心は読めても空気は読めぬ
パルスィと少女が宿に入るその少し前、二人の通った大通りで彼女は立ち尽くしていた。
最初は声をかけようとしたのだが、パルスィが一人では無いことに気付きやめた。
彼女は、心の何処かで自分に気付いてくることを期待していたのかもしれない。
だが結局――パルスィはすれ違った彼女の姿に気付くこと無く、その瞬間ヤマメは、大通りを歩く通行人Aに過ぎなかった。
不思議なことに町中で獲物を連れた彼女を見かけるのは初めてで、故にパルスィと例の少女が並んで歩く姿を目にするのも初めてであった。
想像では何度だって見たことがある、別に何とも思わなかった。
パルスィがそうするは当然のことだと思っていたし、自分の中でもとっくに整理が付いているのだと思い込んでいた。
想像ではそうだった、だから現実でも同じ、というわけにはいかないようで。
「さっきまで、私を抱きしめてたくせに」
ふと、溢れた。
意識なんてしていない、自分でも驚くほどに無意識で、言葉にした直後に思わず口を噤んだ。
誰が聞いているわけでもない、けれど言ってはいけない言葉のような気がして。
だがもう遅い、形になった言葉は消えない、意識していなかった――いや、意識しようとしなかった、意識したくなかったそれは、急速に心の中で確かな存在として形成されていく。
無関心で居られたのは、何よりも注視していたから。
彼の現在位置がわからなければ、それを避けることだって出来ない。
知っていた。見ていた。だが知らないふりをしていた。
思えば、ずいぶん前から、ヤマメは都合の悪いものから目を背け続けてきた。
それは意識しなければ出来ない芸当であって、鈍感なふりをして来たのは他でもない自分自身。
だから、”鈍感”は彼女にとって褒め言葉で、”上手くやったね”と賛辞されているようでもあった。
それでも完全に隠しきれるわけではない、自分を誤魔化すのにはどうしても限界がある。
何故か嫌いにはなれなかった。
パルスィの行い自体を嫌悪しても、彼女自身を嫌いになることは出来ない。
黒谷ヤマメであれば絶対に許すことのできない行為のはずだった、正義感の強い彼女ならそれを諌め、時には罰したはずだ。
だがそうしなかったのは、完全に嫌うことが出来なかったのは、嫌悪よりも強い別の感情があったから。
押しのけてもおつりが来るような、揺るがない想いがあったから。
ぎゅうっと胸元をつかむ。
この仕草も、今まで何度かやってきたはずだ。
何をかばっているのだろう、何から耐えようとしているのだろう、知っているはずなのに。
胸が、痛い。
心臓が、締め付けられるようだ。
こみ上げてくる感情は、吐き気にも似た涙の塊で、瞳から零れないようにするのが精一杯だ。
色は黒、形は醜く、その存在を認識した今でも、出来れば直視はしたくなかった。
彼女は最後まで振り返らなかった。
私の嫉妬は届かなかったのか、と悔しさに歯を軋ませる。
とっくに手遅れだってことに、ずっと前から気づいていた。
要は諦めがついたいだけ。
誤魔化しなんて、所詮は上っ面だけだった。
心の奥底には誤魔化しようのない証拠が秘められていて、だからこそ彼女はとっくに気付いていたのだ。
いつぞや無断で心を読む無礼者が言っていたじゃないか、進展の遅い物語は好きじゃない、と。
それは自身も例外ではなかったはずだ、どちらかと言えばせっかちな性格な彼女は進展の遅い物語は好まない。
だが自分のこととなると事情は別で、残念なことにせっかちと臆病は両立してしまうのである。
でも、それももうおしまい。
彼女はパルスィほど往生際は悪くない。
実を言えば、”鈍感”という指摘は別に間違っては居ないのだ、彼女は未だにパルスィの気持ちには気付いていない、ただ自分の感情の正体に気付いただけで、”鈍感”の汚名を返上出来ると思い込んでいる。
パルスィも同様に、自分は他人の気持ちに敏感なつもりでいた。
だからこそ二人は周りから鈍感と呼ばれているのだが、それに気付けるようなら最初からそうは呼ばれていないだろう。
どちらにせよ、物語が多少進展することに変わりはない。
もはや逃げられないことを悟り、臆病者を自称しながらも幾らかパルスィよりは臆病ではない彼女は、ついに覚悟を決めた。
揺らぐ気持ちはある、恐怖に怯える自分は誤魔化せない、その存在を無視できはしない。
でも、天秤は勇気の側に傾いている。
諦めにも似た勇気。
だってもう、膨らみすぎたその感情からは目を背けられそうにもないから。
白々しい誤魔化しも、無理のある現状維持も、もうおしまい。
「……そっか、そうだよね」
人の流れはパルスィと少女を飲み込んでいく。
人通りの割に狭く、そして遠くの、数多の妖怪たちでごった返す大通りの波に飲まれていく。
残ったのは、ほの暗い地底を照らす提灯に照らされた繁華街と、そのど真ん中で立ち尽くすヤマメだけ。
喧騒と寂寞が思考をかき乱す、再び決意をうやむやにして掻き消そうと迫ってくる。
「そりゃあの子のことだって気になるはずなんだよ、だって我慢できなかったんだから。
胸だって痛くなるよね、だって辛かったんだから」
だから、言葉にする。
言葉にして証拠として自分自身につきつけることで、逃げ出そうとする自分をどうにか押さえつけようと抗っていた。
今なら変えられそうな気がするのだ、自分自身を。
でも次の瞬間はもうだめかもしれない、また逃げてしまうかもしれない。
故に今しかない、誰かに聞かれようとも構わない、はっきりと言葉にして、目を背けるのはやめると決めた。
「……すぅ」
一旦間を置く。
急がなければならない、しかし準備も無しに極寒の水に飛び込むがごとく、心の準備も無しに言葉にしたんじゃショックで心臓の一つや二つ、容易く止まってしまいそうだ。
深呼吸が必要だ、誰に許しを請うのか彼女にもわからなかったが、これぐらいの甘えは許して欲しい気分だった。
そして唇を開く。
緊張のあまり乾いた喉に力を込めて、震える吐息を声に変える。
「私、ずっと前からパルスィのことが」
ゆっくりと、力強く、胸に手を当てて――二人の境界線を変えてしまう、致命的な言葉を口にする。
終わりではなく、始まりなのだと自分を励ましながら。
「す――」
そしてその二文字のうち、一文字目を言葉にした瞬間。
「おや、ヤマメさんったらこんな所で立ち止まって何をしてるんですか?」
神がかり的なタイミングの悪さで、古明地さとりが話しかけてきたのである。
……そう、よりにもよって、”あの”古明地さとりが。
「すっ……すっ……」
突然の妨害にもめげずに、どうにか決意をそのままに、言葉にしようと踏みとどまるヤマメ。
だが踏ん張れるほど彼女は強くない、積み上げてきた勇気は容易く崩れ落ち、天秤は逆方向に猛スピードで傾く。
「あっ」
さとりも悟る、自分が何をしてしまったのかを。
口元に手を当て、露骨に”しまった”と言う表情を形作る。
「すぅぅぅぅっ……さとりいいいぃぃぃっ!!」
周囲の人通りなど気にすることなく、ヤマメは盛大に叫んだ。
ありったけの怒りを込めて、まさにこれこそ”絶叫”だとお手本を見せつけるがごとく。
見たこともない怒りの形相にさとりは一瞬面食らうが、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「なんでっ、なんでこのタイミングで現れるの!?」
「い、いえ、決して悪意があったわけでは……」
「じゃあ何、神様の悪戯? この期に及んで私を弄ぼうとする性悪神様がこの世に存在するっての!?
今すぐ地上からその神様連れてきてよ、この拳でっ、固く握ったこの拳でっ、血が滲むまで何度も何度も何度も殴ってやるんだからぁっ!」
「す、すいません、本当に悪意なんて無かったんです、むしろ応援しようと思ってたぐらいでっ!
ああ、なんてことを……私はなんてことをしてしまったの……まさか二人の関係に横槍を入れる面倒な友人ポジションみたいな事をしてしまうなんてっ!
私ともあろうものがっ、この私がっ、何でこんな空気を読めないことを……っ」
「なにさ、まるで被害者みたいに悔しがっちゃってさぁっ!
悔しがりたいのは私の方だってば、せっかく覚悟決められると思ったのに!」
「なら改めてどうぞ、ほらやってくださいよ、覚悟決めてください、私は居ないものと思って! さあ、さあ!」
「言えるわけないじゃない!」
「私を助けると思ってお願いします、このままじゃ忍びなさすぎて死んでしまいます!」
「勝手に死ねばいいじゃないかばかやろー! ああもう、なんでこんなタイミングでさとりが来るのさぁ……」
「すいません……今のばっかりは全面的に私が悪いです、本当に油断してました。
しっかりと、いつも通り油断せずにヤマメさんの心の中を土足で踏みにじっていればこんなことにはならなかったのに」
「言ってることは正しいけど許しちゃいけない気がする……」
前置きした通り、覚悟というものはいとも簡単に萎えてしまうもので、こうも見事にタイミングを逃すとそう簡単には次の機会は来そうにない。
今にも固まりそうだったヤマメの覚悟は、さとりの邪魔が入ったことで急速に萎んでしまった。
さとりにしては珍しく自分の非を認め、ひたすらにヤマメに対して謝っているが、事が事だけにヤマメがそう簡単に許すわけもない。
相手がさとり以外であれば仕方ないと諦めたかもしれないが、心を読めるさとりの仕業なのである。
普段は人の頭の中に勝手に踏み込んで好き勝手荒らしてくれるくせに、こんな時だけ都合よく心を読んでませんでしたー、などと巫山戯た言い訳が通用するわけもない。
「でも、私が邪魔した程度で揺らぐヤマメさんも相当ですよね」
「確かにそうかもしれないけどさ、さとりは切り替えが早すぎるよ。もっときちんと反省しなさい!」
「十分しましたよ。
辞書に反省という言葉が無かった私がほんの少しでも反省したんです、これは天変地異が起きるほどの大異変ですよ」
「そういうことは他人が言うから意味があるのであって、普通は自分では言わないの」
「常識の範疇で私を測らないでください、そんなに器の小さな女ではありません」
「無いくせに偉そうに胸を張るな! そういうのは器が大きいとは言わないの!
というか、悪いのはさとりのはずなんだけど、なんでそんなに偉そうなのさ」
「地霊殿の主ですから、実はそれなりに偉いんですよ。えっへん」
「さっき勢いに任せて殴っとけばよかった……」
死ぬほど反省していたさとりはどこへやら、少々会話を交わしただけでいつものさとりに逆戻りである。
演技でも良いからもっと卑屈な態度を取ってくれれば多少は許す気にもなろうという物なのに、どうしてこう人の神経を逆なですることばかりしてくるのか。
しかしよく考えてみれば、人の神経を逆撫でしないさとりなど、もはやさとりでは無いのかもしれない。
だがそんな不名誉なレッテルを貼られている事を、本来なら恥と思うべきなのである。
だというのにこの古明地さとりという悪辣な妖怪は、恥じらうどころか、それを誉れだとすら思っているらしい。
やはり彼女は能力云々以前に、根本的に性格が悪いのである。
能力ゆえに地上から追い出されたという話だが、実は単純に性格が悪くて追い出されただけじゃなかろうか。
妹の前では例外的に優しい姉になるらしいが、誰もその状態のさとりを見たことが無い時点で真実かどうか怪しいものだ。
「あ、そういえば。
どうやら先日のアドバイスは役に立ったみたいですね」
切り替えも早ければ話題の転換も早い。
本来ならもっと引っ張って相手の非を追求する所なのだが、さとり相手では分が悪い。
ヤマメはしぶしぶ、新たな話題に乗るしか無いのであった。
「別に私から触ったわけじゃないんだけどね、いきなりパルスィが抱きついてくるもんだからびっくりしたよ」
まだ怒りは冷めやらないが、つっけんどんな対応をした所でヤマメに益があるわけでもない。
ここで感情に任せて相手の話を遮らないあたり、ヤマメは何処まで言ってもお人好しなのである。
「でも言った通りだったでしょう? 別にパルスィさんはヤマメさんを拒絶しているわけじゃないって。
私としても、まさかここまで情熱的なボディタッチを繰り出すとは思いもしませんでしたが」
「だけどさ、結局理由はわからず仕舞いだよ。なんでパルスィは私に触られたくないって言ってたんだろ?」
「私はその理由を知っていますが、知った上で感想だけ言わせてもらうなら、”解せない”ですね。
気難しいというか、偏屈と言いますか……ああ、ちょうど少し前にヤマメさんがパルスィさんの事を変人呼ばわりしてたじゃないですか、まさにそれですね」
さとりは地底でもトップクラスの変人である。
そのさとりが変人呼ばわりしているのだ、よっぽど大した理由なのだろう。
「相変わらずさとりと会話してると何かむずむずするなあ、一人だけ答えを知ってるだなんてズルいよ。
つまりは、私が考えても無駄だってことでしょ?」
「そういうことです、ヤマメさんがガンガン攻めればそのうちパルスィさんの方から折れてくれますよ」
「折れる……か。
折れる前に攻める私が怪我するぐらい丈夫だったりしないよね?」
「木の枝よりも脆いので安心してください、複雑なようで単純なお話ですから。
実を言えば、ヤマメさんはすでに解決策を知っているはずなんです」
「知ってる? 私が?」
「ええ、それはもう。最後の切り札をその手に持っているはずなんですけどね、どうして使わないんでしょう」
「この手に……」
ヤマメは訝しげな表情で自分の手のひらを見つめながら、手を開いたり閉じたりを何度か繰り返した。
土蜘蛛の妖怪ではあるが、別段この手に特別な力を持っているわけではない。
「物理的に握っているわけでも、不思議な力を宿しているわけでもありませんよ、そんな下らないことばかりを考えるから話が脱線するんです」
「わ、わかってるって、つまり割と身近にその方法があるってことでしょ?」
「わかってなかったくせに……見栄貼っちゃって、かわいいですねえ」
「うるさい、そこは大人なら空気読んでスルーする所じゃないかよう!」
「私は大人ではありませんから、我が儘な子供なんです。一人前なのは権力だけですよ」
「自分のこと偉いって言ってみたり子供扱いしてみたり、都合の良いことばっかり言って……」
「偉いからと言ってイコール大人と言うわけではないでしょう? 偉い子供が居たっていいじゃありませんか」
「さとりって何歳なのさ」
「ほらほら、また話が脱線してます」
「……答えないんだ」
「妖怪に年齢を聞くなんて無駄だと言ってるんです、子供と大人の境界だってわかったもんじゃないですから。
こんなことを話してる間に答えは遠くに遠ざかってしまいますよ。
まあ、わからないならそれでもいいんですけどね、どうせじきに気付くでしょうから」
「意味深なことばっかり言って、結局何の役にも立ってないじゃん」
「意味深なことを言って心を惑わし、それによって右往左往するヤマメさんを見るのが趣味ですから。
ああ楽しい、どうして人の心を弄ぶのってこんなに楽しいんでしょう!」
天に向けて満面の笑みを向けながら、さとりは恥ずかしげもなくそう言い切ってみせた。
「やっぱ殴っとくべきだったかな……」
どうせなら本当に自分の手に不思議な力が宿っていればいいのに、とヤマメは拳を握りしめながら思った。
仮に本気で拳を突き出したとしても、さとりにはいとも容易く避けられてしまうのだろうけれど、絶対に避けられないような不思議な力が都合よくこの手に宿らない物だろうか。
あるいは掠っただけで汚い心を浄化できるような、聖なる力とか。
「冗談はさておき、こう見えても友人としてそれなりに心配はしているんです。
今は笑って見てられますけど、拗れて壊れられでもしたら後味が悪いにも程が有りますからね」
「私たちの間に関係が壊れるような爆弾があるとでも?」
「ありますね。
今は平気でも、それが拗れてしまうのが世の常ですから。
時には人を惑わし、狂わせ、殺意に走らせることもある、ヤマメさんもそれぐらいは知っているでしょう?」
「知ってるけど、パルスィの女癖の悪さは今に始まったことじゃないし、私はとっくに慣れてるから大丈夫だよ」
「でも実際に見たことは無かったんでしょう? だから、さっきだって並んで歩いている姿を見たただけで、これでもかってぐらい気が動転してしまった。
仮に接吻の現場に直面したら、交わっている途中を見たら、想像するだけで恐ろしいですよね。
私は嫉妬に狂うヤマメさんの姿なんて見たくありませんよ」
言葉では平気だと言っていたのは、他でもないヤマメ自身だ。
つまり理解はしていたのだ、パルスィが今まで獲物と称してきた少女たちとどんなことをしていたのか。
しかしヤマメには経験などないし、それ以前に恋をしたことがあるのかも怪しいほど。
知識はあったとしても、実際の行為がどういった物なのか、深く考えたことは無かった。
だが、今しがたパルスィと少女が二人で歩く姿を見て、考えは変わった。
二人は間違いなく”そういった場所”へと向かう途中だった、パルスィが少女を連れ回すのはそれが目的なのだから間違いない。
すでに知らぬ存ぜぬで通せる時間は終わってしまったのだ、二人がいかがわしい店に入り、キスをして、交わって――その光景を想像しないわけにはいかなかった。
「考えるだけで胸が痛いんですよね、その気持ちはよくわかりますよ」
「……うん」
想像だけでこんなに苦しくなるなんて、それは想像を超えた痛みだった。
先ほど二人を見かけた時ほどではないが、ヤマメから冷静さを奪うには十分すぎる。
「以前からあったんですよね、その痛み」
「割と前から」
「つまり好きなんでしょう、パルスィさんのことが。
だったら当たり前のことです、恥じることはありません」
「好きか嫌いかで言えば、まあ」
「この期に及んでまだそんな誤魔化し方をしますか」
「私だって誤魔化したいわけじゃないの、でも邪魔したのはさとりじゃないのさっ、私はあれで覚悟決めるつもりだったの!
だから、まだ、腹をくくれてないって言うか、友達なら友達でもいいのかなって、それで私たちは幸せなわけだし」
「へたれ、ドへたれ、メガへたれ」
「うるさいっ、相手はパルスィなんだ、親友なんだっ、へたれて悪いかよぅ。
どうせさとりだって、私と同じ状況に直面したらへたれるはずだい!」
「……ふぅ」
肯定にしても否定にしてもはっきりと答えるさとりにしては珍しく、ため息で言葉を濁した。
案外図星だったのかもしれない、そして思い当たる節があるということは、現在進行形でヤマメと同じ状況に立たされていることも考えられる。
相手は誰なのか――と普段のヤマメなら考えていたのだろうが、あいにく今の彼女にそんな余裕は無かった。
「私だって、良くないとは思ってるよ。
自分でもはっきりしないことが嫌いで、他人がうじうじしてたらいつだって背中を押す立場だった。
なのに、当事者になった途端に躊躇して、逃げてばかりで、何もかもに気付かないふりして。
良くないよ、変わるべきなんだよ。
けどさ、やっぱ怖いじゃん! だって私パルスィと一緒にいるとすっごく楽しくってさ、心地よくってさ、これ以上ないくらい最高の友達なんだよ!?
胸を張って言えるよ、私にとって一番大事な友達はパルスィなんだって、親友って呼んだっていいぐらい」
「要は、好きだってことでしょう?」
「気持ちは、それで間違いないよ。誰よりも……たぶん、一番に。
でも、だからこそ怖いんだ。
終わらない友情はあっても、終わらない愛なんて聞いたこと無いでしょ?」
「離婚しない夫婦ならいくらでもいますよ」
「その二人に愛はあるの?」
「……」
さとりは思わずヤマメから目を逸らす。
人の心なんて見えない、夫婦とは形式上は愛しあう二人が成るものではあるが、その二人が愛し合っているかはまた別の話。
スキンシップが全くない夫婦なんて物も珍しくない世の中で、その関係を永遠の愛の証明とするのには少々無理がある。
「永遠の愛なんて恋愛小説の常套句じゃないですか」
「実在しないものを信じられるほどロマンチストじゃないよ」
「処女のくせに、随分と悟ったようなセリフを吐くんですね」
「う、うるさいなあ、処女の何が悪いのさ、大体さとりだって人のこと言えるほど経験豊富じゃないでしょ」
「……ぐぬ」
「図星突かれたら黙るの辞めた方がいいよ、すっごくわかりやすいから」
「自分でも悪い癖だと思います」
責めるのは得意だが、どうやら責められるのはあまり得意では無いらしい。
さとりは相手の心を読めるがゆえに、会話においてイニシアチブを取られることはほとんど無いのだが、その経験がほとんど無い故に、ふいに不利な状況に追い込まれた時のアドリブが効かないのだ。
そもそもそのアドリブを使う機会がほとんど無いので必要性の薄い能力かもしれないが、ふとした瞬間に弱点を晒してしまった時、さとりが受けるダメージはかなり大きい。
表情には出さないが、さとり自身も経験が無いのをそれなりに気にしていたらしく、今日一日引きずる程度には心にダメージを負っているようだ。
好意で相談に乗ろうとしているさとりには申し訳ないが、普段やりたい放題やられているヤマメは、内心”ざまあみろ”と思っていた。
もちろんさとりもそれに気付いていたが、憎まれ口を叩けるほどの余裕が今の彼女には無い。
「さとりのアドバイスはありがたいと思ってるよ、役に立つかどうかは別として。
でもね、やっぱ私自身が答えを出すしか無いんだと思う」
「お節介でしたか?」
「できれば、誰にも邪魔されずに答えを出したいな」
「……さっき寸前で声をかけられたこと、実は根に持ってます?」
「少なくとも一ヶ月は忘れないと思う。
ううん、むしろ三年後ぐらいに突然思い出してさとりを攻め立てると思うな」
「本当に申し訳ないと思っています」
「いいよ、どうせ謝ったって許す気はないから」
「なるほど、だったら謝らないほうがお得ですね」
「そういうこと」
ヤマメは慣れているので軽く流したが、さとりの切り替えの早さは本当に謝る気があったのが疑ってしまうほどである。
元から親しい相手ならまだしも、さとりは誰に対しても同じような態度を取ってしまう、これでは地底でも嫌われてるのは当然である。
一番の問題は、さとり自身が別に嫌われても構わないと考えていることなのだが。
「まあ、そうは言っても私に否があるのは間違いないですから、今度一度ぐらいは奢りますよ」
「奢りって、さとりと二人きり?」
「そうですね、二人きりです。
みんなで行ってヤマメの分だけ私が払うってわけにもいかないでしょう。
……って、なるほどそういうことですか。
まったく、人の好意を何だと思ってるんですか、良からぬ事を考えているのが丸見えですよ」
「普段の行いが悪すぎるの、私だって素直に好意だって思いたいよ。
けど相手はあのさとりだよ? さとりと好意って言葉が結びつくと思う?」
「思いませんね」
即答である、だがわかりきった返答なのでヤマメは驚かない。
「でしょ? だから私は悪くないの、悪いのはさとり!」
「わかりました、それが嫌ならパルスィさんも連れてきてください、二人セットなら奢ってあげます。
無論他の人じゃ駄目ですよ」
「いや、それは……」
「何か不都合でも?」
「あるに決まってんじゃん! 要するに奢りたくないってことでしょ!?」
三人きりで食事なんて、さとりと二人きりよりもさらにタチが悪い。
何を言われるかわかったもんじゃない。
「それはもう、出来れば奢りたくはないですね。お金も無限ではありませんから」
「だったら最初からそう言いなよ。
ああもう、ほんとさとりってば得な性格してるよね、心の底から羨ましいって思うよ」
「それはそれは、お褒めいただき光栄ですね」
「これを純粋な褒め言葉として受け取れるあたりがさとりの強みだよね……」
「心は丸見えなんです、悪意をそのまま受け止めていたのでは体が持ちませんから。
これも私なりの生きるための知恵ってところです」
さとりもさとりなりに苦労してきたのだろうし、今も現在進行形で嫌われていることを考えると、それなりに苦労しているに違いない。
「実は皮肉だって無意味に言っているわけでは無いんですよ、ただ私は悪意に対して悪意で応えているだけです。
考えても見てください、私が覚妖怪だと知って好意を持ってくれる妖怪がどれぐらい居ると思います?
ヤマメのような例外を除いてほとんどいませんよね、九割の悪意と一割の好奇心で近づいてくるろくでもない輩ばかりです。
中には能力を利用して悪巧みしてやろう、なんて馬鹿な事を考えて近づいてくる阿呆まで居る始末」
「腐っても地獄、だしね」
地上との交流は出来たものの、やはり地底は地上に比べれば幾分か治安が悪い。
心の中だけでは飽きたらず、直接罵声を浴びせてくる妖怪もいないわけでは無かった。
「だからって脳まで腐る必要はないと思うのですが。
私にとって思考は声と同じなんです、わざわざ罵声を浴びせなくても汚らしい言葉を心に留めるだけで見えてしまうんですよ。
もちろんストレスは貯まります、どんなに嫌だって泣いて叫んで嘆いたって、見えるものは見えてしまいますからね。
それに耐える方法なんて、結局は二通りしか無いんですよ」
「発散するか、目を閉じるか?」
「そういうことです、私たち姉妹は別々の方法を選んだ、ただそれだけのこと」
さとりは妹のことを話すときだけ、やけに優しい表情をする。
この世で唯一の肉親で、心の見えない相手。
溺愛してしまうのも仕方無い。
悲しいかな、こいしにはさとりの気持ちは届いている様子は無いのだが。
「ああ、こいしは完全に唯一ってわけではありませんよ。
ヤマメさんや勇儀さん、パルスィさんのように偏見を持たずに付き合ってくれる人もいますから。
あなたを含めた彼女たちは、聖人君子とまではいかないものの……ええ、中々の善人っぷりだと思います、吐き気がするぐらいに」
「もっと素直に褒めてくれていいんじゃない!?」
「悪意まみれの世の中で生きていると、逆に善意が信じられなくなるんですよ。所詮は偽善に過ぎないんじゃないかって。
付き合っていくうちにそうじゃないってわかっていくんですけどね。
ふふ、ですから今は本当に大切な友達だと思っていますよ、たまにあまりの善意に寒気がすることはありますが紛れも無く本気です、私の心は見せられないので証明はできませんがね」
さとりらしくない、皮肉抜きの真っ直ぐな言い回しで、ヤマメに向けてそう言った。
これにはさすがにヤマメも顔を赤くして恥ずかしがっている。
「そりゃ信じるよ、けど私とパルスィのやりとりを青春だ何だって馬鹿にしてたくせに、さとりの方がよっぽど恥ずかしい事言ってるじゃん」
「仕方ありません、だって私たちは友達ですから」
「いやいや、理由になってないから」
「いえ、なってますよ」
「どこがさ」
ヤマメにはさっぱり理解できない。
だがさとりは自慢気に、胸を張りながらこう言った。
「だって友達が恥ずかしがったり、困ったり、泣いたり、それってとても素敵なことじゃないですか」
「……はい?」
「ですから友達だからこそ、大切だからこそいじめたくなってしまうんです。
かの有名な、”好きな子をいじめたくなる理論”ですよ、わかりませんか?
悪意を持って近づいてくる連中なんて適当にあしらえばいいんですよ、慣れてしまった今となっては赤の他人の悪意なんてどうでもいいですし、気にするだけ無駄な奴らですから。
それより大事なのは親しい相手です、彼らを心を込めて弄ぶことこそが真実の愛であり、私のストレスを発散するために最も必要な行為なんです。
というわけでヤマメさん、これからも生贄役お願いしますね、パルスィさんとの仲が潰れない程度に適度にこじれてくれることを期待しています、それだけで私がどれだけ救われることか」
これ以上無い笑顔を向けられたヤマメは、メデューサに睨まれたかのうように固まり、絶句してしまった。
折角いい感じで青春していたのに、友情を感じていたのに、何だこの展開。
「え、えぇ……」
「ドン引きしてます?」
「そりゃするよぉ! たぶん一生、それがどういう気持ちなのか私には理解できそうにないと思う」
「愛ですよ?」
「そんなのが愛でたまるかい!」
「別に不幸になってほしいと願っているわけではないんですよ、二人には”最終的に”うまくいって欲しいと思っていますし。
その過程で思う存分ほくほくしたいと望むだけです。
ヤマメさんに理解できるように説明すると……そうですね、私は私、古明地さとりはどこまでいっても古明地さとりでしか無いんですよ、ってとこでしょうか」
「よくわからないけど、説得力だけはすごいね……」
少なくともさとりがヤマメとパルスィのことを友人と思い、本気で心配してくれているのは事実なようで。
ヤマメはさとりの言葉の都合のいい部分だけを理解したことにして、あとは忘れることにした。
覚えていた所でどうせ理解できるものではないのだから。
これもまた、生きるための知恵ということなのだろう。