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揺れる緑眼




一番危険なのは、ペースを乱すことだ。

多少動揺したとしてもポーカーフェイスを維持できていれば、現状維持はいつまでも続けられたはずなのだから。

誰も通らない橋の上、昼間は喧騒に包まれていた中央通りもさすがにこの時間では静まり返っている。

人通りもまばらで、あまりのギャップに寂しさすら感じてしまうほどだ。

川の流れる音がさらに哀愁を誘う。

空を見上げても月は出ていない、”今夜は月が綺麗ですね”なんて気の利いた台詞もここでは使えない。

仮に月が出ていなかったとしても、いつもの自分ならちゃらけた笑顔を浮かべながら軽く口に出来たはずなのに――と、パルスィは暗い表情で、流れる水面に言葉を吐き捨てる。

いつも通りではない。普段のペースが取り戻せない。

そもそも、ヤマメに対して嘘をついた時点でとっくに歯車は狂い始めていたのだ。

一度狂った歯車は、そう簡単には戻らない。

少なくとも一朝一夕でどうなるものでもないことは十分に理解している。

それでも、パルスィはいつも通りで居なければならなかった。


「こびりついて離れないのよ、どうなってんだか」


頭を抱えながら左右に振る。

そんな簡単な動作で記憶が消えるわけでもなく、むしろ意識する分余計に思い出してしまう始末。

材料なら腐るほどある。

二人が積み重ねてきた時間は、そこらの恋人たちよりもずっと長いぐらいなのだから。


「……わかってたけど、わかってるんだけどっ!」


誰も居ないのをいいことに、パルスィは普段は絶対に出さないような大声で吐き捨てた。

呪うのは誰でもない、自分自身だ。

どうしてこうなったのか、全て理解している。

”同じ気持ち”という言葉に必要以上に喜んでしまった自分が悪いのだということも。

それでも、悪いとわかっているのに胸の鼓動は収まらない、嫌でも彼女の姿が脳裏に浮かぶ。

意識しなくても、考えたくなくても、彼女の――ヤマメの笑顔が、頭にこびりついて離れないのだ。


「今頃、楽しそうに誰かと飲んでるのかな……」


自分で断っておいて、ヤマメを恨めしく思うのは見当違いだと言うことは理解している。

だが嫉妬は彼女の本分だ、在り方としては正しいのかもしれない。

そう、大事にしてきたヤマメがいつか誰かの物になって、それを指を咥えて眺めて居るのが一番のお似合いなのだ。

きっと、他人の嫉妬心を集めるよりも効率よく、この上なく上質な力を得ることができるだろう。


「素敵じゃない、反吐が出るぐらい素敵だわ……くそっ」


つま先で地面を蹴りつけながら、今にも爆発しそうな苛立ちを外へと逃がす。

爆発した所で、誰にも迷惑をかけるわけではないから気にすることもないはずなのだが。

しかし、嫉妬心を操るパルスィが嫉妬しすぎて回りに当たり散らかすなど、自分の存在意義を否定するような物である。

彼女をすんでのところで押しとどめたのは、微塵も価値の無い惨めな自尊心だ。

いっそプライドを捨てて喚き散らかせたらどんなに楽だったろう。


いつから、こうなってしまったのか。

パルスィの想起はだんだんと過去へと遡り、ヤマメとの出会いへと還っていく。

全ての元凶は、何もかもの始まりは、思えばあの時ではなかっただろうか。

言ってしまえば、最初から。

何が変わったわけでもなく、変化があるとすれば強度の増減だけ。

数倍か、あるいは数十倍にまで膨れ上がった想いを抑えきれなくなった、ただそれだけの話。

”ただ”と言うには深刻すぎる問題ではあるのだが、単純明快と言う意味では正しい使い方だろう。

深く考える必要もない、本来なら悩む必要すら無いはずの、直進するだけのありきたりな恋愛ドラマの脚本。

だがそんな理想的な展開であれば、パルスィがここまで悩むこともなかったはずだ。

しかし、彼女は誰かを恨んでいるわけではなかった、原因を他に求めることもしない。

全ては明白だ、誰かに責任をなすりつける余地すらない。

なにせ、こじれた原因は他でもないパルスィ自身にあるのだから。

腫れ物として扱い、頑なに拒み続けた彼女自身に。


パルスィは、周囲の妖怪たちから美人だと持て囃されるだけのルックスを持っていた。

実際そのルックスを武器として、数えきれない程の恋人たちを引き裂いてきたのだ、実績に裏付けされた自信すらあった。

ただし、自信と自己愛はまた別の話。

自信はある、だがそんな自分が好きかと言われれば――パルスィははっきりと、ノーと断言するだろう。

嫌いに決まっている。

誰もが嫌うような自分のことを、自分が好きになれるわけがない。


「汚い手……」


賛辞の言葉も、薄っぺらな愛の囁きも、パルスィにとっては塵ほどの価値も無かった。

自己嫌悪は揺るがない。

聖域は変わらない。

いつか変わる時が来るとするならば、それは……パルスィがパルスィで無くなる時に違いない。

要するに、死ぬまで変わらないということだ。


「妬ましい」


綺麗な彼女が。


「妬ましい」


可愛い彼女が。


「妬ましい、妬ましい、妬ましいっ」


自分の心を支配して止まないヤマメという存在が、目障りな程に妬ましい。

ああ、こんなことなら最初から出会わなければ良かった――そう嘆きながら、運命という人知を越えた存在を嫉むのだ。

自分にも運命を操る力があるのなら、もっと上手く立ち回れるはずなのに。

傍に居たい、でも触れたくない。

ヤマアラシのジレンマにも似たどっちつかずの感情も、最初から無かったことに出来たはずなのに。

どうして自分はこうも無力なのか。

どうしてこんなにも、矮小で、下賎で、醜穢なのだろう。


「ああ、なんて妬ましい――」


天を仰ぎ、両手で顔を覆いながら、自らの境遇を恨む。

これこそが、まさにパルスィの本質だった。

太陽も月もない、暗い暗い地底の空のような、鬱々とした心の有り様。

そんな自分が嫌いで、けれど嫌えば嫌うほど気分は下へと堕ちていき、かと言って自分から目を逸らすことなどできやしない。

負の連鎖だ。

嫌えば嫌うほど、自分はもっと自分の嫌いな自分へと堕ちていく。

嘆きは止まらない。両手で覆われた視界、一筋の光も見えない漆黒の闇の中で、パルスィは悲観的な未来を想像する。

妬ましい、妬ましい、と何度も呟きながら。


「私は、こんな……っ」


胸が苦しい、張り裂けそうだ、どうして自分はこんなに愚かなのか。

ただひたすらに妬み、ただひたすらに憎み、ひたすら、ひたすら嘆く。

体の奥底からこみ上げてくる何かは、きっと涙だ。

我慢してきたものがこみ上げ、耐え切れなくなって、今にも外へと流れてしまいそうになる――その時だった。


「えへへへぇ、パルスィみーっけ!」

「ひゃぁうっ!?」


パルスィは何者かに突然後ろから抱きつかれ、その両手で豊満な胸をむぎゅっと鷲掴みにされた

虫さえも寝静まる丑三つ時、こんな時間に一人たそがれる橋姫に近づく物好きなんて居ないと確信していたのだ、そんな状態で急にセクハラなんてされたら、そりゃ変な声も出るだろう。

正体不明の襲撃者は胸を鷲掴みにするだけでは飽きたらず、何度も何度も執拗に揉みしだく。


「うひょーっ、新鮮らぁ!

 パルスィのお胸ってこんなにやーらかかったのかぁ」

「な、な、何っ!? 誰っ!? ちょ、ちょっと止めてよっ、止めなさいよー!」

「いやれーす、やめませーん!

 今日はぁ、パルスィの体を思う存分堪能するって決めたんれーす!」

「はっ、なっ、せっ!」


じたばたと暴れるパルスィ、負けじとしつこくしがみつき胸をもみ続ける変質者。

何が嫌かって、力いっぱい揉んでくれればまだ本気で反抗出来るというのに、変質者の揉み方はやけに優しいのだ。

セクハラと言うより愛撫のような、癪ではあるが思わず声を出してしまいそうな、優しさを含んだ揉み方なわけだ。

しかもパルスィは変質者の正体にほぼ気づいている、相手が相手なだけにいきなり暴力に訴えることは出来ない。


「パルスィは、わらひに対ひてちょぉっと反抗的すぎると思うんらよね、うん」

「うんじゃないわよ、いい加減に離しなさいよヤマメっ!」


さすがにここまで声を聞けばパルスィだって正体に気付く。

元からほとんど気づいては居たが、ここに来て確信に至った。

変質者は、さとりに弄ばれ勇儀に飲まされ、アルコールの過剰摂取によりもはや完全に正気を失ったヤマメだったのである。

そんな状態のヤマメがパルスィが本気で激昂しつつあることに気付くはずもなく、胸を揉みしだくその手が自重という言葉を思い出す様子はない。

むしろ揉むのに小慣れてきたのか、遠慮が無くなって来たようにも思えた。


「んっ、く……ぅっ」

「んふふふ、パルスィってば喘ぎ声えろーい、やらしー」

「本当にやめなさいよ、それ以上やったら本気で怒るわよ?」


最後通牒のつもりだった、これが受け入れられないのであれば強烈な裏拳を顔面に向けて放つつもりだ。

しかしヤマメが離れる様子はない。

その明らかにおかしな挙動、そして漂う酒臭さから完全に酔っ払っていることはパルスィにもわかっているのだが、酔っぱらいだとしても守らなければならない一線と言う物がある。

いくら酔っ払っていても、二人の間にあった不可侵条約を破っていいという理屈にはならないはずだ。

触らないで欲しいとあれほど言ったのに、パルスィからしてみればヤマメの事を思ってお願いしたはずだったのに。

ぐっと拳に力を込める。

「んふふふ」と気持ちの悪い笑い声を上げながらパルスィの胸の感触を堪能するヤマメに向かって、パルスィの渾身の一撃が放たれる。


「……あれ?」


はず、だったのだが。

何故かパルスィの両手はびくともしない、まるで何かに縛られているかのように。

もぞもぞと何度も体を動かすが、全く動く様子はない。


「パルスィ、わらひが何の妖怪かわすれてなーい?」

「な、あんたっ、ちょっと!? 本気でシャレにならないからやめなさいって!」

「緊縛プレイれーす!」


いつの間にかパルスィの両腕はヤマメの出した蜘蛛の糸によってしっかりと縛られていたのである。

パルスィに気づかれない程度に緩い輪っかを作り、拳が突き出される寸前に輪を締めて拘束したようだ。

酔っぱらいのくせに小賢しい真似をしやがって、とパルスィは歯を食いしばって悔しがる。

こうなってしまえばもはや抵抗はできない、まな板の上の鯉というわけだ。

できることと言えば、せいぜい罵倒することぐらいである。


「プレイじゃないわよ、この糸解きなさいよこの変態酔っぱらいっ!」

「そう言いながらぁ、実は感じてるんれしょ? 嫌よ嫌よも好きのうちってさとりが言ってたよ?」

「私は本気で嫌って言ってんの!」

「うそうそ、パルスィは可愛い女の子を見つけると片っ端から食べちゃういやらしー女の子なのれぇ、こういうプレイは好きに決まってるんれすー!

 だからぁ、今日はパルスィの肢体を隅から隅まで思う存分堪能したいと思いまーす」

「堪能じゃないわよ、このバカ、アホ、ゴミクズ!」

「女の子がそんなこと言っちゃらめらよぉ、もっとかわいい声を出さないと……えいっ」


掛け声とともに脇腹をつつく。


「ひゃんっ」


何をされても耐えてみせると意気込んでいたパルスィだったが、あっさりと負けて声を上げてしまう。

その声を聞いたヤマメは満足気ににへらと笑い、調子に乗って何度も何度も脇腹をつついた。


「ひぁっ、はぅっ、ぁふっ、んあぁっ」

「ここかい、ここがええのんかい?」

「ちょ、はふっ、ん、や、やめっ、んひゃっ、やめてぇっ!」


実際、パルスィは腋から脇腹にかけてが非常に弱かった。

気持いいかはまた別として、そこに触られると自分の意図に反して嫌でも声が出てしまうのだ。

普段女の子を連れ込む時は基本的にパルスィは攻めの側なので中々触られることはないが、万が一この弱点に気づかれてしまえば、形勢が一気に逆転する可能性さえある。

まあ、そもそも連れ込んだ女の子を相手にするときは、相手だけ脱がしてパルスィは服すら脱がない事が多いので、弱点が露呈することはほぼありえないのだが。


「あー、たのし。パルスィをこんなに好き放題触れる日が来るなんて、わらひ思いもしなかったよ」

「何よ、そんなに触りたかったわけ?」

「そうらよ、ずぅーっと我慢してきたのにさぁ、パルスィはぜーんぜん触らせてくれないんだもん」

「何で……触りたかったのよ」

「それはぁ、私はパルスィのことが大好きだかられーす! いえーい!」

「……」


それは間違いなく本心だ。

酔っぱらい、まともに物事を考えられない今のヤマメから出る言葉は、思考というフィルタを通さない最も真っ直ぐな言葉と言える。

嘘はない、躊躇も誇張もなく、ただただ素直に、まっすぐに心からこぼれ出ている。

向けられる好意、そしてパルスィに触れたいという欲求は間違いなく普段のヤマメにもある物だろう。

ヤマメは後ろから触るのに飽きたのか、抵抗出来ないパルスィを回転させて自分の方へと向ける。


「ふんふんふーん」


上機嫌に鼻歌なんて歌いながら、顔に満面の笑みを浮かべて。

できれば、パルスィは今の表情を見せたくは無かった。

理解はしているが、欲求と言うのは自分の意思に関係なく素直に反応してしまう物で、以前ヤマメに対して『なぜ自分と一緒に居るのかと』問いかけた時も同じような状態だった。

『パルスィと一緒』と言うヤマメの答え、そしてたった今聞いた『パルスィのことが大好き』という言葉。

言葉以上の意味は無い、友情以上の価値もない、なのに心は、それ以上の何かを期待して過剰に反応してしまう。


「うわ、パルスィってば顔真っ赤らぁ」

「別にどうでもいいでしょ」

「どうでもよくないよぉ、らって今のパルスィすっごいかわいーもん」

「っ……!」

「あはは、もっと赤くなったぁ」


悪意が無い分、余計に残酷だった。

一人で考え込んでいた時も泣きたい気分ではあったが、今も別の意味で泣いてしまいたい気分だ。

もしヤマメがパルスィの気持ちを知っていたら、間違っても”かわいい”だの”やらしい”だの言えないはずだ。

勘違いをさせてしまうから。

なのにヤマメがそれを遠慮無く口にするということは、パルスィの気持ちに全く気づいていないという証左であり、またパルスィに対して特別な感情は抱いていないという事実を証明するための一つの要素にも成りうる。

幻想ぐらい見せて欲しい。

もしかしたら、ひょっとしたら、そんなあり得ない未来を想像出来るのは可能性が完全に否定されていないからだ。

ヤマメが独り身だから、まだ二人が友達のままだから。

告白さえしなければ、ヤマメが誰かとくっつきさえしなければ、まだ想像の余地は残っている、甘い幻想に身を委ねることが出来る。


「わらひに触られるの、そんらに嫌?」

「……嫌って言ってるじゃない、ずっと」


身動きの取れないパルスィに、ヤマメの真っ直ぐな視線が向けられる。

本人はじっと見つめているつもりなのかもしれないが、その眼はどこか虚ろで、体も静止できずにふらふらと揺れている。

酔っ払ってるのは明らかだ、そんな彼女の言葉をシラフの状態で真に受ける方がどうかしている。

いつものように軽く受け流せばいいだけなのに、それが出来ないのは、パルスィの思考が泥沼に嵌ってしまったせい。

今このタイミンでさえなければ、いつも通りでいられたはずなのに。

世の中はいつもそうだ、今は来てほしくない――そんな時に限って災厄は訪れるものだから。


「ずっとよ、ずっと、”だから”、嫌だって言ったのに」

「パル――」


それは自分のせいではない。

悪いのはタイミングで、パルスィには時間は操れないから、つまり悪いのは神様のせいということになる。

だから、良心の呵責に苦しめられる必要もないのだ。

今じゃなければ、こんなに気持ちが落ち込んで、精神的に揺らいでいる今でさえなければ。

もうこの際誰かのせいでいい、真実など、本当の責任の在り処などどうでもいいことだ、今だけは責任を神様になすりつけてしまおう、どうせ明日の朝には全てさっぱり消えている。

なんならヤマメのアルコールにあてられて酔ってしまったことにしてもいい、それなら明日の朝に忘れていたとしても不自然ではないから。


「ん、んーっ!?」


パルスィの両腕は縛られている、ヤマメを捕らえる手段など無い。

つまりはヤマメが顔を話せばいいだけの話なのに、彼女はなぜか目を見開いたまま離れようとしない。


「ん、ぁ……っ」


それどころか、彼女はそれを受け入れてしまう始末で。

そこまでやるつもりは無かったのに引くに引けなくなったパルスィは、もうこうなったら思い切り楽しんでやる、とやけくそ気味にがっつりと堪能することにした。

後悔は目に見えているのに、自己嫌悪が津波のように押し寄せると知っているのに、なのに、いや”だからこそ”、今この一瞬だけは恋人のように振る舞いたかった。

好きだと、愛しているとは言えない。

夜明けと共に消えてしまう霧のような夢だ、なら逆に都合がいい。

味わってしまおう。貪ってしまおう。

だから、せめてもう少しだけ――そう祈りながら、パルスィは口と口との交合を続ける。

どれだけ飲んだのだろう、とてつもないアルコールの匂いだった。

比喩ではなく本当にパルスィまで酔ってしまいそうなほどの。

ただでさえ唇同士の接触で頭が茹だっているのに、熱っぽいヤマメの表情だけで心臓が爆発しそうなのに、それでも足りないとでも言うのだろうか。

だが確かに、朝に全て忘れてしまうにはまだ足りないのかもしれない、ヤマメぐらい正気を失うほど酔わなければ。

正気ならとうに失っている、とっくに狂気に支配されている、だけど俯瞰する冷静な自分がどこかにいる。

冷静を気取る自分を粉々に打ち砕くぐらい酔わなければならないのに。


「はふ……ん、ちゅる……ぁふ……っ」


口と口の隙間から漏れる声は、いつしか吐息から喘ぎ声に変わっていた。

ぬめりのある唾液が絡みあい、舌と舌が滑らかに擦り合う。

舌の裏側や口蓋を舌で愛撫されるたびに、ぞくりとした甘い痺れが全身に走る。

縛られて身動きの取れないパルスィだったが、快楽に反応して指と指がこすり合うようにして細かく動いていた。

ヤマメも同様に、気づけば両腕はパルスィの背中に回されていて、舌が蠢くたびにパルスィの体に全身を擦りつけている。

まるで一面の銀世界、誰も踏み入れたことのない白雪の平原を好き勝手に踏み荒らす気分。

パルスィが触れたくない理由の全ては、そこにあった。

価値を失うわけじゃない、価値を失うような気がしていたから――事実、今だってそうだ、どんなに薄めたって100%にはならない、どう足掻いても99%止まりだ。

戻らない治せない壊れたままの別物、純粋は戻っても純潔は戻らない、どれだけの月日が経っても一度汚れたキャンバスは純白にはならない。

極論を言ってしまえば、パルスィにとって自分自身とは無価値だった。つまりは零だ。

逆にヤマメは全だった。つまりは百ということになる。

人の価値なんて見る人によって変わる、だから他人がヤマメをどう考えているかはわからない、人によってはその価値は十かもしれないし一かもしれない、あるいは零という可能性もあるだろう。

だがしかし、少なくともパルスィにとってはヤマメが全てなわけだ。

せめて自分自身が一であればどうにかなったのに、零には何を掛けあわせても零にしかならない。

自分の存在一つで、ヤマメすら無価値な存在になってしまう。

それだけは、許してはならないと、そう望んできたはずなのに。


「はぁ……はぁ……」


唇が離れる、二人の間を銀の糸が繋ぐ。

しかし、糸はすぐに重力に負けて消えてしまった。

二人は蕩けた表情で視線を絡ませあったまま、しばらく抱き合っていた。

パルスィは糸に縛られたままというマヌケな構図ではあるが、本人たちは大真面目だ。

夜風が二人の頭を冷ましていく。

冷静さを取り戻すことを、パルスィは何よりも恐れていた。

この場に一升瓶でもあれば一気に飲み干してしまいたい気分だった。

後に地獄が待っていることがわかっているのだから、忘れられるのなら今すぐにでも忘れてしまいたい。

けれど、今のキスを忘れたくないと思う自分も確かに存在している。

考えなしの欲望にまみれた愚かな自分と、常に正しい判断を下す冷静な自分、二つの人格が自分の中でせめぎあっている。


「ぱる……すぃ……」


力のない声でパルスィの名前を呼ぶヤマメ。

抱きついているにも関わらずふらふらと揺れていたが、メトロノームのようにその揺れは大きくなっていく。

腕の力も弱くなっていき、しっかりとパルスィの方を見据えていた視線さえもゆらゆらと揺れている。


「わらひ……あぅ……」


ぐらり、ぐらり、今にも倒れそうなほどゆらゆらと揺れるヤマメだっが、生憎両腕を縛られているパルスィは彼女を助けることは出来そうにない……と思っていたのだが、パルスィを縛っていた蜘蛛の糸はいつの間にか強度を失っていた。

試しに軽く力を入れるだけで容易くちぎれてしまった、ヤマメが意識を失おうとしているから糸も力を失ったのだろうか。

こうしてどうにか自由を取り戻したパルスィは、今にも地面に倒れ伏しそうになるヤマメを慌てて抱きとめた。


「うわっ」

「ぅ……ん……」


キスを始めてからここまでの流れは、パルスィの想定通りではあった。

あそこまで酔っていれば、放っておいてもそのうち意識を失うだろう、その程度は想像に難くない。

しかし、どうやらキスのショックでさらにそれが早まってしまったようだ。

ヤマメはもはや立つことすらできず、全体重をパルスィが支えている状態だった。

小柄に見えるヤマメだが、完全に力を失った状態では小柄とは言えかなり重い。

普通であれば女性一人で運べる重さではないのだが、ここは地底、そしてパルスィは妖怪である。

勇儀ほどの怪力はないにしろ、そこらの人間に腕っ節で負けるほど軟弱ではない。

脳を冒す甘い毒も冷めやらぬままのパルスィは、少し調子に乗ってお姫様抱っこでヤマメを抱え上げる。

普段なら背負って運ぶくせに、今だけはヤマメの顔を近くで見ていたいと我が儘を通すために。


「……かわいいわね、ほんと」


抱えられても一向に目を覚ます様子はない。

無防備に寝息を立てるその姿は、まるで純粋無垢な子供のようだ。

本来なら触れることすらおこがましいほどに可憐で、美しい。

自分のような妖怪が汚していい存在ではない、それをパルスィ自身も理解はしているのだが、感情全てが理性で抑えられるのなら苦労はしない。

可憐だからこそ触れたいのだ、美しいからこそ汚したいのだ。

欲望はいつだって天の邪鬼、ちっとも言うことなんか聞いてくれやしない。


「柔らかいし、いい匂いするし、私みたいなのを相手してくれるぐらい性格も良くって、なんて妬ましい」


両思いの未来を妄想する、まるで恋する乙女のように。

脳裏に浮かぶヴィジョンはやたら純情で、そんな光景を汚れきった自分が想像しているのがやけに滑稽だった。

パルスィは嘲り笑う。


「ふふっ、ほんとは私なんかが傍に居るべきじゃないのに、自分でも嫌ってほどわかってるはずなのにね」


自分の愚かさを、自分の惨めさを、身の程知らずとはまさにこのことか、と。


「だけど……ああ、やだなあもう。

 さっきのキス、めちゃくちゃ気持ちよかったし、幸せだったし……やっぱりさ、私ってばヤマメの事が大好きみたい。

 迷惑だろうけど、やめたくてもやめられないの、ごめんね」


そんな自分のことが、パルスィは嫌いだった。嫌いで仕方なかった。

消えてしまえばいい、死んでしまえばいい、何度もそう願ってきた。


「うぁ……」


胸がぎゅうっと締め付けられる、痛みに耐え切れずにぐっと下唇を噛み締めた。

後悔の波はもうすぐそこまで迫ってきている、思考をどん底まで叩き落とす黒い黒い波だ、これはその前兆にすぎない。

猶予はほとんど残されていない。

その時になれば、きっとまたパルスィは自分を殺したいほどに今日の行いを悔いるだろう、今日の自分を憎むだろう、汚したくない守りたかった物を自らの手で汚した罰として自分を責め続けるだろう。


「もう、わかってるわよ、どうせ後悔するんでしょう?

 でもね、後悔なんてあとで死ぬほどやればいいの。

 だったら、別に今ぐらいは欲望にかまけてもいいじゃない」


だが、どんなに自分が嫌いでも自殺なんてする勇気はなかった、それでも自己嫌悪は消えない、そうやって自己嫌悪と自殺願望を何度も何度も繰り返すうちに、気づけば劣等感の塊になっていた。

しかし、自分が害を成すだけの存在なのだと自覚しながらも、自分に価値が無いことを認めながらも、パルスィは他人との繋がりを求めていた。

人間だろうが妖怪だろうが、誰だって一緒だ。

だって、一人は寂しいから。


「好き、好き、大好きよ、愛してる、何度だってキスしたいし、めちゃくちゃに犯して汚したいとも思ってる」


好きだからとか、寂しいからとか、そんな自分本位な理由で。

死ぬ勇気の無い自分のことも、そのくせ他人を求める自分のことも、全て嫌いだった。だからこそ消えるべきだと思った。

だけど消えたくない、だから生きている、でも寂しい、やっぱり好き、けれどそんな自分が嫌い、自分の中で相反する感情が何度もぶつかり合い、負の連鎖が延々と続いて、何度も何度も螺旋を描いて、今のパルスィは形作られている。

原型がどんな物だったか、そもそも自分が何だったのか、全てが黒く塗りつぶされて、パルスィ自身にもよくわからない。


「止まらないの、こんなに傍に居て何もしないほど私は善人じゃない。

 自制心が無いことはヤマメだってよく知ってるでしょう?

 だから、だから――」


しかし、自分を卑下するということはイコール他人を羨むことでもあり、嫉妬こそは彼女の力の源泉であり――皮肉にも、今のパルスィは妬みを糧とする妖怪としては正しい在り方なのである。


「飽きるまでキスしてやるんだから。

 今夜だけは、何度だって」


その在り方そのものが、パルスィを苦しめる元凶なのだが。





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