熱病
大通りから少し入った所、裏通りには区別がつかない程に類似した外観の長屋がずらりと立ち並んでいる。
そのうちの一つがパルスィの家だった。
ヤマメがパルスィの住居をひと目で判別出来たのは、たまたま近くを通りがかった時にその場所を確認したことがあるからだ。
友達の家を訪れるだけ、ただそれだけのことで馬鹿みたいに緊張している自分を叱咤しつつ、ゆっくりと玄関の前に近づく。
そこで立ち止まり、大きく深呼吸。
変に意識してどうする、私たちはただの友人だ――と何度自分に言い聞かせても、ノイジーな心音は鳴り止まない。
深呼吸もちっぽけな気休め、自己暗示も緊張感を高めるだけ。
乱れる呼吸、こめかみににじむ汗、震える手。
この有様じゃあ、玄関を開くという容易いアクションすら満足にこなせそうにない。
ヤマメはしばし考えこんだ後、自分の顔をゆっくりと玄関に近づけ……耳をぴとりとくっつけた。
自分が錯乱していることはヤマメ自身とっくに理解している、認めている、どこからどう見ても今の彼女は不審者だ。
だが、まずは自分の心配事を一つ一つ潰していくべきだと判断した。
今のヤマメが正常な状態に戻るなど、おそらく不可能だ。だったらいっそ諦めて、不可能なら不可能なりに少しでも健全な精神状態に近づける。
そのために必要な行動こそが、パルスィの家の中の物音を探ること。あの少女の存在が無いことを確定させること。
「音は、しないかな。
うん、大丈夫みたい」
心配事は一つ消えた。
相変わらず気持ちは落ち着かないが、まあ多少は気持ちに余裕が出来たのかもしれない。
扉の右側には、いつからか地底に普及し始めたインターフォンのボタンがある。
外でできることはそう多くはない、結局の所、多くの心配事を解消するためには直接パルスィと顔を合わせるしかないのである。
「ん、んんっ、おほんっ」と軽く喉の調子を整え、握り拳で汗ばんだ右手、その人差し指をボタンへと伸ばす。
ピン、ポンと機械音が響いた。
チャイムから遅れること十秒ほど、家の中からは――やけに遅い足音が聞こえてくる。
様子はおかしいが、どうやらパルスィは中に居るらしい。
「だーれー……?」
気だるげでやる気のないパルスィの声が向こうから聞こえてくる。
「私、ヤマメだよ」
「ヤマメっ!? なんで……っ、えっと、その……とりあえず、開け……ん、いや、待って。
やっぱダメ、無理、開けない!」
「えええっ、開けてよっ!?」
すりガラスの向こう側にうっすらとパルスィの姿が見える。
彼女はすでに玄関に手を伸ばし鍵を摘んでいるはずなのに、何故かそこで思いとどまってしまった。
「なかなか橋に来ないから、心配で来たんだけど。
声も少しかすれてるし、もしかして病気なんじゃ……」
「し、心配無用……ごほっ……よ」
「じゃあ問題ないよね、ここを開けて」
「それは……その、誰か来るとは思ってなかったから油断してて、ちょっと外に出られる格好じゃないから……」
「私たちの関係なんだから、寝起きで油断したパルスィの姿だって私は見てるの、何もかも今更なんだって。
私相手に隠すことなんて何もないはずだよ?」
「逆よ、むしろヤマメだからこそっ……ケホッ、ケホッ!」
「ほら、言わんこっちゃない」
「えほっ……うぅ、近寄ったら伝染るわよ?」
その言い分は相手がヤマメでなければ顔を合わせない理由にはなったのかもしれないが、彼女相手に切るカードとしては最も不適切だ。
「私を誰だと思ってるの、土蜘蛛に風邪なんか伝染るわけないって普段のパルスィならわかるはずだけど」
「しまった……そういやそうだったわ。
ああヤマメ、あなたはどうして土蜘蛛なの……?」
「きっとパルスィを看病するために神様がそうしたんじゃないかな。
わかったら観念して開けなって」
「はぁ、神様まで出てきたんじゃ仕方ないわね、私の負けよ」
ヤマメに看病してもらえる状況を負けと呼ぶのは妙な話だが、パルスィはアンニュイな表情をしながらありったけのため息を吐き出して、しぶしぶ扉を開いた。
”どうして開けるのを躊躇ったのか”と問いただそうとしたヤマメだったが、その顔を見て理由を一瞬で理解してしまった。
なるほど確かに、これじゃあパルスィが開けたがらないのも納得できる。
「笑いなさいよ。
こんな顔してるんだもの、百年の恋も醒めるでしょう?」
パルスィは自虐気味に笑ってそう言った。
確かに目の下にはくっきりと隈が浮き上がっているし、目は充血して、顔も全体的に青ざめた上にむくんでいる。
それでも美人なあたりはさすがと言った所だが、本人からしてみれば最悪のコンディションである今の惨状は誰にも見せたくなかったのだろう。
だがヤマメにとっては些細な問題だった。
「ぷっ、なにそれ。
言ったよね、今更だって。パルスィ相手に醒める恋なんてありやしないよ」
「……そっか、そうよね」
「むしろその顔見て余計に不安になったじゃないか、どこが心配無用なのさこのばかちんめ。
頼り頼られなんて私たちの柄じゃないことぐらいわかってるけどさ、病気の時ぐらい甘えてくれていいんだからね」
「迷惑かけたくなかったの」
「迷惑を体現したようなお方が何を言ってるの?
むしろ頼ってくれない方が迷惑だよ、私たちの仲はその程度だったのかって悲しくなるからさ」
「ごめん、ありがと」
「あはは、お礼にはまだ早いってば」
ヤマメは家に上がると、真っ先にパルスィを布団に寝かせることにする。
他人が家に居ることに慣れていないのか、パルスィは落ち着かない様子だったが動きまわって症状が悪化されたたまったものじゃない。
「せめてお茶だけでも」と言うパルスィを半ば無理やり布団に押し込んだヤマメは、ひとまず浴室から桶と布巾を持ってくることにした。
予想通りと言うかなんというか、部屋はかなり散らかっている。
風邪を引いてしまって整理出来ないことも原因の一つだろうが、普段から散らかっていなければここまで酷くはならないはずだ。
パルスィの性格からして部屋が片付いているとは思っていなかったが、ここまで予想通りだとヤマメも思わず笑ってしまう。
荷物が多いためかなり狭く感じるが、広さ自体はヤマメの住居とそう変わらないようだ。
つまりは地底における住居の平均的な広さである。
台所、厠、風呂は完備。
食事は外食、風呂は銭湯で済ます者も多いので風呂台所無しの住居もそう少なくはないのだが、パルスィは一人の時間を大事にしたいタイプなのだとか。
確かに、獲物を前にした時と今のパルスィは丸っきり別人だ、美人が前に居ると手を出さずには居られない悪癖を持つだけに、スイッチの切替のためには孤独も必要なのかもしれない。
冷たい水を桶に注ぎ、脱衣所にあった白い布巾を手にとって居間まで運ぶ。
未使用の布巾が比較的わかりやすい場所に置いていあったのがせめてもの救いか、荷物をひっくり返して探せと言われたらそれだけで一苦労しそうだ。
居間に戻ると、どこか虚ろなパルスィの視線がヤマメの方を向いていた。
不謹慎とは思いながらも、妙な色気を感じてしまってヤマメの心臓がどくんと高鳴った。
馬鹿なこと考えてるんじゃない、と自分を叱りながら首を左右に振って邪念を振り払う。
幸いにして邪な考えはほんの一瞬で容易く消え、ヤマメはいつも通りの爽やかな笑顔でパルスィの視線に応えた。
「誰かが居てくれるだけで……こんなに楽なものなのね」
「まだ何もしてないって」
「何もしてなくても楽になるから驚いてるのよ、体じゃなくって気持ちの問題」
「だったらあの子呼べばよかったじゃん、尻尾をぶんぶん振り回しながら”お姉さまぁ~”って来てくれるんじゃない?」
ヤマメは布巾を水に浸し、絞って水を切る。
絞る手に、僅かではあるが過剰に力が込められていたのは嫉妬ゆえだろうか。
自分で言っておきながら嫉妬するなど馬鹿らしい、徐々にエスカレートする自身の面倒臭さにヤマメは思わず口端を引き攣らせ自嘲した。
「……」
「……パルスィ?」
返事もなしに急に黙りこくったパルスィは、なぜかじっとヤマメの方を見ている。
「もう、どうしたのさ。もしかして体がきついとか?」
「いえ……違うの、なんでもないわ、頭がぼうっとしていただけ」
「だったらいいけど……って良くないよ! ごめんね、あんまり喋らない方がいいよね」
十分に絞った布巾がパルスィの額に乗せられる。
その冷たさが火照る体に心地よかったのか、彼女は「はぁ」と再び色っぽく息を吐いた。
またドキリと高鳴るヤマメのわからずやな心臓。
「話してる方が気が楽なの、気にしないでいいわ」
「ほんとに?」
「病は気からって言うじゃない、あんたと話してると体の気だるさも忘れられるのよ。
だから……ね、いいでしょう?」
ヤマメにはとても大丈夫なようには見えなかったが、自分の体のことを一番良く知っているのは自分自身だ、パルスィがそう言うのなら仕方無い。
「そこまで言ってもらえると来たかいがあるってもんだけど、本当にきつくなったら言ってね、私のせいで長引いたりしたら申し訳ないし」
「あら、私はそれでもいいけど?」
「だめだよっ、いくら妖怪でもきついものはきついんでしょ!?」
「ふふっ、だってそうしたら明日も明後日もヤマメが看病に来てくれるんでしょう?
こんな機会、なかなかないわ」
「看病しなくたっていつも一緒にいるじゃんかよぅ」
「違うのよ、そういうのじゃなくて……ヤマメが家に居てくれるのが嬉しいっていうか。ほら、私がヤマメと一緒に居るのってあんた相手が一番リラックスできるからじゃない?」
「初めて聞いた」
「そうかしら……いや、そうかもしれないわね、わざわざ言葉にするような事じゃないもの」
だからこそ、パルスィにとってヤマメは触れてはならない存在なのだ。
自分の汚さとヤマメの清廉さはまさに対極、一緒に居るだけで心安らぐ存在など自分には相応しくない。
彼女はあまりに白く、純粋で、もっと他の――宝物でも扱うように大切に愛でてくれる誰かが、いつかきっと彼女には現れるだろう。
その時まで、一瞬の夢を見ているようなものなのだと、パルスィはそう思っていたから。
だからこそ必要以上に近づこうとはしなかった。
二人で温泉旅行に行こうなんて提案された時も実は悩みに悩んでいたし、ヤマメの部屋に招待された時も最初は自分の煩悩を抑えるので精一杯だった。
きっと、目はハイエナのように欲望でギラついていたはずだろう。
それでも、ヤマメは気付かないのだ。無邪気に語りかけて、笑って、あわよくばパルスィに触れようとしてくる。
「こんなの、贅沢よね」
「贅沢って、看病が?」
「ヤマメの看病なんて私には度が過ぎる幸せだわ、バチが当たりそう」
「なにさそれ、おだてるならもっと別の女の子にしなよ、私相手じゃお世辞の無駄遣いになるだけなんだからさ」
「あら、一番の友人であるヤマメほど相応しい相手がいるとでも?」
「いるじゃない、あの子が」
「それでも、一番はヤマメよ」
「はいはい、パルスィさんの一番になれて嬉しいですよーっと」
「冗談じゃないのに」、「冗談じゃなければいいのに」、二人はお互いに気付かない程度の小さな声でそう呟いた。
微妙な空気、双方共に交わす言葉が思い浮かばない。
他愛無い会話こそ長年続けてきた得意分野だったはずなのに、最近は時折こうして途切れることがある。
その沈黙は決して気まずい物ではないのだが、気まずさとは別に妙なこそばゆさを感じてしまって、ヤマメはその感覚が特に苦手で仕方なかった。
今だって例外ではない、じっとしていられなくなったヤマメはおもむろに立ち上がり、居間を出ようとする。
「どこに行くの?」
「台所、どうせ朝から何も食べてないんでしょう?」
「あぁ、そういえばそうだったわね。なんか思い出したらお腹減ってきたわ」
「食べることすら忘れてたの!? もう、かなり重症じゃないか。
急いで作るから待ってて」
先ほどちらっと台所を見た時は、食器を使った形跡が無かった。
つまり朝から何も口にしていないということなのだろう。
食欲が無いので昼まで何も口にせずとも平気だったのかもしれないが、体力を付けなければ治るものも治るまい。
「材料、あんまり無いかも」
「軽くおかゆを作るだけだから大丈夫じゃないかな……あ、ご飯はあるのかな?」
「ん、台所のおひつの中に少し残ってると思うわ、昨日の夜のだからまだ大丈夫だと思う。
あと、床下にある保管庫の中身は適当に使っていいから」
「りょーかい、じゃあちょっと待っててね」
「ええ、ヤマメのお尻でも見て待ってるわ」
「病人のくせに盛らないの、大人しく寝てなさい」
もちろんパルスィがヤマメの言うことを聞くはずなどなく、ヤマメは背後からの視線を感じながら料理をするハメになってしまった。
たまにちらりと後ろを見てみると、パルスィは本当に楽しそうにこちらを見ていて、振り向く度にヤマメの目を見て満開の笑みを浮かべる。
向けられた方が恥ずかしくなるほどの会心の笑みだ、ヤマメは自分の頬が熱くなるのを感じた。
「これは、まずいなあ」
料理ではない、ヤマメ自身がだ。
嘆いてはいるものの顔はにやついていて、とても危機感を抱いているようには見えないのだが、本人的には焦っているつもりだ。
いや、むしろにやついていることを自覚しているからこそ焦っている。
今の状況はただ見られているだけだ何を焦ることがあるというのか。
パルスィはからかっているだけ、以前のヤマメなら笑って流す場面……だったはず、なのだ。
それがどうだ、今じゃ見られるだけで背中がむずむずする、振り返って顔を見ようものなら頬が熱くなる、そうじゃなくても視線を感じるだけで勝手に顔がにやつく。
私を見ていてくれている、そんなどうでもいい理由で。
誰かを想うだけで、こうも変わってしまうものなのか。
この変化には劇的という言葉がぴったりと当てはまる。
それでも自分の想いを認めることができないなどと、往生際が悪いにも程がある。
さとりがへたれと呼ぶのも仕方無い、ヤマメ自身もそう思っている。
だが、それでも。
長い年月をかけて築いてきた友人というぬるま湯の関係、心地の良い居場所はそう簡単に捨てられる物ではない。
未だ、新たな関係に踏み出す欲求よりも、壊れるかもしれない恐怖の方が勝っている。
そう簡単に割り切れるものではない。
完成したおかゆを持って居間へ戻ろうと振り返ると、やはりパルスィはこちらをじっと見つめていた。
いつものいじわるな笑顔とは違う、具合が悪くてどこかぼんやりとした眼ではあるが、幸せを噛みしめるような、暖かな笑顔で。
贅沢だとか、度が過ぎる幸せだとか、ヤマメはてっきり自分をからかうための嘘、あるいは社交辞令だと思っていたのだが、その笑顔を見てあながち冗談でも無いのかもしれないと思った。
同時に、幸福感で胸が締め付けられる、顔が熱くなって頬が引きつる、勝手ににやついてしまう。
顔をぶんぶんと振り回し、にやつく顔を無理やり表情筋で押さえ込みながら、おかゆをパルスィの元へと運んでいった。
「本当にずっと見てたんだ」
「こうして寝っ転がって、私のために料理してる誰かの後ろ姿を眺めるのって結構楽しいのよ。
私には似合わない人並みの幸せだけどね、たまにはこういうのも悪く無いわ」
ヤマメにもその感情は理解できるような気がした。
遠くから聞こえてくる包丁がまな板を叩く音、ジュウジュウという何かが焼ける音、それを聞いているだけで安心感にも似た幸せを感じることができる。
一人暮らしに慣れると尚更だ。
友人と言うよりは、夫婦や親子だったりと家族を連想させる幸福感ではあるが、この際細かいことは隅においておこう。
確かに人並みではあるし、女遊びの過ぎるパルスィには似合わないのかもしれない。
だが、自虐気味にそう言ったパルスィはどこか寂しげで、ヤマメはそれが納得できなかった。
勝手に似合わないなんて判断されても困る、折角パルスィを幸せに出来たことで自分だって幸せになれたのに、と。
「そういう幸せが欲しいって言うんなら、頼まれればいつだってエプロンを着るし、料理ぐらいはするよ。
似合う似合わないなんて関係ない、要は自分が幸せかどうかが大切なんだから。
パルスィが幸せならそれでいいじゃん」
「私には過ぎた幸せよ」
「いつもは身勝手好き放題にやってるくせに、なんでこういう時だけ遠慮するかなぁ。
別に過ぎたっていいじゃない、幸せは沢山あった方がいいに決まってるんだから」
「私なんかが人並みの幸せなんて願ってもね、歪んでる方が私らしいと思わない?」
「思わないね。と言うか歪んでるって自覚あったんだ、びっくりだよ。
私はパルスィにしか料理は作らないし、幸せになって欲しいと思うのはパルスィだけなんだから。
遠慮して弾いた幸せが他の誰かの物になるわけじゃない、自分が不幸になることで誰かが幸せになるなんて考えてるんだったら無駄なんだからね」
「まさか、他の誰かに幸せになって欲しいなんて願ったこと無いわ、ただ私が幸せになるのが納得いかないってだけ」
「パルスィ、もしかして……いつもそんな風に思ってたの?」
「話したことなかったかしら」
「初耳だよ、パルスィの頭の中にネガティブな要素なんて欠片も無いと思ってた」
「……そう、熱で口がゆるくなってるのかもしれないわね。
あ、下の口はゆるくなってないわよ?」
「私が手に凶器持ってるの忘れてない?」
脈絡なく下ネタを突っ込んでくるのは一見して普段のパルスィらしく見えるかもしれないが、ヤマメには無理に自分が平常であることをアピールしようとしているとしか思えなかった。
あるいは、それで誤魔化して話の方向を変えようとしているのだろうか。
「おかゆプレイなんて特殊すぎてさすがの私もついていけないわ」
「パルスィ、さっきの話を続けてよ」
「とりあえず、それ一口頂戴よ」
「あぁ……うん、わかった。
ふぅーっ、ふぅーっ……はい、あーん」
「よ、よくもまあ恥ずかしげもなくそんなことを」
「食べないの?」
「食べるわよ!」
熱のせいか恥ずかしさからか、ほんのりと頬を染めながら口を開くパルスィ。
口に放り込まれたおかゆは熱すぎず冷たすぎず、喉にしみない程度の絶妙な塩加減。
今日はじめての食事、喉を通り胃袋へと落ちていく温かい感触がなぜか少しだけ懐かしい。
「それで、さっきの話」
「下ネタ?」
「違うっ、自分が幸せになるのが納得行かないって話!」
「ヤマメったら、私がわざと話を逸らしたのに気づいてなかったの?」
「気づいてるよ、でもそういう悩みって一人で心に押し込んだって善くなるわけじゃないでしょ?
むしろ自分一人で抱え込むと悪くなる類の奴だと思うけど」
「良くしようとなんて思ってないわ、私みたいなクズが幸せになるなんておかしい、それって当然のことじゃない」
「当然なんかじゃないっ、パルスィだって幸せになっていいし、何より私が幸せになってほしいと思ってるの!」
「何ムキになってるのよ……ケホッ、これでも病人なんだからね、あんまりうるさくしないで」
「あっ、ごめん」
「……」
ヤマメの悲しげな表情を見たら自分が苦しくなるだけだと理解しているはずなのに、思わず棘のある物言いをしてしまった事をパルスィは悔いる。
胸を締め付ける重い痛みは、病人の体には少しばかり荷が重すぎる。
パルスィだってわかってはいる、自分で抱え込んでもどうにもならないことも、このままで居ても事態が好転しないことだって。
だが事態の好転とはつまり、パルスィが”狩り”を辞めるか、あるいはむしろそれを誇りとして開き直るかの二択。
ありえるだろうか、染み付いた悪癖を断ち切るなど、全てを受け入れるなど。
そんなことができるのなら、とっくに自己嫌悪など消えて無くなっている。
出来ないからこそ悩んでいる。
ヤマメが本気で心配してくれている事も理解はしていたが、仮に誰かに相談するとしてもパルスィが相手としてヤマメを選ぶことは無いだろう。
何せ、その悩みの中心にはヤマメが居るのだから。
「ヤマメは……純粋すぎるのよ」
「恋愛経験が無いって話?」
「それも含めて、真っ白で眩しくて、余計に私の惨めさが際立つの。
……ふぅ、ほんと呆れちゃうわ。
こんなどうしようもない私を本気で心配してくれるなんて、地底どころかきっとこの世でヤマメ一人だけよ」
「そんなことないよっ、パルスィのこと知ったらきっとみんなだって……それに、さとりや勇儀だって仲良くしてるじゃん!」
確かにさとりと勇儀はパルスィの共通の友人だ。
さとりとパルスィはヤマメを介して知り合ったのだが、勇儀に関してはヤマメがパルスィと知り合うよりも前から面識があったらしい。
二人とも、パルスィの悪癖を知ってもなお嫌悪感を微塵も見せずに付き合ってくれている、パルスィが助けを求めれば自分と同じように応じてくれるはず――ヤマメはそう思っていた。
しかし、パルスィは静かに首を左右に振って否定する。
「もう、だからそういうとこが純粋すぎるって言ってるのよ。
あの二人は人付き合いが上手なの、ヤマメほど考えなしに深入りしたりはしないわ。
無償の善意なんて物はね、もっと性格が良くて見返りが期待できる相手にばらまくべきなの、そこを二人はわかってるってこと。
つまり、普通に考えて私にはそんな価値は無いんだから、自分でもわかってるぐらいなんだもの、ヤマメだって理解しないとね」
「だから、贅沢とか言ってたんだ」
「そういうこと。
ありがたい話ではあるんだけどね、実際こうして看病してもらって随分と楽になってるわ。
でもね、私はヤマメから貰った善意に対して善意で返せるほど善人じゃないし、そのくせ返せない事を気に咎める程度には常識を持ってるの」
「私の存在が重荷だって言いたいわけ?」
「違うわ、背負えるものなら私だって背負いたいわよ、でももっと別の人に尽くすべきだって言ってるの。
私みたいな汚れた女に尽くして、折角の純粋な気持ちを汚されるよりそっちの方がずうっと合理的でしょう?」
合理的な生き方、そんなものは自分とは無縁だと言うことをヤマメ自身も知っている。
お人好しだと言われて続けて何年の月日が過ぎたか、おかげで数えきれない程の感謝の言葉と、広い交友関係を持つに至ったが、しかしそれはヤマメの振りまいた善意の数と同数ではない。
中には恩を仇で返す者も居たし、最初から悪意を持って近づいてくる者も居た。
その度に親しい妖怪たちは口をそろえて言うのだ、お前はお人好し過ぎる、と。
知っている、わかっている、もっと上手に立ち回れば楽に生きていけることだって、わざわざパルスィから言われずとも薄々感づいてはいる。
「そういうの面倒くさい。
なんで合理的じゃないとだめなの?」
「だめじゃないわ、でも幸せになるには合理的に生きた方が良いに決まってるじゃない」
「そういうパルスィは合理的に生きてるの? 女の子を騙して侍らしてさ、あれが合理的とは思えないけどな」
「私は生き方が下手なのよ、反面教師にしないといけないの」
「わかってるなら治せばいいのに」
「無理よ、できるならとっくにやってるわ」
「じゃあ私も一緒、今更になって器用な生き方なんてできないよ、だってそれが私なんだもん」
人間と違って数年単位のスパンではない、彼女たちは百年単位で生きる妖怪、今まで何百年も続けてきたことを簡単に変えられるはずがない。
「ヤマメの場合は私とは違うわ、好意の向きを少し変えるだけでいいんだから。
私じゃなく、もっと価値のある他の誰かに向けてね」
「価値なんて、無いよ。
パルスィ以上に価値のある相手なんてこの世のどこにも居ない」
「視野が狭すぎるの、もっと広い世界を見なさい」
「広い世界なんてどうでもいいっ、私はパルスィだけを見ていたいの!」
「……ちょっと、ヤマメそれって」
「ち、違っ、変な意味じゃないからね!? ただ、私にとって一番大事なのがパルスィだってだけでっ」
「いや、それもそれでなかなか……」
「細かいとこ突っ込まないでよ! 私が言いたいのは、誰のために尽くすかなんて自分で決めるってこと。
そこに合理性なんて必要ないの、自己満足できればそれだけで」
「強情ね。
嬉しい半面、罪悪感が湧いてくるわ」
「なんでそんなものっ」
「わかってたのよ、ヤマメと私が吊り合わないなんてことぐらい、それこそ出会った時から。
なのに甘い蜜からは中々離れられない、ズルズルと関係を続けて、いつだって断ち切れたはずなのに、断ち切ろうとしたはずなのに、名残惜しいからって自分に何度も言い訳してね。
私の悪癖はいつでもそう、全ては私の意思の弱さが原因なの。
何だって、どれだって、辞めないといけないことはわかってたはずなのにね、それが出来ないから――私はいつまで経っても悪人のままなんでしょうけど」
ヤマメとの関係だけではない、恋人たちを引き裂き不幸にし続けてきたこと、それが悪行であることぐらいパルスィもわかっている。
許されないことも、辞めるべきことも、パルスィだってヤマメと同じ程度には常識を持っているのだ。
二人の違いは、それを実行に移す意思の強さがあるかどうかだけ。
ヤマメは強く、パルスィは弱い、簡単に言えばそれだけのこと。
「悪人に寄与した者はいつか裁かれるのが世の常よ、このままじゃヤマメもいつか悪人として裁かれてしまうわ」
「大げさすぎ、誰かに裁かれるなんてそんなこと……」
「今は大丈夫でも、いつか私と親しいってだけで誰かに嫌われるかもしれない、そんなの嫌でしょう?」
「いいよ、別に」
「よくないわ、損をするのはヤマメ自身よ」
「パルスィはたぶん、私の事を馬鹿にしてるんだと思う」
「馬鹿にできるほど良い身分じゃないわよ私は」
「いいや、無意識のうちに馬鹿にしてるんだよ。
いい? 私はパルスィが思ってるよりずっとパルスィのことが好きだから、好きで好きで仕方ないから傍に居るんだよ。
誰のためでもない、傍に居たら私自身が幸せだから、そういうすっごく自分勝手な理由で付きまとってるの。
パルスィのことをお姉さまとか呼ぶにわかファンなんかとは比べ物にならないぐらいなんだから。
惚れてる……とは違うけど、とにかく好きだから、想ってるから、一人の時間が苦しくなるぐらいに」
「告白してるの?」
「違うっ! いや、その、そんな風に聞こえるかもしれないけど、あくまで友達として好きってこと!」
ここまで言っておいて”誤魔化す”のも無理があるとは思っていたが、率直に告白できるほどの勇気をヤマメは持っていない。
あくまでこれは、友達としての友情の証明のための一手段。
恋愛成就のための告白はまた別の機会にということで。
「それにさ、パルスィだってさっきまで喜んでくれてたでしょ?
私が来て、おかゆつくって、看病して、やらしい目で私の後ろ姿見たりしてさ、その間ずっとニコニコしてたじゃん、病人のくせに」
「それは……」
「嬉しかったんでしょ? それとも、全部嘘だった?」
「それは、嘘なんかじゃないけど……さっきも言った通り、私としては嬉しいのよ、ヤマメが看病してくれることも、いつも傍に居てくれることだってね。
朝起きて、まともに動けない状態でひとりきりで、本当は怖くて仕方なかったわ。
どうせ絶対に誰も来ないと思ってた、思ってたのに……ヤマメが来てくれて、本当に嬉しかった」
「でしょ? だったらそれでいいの、それだけで私は満足だよ。
合理性とか物の価値とか、誰かに決められるものなんかじゃないんだ。
私にとってパルスィが喜んでくれることはそれだけの価値があった、それで多少私が損することがあったとしても構わない、だってもっと大きなお返しを私は貰ったんだから」
いつか語り合った友情論よりもずっと恥ずかしいはずなのだが、不思議とヤマメは一片の羞恥も感じていなかった。
「……結局、何を言っても無駄そうね」
「当然、だって私は私のためにやってるだけなんだもん、他人の意見なんて関係ないね。
これって要は好きだから近くに居たいって私のワガママと、好きだから遠ざけたいって言うパルスィのワガママのぶつかり合いなんだから。
だからどっちかが……ううん、遠ざけたいって言うパルスィが折れるまで終わらない話なんだよ」
「何よそれ、ヤマメに好かれた時点で詰んでるんじゃない」
「そうよ、だからパルスィももっと好き勝手やってよ、いつもみたいにさ。
変にうじうじ悩んでるパルスィよりも、そっちのがずっと素敵だと思うから」
確かにヤマメはお人好しだが、全ての善意を見知らぬ誰かに向けられるほどのバイタリティを持っているわけではない。
リソースの限界も、それを割く優先順位も決まっている。
そしてその割合が日に日に偏ってきていることにも気づいている。
いずれは他人に善意を振りまく余裕など無くなってしまうのかもしれない、ただ一人、それほどまでに強く想う相手ができてしまったから。
「素敵とかそういう口説き文句を言うのはやめなさい、不覚にもきゅんと来るから」
「ふふん、してやったり、だね。
私にも狩人の素質があるのかな?」
「やめておきなさい、あんたがやったってろくな目に合わないわ」
「さっすが、経験者の言葉には重みがあるね」
ようやくいつも通りの雰囲気に戻った二人。
会話をしているうちにおかゆは冷ます必要が無い程度に温くなったようで、ヤマメがレンゲで掬いパルスィの口に運ぶと、パルスィはそのおかゆをパクパクと平らげていった。
食べるまでは食欲も湧かなかったが、いざ食べ始めるとお腹が鳴り出したらしい。
ヤマメが持ってきたおかゆが全てなくなると、パルスィは満足気に「ふぃ~」と息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした、じゃあ洗ってくるね」
「ええ、また存分に素敵なお尻を観察させてもらうわ」
「それ、本当に楽しいの?」
「これ以上ないほどに」
「……わっかんないなぁ」
洗い物をしている間、パルスィは本当にヤマメのお尻をじっと見つめていたらしい。
ただの嫌がらせなのか、それとも家事をするヤマメの後ろ姿を眺めて和んでいるだけなのか、はたまた性的な意味で凝視しているのか、ヤマメが振り向いた瞬間に見えるパルスィの笑顔からは何も読み取れない。
ヤマメに理解できるのは、ただただひたすらに幸せそうだということだけで、案外、深い意味はわからないままの方がいいのかもしれない。