことを言うな。」

安村が言った。それが、横槍を突いてからかうように聞こえたので、高嶺は憤慨したような口調で

「からかうなよ。」

と言って安村をたしなめた。

「からかっている訳じゃない。高校時代のヤギは野球ばかりで、そんな情緒のあることを言いそうになかったもの。ヤギの口から句会なんて言葉が出た時は心底、驚いたよ。」

「ヤスの言う通りかも知れないな。俺はホント、子供の頃から野球以外に興味なんかなかったからな。文学なんて全く縁遠かったし、自然にも興味なんかなかった。でも、三十を過ぎた頃に身体を壊してから、少しずつ考えが変わって、小説なんかも読むようになったし、自然にも関心を持つようになったんだ。特に、夜空を見るのが好きになってな。幸田が天文に興味を惹かれるのが良く分かるよ。三十過ぎてから毎日、月読みする癖が付いたりしてな。手帳にはいつも月齢を記しているんだよ。それに月の形を書き加えたりしてな。すると面白いことが分かったんだ。」

「面白いことって?」

安村が訊き返した。すると宮城は

「十五夜は必ずしも満月じゃないんだ、ってことに気付いたんだ。」

と返した。

「それはお前の見間違いなんじゃないのか。」

「否、お宮の言う通りだ。」

幸田が割って入った。小、中学と同じだった幸田は、宮城のことを他の者たちとは別の呼び方をする。

「新月は朔日とほぼ決まっているが、十五夜が満月とは限らないんだ。それは月の公転軌道が楕円形で地球との距離が一定じゃないから起こるんだ。地球に近い時は公転速度が速くなり、遠くなると遅くなるんだ。満月は十五夜より一日、二日遅れることになるんだね。」

幸田は説明した。

「流石だな、幸ちゃん。俺も調べてみたら、そういうことが書いてあったよ。」

宮城が言うと、安村は小さく拍手し

「へえ、二人とも良く知っているな。勉強になるよ。」

と言った。萩原と高嶺も「全くだ。」と頷いた。それを受けて、宮城が続けた。

「そんなことを知ってから、俺はますます月に対して興味が深まってな。」

宮城は自分の博学ぶりを披露し始めた。

「盃にいだ酒に月を浮かべて飲むと言うのが、中国の故事にあるだろ。李白りはくの『月下独酌げっかどくしゃく』だ。盃に月をと言うのは後で付け加えたイメージらしくて、それは事実じゃない。」

と言って、その有名な漢詩を節に乗せて暗唱した。


花間かかん 一壺ひとつぼの酒

ひとみて 相い親しむもの無し

杯を挙げて明月めいげつむか

影に対して三人と成る

月 既に 飲むを解せず

影 徒らに 我身にしたが

暫く月と影とを伴って

行楽 すべからく春に及ぶべし

我歌えば 月 徘徊はいかい

我舞えば 影 凌乱りょうらん

醒むる時 同に交歓し

酔いて後 各々分散す

永く無情の遊を結び

相い期す 遥かなる雲漢に


ざわついていた周りのテーブルが静かになり、宮城の吟詠に聞き惚れていた。詠い終えると、拍手が起こった。

「なかなか良い声をしているな。それに良く覚えたものだ。」

高嶺が感心して言った。それは只の追従ついしょうではなかった。

「ありがとう。俺は、句会の他に詩吟も習っているんだ。これは月に一回だけカルチャースクールに通っているんだが、テープも買って家で一人で練習もしているよ。」

「俳句と言い詩吟と言い、ヤギ、なかなか風流な所があるんだな。昔のイメージからは想像がつかんよ。ホント、変わったよな。」

萩原はつくづく感心した様子である。彼も一年間だけ野球部に所属し、宮城とは一緒にグランドで汗を流した仲だった。その時のレベルは萩原の方が勝っていたのだが、馬の合わない先輩がいて、口論になって辞めてしまったのだった。原因は忘れてしまったが、些細なことだったと思う。萩原はグラブをその先輩に叩き付けるようにしてグランドを去った。宮城とはクラスが同じだったので、野球部を辞めてからも親しくつきあっていたが、彼の方はその後メキメキと腕を上げ、名ショートとして注目され、地元紙では何度も取り上げられていた。野球の強豪校でなかったことが、彼をもう一段上のステージに揚げることが出来なかったのが返す返すも残念だ、と萩原は今も思っている。宮城から野球を取ってしまえば何が残るのか、それくらいに思っていたのに、思いの外、悠々自適に過ごしている姿が友として嬉しかった。

「そう言われると喜んで良いやら悪いやら。」

宮城は照れ隠しなのか、謙遜なのか、顎をさすりながら言って、

「今の詩なんか、詩吟では初歩の初歩だ。そもそも只の酔っ払いのうただからな。李白が詠ったから風流に聞こえるだけさ。別に俺が風流な人間と言うわけじゃないよ。」

と言ってほくそ笑んだ。

すると、高嶺が、

「月と言えば、昔、『月がとっても青いから』という歌謡曲があったな。」

と言った。

「古い歌だよ。俺たちと言うより、俺らの親父が生まれるよりもっと以前の曲だ。俺、この歌が好きでな。菅原都々すがわらつづこって歌手が歌ってたんだけど、婆ちゃんが良く口ずさんでて、知らぬ間に俺も覚えたんだよ。」

そう言って、高嶺は歌の冒頭を口ずさみ、

「月がとっても青いから、遠回りして帰ろ、ってな。でも青い月って、本当にあるのかねえ。」

と言った。

「どうなんだ、幸田、お前なら知ってるだろ。」

と訊かれて、幸田が答えた。

「見えることはあるよ。理屈は宇宙から見た地球が青く見えるのと基本的には同じさ。あるいは空が青く見えるのとも同じだ。青い色は地球の大気の色ということさ。尤も、空は青だけじゃなく、白くも赤くも見えるだろ。あれは大気中に浮かぶ物質、一般にちりと呼ばれているもののせいなんだ。月が青く見えるのはどうかと言うと、あれは火山爆発による灰とか、大きな隕石が大気を通過する際に発生するガスとかによるものなんだ。だから、空が青いのとはまた別なんだ。つまり、月が青く見えるのは異常な状態だということだな。」

「流石だな。」

高嶺が言うと、

「そんなことで感心なんかしたら、却って失礼だろ。」

と安村が言って笑った。

「それにしても綺麗な月だな。」

安村がしみじみ言うと、皆、顔を上げて月を眺めた。

「かぐや姫が月に帰ったのもこんな日だったのかねえ。」

お伽噺を史実のように言う安村の言葉がおかしくて、萩原は、

「お前、もしかして、あの話、本当の話だと思ってるんじゃないだろうな。」

とからかった。

「そんなわけないだろ。でもさ、サンタクロースと一緒でさ、幾つになってもそういうことを信じられるのは良いことだと思わないか。うちの子なんか高校生になるのに、『今年はサンタさん、何を持って来てくれるのかな』って言うんだ。本気で信じているのか、それとも暗に俺に催促しているだけなのか、分からんけど、そう言う気持ちを持ち続けるのは良いことじゃないか。そういやさ、話は変わるけど、アポロって本当に月に行ったんだろうかね。」

お伽噺を信じる心の純真さを褒めるような言い方をしたすぐ後に、人類の歴史的偉業に疑義を挟む安村はどこか矛盾しているようである。

「最初に月面に着陸したのはアポロ十一号だったよな。アームストロング、オルドリン、コリンズ、この三名の飛行士だ。『一人の人間にとっては小さな一歩でも、人類にとっては大きな一歩だ。』というアームストロング船長の言葉は余りにも有名だよな。俺の親父なんか、当時、小学六年生でテレビでその様子が中継されるのを見たらしいけど、ノイズが酷くて、画像も音声も悪かったから何も分からなかったらしい。尤も、画像も音声も正常だったとしても英語じゃ何も分からなかったけどな、って親父は笑ってたよ。」

「人類が始めて月面に立ったのは、一九六九年七月二十日二十二時五十六分、日本時間で七月二十一日十一時五十六分。今年は二千十七年だから、あれから四十八年になるんだな。」

幸田はスラスラと秒単位まで言った。

「秒まで正確に覚えてるなんて凄いな。」

安村が驚嘆して言うと、幸田は事も無げに、

「これくらいは頭に入っていないと、宇宙飛行士にはなれないさ。何と言っても歴史的重大事件だからな。」

「なるほどな。おれが、公定歩合は勿論、長期プライムレートや短期プライムレート、日経平均株価なんかを毎日、覚えておかなきゃならないようなもんだな。

萩原が自分の仕事になぞらえて言った。すると、安村はそれはどうでも良いと言うように萩原の言葉を打ち消した上で、

「その歴史的重大事件なんだが、最近、あれはフィクションだ、人類は月になど行ってないと否定する意見が出てるだろ。何年か前に、そんな本も出たしな。実は俺も、疑っているんだ。疑っていると言うより、どこまでが本当なのかが知りたいんだ。幸田、お前なら知ってるだろ。」

幸田に対する質問としては侮辱とも取れる内容であり、不快な表情を示すかと、萩原も高嶺も宮城も思ったが、意外にも幸田は平然とした表情で

「それはさ、JAXAの面接でもそういう問いがあるんだ。」

と言った。

「『人類は本当に月に行ったと思うか』と試験官が訊くんだな。勿論、それにNoと答えたりなんかしちゃいけない。それはNASAの名誉を傷つけるとか、そういうことに不信感を抱くことは御法度ということではないんだ。月面に着陸したと言うことを純粋に信じることの出来るひたむきさや純真さが宇宙飛行士には不可欠だと言うんだな。」

「へえ、科学一色の世界のように思うんだが、宇宙飛行士の世界も案外、ファンタジーの世界なんだな。」

「そりゃ、そうだろ。そういう夢を持てない人間には宇宙になんて行けないさ。幸田だって、小さい頃から、只、宇宙に憧れ、毛利さんに憧れ、宇宙飛行士を夢見てきたんだものな。」

高嶺が割って入り言った。

「まあね、そういうことになるな。」

幸田はにんまりとし、さらに言葉を続けた。

「とは言うもののな、実際、月面着陸については当初から疑念が抱かれていたのは事実だ。未だに、NASAの周辺でも疑っている連中はいるよ。そんな連中に詩爪音されても俺達は、『テレビで放映されていた通りです』と答えるようにしているんだがね。通信衛星を使った宇宙中継が始まったのはその二年前だけど、それを通じて世界に発信していたんだから、それを信じるしかないでしょ、という言い方だよ。でもね、当時の技術水準から考えて、果たして本当に月面着陸ができたんだろうか、となると確かに疑問に思う点は多いんだよね。」

幸田が言うのを聞いて、安村はまるで鬼の首を取ったように、

「だろ、そうだよな。」

と得意気に言った。彼は言う。

「俺がまず腑に落ちないところはさ、そんな偉業を達成するために係った時間が短いと言うことなんだ。ケネディ大統領がアポロ計画を打ち立て月面着陸を世界に向けて公約したのは一九六二年だろ、そして、一九六六年までは無人飛行で実験していて、次に有人飛行する筈だったけど発射を断念し、アポロ四号、五号、六号とまた無人飛行が続き、七号で有人飛行し、八号で有人の月周回飛行をして九号、十号と続いて、十一号で愈々、月面着陸となる訳だが、その間、たったの六年間だぜ。ハイスピードだと思わないか。リニアモーターカーなんか、大阪万博で披露されて三十年以上経って、未だに営業開始されていない。それに比べれば異例のスピードだ。そう思わないか。そんな簡単に月に行けるものかな、って思うんだ。」

「ヤス、やけに詳しいじゃないか。」

萩原にそう言われ、安村は調子づいて話を続けた。

「アポロ月面着陸捏造事件と言うのを知って興味が湧いたものだから、いろいろ調べてみたんでね。だから、細かい事まで覚えてるんだ。これに関しては研究者並だぜ。捏造とする根拠も色々、挙げられるぜ。例えばさ、空気がないのにアメリカの国旗がはためいているとか、影の方向がバラバラだとか、アームストロング船長が月面に人類で初めて足を下ろす場面は誰がどうやって撮影したか、とかね。アームストロング船長とオルドリン飛行士が楽しそうにジャンプしているシーンもおかしいぞ。月の重力は地球の六分の一だからジャンプすれば地上の六倍の高さまで上がらなきゃならない筈だけど、そうじゃないんだ。大体、そのシーンを倍速で再生すると、地上での動きと同じに見えるんだ。俺も試してみたけど、その説明通りなんだ。」

安村はアポロ月面着陸が捏造であることを裏付けるような例をほかにも挙げようとしたが、それを遮って、高嶺が「俺にも意見を述べさせてくれ。」と言って、口を挟んだ。

「昔、今、ヤスが言ったようなことを取り上げていた番組を見たことがある。その時、大学教授なんかも、アポロは月に行ってなどいない、って発言してて、その時は俺も納得させられた。でもな、人類史上に残る偉業をアメリカのような国がそんな風に茶番で済ませようとするかな。それこそ、何年も経って、あれは嘘でした、なんて言ったら、それこそ国家としての威信など吹っ飛んでしまうじゃないか。」

「随分と、アメリカの肩を持つな。」

「肩入れしているつもりじゃない。ドーピングで金メダルを取ろうとするのとは訳が違うぞ。アメリカはソ連への対抗心だけで危険な賭をする筈はないよ。国家の威信を賭けたのは勿論だけど、人類全体の長年に亘る夢を背負うつもりで取り組んだ壮大な事業であった筈だから、子供騙しなことでお茶を濁すなんて絶対にあり得ない、と、俺は思うんだ。」

「俺もそれは考えているところだ。月面着陸が捏造されたものだという意見には納得させられるものが多いが、果たしてそれだけの事業をお前が言うように、子供騙しなことで済ますなんてあり得るか、と言う疑問もあるんだ。それに捏造とする意見も、それに反論する意見も共に決定的な論証となるものは持ち得ていないんだ。だからさ、幸田にどうしても意見を聞きたかったんだ。」

安村に指名されて、幸田は腕を組み「うーん」とうなると、少し眉をひそめた。それは、嫌な問いかけをされたものだと、返答に戸惑っているような表情であった。目を瞑って、何か考える様子をしたかと思うと、幸田はコホンと咳払いを一つした後、

「実はな、アポロ十一号にまつわるちょっと面白い話があるんだ。」

と勿体をつけた言い方をした。

「どんな話だ。月面に着陸したい一心で三人とも着陸船に乗り込んだってか。」

高嶺は冗談のつもりで言った。

「いくら何でも、それはないだろ。そんなことしたら司令船に戻ることが出来ないから地球に還って来る事はできないだろ。」

安村が言うと、高嶺は

「それはそうだな。でも、三人が自分たちの頭上を何度も司令船が行きすぎるのをぽかんと口を開けて眺めている姿を想像すると可笑しいと思わないか。」

「ブラックジョークだな。否、ま、それは良い。で、幸ちゃん、一体、どんな話なんだ。」

「そうだ。どんな話なんだ。話してくれよ。」

「そうだ、そうだ。俺も聞きたいよ。」

萩原達がそう言ってせがむと、幸田は、

「じゃ、話すよ。さっきミネが冗談で言ったことは当たらずとも遠からずなんだ。ただ、この話はNASAでは良く知られた話なんだが、何分にも部外秘になっている話だから、他では絶対にしないでくれよ。」

と部外秘の部分を強調し念を押すように言った後、話し始めた。


一九六〇年代当時、月面着陸はアメリカにとって国の威信をかけた壮大なプロジェクトだった。それまで宇宙開発ではソ連が一歩も二歩もリードしていた。世界初の人工衛星はスプートニク一号によるものだったし、続くスプートニク二号では世界で初めて生物を乗せて宇宙に飛び出した。さらには、世界初の有人宇宙飛行を成し遂げたのもソ連だった。ボストーク一号で大気圏外を周回したガガーリンの言った「地球は青かった。」という言葉は余りにも有名だ。それまで、地球がどんな風に見えるかなんて知らなかった訳だからね。たとえて言うなら、生まれて始めて鏡を見て自分の姿を知るようなものさ。そんな驚きを世界中に与えたのだから、ガガーリンの言葉はとても印象深く人々の胸に刻みつけられたし、そのことで宇宙開発においてソ連が圧倒的優位に立ったという象徴にもなった。冷戦下でソ連と覇を競っていたアメリカにとって、それはまさに痛恨の極みだった。

ソ連に先を越されっぱなしになったアメリカは非常に焦った。

宇宙開発競争でソ連に大幅に後れを取ったアメリカがソ連に勝つとすれば、残された道は月旅行だけだった。流石にその計画は無謀だとソ連の方は考え、念頭にはなかった。一九五八年にアメリカの人工衛星エクスプローラ一号が発見したヴァン・アレン帯の影響を無視できないと考えたんだ。月に行くにはそのヴァン・アレン帯を通過しなければならないんだが、ヴァン・アレン帯は陽子と中性子から成り人体に大きな影響を与えると考えられていたから、ソ連は、そのことを重視して、みすみす人命を犠牲にするような危険を冒してまで、月面着陸を敢行しようとはしなかったんだ。別に人道主義の立場に立っていたのではないと思うが、まさか、アメリカが本気で月面着陸を模索しているなんて考えはしなかったんだろう。ソ連はアメリカンスピリット、フロンティアスピリットというものをあなどっていたんだ。言ってみれば、それは宇宙開発競争で優位に立っていたソ連の油断でもある訳だ。

一方、アメリカは、太古の時代からの人類の夢だった月旅行は、最早、空想ではなく現実と言えるところまで来たという実感があったんだろう。H.G.ウェルズの小説やメリエスの映画で描かれた世界が、今や手の届く範囲に近づいている、そういう確かな予感が科学の最先端にいる者にはあったんだろう。それが、ソ連との競争の中で、国家的威信を伴って、時期が早まったというに過ぎない。

人類史的な偉業を成し遂げるという大局的な観点は、アメリカにとっては自国の尊厳というものに矮小化されてしまっていたとも言える。

アメリカは科学の粋を集めて、いや、科学のみならずアメリカの持てる全ての力を結集して、人類初の月面旅行という計画に全力を注いでいったんだ。試行錯誤の末、ようやく実現の可能性が見えてきた。あとは具体的な日程調整だけだ。そして、いよいよ、アメリカは世界に向けて大々的にプロパガンダを行う時期がやってきた

誰もが眉に唾をするような大法螺が駄法螺でなくなりつつあったんだ。成功すれば、アメリカはソ連に後れを取った宇宙開発競争で大逆転を果たすことができる、ということで国民こぞって沸き立った。

しかし、同時にその時始めて、アメリカは、月面着陸という事業が自国の尊厳だけではない、人類全体の大きな軌跡になるのだということを自覚し、責任の重大さをひしと感じるんだ。

アメリカとしては、何としてもこの事業を成功させなければならないと言うことと、一つのセレモニーとして完全に演出しなければならないと言う必要が生じてきた。失敗は断じて許されない。既に、世界に向けて月面からテレビ放映を行う案も具体的になっていたから、全世界の人々が注視する中で失態を演じる訳にはいかなくなってきた。

人類初と言うことは一発勝負だから、やり直しが利かないんだ。考えてもみろよ。アームストロング船長が月面に降り立つ時、タラップを踏み外して転んじゃったりしてみろ。『カット、やり直し』って訳にはいかないだろ。人類の大きな一歩は大きな転倒で始まるわけだ。これじゃ余りに不様で格好がつかない。それに途中でどんな事故が起こるかも知れない。人類初ということは、事前に何の調査も行われておらず、手がかりになるものもない。月面に接近した写真はあるが、実際に直視したものではない。まして、人間が着陸して無事でいられるという保証はどこにもない。タラップを踏み外すくらいならまだしも、月面で着陸船のハッチを開けた瞬間、得体の知れないガスが侵入して飛行士の体に何らかの支障が生じたりしたら、大事おおごとだろ。単に、月面旅行に失敗した、だけでは済まされない。飛行士らの生命も省みない非人道的な行動として、テレビを見た全世界の人々から非難囂々(ごうごう)になるのは間違いない。アメリカの思い描く壮大な事業は、無謀な実験に変わってしまう訳だ。

アメリカは自国の威信を損ねるだけでなく、人権や人命を無視する非道な国だと世界中の避難を浴びるだろうな。

ベトナム戦争まっただ中で、アメリカの大国的な暴虐ぶりは世界に報道されていた時期だから、人類初の偉業の筈がむしろ逆にナチスドイツにも匹敵する非人道的国家として国際世論によって糾弾されかねない。すると、膠着状態にあったベトナム戦争自体にも影響を与えかねない。

そこで、アメリカは考えた。

月面着陸には予行演習が必要だってね。それも地球上じゃなくて、月面で実際に行わなければ意味が無いと。勿論、地球上では想定訓練を重ねていた訳だけど、さらに確証を得るためにどうしても月面での予行演習が必要になった。

アメリカはアポロ八号で有人の月周回飛行を成功させた後、直ちに月面着陸の準備に着手したんだ。但し、非公開でね。アポロ計画は最初を除いて、一号、二号と番号を付けいたんだが、これには番号が付いていない。つまり無番のアポロの実験計画を謀ったのさ。通称、アポロゼロゼロあるいはアポロインフィニティと言われるものだ。インフィニティは無限大という意味だけど、ゼロとゼロを横に並べると無限大の記号になるだろ。それにアポロ八号の8を横にすると∞になる、まさにアメリカらしいウィットに富んだネーミングなんだけどね。

アメリカはこのロケットの存在も、それによる計画も、世界には一切報じなかった。あくまで秘密裏に進めていったんだ。乗組員も俄仕込みの者ばかりだ。空軍から三名を選抜し、三ヶ月間だけ、NASAの秘密訓練所で短期間の特訓を受けさせた。彼らにもその目的を一切明かさず、ただ、ソ連との宇宙開発競争に勝利するために、飛行士の補充が必要となり、促成教育することになったのだと説明されたのみだった。

その間、公式には、アポロ九号、十号と相次いで発射され、月面着陸を目的としたアポロ計画は着々と進められていった。

秘密裏に進められたインフィニティ計画は、世界の目を誤魔化すために、発射台もヒューストンとは別に、ニューメキシコ州のアラモゴード砂漠に設置した。アラモゴード砂漠と言えば、世界初の核実験が行われた場所だ。平和を愛する世界中の人々、特に唯一の被爆国である日本にとっては呪われた場所に思うが、原爆こそが第二次世界大戦を終結させる原動力になったのだと固く信じているアメリカにとっては、そこは聖地に等しい場所なんだ。三人は一九六九年の六月に入って、アラモゴードの発射基地に移送された。そこで、初めて月面着陸の任務を告げられると、一瞬、戸惑いはしたが、そこは軍人だ。人類初の栄誉を受けると言うことに誇りを持って、ロケットに乗り込む決意を固めた。

そして、一九六九年六月十六日、ロケットが発射された。丁度、アポロ十一号が打ち上げられる一ヶ月前だ。この日を選んだのは意味があった。アメリカがハワイを併合した日だ。アメリカは世界に先駆けて月を手に入れる、つまり植民地にしてやろうと、そんなつもりもあったんだろう。

スリー、ツー、ワン、ゼロ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴー、轟音を立ててロケットは発射台を飛び立った。ひとまず、ロケットの発射は成功したんだ。

あ、因みに言っておくと、「スリー、ツー、ワン、ゼロ」とカウントダウンするだろ、あれ、別に意味なんか無いからね。そんなことしなくても、ロケットは飛ぶんだから。あれも演出の一つに過ぎない。

さて、地球を飛び立ったインフィニティ号だが、月までは何の問題もなく順調に飛んで行った。心配していたヴァン・アレン帯も難なく通過し、人体に影響がないことが証明された。尤も、八号でそのことは証明済みなんだが、より確証を得た訳だ。そして、月が間近に迫り、いよいよ月の周回軌道に入った。三人の宇宙飛行士はこれから自分たちが成し遂げるであろう快挙に胸を膨らませたんだろうな。そんな感想を聞く機会は永久に無くなるんだけどな。

着陸船に乗り移った三人は、着陸のタイミングを計り、体制を整えるために地球からの指示を待った。指示が来るまでの間、ロケットは月を何周もし、飛行士達も同じ風景にそろそろ見飽き始めていた。ようやく、地球からの指令が届き、司令船から着陸船が切り離され、ゆっくり降下した。

着陸船は無事、月面に着いた。三人はハッチを開けて、順々に月面に降り立った。まさに人類初だ。その偉業に三人が狂喜したのは勿論である。と言っても想像だけどな。

三人は月面に着陸する以外に、特に任務は与えられていなかった。NASAは、人類初の月面着陸にこそ意義があるので、それ以外の任務は特に与えないと説明していたのだけれども、本当のところは単なる予行演習に過ぎず、わざわざ任務を与える必要も無かったんだ。そんなこととはつゆ知らぬ三人は、月面の感触を堪能しようと着離船の周囲を飛び跳ねた。そして、程良く疲れたところで着陸船に戻った。

着陸船の中で、三人は、帰還の指示を待った。しかし、待てど暮らせど、地球からは一向に命令が来なかった。それどころか、いくら交信しようとしても、地球との通信は途絶えてしまい、何の反応もなかった。それもその筈で、既に交信は断ち切られていたんだ。何かの事故ではないかと疑った彼らは、訓練中に教わった方法で着陸船のエンジンを点火し、上昇しようと試みた。が、そもそも着陸船に離陸用の噴射機能など備わっていなかった。だから、自力で上空に飛び上がり、司令船とドッキングするなど到底無理なことだったのさ。そんなことも知らされていなかった彼らは、それでもまだ着陸船を修繕し、帰還することを夢見ていた。地球との交信が途絶えて、数日経ち、焦燥のうち力尽きた彼らは、遂に地球への帰還を諦めた。が、自分たちが果たした人類初の功績とその栄誉は信じて疑わなかった。そして祖国アメリカとアメリカの栄光をだ。自分たちがその犠牲になったとは思いもよらずにいたことが、何より哀れでならない。

青く光った地球を遠くに眺めながら、自分たちの名前は永遠に歴史に刻まれるだろう、とただそれだけを信じながら、彼らは死を覚悟した。彼らを拾うこともなく、司令船が意味なく頭上を通り過ぎて行った。それは際限なく繰り返される情景となった。まさしくインフィニティ、無限だね。

しかし、彼らの願いも覚悟も空しく、事実は全て隠蔽されることとなった。勿論、彼らの栄光も名誉もだ。

その後も暫く、彼らは性懲りもなく、月面の状況や彼ら自身の心情をずっと、地球に向けて発信し続けたらしい。NASAではそれを受信していたのだが、その通信記録さえも、アメリカは闇に葬ろうとしたのさ。その記録が明るみに出たら、忽ち大問題になるだろ。アポロ月面着陸捏造疑惑どころじゃない、宇宙飛行士を見殺しにしたんだからな。ところが、どうした訳か、通信記録のテープの一部が流出したらしくて、噂が広まり始めたんだ。アメリカはそれを必死に揉み消そうとした。

アメリカは最初から三人を見捨てるつもりだったんだ。

「人類の無限大の可能性」を切り開いたと自ら信じた彼らにとってのインフィニティは、それとは逆に、彼らの存在そのものを無限のかなたに追いやろうという企み以外の何ものでもなかったんだ。

だって、そうだろ。人類初の月面着陸を華々しく演じたくて、そのための予行演習として三人を月に送ったんだから、その連中が地球に戻ってきて、自分たちこそ人類初の月旅行者だなんて言ったらとんでもないことになるじゃないか。それこそ、アメリカの威信は地に落ちてしまう。

口封じのために、彼らを騙して月に置き去りにしたんだ。

アメリカにとって、人類初の月面着陸を成し遂げることそのものに意味があった訳じゃない。それを壮大に演出し、世界に宣伝することにこそ意味があったんだ。

しかし、その陰には、何も知らされないまま月面に飛ばされ、見捨てられた三人の犠牲があった、ということだ。

アメリカは、インフィニティを予行演習の意味とは別に、月面着陸の模様を華々しく演出するための予備的手段として利用しようと目論んでもいたようだ。インフィニティから送られてくる映像を残して置いて、アポロ十一号が月面着陸した際の万一の場合に備えて、その映像を差し替える準備もしていたんだ。用意周到だよ。

月面着陸に成功したところで、その模様を上手く撮影できなかったら世界に伝えようがないからね。映像の効果はどこよりも知っているアメリカらしい考え方だ。面の風景を作りだし、そこで訓練と称して、、事前に撮影しておいたという訳さ。

アポロ月面着陸捏造疑惑で言われる、記録映像が途切れているように見えたり、前後の場面に違和感があるように見える箇所がいくつも見られるというのはそのせいさ。不自然な箇所が幾つもあるのは頷ける。

これくらいのことをして、セレモニーとしての意味での月面着陸という壮大なプロジェクトをアメリカは徹底して演出しようとしたんだ。そこに多少の嘘が混じったとしても、仕方の無いことだ。

結局、アメリカはアポロ十一号の偉業によって威信を回復するんだが、そのために、捨て駒にされた三人のことなどすっかり忘れてしまっていたんだ。と言うよりも、邪魔な訳だから努めて忘れようとしたんだ。

ところがだ。皮肉なこともあるもんだ。

アポロ十一号が月面に到着してから、船員が月面に着陸するために六時間も要しただろう。あれは、船員らが驚くべきものを目にしたからなんだ。月面に着陸船が立っているんだからね。

彼らは、自分たちが人類初だと思っていたのに、誰かに先を越されたなどとは思いもよらなかったからな。「あの船は何だ。」「ソ連が先に到着していたのか。」「それとも異星人か。」などと船内では騒ぎになったらしい。さぞや、彼らの心境はアムンゼンに先を越されたスコット隊長と同じようなものだったろうな。NASAと何度も交信したが、インフィニティのことは伏せたままであって、何も知らされないまま、彼らは指示に従うようにと命令されたんだ。まさか、先任者がいたなんて話は、アームストロング船長以下、アポロ十一号の乗組員らには何も知らされていなかったし、NASAとしてもアポロ十一号の軌道をインフィニティから外したつもりだったから思いもよらないことになって慌てふためいた次第だ。アポロ十一号からの連絡にまともに答えず、只、指示に従えと命令したのも、誰かに傍受されるのを恐れたからだ。実はインフィニティの時も恐らく誰かが傍受していたかも知れないが、完全に非公開だったので、それと意識しなければ何のことだか分からないだろうから、注意を払う必要もなかったんだが、流石に、今度はそうはいかない。世界中が注目しているからな。だから、さっさとその件を切り上げるようにして命令したんだ。三人の飛行士は軍人だから命令には忠実だからね。

NASAは、まさかアポロ十一号がインフィニティとの残骸と遭遇するなんて思いも寄らなかったんだが、偶然、目撃してしまったので、気掛かりになってきて、着陸地点をインフィニティの近傍にすることに急に変更した。そして密かに暗号を送った。暗号を解くと「落とし物の探索をしろ。」と言う内容だった。それ自体が暗号のようなものだったが、飛行士らにはその意味が分かった。彼らは月面に降り立つと、着陸船らしきものの側に近づいて行った。中に人がいる気配はないが、つい先程までいた形跡は認められる。

それについて詳しく調べたかったが、地球から送られてきた暗号には「探索だけしたらそこからすぐに引き上げろ。」とあったので、アームストロングとオルドリンの二人は命令通りに確認だけしてすぐ撤収した。二人は何となく事情が飲み込めた。詳しいことは地球に帰ってから説明を受けるだろうと、それまでは一切、詳しいことは訊かないでおくことに決めた。

自分たちより以前に月に立った者がいた。しかも、本国はその彼らを見捨てた。それは衝撃的であった。だが、アームストロングとオルドリンはアメリカを背負った人間だ。感傷などに囚われること無く、命令に忠実だった。

二人は一旦、着陸船に戻ると、改めて、月面着陸を挙行することにした。

それまでの間、テレビ中継はストップしていた。着陸までの空白の時間はそう言う訳だ。愈々、着陸の瞬間、壮大なセレモニーは大団円へと向かい、そして世界中の人々が知っているあの有名な台詞へとつながるんだ。

そこまで仕組んで、アメリカはこの偉業を最高の宣伝材料として演じ切ってしまいたかったんだ。

その後、アポロ十一号は無事帰還したが、インフィニティとその乗組員は置き去りにされたままだった。

一説には、着陸船の降下時に

「あれは何だ。」

と絶句するアームストロング船長の声が微かに聞こえると言うんだ。

それで、異星人を見たという説が一時期流れたことがあったんだが、勿論、彼が目にしたのはインフィニティの乗組員さ。



「いやあ、面白かった。」

そう言って、萩原が拍手すると、他の者も拍手し、隣のテーブルで盗み聞きしていた客からも拍手が起こった。

「幸ちゃん、今の話は事実なのか。」

宮城が訊いた。

「さあ、それはどうかな。」

幸田はとぼけているように見えた。萩原は、恐らく、幸田の作り話か、NASAの周辺で伝わっている都市伝説のようなものだろうと疑った。それに応えるかのように、幸田は付け足して言った。

「アポロインフィニティの乗組員というのが、アフリカ系つまり黒人とヒスパニック系、それからアジア系だったそうだ。アジア系というのはどうやら日系だったみたいだがね。つまり、白人以外の人種を選んで、壮大な実験の生け贄にしたということらしい。まだ人種差別が根強く残っていた頃の話だからな。」

その捕捉は話を尤もらしくするための仕掛けのようなものにも、萩原には思えた。どうやら、宮城も幸田の話をまともに受け止めてはいない様子だった。宮城もインフィニティの話は酒の席を盛り上げるために誰かが考え出したもので、ほんの座興みたいなものだと考えているようだった。だが、安村と高嶺はその話を真に受けている風で、安村などは

「今の話の方が、アポロは月になど行っていない、と断定する話より余程説得力もあるし、信憑性が高い気がするな。」

と言うほどだった。そして、高嶺もそれに同調していた。高嶺は

「インフィニティの三人はその後どうなったんだろうな。」

と呟くように言った。

「さあな、あれから五十年近く経つから、まさか生きているなんてことはないだろう。どこかで野垂れ死にしているのじゃないか。だとしても、空気もないし、宇宙服の中はバクテリアの侵入も防げるから、それほど腐食は進まないだろう。ほとんど、存命中の状態のまま、肉体が今も維持されているんじゃないかな。」

幸田は淡々と答えた。

「存命中と同じ状態か。生命はついえても、肉体は滅びてはいないんだな。あるいは、案外、今も生き残っているかも知れないぞ。」

高嶺は面白半分に言った。

「まさか、流石にそれはないだろ。」

萩原が言うと、幸田は、

「満更、冗談と決めつける訳にはいかないかも知れない。地球と比べて重力が小さい分、肉体に係る負荷も少ないから、地球上とは違う状態で永らえることが出来るかも知れない。人間の身体ってのは、意外に頑丈だし、また、意外に柔軟にできているから、月の環境に合わせて、肉体が変化していくことも考えられない訳じゃない。例えば、月の石に含まれている成分を栄養素として取り入れて生き延びる術を手に入れたかも知れない。生き延びることさえ出来れば、地球より老化の速度も遅くて、長生きすることができるという仮説も立てられる。」

と言った。

「しかし、それは空想にしても突飛すぎるな。」

高嶺もそれには否定的に言ったが、安村は

「もし、彼らが生きているとしたら、自分たちを運んで来た司令船が頭上を通り過ぎるのを眺めて、恨めしそうにしているのだろうかな。」

と言った。ブラックなメルヘンである。

高嶺がそれに輪を掛けたように、声をくぐもらせながら、さらにブラックな話を語った。

「残された三人は、自分たちが受けた仕打ちを恨みに思って、密かに報復の機会を伺っているかも知れないな。」

「は、は、は、それは穏やかじゃないな。」

「スピルバーグがこの話を知ったら、それを題材に映画を撮るんじゃないか。」

と半ばからかうように言った。

「しかし、それにしても今日の月はきれいだよな。中秋の名月よりも見応えがあるんじゃないか。」

安村と高嶺が言い合って、笑った。

「既に三人は復讐のために地球に向かっているかも知れないぞ。」

そう言って、二人は空を見上げた。

月はほぼ真上にあり、ホテルの屋上にいる彼らを煌々と照らしていた。満天の夜空に瞬く星々は数えるほどしかない都会に、風流というものなどは微塵も感じられない。月から地球を眺めた方が、余程、風流ではないだろうか、信じてもいない幸田の話から、月に置き去りにされた三人の心情を萩原は思いやった。人類が本当に月面に立ったのかどうかは知らないが、態々、月面探索などせずとも、月は地球から見える月のままそっとしておいた方が良かったのでは無いか、萩原はそこに人間のエゴのようなものを感じ、少し感傷的になった。

「お、おい、あれを見ろよ。」

安村が大声を出した。

「何か見えないか?」

と訴えるように皆に訊くと、

「月があるだけじゃないか。」

と、高嶺は素っ気なく言った。

「そうじゃない。つ、月の、月の真ん中辺りに何か動くのが見えないか。」

安村は言葉を詰まらせながら、落ち着かない様子で言った。

「何も見えんぞ。」

高嶺がそう応えると、安村はまた、

「よく見てみろよ。何かが近づいてくるぞ。」

と叫ぶように言った。

「お前、酔ってるだけだよ。」

と高嶺は言いながら、じっと目を凝らして見ると、何かが動くのが目に止まった。高嶺は、

「ああ、あれは飛行機じゃないか。いや、待て待て、もしかしたらインフィニティの乗組員が復讐のために戻って来たんじゃないか。」

とふざけて言った。萩原と宮城も、

「そうかも知れんぞ。」

と面白半分に言って笑った。安村だけが真剣な顔で、脅えるような目をしながら、上空を見上げていた。

月はその上で唯、密かに居座っていた。

会場のあちこちでざわつく声など無視するように、唯、月は優美に輝きを放っていた。


(完)

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