C1-4 宮城野桔梗
ドアフォンの前に佇んでいる女性の姿を見た途端、俺は絶句してしまった。白のワンピースにキャリーバッグを携行した海外旅行帰りみたいな姿、それだけを捉えれば住宅街の深夜であっても何の不思議もない光景だ。中々ドアが開かないのにイラついているのも鍵を預けて出掛ける人も居るし、まあ有り得る。それで寝込まれちゃ困りますよね。
でも、この家にそんな女性は居ない。いや、それ以上に俺はその姿が絶対にあり得ないと知っている。なぜならその女性は俺の妹だったからだ。
「…桔梗か?」暫く躊躇った後にようやく受話ボタンを押した俺はおずおずと尋ねた。
その声に女性が眦を上げモニターを睨み付けるのが確認できた。やっぱり桔梗だ。高校生の時の面影が色濃く観える。口の中に金属じみた味が広がる。
「友梨彦、早く開けてよ。さくらさんが亡くなったんでしょ?」ここに来るのはほぼ十年ぶりなのにまるで感情の揺れを感じさせない口調で問い掛けて来る。
「いや・・・あの・・・なんで?」対して俺は間抜けな位動揺していた。彼女は行方不明、しかもかなり死亡寄りの判定でこの世から消えていた筈だ。
彼女が高校生の時に父方、ばあちゃんの田舎に帰省したとき神隠しにあったのだ。警察も動員されニュースにもなった。俺はこの家に残っていたが、妹を探すために殺気立っていた両親とばあちゃんがよく対立して喧嘩していたのを覚えている。でも、何で対立してたんだ?俺以上のおばあちゃん子だった桔梗が居なくなったのにばあちゃんはやけに冷静だった気がした。
あれは何だったのだろうか?よく考えてみれば本当に両親やばあちゃんは行方が分からなかったのだろうか?
そんなだから俺もはっきりと遺体を見せられた両親の時と違い彼女が死んだという実感は無かった。でも、こうして実際に唐突に現れると亡霊めいた印象を感じ受け入れ難かった。
「なんで?そうね…磯上さんにはあまりあなたを巻き込むなって言われたんだけど」しかし、磯上さんの名前を出されたことで俺の事態への抵抗の意志は消し飛んでしまった。そうか・・・
「開ける」
「まったく・・・変わってない。」吐き捨てるような呟きが聞こえる。
「なに、その恰好?気持ち悪い」玄関先に出て来た俺を見た桔梗の最初の言葉はそれだった。
「はい?・・・いや、下着じゃないし・・・コンビニにも行けるよ?」よ?の発音が上擦ったのは仕方ない。Tシャツにステテコと言う寝間着にも散歩着にも使えるマイフェイバリットなスーツをいきなり全否定されて俺はしどろもどろとなった。
「それで外に行くの??迷惑だわ。あなた自分の見た目分かってるの?付近の女性が出歩けなくなるじゃない!」
「い、いや、コンビニのお姉さんは普通に対応してくれるし!」と、思う。
「職質・・・」
「へ?」
「職質何回受けたの?その恰好、事案通報ものだもの。急行しなかったら警察の怠慢だわ。何回なの?」
「そ、そんなに・・・受けてない」
「受けた事はあるのね?やっぱり…」本気の嫌悪感だ。
「ともかく、もっとまともな服に着替えて無精ひげも剃ってきてよ。目のやり場に困るじゃない。深夜にそれほど親しくもない男性の家に来なきゃならない身になってよ。」
「したしく?」確かにそうだが・・・
「そうでしょ?兄妹とは言え10年も会ってないのよ。他人みたいなものだわ。仮に親しみがあっても、親しき仲にも礼儀ありよ。そんなじゃ、まともに話も出来ないわ」お前は他人にそこまで言うのか?言わんだろ??・・・他人の方がマシだった。そしてこいつは紛れもなく宮城野桔梗、おれの妹だ。
俺はすごすごと部屋に戻り、押し入れの奥から数年前のデザインのズボンとシャツを引っ張り出し、居間に戻った。そこで鬚を剃るのを忘れた事に気付き妹の様子を窺ったが、何も言わなかったのでコーナーソファーの短い方の端に腰かけた。彼女はすでにソファーの長い方の中央に腰かけていた上にキャリーバッグを残った辺に立て掛けてあったのでそこしか無かったのだが。
「さくらさん、ここに安置されてたの?」
「ああ、葬儀屋が此処までしか運んでくれなかった。でも、何でわかるんだ?」
「残り香よ。友梨彦にもわかるでしょ?」え?慣れたんで分からなかったけど死臭が残ってるのか??ばあちゃんの死と言う事実が改めて突き付けられた様で俺は胸を突かれた。
「それにしても、料金通りの仕事をさせるのが難しい人が居るのね・・・でも、さくらさん、ちゃんとその後は移したのね。磯上さんと?」
「いや、その前になんとか移した。そこの和室。」
「和室?なぜ?寝室にじゃなきゃ駄目じゃない!」
「え?だって仏壇だってそこに有るし、二階は送る事も考えると無理だよ!!」これは俺の方が正しい。こう言う所は主張した方が今後の関係を考えても良いのでは無いだろうか?と言う俺の思いは彼女の応えによって断ち切られる事になった。
「ああ、そうだったわね・・・あなたは」その彼女の眼付を俺は一生忘れないだろう。微妙な様々なマイナスのニュアンスを含んだ表情、俺の外見や挙動に対する嫌悪感なら慣れているが、これは違う。何と言うか、俺の来歴全てを見通した上での否定だった。
ただ、不思議だったのはその中に微かな憎悪の煌きを感じた事だった。嫌悪感は分かる。自分以下の対象にも抱く感情だからだ。でも、憎悪は対等かそれ以上の力を持つ者への感情だ。俺の人生のあらゆる対象、あらゆる局面において受ける謂れの無いものだ。
「友梨彦はさくらさんの傍にずっと居て気付かなかったの?」
「なな、何を?」
「・・・さくらさんが特別だって事を」言いよどんだのは何故だろう?
ここで、ばあちゃんは何時でも特別だったさ!とか言ったら物理の可能性があるな。妹の性格が変わってなければだが。本気でそう思ってるんだけどね。
「気付いて無かった…磯上さんと桔梗の話を聞いて振り返れば思い当たる節は有るけど…これが手の込んだドッキリじゃなきゃな、はは」
「あなにそんな価値は無いわ。」ですよね。
「…ただ、どう特別なのかは分からない。分かる気もない。俺は…」パチリと指を鳴らす音がした。
突然、桔梗が俺の前に居た。俺が視線を向けていた彼女の座っていたソファーの中央の凹みがふわっと戻っるのが目に入った。そして彼女は左手をソファーの背もたれに掛け、もう一つの手が俺の襟首を締め上げている。息が出来ない…なんだ?今何が起こった??
「あなたがそんなだから!さくらさんが…」直前の出来事の不条理さに思いを巡らすいとまも無く激昂した桔梗の声が俺を撃つ。
「さくらさんがこうなってしまったのよ。」…死んだ原因が俺なのか?死因は心筋梗塞だ。その原因という事か?…心労という意味だろうか?だったら
「…そうかも知れないけど…いや、若しかしたら心労とかじゃなく…」拘束が緩みようやく絞り出した声は遮られた。
「さっき…あなたは無価値だって言ったけど本当は違うわ、特にさくらさんに取っては。だからあなたがドッキリだと言うのもある意味では当たってる。友梨彦は勘が良いから此処まで言えば分かるでしょ?」
「ばあちゃんが俺にそう言った何かを見せない様にしていた…?」そうだろう。でも、それが…どうつながるんだ?
「さくらさんは…私達の様な種類の人間は常に攻撃に曝されているの。私の様に常に移動したり、要塞の様な所に住んでいる人も居るわ。沢山の護衛に護られて何とか凌いで居る人も。此処だってそうだったのよ。しかも、通常よりかなり脆弱な状態で、さくらさんの卓越した力量のみに頼ってね。」そこまで言った所で桔梗は顔を歪めた。それからちょっと落ち着いたのか
「…うーん、磯上さんの注意事項に従って説明すると説得力がないわね。”現実”を見せるのが一番なんだけど。これじゃ、厨二病の妄想陳列だわ。あなた、どう思うの?」
「…とっくに磯上さんのガイドラインは超えてるとおもうよ。そう言うのが有るならだけど」いや、さっきの首絞め、理解不能だし。桔梗の座った位置から俺の座席まで2メートル以上はあった。その上、間には机やキャリーバッグがあり、そこを越えるとなると大きなアクションが必要になる。視界に入らずに一瞬に移動して気が付いた時には俺の気道を絞り上げている、となると超人的な体術か魔法、なんてものが有ればだけど、そう言った考えを入れなければ不可能だ。
そう言った、出鱈目な技能が普通な世界が有るのか?そこに俺の周りの人々は属して居ると言うのか…何の力も無い、いや、幼い内に、意識する前に脱落したらしい俺にどうしろと言うのだ、桔梗は?ばあちゃんの死の責任を取れと?
「そうね。磯上さんは自信過剰なのよ。…傲慢と言うのでは無く、優し過ぎるの。そして現実とのギャップを自分の犠牲で埋め合わせようとするのね。人間以上に人間らしい…でも、実際はそんな事無理だもの。最大限の優しさがどういう死に方か選べるのよ、って忠告するだけの場合だって有るのにね。」桔梗は俺に顔を寄せて来た。
昼間に全く同じ場所で別の女性に同じ様にされたが、それとはだいぶ感じが違った。底冷えのする瞳に射竦められ、カサンドラの様な不吉な運命を告げる唇に魅了され、今回は意思そのものが身動きが取れない。
ふっと、彼女の指先が襟元を離れた。
「一日に最低一回は剃りなさい。」
「んか?」喉が乾いて声がよく出ない。
「髭よ。見苦しいわ。さくらさんの葬儀が終わるまでこの家に居る事にする。蘭太郎さんと時子さんの部屋はどうなってるの?」
「そのままだと思う。」
「思う?」
「覗いちゃ悪いと思って…」ため息が聞こえた。
「まあいいわ、自分で確かめる。でも、その前にさくらさんを運ばなくてはね。友梨彦手伝いなさい。」
「はあ」
「明日の晩には磯上さんも戻ってくると思うけどそれまでは待てないわ。和室は脆過ぎるから」
「そう言えば、いつばあちゃんの話は知ったんだ?」磯上さんが出て行ってから連絡を受けたにしては随分と到着が早かった。
「・・・何かが有ったのは直ぐに分かったわ。磯上さんの方が先に着いたけど、私も近くまでは来ていたの。これでも気を使ってるのよ」分かるのか?それで磯上さんの飲み込みも早かったわけだ。しかし、何に気を使ってるのか分からないが、磯上さんが居た時に来てくれた方が俺の被害は少なかった気がする。
もしかして磯上さんが出掛けに何か言おうとしてたのは桔梗のことだったのか?あれは俺の様子を案じたんじゃなくて、面倒に巻き込まれるのを嫌がったのか。ひどい話だった。
和室に入ると桔梗はばあちゃんの脇に正座し線香を上げた。香の匂いとあの不思議な華のような香りが混ざり合って部屋中に拡がって行くようだ。また強くなっている。
「この香り…」
「シーツを巻くから、友梨彦は頭の方を持って。階段はあなたが下よ。私はあまり力が強くないの」嘘だ。そして当然の如く俺の発語を無視した桔梗はばあちゃんの遺体に布団から端を外したシーツを巻き始める。
「その・・・浮き上がって運ぶような・・・」
「私の術…技術はその様なものじゃないわ。そう言った事はむしろ磯上さんの方が得意ね。なんなら詳しく説明しましょうか?」嘲笑を含んだ答えに俺の好奇心はみるみる凋んでしまう。何も考えない様にしよう。
なんとか二階にばあちゃんを上げると残りの布団を改めて元に戻し寝室に彼女を安置する。俺たち二人は黙々と作業した。華の香りが作業が進む度強くなる。部屋の南京錠の群れがここを古代の墓所じみた雰囲気にする。俺はぞっとしてばあちゃんの方を見た。彼女は葬儀を待つ死者ではなく、魔術の儀式の生贄のようにも見えた。ここに置いていて良いのだろうか?
「扉をしっかり閉めるのよ。」先に部屋を出た桔梗が俺に言う。彼女も思いに沈んでいる様だった。
「ああ…それだけで良いのか?」寝室には鍵もない。何かから守るためにここに移動させたにしては随分簡単だった。
「それで良いわ。さくらさんを守らななきゃならない相手には錠の強さや扉の厚さなんかより、そこが締め切られていると言う意思表示の方が重要なのよ。そしてそれを幾重にも形で表すこと。守る方の意志の強さも重要ね。それがあるなら紙の御札の方が鉄の扉より効果が高い場合もあるのよ。物質的な比重が高い相手への防御手段とはまったく概念が異なるの。その点でこの部屋はこの家の中でもっとも守られて居ると言えるわ。」よく分から無かった。あの南京錠達の事だろうか?しかし、俺には質問をする気力が残って居なかった。その手の話はもうお腹いっぱいと言うのが本当の所だ。
彼女も応えを期待して居なかったらしく扉の状態を確かめるとそのまま両親の部屋に向かって行った。もしかして扉の話をしたのは先ほど俺の好奇心をへし折ってしまった事へのお詫びめいた心情だったのだろうか?
部屋に戻ると日が変わっていたのが分かった。直ぐにベッドに潜り込む。桔梗はばあちゃんの死の原因は俺にあると言った。俺がこんなだからと。勿論、それは最初から分かっていた。超常的な敵なんか持ち出さなくたって俺のせいだって分かる。だから・・・どうなのだろう?
ああ、桔梗は完全に正しい。もうバッドエンドのフラグは全て立てて後はシーンを消化するだけなのだ。なぜか安心して眠りに落ちた俺はしかし、夜が明けぬ内にその結末を迎えるとは思わなかった。