リザーブ
洗い物を終えたヤマメは、パルスィの元へと戻った。
「おかえりなさい」
「ただいま……ってそれはおかしくない?」
「こういうのは雰囲気よ、雰囲気。
それで、ヤマメはいつまでここに居てくれるのかしら」
「特に予定はないし、パルスィが居て欲しいなら泊まっていってもいいよ」
強いて言うならパルスィと会うことこそが予定だった、終了予定は飽きるまで。
こうして家で二人きりで過ごす限りはパルスィの狩りによって中断なんてことも無いはずなので、許可さえ降りればヤマメは平気で泊まっていくだろう。
目の前に居るのがパルスィだったとしても、全く警戒もせずに。
「宿泊オーケーなんて至れり尽くせりね。
本当に善意の塊なのね、感服するわ。とてもじゃないけど私には真似出来ないでしょうね」
「えー、じゃあ私が病気になってもパルスィは看病してくれないの?」
「あんたは病気になんてならないじゃない」
「私だってかかる病気ぐらいあると思うよ、たぶん。
それに怪我とかあるかもよ? もし寝たきりになったりしても、私と同じように看病してくれないのかなー」
「して欲しいならしてあげてもいいけど、貞操の安全は保証しないわよ」
「違う意味で床に伏せることになりそうだね……」
「安心なさい、私は床上手だから」
「微塵も安心出来ないよ! 私も看病される側の気持ちを味わいたいと思っただけなのに、パルスィ相手だとおかゆに媚薬とか混ぜられそうで怖いよ」
「やあね、私は薬なんて使わないわ。堕とすなら実力で堕とさないと面白くないもの」
「一応美学はあるんだね……」
ならばあの少女も、薬も怪しげな術も使わずにパルスィの手によって籠絡されてしまったのだろうか。
(……別に、羨ましいわけじゃないけど)
ならばヤマメの心に浮かんだ微かな嫉妬は一体何なのだろう、相手が自分であればよかったとでも言うつもりなのだろうか。
それは違うはずだ、ヤマメはパルスィから与えられる嘘なんて望んじゃいない。
きっとこれは、独占欲だ。
自分の物でもないくせに、一丁前に所有権を主張したところで、実際にパルスィと触れ合っているのはあの少女だという事実は変わらないのに。
例え嘘だったとしても、今パルスィの彼女を名乗ることができるのはあの少女だけ。
今のヤマメは所詮、ほんの少し変な気を起こしただけの、ただの友人に過ぎない。
勝手に妬んで、勝手に沈んで、会話の滞った数秒の間にみるみるうちに表情の曇ってしまったヤマメだったが、そんな彼女をパルスィはじっと見つめていた。
パルスィに心を読む力は無い、だが今のヤマメが何を考えているのかは理解できてしまった。
指摘するべきか、それとも心にしまいこんでおくべきか。
一瞬の葛藤、ふと思い出すのは先ほどのヤマメの言葉、”合理性なんてどうでも良い”と言う彼女の声はパルスィの自己嫌悪を全て払拭するには至らなかったが、全く効果が無かったわけではない。
開き直ってもいいのではないか、欲しいものがあるならば間違っていても進むべきではないのかと、奥底に閉じ込めてきた欲望が告げている、ヤマメに対する過剰な自制心が緩んでいる。
揺れる天秤は、今日に限って逃避側には傾かない。
まぶたを下ろしたまばたきの刹那で覚悟を決め、パルスィは口を開いた。
「ねえ、ヤマメ。ずっと思ってたんだけど」
「どしたの?」
まるで何事も無かったかのようにいつもの笑顔で反応するヤマメに、無慈悲に言い放つ。
「ん……その、私が何の妖怪かは、知ってるはずよね?」
最初はヤマメもその言葉の意図に気づいてはいなかった。
パルスィが真面目な顔をしているので重要なことなのだろうとは思ったが、しかし真意には辿り着けない。
「へ? そりゃあ、もちろん知ってるけど。
なにさ今更、そんな当たり前のこと確認して」
「さっき、ヤマメはあくまで友人としての好きで、変な意味は無いって言ってたじゃない?」
「うん、実際そうだからね」
嘘だ、ヤマメはパルスィに対して友情以上の感情を抱いていることをすでに自覚している。
見ぬかれてしまったのだろうか。
経験の浅いヤマメがパルスィ相手に隠し通すのは無理だったのだろうか。
「……」
「ねえパルスィ、急にどうしたの?」
「ヤマメ、言ってみてよ。私が何の妖怪なのか」
そんな当たり前のことを改めて言う必要があるのだろうか、それともからかわれているだけなのか。
どちらにせよ、言わなければパルスィは機嫌を損ねてしまいそうだ。
「橋姫、だよね」
答えてもパルスィの表情は変わらず、硬いまま。
しかしついさっきまでは普通に受け答えしていたはずなのに、パルスィはいつヤマメの感情に気づいたと言うのだろう。
「どんな力を持っているの?」
一切表情を崩さないパルスィからは、おふざけの雰囲気は見て取れない。
仮に彼女がふざけているのだとしたら、ここらでヤマメにしか分からない程度のボロを出すはずなのだが。
釈然としないまま、ヤマメは言われるがままにパルスィの問に答える。
「そりゃあ、嫉妬を操る……」
ヤマメが気づいたのは、その瞬間だった。
自分で言葉にして初めて気づく、気づいてしまう。
今までパルスィの能力がヤマメに向けられたことは無かった、だから当然のように知っていても、その力を意識することは無かったしその必要も無かった。
どうして、そんな単純なことを失念していたのだろう、と。
今更悔いてももう遅い、だが悔いずにはいられない。
あまりに不用意すぎる自分の行為に、血の気がさっと引いていく、顔が青ざめこめかみにじわりと冷や汗が滲んだ。
「あ……え? 嫉妬を、操るって……つまり……」
「別に責めようってわけじゃないの、ただ一応言っておいたほうがいいと思って」
他人の嫉妬心を煽り、嫉妬心を糧とする。
そんなパルスィに――嫉妬心が感知出来ないなんてことがありえるだろうか。
「さとりみたいに心を読めるわけじゃないから深い意味まではわからないわ。
でもね、誰が嫉妬をしたかぐらいはわかるし、相手がヤマメなら考えてることもなんとなくわかるの。
たぶんだけど……ヤマメが嫉妬してたのは、あの子のことを考えてた時よね?」
自分で話を振っておきながら嫉妬してみたり、面倒くさい女だと自嘲したことだってあったはずだ。
もう逃げられない、パルスィの緑の瞳はまっすぐにヤマメを捕らえている。
それでも、認めるわけにはいかなかった。
自分の気持ちには気づいている、だがまだ覚悟が決まっていない、伝えるには早過ぎる、こんな不安定な状態で
「そ、それはっ……あの、違うの、別にそういうつもりで考えてたわけじゃなくてっ!」
「そういうつもりって、どういうつもり?」
「違う、違うっ、えっと…ごめん、本当にごめんっ」
「どーして謝るのよ」
「だって嫉妬するなんておかしいじゃん!? 私たち友達なのに、ただの友達が恋人に嫉妬するなんてそんなこと……っ。
ごめん、本当にごめん、きっと私の頭が変になっちゃってるだけだから、気の迷いだからっ」
「そう、残念ね。私は嬉しかったのに」
「……へ?」
予想外のパルスィの言葉に、ヤマメは思わず固まる。
聞き間違えでなければ、パルスィは確かに嬉しかったと言ったはずだ。
「うそ、だ」
思わずこぼれた言葉がそれだった。
パルスィの熱病が伝染ったのだろうか、そのせいで妙な幻聴が聞こえてしまったのではないか、でなければ、そんなことありえるわけがない。
出会った時、ヤマメはパルスィのお眼鏡には敵わなかった。
友人として付き合う間、パルスィは一度だってそんな素振りを見せたことは無かった。
そもそも好きな相手に、他の女を口説く光景など見せるだろうか。
ありえない、そんなはずはない。だが、しかし――
パルスィはヤマメを遠ざけようとしていたはずだ。
自分には相応しく無いと考え、あえて汚い面を見せて関係を断ち切ろうとしていたのなら、その行動にも納得できる。
「これでも勇気を振り絞って言ったのに、第一声が嘘だなんてひどいわ」
「うそだよ、ありえない」
「ありえなくないわ、だってあの子たちはあくまで遊びなんだもの」
「でも、でもでもっ、今までそんなこと、一度だって!」
「言うわけ無いじゃない、だって私は触れることすら禁じてきたのよ?
私みたいな汚れた女が、ヤマメみたいな綺麗な女の子を汚しちゃ駄目だって」
「じゃあ、なんで……ってあいたっ!」
パルスィの人差し指がヤマメの眉間を小突く。
「忘れたの? さっき自分が言った言葉を」
「さっき、私が?」
ヤマメはパルスィに言ったはずだ、もっと自分勝手にやってみろ、と。
「許可、貰っちゃったから」
頬を染めてまっすぐに笑いかけるパルスィのことを、ヤマメは率直に可愛いと思った。
少女に見せる狩人の顔でもなく、ヤマメに見せてきた悪友としての顔でもなく、初めて見る、おそらく”恋人”としての顔。
胸が跳ねる、頭に血が上り顔が熱くなる。
こんな見たこと無い表情見せられたら、今でも好きなのに、もっともっと馬鹿みたいに好きになってしまう。
誤魔化そうとしても誤魔化せなくなってしまう、勢いだけで想いが暴走してしまいそうだ。
「正直言ってまだ割り切れない部分はあるわ、いきなり罪悪感が消えたりはしないもの。
でも、自分で禁止してたくせにそれを破って抱きしめちゃうぐらい限界だったのよ、耐えられるわけがないじゃない。
もう無理、ヤマメへの想いが罪の意識を塗りつぶしてしまったの」
ようやく、長い間抱き続けた疑問が解けていく。
どんなに否定されても、さとりからお墨付きを貰っても、パルスィがヤマメに触れようとしない理由――それが自分が土蜘蛛である故ではないかという疑念は消えなかった、今日この日までは。
本当は想いは一方通行なんじゃないかと、微かな不安がつきまとっていた。
「放っておいたら消えるんじゃないかと思ってたのに、むしろ逆だった。ヤマメへの想いは放っておくうちにどんどん大きくなってしまったわ。
こんな風に誰かのことを少しずつ好きになっていくの、初めてだった。どうしていいのかわからなかった。
知らなかったわ、恋ってこんなに厄介だったのね、逃げて時間を稼いだつもりだったのに、過ぎた時間だけ心にしっかり根付いて、どうやら一生消えそうにないわね。
ねえヤマメ、どうしてくれるの? これで責任取らないなんて言われたら、きっと私、一生誰のことも好きになれないわ」
パルスィはヤマメの気持ちだったら多少はわかると言っていた。
それはヤマメも同じことだ、これだけ一緒に居れば心を読めずとも何を考えているのか、多少ならわかる。
だから、パルスィがふざけているわけでもからかっているわけでもなく、本気で想いを伝えていることは、疑う余地もなくヤマメにもわかっていた。
わかっていたから――
「……っ」
うまく、言葉に出来ない。
こみ上げてくる感情はおそらく歓喜と呼ばれる類の物で、普通だったら大声で万歳三唱でもしながら跳びはねるぐらい嬉しいはずだ。
だが、常軌を逸した感情の奔流は、体で表現する限界を超えていて思うように表に出すことが出来ない。
とにかく落ち着かなければ。
そう判断したヤマメは、一度大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。
そのおかげか、どうにかパルスィの言葉に対して返答をすることができた。
「たぶん……私も、一緒だと思う。
最初のうちは、見て見ぬふりをしたらいつか消えてるだろうって思った、でも違ったんだ。
目を逸らしてるうちに手遅れなまでに大きくなって、大きすぎて目を逸らすこともできなくなってさ。
挙句の果てには嫉妬して、遊びだってわかってるのに抑えきれなくなって、隠しきれなくて」
「そんなこと考えてくれてたんだ」
「……うん、考えちゃった」
俯きながらヤマメは力なく笑った。
仮にヤマメがパルスィの能力のことを覚えていたとしても、嫉妬を抑え切れたかと言われれば微妙なところだ。
嫉妬したくて嫉妬したわけじゃない、たまたま話題に少女のことが出てきて、反射的に嫉妬してしまっただけだ、パルスィへの想いを強く自覚してしまった以上、避けられる物では無い。
遅かれ早かれいずれはこうなる運命だったのだろう。
「まだ割り切れないって顔してるわね、そんなに友達の関係が名残惜しかった?」
「できれば一生そうありたかったかな、だってぬるま湯みたいに心地いいんだもん」
「熱情は好みじゃないのね」
「知らない物ってそれだけで怖いから、パルスィは慣れてるから平気だろうけどさ」
「冗談、こんな気持ちは初めてだってさっき言ったはずよ。
きっと私、初恋もまだだったのよ。
誰かを好きになるってことがこんなに熱いなんて、初めて知ったわ。ほら」
パルスィはヤマメの手を取ると、自分の頬に当てた。
赤く火照る柔らかな頬の感触を指先で感じる。
確かにパルスィの言うように、平熱よりはかなり熱があがっているようだ。
「熱、また上がったんじゃない?」
「風邪ぐらいでここまで熱くなるわけないでしょう、わからないの?」
「経験豊富なパルスィと違って、いかんせん何もかも初めてなんですー。
こうしてパルスィの体温を感じることすら数えられる程度しかないのに、わかるわけないじゃん」
「仕方ないわね、じゃあもっとわかるようにしてあげるわ」
ヤマメの腕をぐいっと引き寄せ、力づくで顔を近づける。
「うわっ!?」と驚いたヤマメは、そのままバランスを崩してしまった。
転んだ先はパルスィの顔の真横。
少し顔を動かすだけで触れてしまいそうなほどの近さで、肌越しに体温が伝わってくるほどだ。
あまりに近さに顔を真っ赤にしているヤマメの耳元で、パルスィはそっと囁く。
「ここに、お願い」
艶めかしいウィスパーボイスと、微かに耳をくすぐる吐息にヤマメは思わず体を震わせた。
パルスィの人差し指は、赤く濡れた唇を指している。
彼女は、ヤマメの見たことのない顔をしていた。
きっとそれは、今まで夜を共にしてきたどんな女の子にも見せたことの無い顔だ。
優しく、熱く、婀娜やかで、蠱惑的。
土蜘蛛に誘蛾灯に惹かれる趣味はないが、今日だけは例外でも良い。そう思ってしまうほどに魅力的な灯りだった。
プライドなんて二の次で、絡め取られて、囚われが幸福であるというのなら、それでもいいと。
「はふ……」
導かれるまま、ヤマメは唇を寄せる。
唇が触れる直前、緊張のあまりヤマメの漏らした吐息がパルスィの唇を撫でた。
「んぁ……っ」
こそばゆい感触に思わず漏らした小さな喘ぎがヤマメの耳元にまで届くと、寸前まで躊躇っていた彼女の抑止力は微塵も残らず消えてしまった。
脳が沸騰するというのはこういうことを言うのか。
ヤマメは自分が見たこともない表情をしているのがわかった、恥ずがしいぐらい熱情に溺れて、劣情に溢れている。
きっとパルスィ以外には見せてはイケナイ表情だと、直感で理解した。
見せてはいけないというか、見せたくない。
願わくばこれから一生、彼女専用であって欲しいと。
そして、唇が触れ合う。
境界線を超える瞬間、二人を縛っていた不可視の枷が壊れる音がした。
あるいはそれは理性の箍だったのかもしれない。
唇と唇を触れ合わせるという行為の意味。
手と手を触れ合わせるのと何が違うというのだろう、抱き合うほうがずっと密着する面積は多いじゃないか、以前にヤマメはそんなことを考えたことがあったが――自分がとんでもない阿呆だったことを痛感させられる。
違う、これは違う、自分が慣れていないせいもあるかもしれないが、これは致命的な行為だ。
後戻りなんて出来ないと、本能が、頭が痛くなるぐらいガンガンと警鐘を鳴らしている。
「ん……ぁ……」
どちらともなく唇の隙間から声が漏れる。
唇を触れ合わせる間、パルスィの脳はぐつぐつと煮立っているようだった。
キスなんて慣れていたはずなのに、どうして今更。
やっぱり自分は恋なんてしていなかったのだ、そう実感する。
誰を抱いた時よりも充足している、誰に愛された時よりも充実している、つまり今までのそれは全て愛などでは無かったのだ。
だったら劣情? いいや、劣情ですらなかった、ただ欲望を発散するのにちょうどいい道具があっただけで、ヤマメに比べれば、そんな物。
なにせキスで全てを凌駕してしまうのだから、他の全てなんて無価値になるに決まっている。
他人の恋路を好き勝手に荒らしておいて反省の一つも無いのか、とパルスィの中の善なる心が咎めるが、九割を占める悪なる心がすぐに消してしまう。
だからなんだ、他人がなんだ、おもちゃがどうした、私はヤマメが好きなんだから仕方ないだろう、と。
「ぷはぁっ!」
たっぷり数十秒も唇を合わせあった二人は、ヤマメの息切れと同時に顔を離した。
どうやらヤマメはキスをしている間ずっと息を止めていたらしい、顔を真っ赤にしてとろんとした目のまま、ぜえぜえと大げさに肩で息をしている。
「ふ、ふふっ、あはははっ……げほっ、けほっ……はふっ、あっはははははっ!」
締まらないオチに思わずパルスィは咳き込みながら笑ってしまう。
「いいじゃん別にっ、慣れてるパルスィと違って私はファーストキスだったんだからさ!」
ヤマメは顔を真っ赤にしながら頬を膨らませて抗議するが、ツボに入ってしまったパルスィは咳き込みながらもゲラゲラと笑い続けている。
しばしヤマメは言い訳を続けたものの、そのうちパルスィの耳まで届いたのは一言か二言程度。
結局、パルスィが落ち着くまで不満気に睨むことしかできなかった。
「はひっ、ひー……はぁ、あは……ひぃ……あぁ、もうヤマメったら、本当に……っ」
「馬鹿にしてる!」
「ヤマメがかわいすぎるのが悪いのよ……ふふっ、もう、ほんとなんでこんなにかわいいのよ、私を笑い殺すつもり?」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃんかよう!」
「違うわよ、可愛いってのは褒め言葉。いちいちヤマメの反応が可愛いからいけないのよ。
そうやってあんたの色んな喜怒哀楽見せられると、そのたびに好きになってくの」
「っ……好き、とか……」
「もちろん、友達としてじゃないわよ?」
「わかってる、よ」
わかっているからこそ、慣れない。
キスをしてしまった、それでもまだ完全に覚悟ができたわけじゃない。
「まだ心残りなのね」
「だって!」
「わかる、わかるわ、私たち友達としての付き合いが長すぎたのよ、それが急に次のステップになんて簡単に受け入れられる物じゃないわよね」
「でも、キスまでしたのに、私……」
「じゃあこうしましょう」
パルスィはヤマメの不安を少しでも和らげようと優しく手を握り、母親が子をあやすように語りかける。
「私たちは今日から、恋人予備軍になるの」
「……予備軍?」
聞き慣れない言葉に、思わずヤマメは首を傾げる。
恋人に予備軍などあるのだろうか、予備軍なんて名乗ってる時点でもう恋人と何も変わらないのではないか。
頭の上で無数のハテナが飛び交うヤマメ。
そんな動作がいちいち可愛らしいヤマメに心を奪われながらも、パルスィは話を続ける。
「そう、まだ友達だけど、お互いに恋人の予約をしておくのよ。
正直言って、私にもまだ整理しないといけないことはいくつもあるもの、正式に恋人になるのはその後でも遅くないわ。
ヤマメだってそうでしょう、気持ちの整理したいわよね?」
「うん、パルスィほど厄介事を抱えてるつもりないけど、少しはあるかな」
「だったら丁度いいじゃない、それでいきましょう」
「けどっ、私たちもうキスまでしたんだよ? なのに予備軍って今更過ぎるんじゃ」
「いいじゃないキスぐらい」
「だから価値観が違いすぎるんだよー!」
やはり色恋沙汰に慣れているパルスィは価値観がずれている、ヤマメはそう思っているのだが、実はすでに二人は一度口づけを交わしている。
もちろんヤマメはそのことを覚えてはいない。
もしこれが二人にとって初めてのキスならばパルスィは心穏やかでは居られなかったはずだが、今平気な顔をしていられるのは酔っ払ったヤマメとキスをしておいたおかげ。
衝動に任せて強引に唇を奪っておいたあの時の自分に、パルスィは初めて感謝した。
無論、だからといって当時の罪悪感が消えるわけではないのだが。
「良くない、絶対に良くないよ、だってキスしたらもう恋人だよ、普通そうなんだよ、私たちがどう言い訳しても他の人は認めてくれないし、言い逃れできないってば!」
「話さなければいいだけじゃない、一体誰に言い逃れするのよ」
「さとりとか……あとは……えっと、さとりとか」
人の心に土足で踏み込んで好き放題に荒らしていく、心の空き巣こと古明地さとり。
彼女と友人である以上、どんなに避けても逃げ続けるのには限界がある。
いつか必ず、それも割と近いうちに顔を合わせることになるはずだ。
「ってかさとりだけだよ!
ううぅ、ほんとあの子どうしよう、さとりと会う時だけ都合よくキスのこと忘れるなんてできるわけないしさ」
「予備軍はキスまではセーフなのよ、胸を張りなさい」
「そのルール絶対にさとりには通用しないって……と言うか、予備軍でキスなんだから、卒業したら私どうなっちゃうの!?」
「それはもう……ね?」
「何が”ね”なのさ!?」
「やあね、わかってるでしょう? ヤマメだって子供じゃないんだから」
「うっ……」
恋人になるとは、つまりそういうことだ。
今までとは違うのは関係性だけじゃない、肉体的なふれあいも、その深度も今までと変わってくるだろう。
その時が来たとして、自分がどうなってしまうのかヤマメには想像出来ないが――
「やっぱり、恋人だとそういうことするんだ」
「もちろんよ、ヤマメだって興味無いわけじゃないでしょう?」
「う、うん、まあ」
想像すら出来ないが、興味が無いと言えば嘘になる。
好きな相手が目の前にいるのなら尚更に、手を重ねあうだけでこれだけ心地良いのだから、肌と肌を重ねあわせればどうなるのか、考えるだけでぞわりとした感覚が全身に走る。
「ちなみには私はかなり興味があるわ」
「言われなくても知ってる!」
この調子だと、予備軍を卒業した瞬間に全裸になって襲ってきそうだ。
ヤマメにそう思わせるほど、パルスィの顔には興奮度合いがありありと現れていた。病人のくせに。
「私、そういうの、よくわかんないけど、さ。
こう見えても私、パルスィのことは信頼してるから。
いや……完全に信頼してるかって言われると微妙なところだけど、嫌な所沢山あるし、性格悪いし、意地悪だし、女たらしだし、今も現在進行形で浮気してるぐらいだし」
「信頼できるのかできないのかどっちなの?」
「自分の日頃の行いを考えてみなよ」
「……うーん、清廉潔白そのものね」
「そういうところが信頼できないって言ってるの!」
ただのジョークだとは理解していても、平気な顔をして言ってのける神経がヤマメにはどうも理解できない。
何年経っても、出会った当時から変わらなかったとしても、深い信頼関係を築いていたとしても、理解できない物は理解できないのだ。
誰かを”完全に”信頼することなんて、きっとこの世の誰にだって出来ない。
出来たとしてもそれは信頼じゃない、おそらくは信仰とか崇拝とか、友情や愛情とは違う何かだ。
百の短所があっても一つでも多い長所があれば相手を好きになれる、なんて話があるが、ヤマメの場合はパルスィの長所を百言い切るまでに短所を千は言えるだろう。
数だけの話をすれば、嫌いな部分の方が多い、だから完全に信頼だって出来ない。
それでもパルスィのことを好きになれたのは――たった十の、あるいは一の”好き”が、千の”嫌い”を凌駕したからこそ。
「でも、基本的には信頼してるよ? 少なくとも、私のことに関しては裏切らないだろうって、そこだけは確信してる」
どんなに他人を裏切っても、ヤマメの前では優しくて愉快な友人で居てくれた。
自己中心的な好意だとはわかっている、パルスィに裏切られて泣いてきた数多の女性たちのことを可哀想だとも思っている。
それでも、”だから何なんだ”と、ヤマメはそう思ってしまうのだ。
善人を気取りながら、そのくせ自分の中にそんな冷たい部分があるとは思いもしなかった。
今まで恋愛を経験したことが無かったので気付かなかったが、どうもヤマメは恋敵と呼ばれる相手に対してはどこまでも冷たくなれるらしい。
泣いてしまえ、不幸になってしまえとも思わない。
ただただ、どうでもいい。パルスィから優しくしてもらうことに比べれば、塵芥よりも些細な事だ。
「……うん、そういうことだし、たぶん大丈夫、かな。
えへへ、なんか恥ずかしいけど。
でも、ちょっとぐらい痛いのは我慢するから、その時がきたら私も私なりに頑張ってみるね」
「――」
だから、少なくともパルスィがヤマメの傷つくことをすることは無いのだろう。
彼女が正常な状態であれば、の話だが。
だが当のパルスィは、ヤマメが首を傾げてみたり顔を赤らめてみたりする度に理性を削られ、欲望との戦いを常に強いられてきたのである。
その上、こんなお許しのような言葉を聞かされたのでは、正気で居られるわけもなく――
「……ねえ、ヤマメ」
「ん?」
「襲ってもいい?」
「病人のくせに何言ってるの、駄目に決まってるじゃん!」
「えぇー、やだやだっ、襲いたいー! おーかーしーたーいー! ヤマメ可愛すぎるんだもんー! ゴホッ、ゴホッ!」
「風邪の前に頭の病気を治した方がいいのかな……」
ヤマメは苦笑いしながら、咳き込むパルスィの背中をさすり続けたのであった。




