最悪の友人
隣で退屈そうにしている友人をぼうっと見つめながら、黒谷ヤマメは深く考え込んでいた。
もはや癖と化してしまった人物考察の対象は、言うまでもなく視線の先に居る彼女――水橋パルスィである。
パルスィは橋の欄干に肘を付きながら、長いまつげのぱっちりお目目で大通りを歩く人の流れを退屈そうに見つめている。
その緑の眼は、おそらく雑踏に紛れる美少女を追っているに違いない。それも、恋人持ちの。
「ああ、あの子――」
「ん、あの女の子がどったの?」
パルスィに負けず劣らずの気の抜けた声でヤマメは聞き返す。
「妬ましいわ」
聞き慣れた言葉。そしていつもの胸の痛み。
その言葉の本当の意味を、ヤマメだけが知っている。
「はいはい、そーですか」
ヤマメは呆れたように「はぁ」とため息を吐くと、ジト目でパルスィを睨みつけた。
パルスィは自分が睨まれていることに気づくと、嘲るように「ふふん」と鼻で笑ってみせる。
無駄だとわかってはいたが、抗議の視線がこうも簡単に受け流されるとため息の一つも吐きたくなる。
黙っていれば、さらに言えば石像のように固まってさえいれば非の打ち所のない美少女のはずなのに、彼女はなぜに懲りずに悪魔の所業を繰り返すのか。
今のパルスィの表情を百人が見たとするなら、その百人は口をそろえて”彼女は悪事を企んでいる”と断言するだろう。
悪魔のような笑み、というかこれは悪魔そのものだ。いっそ大魔王とでも呼んでしまおうか。
誰が見ても明白すぎて、悪意を向けられているわけでもないのにひしひしと感じるそのオーラは、友人でありその顔を見慣れているヤマメですらドン引いてしまうほど強烈だ。
どれだけ傍にいても、何度見ても、一向に慣れる様子はない。
実を言えば、パルスィが”ターゲット”に気づく前に、ヤマメはその存在にすでに気づいていたのだ。
あの子は絶対にパルスィの好みだな、と。
黒のロングヘアに、ほんのり垂れた無垢な瞳、小さなお鼻に無自覚に色っぽい唇。
ちょっとぎこちないメイクも初心っぽくて加点対象。
少女はどうやら鬼の仲間のようで、しかし額から突き出す小さな角でさえ少女にとってはチャームポイントになりうる。
しかもおあつらえ向きに恋人までセット、あんなパルスィのために用意されたような贄をを彼女が逃がすわけがない。
「中々の上玉ね、しかも見てよあの初心な反応、手を繋いだだけで真っ赤っ赤になってるわよ」
つまるところパルスィの”妬ましい”とは、好みの女の子を見つけた、あの子はいいぞ、可愛いぞ、食っちまうぞ、という合図なわけだ。
最初こそは仲睦まじい恋人たちを見ての感想だったのかもしれないが、パルスィが”狩り”をするようになってから、その意味合いはすっかり変わってしまった。
気だるげだった表情は、悪魔のような笑みを経ていつの間にか狩人のそれに変わっている。
だがそれを狩人の顔だと判別できるのもまた、彼女をよく知るヤマメだけなのである。
客観的に見れば、今のパルスィは冷静で知的な女性……のように見えるかもしれない。
もちろん演技だ。おそらく、その方が相手に警戒されずに済むのだろう。
だが見た目に反して、頭の中には知性など塵ほどしか無く、脳の大部分ではどす黒く薄汚い欲望がぐつぐつと煮立っているに違いない。
そんな友人の姿を見ながら、本来なら軽蔑すべき悪癖であるにも関わらず、完全に嫌悪することが出来ない自分自身がヤマメは嫌で嫌で仕方なかった。
いや、嫌うどころかむしろ――
「はぁ、かわいそうに」
――私は何を、馬鹿なことを考えているのだろう。
良からぬ思考を、胸の内に溜まったもやもやとした感情ごとため息で吐き出す。
そして気をそらすように、ヤマメは雑踏へと視線を向けた。
視線の先にはちょうど、パルスィが狙いを定めた美少女の笑顔がある。
恋人と手をつなぎ、幸せ一杯の表情を浮かべる少女は。
確かに初心だし、ともすればまだ接吻すら交わしたことの無い清い関係なのかもしれない。
だがその笑顔は、これから悪い妖怪の手によって無残にも壊されてしまうのだろう。
ああなんと嘆かわしいことか。
「そう悲観することはないわ、私ほどの美人さんと結ばれるんだもの、彼女だってじきに私に感謝するようになるでしょうね」
パルスィが調子に乗って美人を自称するのは今に始まった事ではないので、ヤマメは触れずにスルーする。
「どうせ強制するんでしょ、言わなくたってわかってるよ」
「まさか、こう見えても私は優しいの、無理やり言わせたりはしないわ。
くんずほぐれつの結果、自発的に、彼女の方から言ってくるのよ」
「パルスィ、それって世間的には調教って言うらしいよ」
パルスィに向けられる冷たい視線。
だが彼女も慣れたもので、先ほどと同じように軽く笑って流してしまった。
「ふーん、ヤマメってばいつの間にそんないかがわしい言葉を覚えたのかしら、もしかして調教してくれる恋人でも出来た?
さすがの私でもそれには本気で嫉妬しちゃうなあ、いっそヤマメをそいつから寝取ってしまおうかしら」
パルスィの瞳が怪しげにギラリと光る。
もちろん物理的に光っているわけでなく、ヤマメから見てそういう風に見えただけなのだが、冗談とはいえこればかりは勘弁して欲しい。
”そういう類”の欲望を友人から向けられるのは精神衛生上あまり良くない。
気持ち悪い、と言うわけではないのだが、どうもバツが悪いと言うか、妙な気まずさがこみ上げてくる。
「んなわけないじゃん、私が独り身だってことはパルスィが一番良く知ってるでしょ、いつもどんだけ一緒にいると思ってるのさ。
隠れて誰かと付き合うなんて、パルスィみたいに器用な真似は出来ないよ」
「ふふふ、それは嘘ね。ヤマメったら私に隠し事をしようったって無駄よ。
隠すってことは、バレちゃ都合の悪い真実があるってことよね、そうよね、そうに決まってるわ。
実は恋人じゃないとか? まさかセフレだったりして!?
あのピュアだったヤマメがまさかそんな爛れた関係に溺れるなんて……嗚呼、友人として悲しいわ、おいおいと泣いてしまいそう。
でもそのギャップもなかなかいいわね、清純そうな美少女に実はセフレが! ちょっとした寝取られ気分! ああ、そそるわぁ……」
「……パルスィ」
握りしめた拳、視線だけで人を殺せそうなほど冷たい瞳、そして満面の笑み。
「ぶっ飛ばすよ?」
「ごめんなさい」
本能的に危険を察知したパルスィは、即座に笑顔で謝ってみせた。
反省していないことは一目瞭然だが、謝罪の言葉を聞いてしまった以上は拳を収めるしか無い。
普段はあまり怒ることの無いヤマメだが、こんなでも一応は妖怪なのである、見た目通り歳相応の少女であるわけがない。
土蜘蛛という妖怪は見た目よりもずっと力持ちだ。
勇儀のような真っ当な鬼ほどでは無いものの、腕力勝負でパルスィに勝ち目など全くないのである、極悪人のパルスィでもそりゃもう謝るしか無い。
「まったく 私だってんな言葉覚えたくなんてなかったっての、隣に居る誰かさんのせいで覚えたんだよ」
「なんてこと、私のおかげだったのね。いいのよ感謝しても」
「はいはい、ありがとありがと」
ヤマメは口を尖らせながら、嫌味たっぷりにわざとらしく言い放った。
そんな彼女の不満気なリアクションを見て、パルスィはくすりと笑う。
「さて、獲物を見失う前に行ってこようかしら」
十分に友人で遊び満足したパルスィは、ヤマメに背を向け人混みに向けて歩き出した。
「精々痛い目見ないように頑張りなよ」
「大丈夫よ、今まで私が失敗したことなんてあったかしら?」
「失敗を見たことが無いから言ってるのさ。
調子に乗ったパルスィがこっぴどく痛い目に会う所、死ぬまでに一度ぐらいは見ときたいからね」
ヤマメからの辛辣なエールに、パルスィは思わず顔をしかめながら振り向いた。
「頑張れって言ってくれたじゃない」
「社交辞令に決まってるじゃん、本心では痛い目見ちまえって思ってるよ。
きっとパルスィみたいな極悪人には良い薬になるに違いないね、一度地獄にでも堕ちて反省した方がいい」
「あら、ここが地獄よ? だからあの女の子にも救いはないの、あるのは非情な現実だけ」
「現実と書いてパルスィと読むんでしょ? 言っとくけど、ここは地獄でもパルスィほどの鬼畜はそうそういないからね。
こんな極悪人は、いっそここよりもっと酷い所に堕ちるべきなのさ」
「容赦無いわねえ、酷い友人も居たもんだわ」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ」
美少女ばかりを狙っては百発百中で落とすナンパのプロに比べれば、ヤマメの憎まれ口など可愛い物である。
彼女が悪事に手を染めたそもそもの動機は、行き過ぎた妬ましさ故に恋人をぶち壊したくなったから、ということらしい。
だが実際はどうなのだろう、ヤマメは完全にパルスィの趣味だと思っているようだが。
最初はパルスィの言う通りに嫉妬が動機だったのかもしれないが、今は当初の目的など綺麗さっぱり忘れているようにしか見えない。
これで彼女がごく普通の、ランクで言えば中の中程度の見た目しかないような女性なら何の問題も無かったのだろう。
しかしタチの悪いことにパルスィはそれはそれは見目麗しい、誰もが認める美人だったのである。
加えて演技も上手い、スイッチの入ったパルスィは彼女のことをよく知るヤマメですらその悪意を見抜けないほど見事に善人を演じきってみせる。
しかも、悪意があると理解していてもついくらりとしてしまうほどの色気、そして気づけば肩と肩が触れ合う距離にまで自然と近づいているテクニック。
その他諸々の要素によって、パルスィは完全なる女たらしの魔物と化してしまった。
とは言え、いくら美人だろうとナンパの成功率には限界があるはずだ、だというのになぜ彼女に限って百発百中なのか。
友人である自分ですら気を抜くと飲み込まれてしまいそうになるほどだ、おそらく妖怪らしく不可視の力が働いているに違いない――とヤマメは考える。
考えているだけで、ただの仮説に過ぎない。
だがそう考えざるを得ないほどの魔力、もとい魅力がその瞳には備わっていた。
瞳に限った話ではない、パルスィから漂う甘い香りだとか、声に人を惑わす魔力があるのだとか、考えようと思えば仮説はいくらでも立てられる。
結局は、どれも確かめようがないのだが。
なにせ、仮に不思議な力が存在していたとしても、本人にすら自覚がないのだからどうしようもない。
理由が何にせよ、パルスィのナンパが百発百中の精度を誇ることは事実なわけで……ほら、ちょうど今だって。
ヤマメの隣を離れたパルスィは、まっすぐにターゲットの元へと向かっていく。
夕刻、真面目な妖怪たちは仕事を終え、不真面目な妖怪たちが本格的に活動を始めるこのタイミングで、妖怪たちでごった返す大通りを恋人たちは手を繋ぎながら、どうにかはぐれないように進んでいた。
少しでも手が離れれば、二人の距離はすぐに離れてしまうだろう。
パルスィはそのことをよく知っていた、だから狙うのはいつも黄昏時の、人通りの多いこの場所なのである。
真っ直ぐに恋人たちの方へ向かった悪魔は、どうにかこうにか繋がれていた二人の手のうち、男の手を叩き分断する。
手が離れた瞬間、人混みに流され二人は離れ離れになってしまう。
次の瞬間、何者かの手が少女の手を掴んだ。
最初は男の手かと思い安堵の表情を浮かべた少女だったが、すぐに別人の手だと気付く。
だが焦ってももう遅い、少女はぐいぐいと男の居る方とは逆方向へと引っ張られていく。
「見てて吐き気がするぐらいに見事な手際だよね……」
思わずヤマメは引いてしまう。
少女の手を引いていたはずの恋人の男は、不安げに雑踏の中でキョロキョロとあたりを見回している。
そうこうしている間にも、パルスィと少女はどんどんと大通りを奥へと進んでいき――そしていつもの路地裏へと姿を消す。
少女の戸惑った表情に、パルスィの自信に満ちた悪い笑顔。
天使と悪魔とでも題するべきだろうか、実に見事な対比である。
哀れ、純粋無垢だったはずのあの少女は、今日一晩で知らなくても良かった穢れを知ってしまうのだろう。
「嫌な世の中だねえ」
男は未だに少女を探し続けている。
言うほど見た目が悪い男ではない、顔立ちが整っているとまでは言い難いが標準的な容姿は備えているし、性格だって良さそうだ。
初めて見る男で、その人となりを詳細に知っているわけではないが、性格は顔に出る物。
男の手を握っていた時の少女の表情は安心しきっていたし、少なくともあの少女の前では優しい男なのだろう。
とはいえ、お世辞にも二人は吊りあっているとは言いがたい、顔に関しては少女に圧倒的なアドバンテージがある。
顔面偏差値の差を性格の良さと熱意でどうにかひっくり返した、ということなのだろうか。
男が少女の元へ足繁く通い、少しずつ少女の心を解していく純愛ストーリーが容易に想像出来る。
物語なら付き合い始めたら終わり、そこでハッピーエンドのはずなのだが――世の中とはかくも残酷なものなのか、ハッピーエンドのその後がハッピー続きとは限らないのだ。
心配そうに少女の名を呼びながら、あたりを探しまわる男の姿が痛々しい。
ヤマメのように正常な感覚の持ち主であれば、その男の姿を見て心を痛めるのだろう。
だがしかし、パルスィのように歪んだ心を持つ者にとっては、あの男の姿こそ至高の肴になるに違いない。
「……帰るか」
勝負はパルスィの勝ちで終わったのだ、つまり今日のうちに彼女がここに戻ってくることはない、これ以上待っても無駄だ。
男から視線を逸らし、ヤマメも雑踏の一員となるべく大通りへ向かって歩き始める。
パルスィは妬み僻みを糧とする妖怪、だからアレも決して無駄な行為ではないのだ、ヤマメだってそれは理解している、全てが間違っているとは思っていない。
だが、仮に絶対に必要な行為だったとしても、それを許す事はできない。
ヤマメ自身の意思と言うよりは大衆の意思、要するにモラルと呼ばれる共通認識がそう告げている。
だから、多少なりともパルスィに好意を抱くヤマメでさえも、あれが間違っていることを理解している。可能ならば辞めさせるべきであることも。
理解しているくせに、完全に嫌うことができないから悩んでいるのだ。
パルスィが今日のように誰かの物に手を出すのは今に始まったことではない。
故に、地底ではそれなりの人数が彼女のその行いを知っている。
知っている妖怪のうちのほとんどがパルスィに対して良い印象を抱いては居ないし、中には実際に被害にあった者もおり、殺意じみた恨みを抱いている妖怪だって居た。
対してヤマメは、地底ではそれなりの人気者だ。
人当たりの良い性格で誰とだってすぐに馴染めた。宴会ではいつの間にか輪の中心に居ることも少なくはない。
対照的だった。誰もが二人が友人であることを疑問視していたし、当の本人たちですらなぜ自分たちが友人をやっているのか理解出来ていない。
パルスィはヤマメが自分の行為を嫌っているのを知っている、ヤマメはパルスィが口うるさく忠告ばかりされることを嫌っているのを知っている。
なのに、二人は気付けばいつもの橋の上に居て、いつの間にか誰よりも心を許す仲の良い友人になってしまっていた。
どうしてだろう、なぜだろう、最初こそそうやって考えることもあったけれど、気づけば二人は考えることを止めていた。
考えるだけ無駄だと悟ったからだ。
きっと最初から理由なんてなかったのだろう、出会いなんてそんなものだ、そう決めつけることにした。
ぼんやりと、パルスィの消えていった方向を眺めるヤマメ。
視界に映る悲劇の登場人物は、すでに誰一人として残っていない。
だが、少女とパルスィが今どんな状況にあるのかだけは、目に浮かぶように容易に想像できる。
取り残された男、今まさに汚されようとする少女、そして首尾よく事を進められた事に満足しニヤニヤと笑うパルスィ。
いつものことだが、胸が締め付けられるように痛かった。
何度も見るうちに慣れたおかげか、最初のころよりは痛みも随分とマシにはなったが、それでも見ていて気分の良い物ではない。
偽善者ぶっているわけではなく……いや、パルスィを止めない時点で偽善者にすぎないのだろうが、こんな悲惨な情景を見れば誰だって胸の一つや二つは痛くなるはずだ。
恋人たちが悲惨すぎて、そしてパルスィが悪魔すぎて。
誰に向けてかは知らないが、思わず笑ってしまうほどに。
ヤマメは自分の胸に軽く手を当てながら、強めに「ふぅ」と息を吐いた。
歩いているうち、いつの間にか人気のない通りまで来ていたようだ。
目を細めて視線を下へと傾ける。小石の転がる地面が視界を埋め尽くした。
ちょうどそこにあった石ころを、乱暴に強く蹴飛ばす。
石ころは何度か跳ねて右へと曲がっていき、終いには茂みの中へと消えてしまった。
「ばっかみたい」
誰に向けた言葉なのか、ヤマメ自身にも理解は出来ない。
胸に当てた手に力を入れ、手の平に収まった布をくしゃりと握る。
ヤマメの体を動かす原動力は、間違いなく感情だ。感情が体を突き動かす。
なのに、それがわからない、何もわからない。
理屈ではわからない、だから考えても形を掴めない、名前も知らない。
色んな感情がごちゃまぜになって、うねって絡んで形を失い、でもその中で唯一ひとつだけ確かに感じられる物があった。
どす黒く醜い塊。
見覚えのある形。
知っているのかもしれない、気のせいかもしれない。
けれどヤマメがそれを注視することはない、”都合の悪いものだ”と直感が告げているから。
だから、ヤマメは見て見ぬふりをした。