C1-3 磯上篤成
ようやく日が暮れた。
うむ、風呂に入ろう。昨日はさすがに入れ無かったし、ガスを止められるまで何ヶ月持つか分からない、入れる内に入って置こう。俺は風呂が大好きなのだ。
なお、俺はシャワーでは満足出来ない派である。しっかりと湯を沸かして首まで浸かって180秒経過するまで外に出無い事を信条としている。穀潰しが何を偉そうにと言われるかもしれないが、これは信念の問題なのだ。口を挟まないで頂きたい。
そして決意を新たに二日ぶりの風呂の準備をし、服を脱いだところで今日二度目のドアフォンが鳴った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
取り敢えず居留守を使うことにする。シャワーを浴び湯船に浸かる。やっぱり風呂はいい。ほっと息を継いだ途端にドアフォンの鬼打ちが始まった。まだ58秒だよ!!
「あわわわわわわ…」全身が総毛立つ。ちょ!時間何時だと思ってるの?俺は仕方無くタオルを巻くと全力で台所に向う。…でもこのパターンって?
「あの!近所迷惑です!」受話器に向かって俺は怒鳴る。
「すまんな、インターフォンが壊れたかと思ってな、彦。ほら、ここのよく壊れるだろう?」やっぱりそうだ。ドアモニタが映し出して居るのは40代に見える細身だが引き締まった筋肉質の男性だった。彼の名は磯上篤成。何で忘れてたかなあ、彼の不機嫌そうなそして不敵な面構えを見て思ったのはそれだった。
「あ…」不意に涙が溢れそうになる。この状況で唯一救いに成りそうな人物を居留守を使って追い返そうとしていたのだ。
「どうした?」
「いえ…お久しぶりです」俺は解錠ボタンを押すと慌てて服を着直した。
磯上さんは個人の貿易商だ。俺が中学生の頃、初めて家にやって来た。ばあちゃんの囲碁の後輩だと言われたが、今でも彼が碁石を打ってる所は想像出来ない。ただ、彼女とよく碁のタイトルの話とかしていたので上手いか下手かは別に本当に好きなんだろう。もっとも、ネットのニュースで上がってくるタイトル戦の展開と違う事が有って実際かなりいい加減だった。
磯上さんは傍目でもよく分るほどばあちゃんを崇拝していた。まるで家臣か何かの様な時代がかった言い方をする事があって笑ってしまう事がよくあった。そうするとニヤリと笑って彦のばあちゃんはそれだけの価値のある方なんだよ、と言うのだ。
精力的で俺の一番苦手なタイプの筈だが何故かウマが合った。俺の境遇については他人事であったのが良かったのかも知れなかった。他人が如何であろうと全く気にならないタイプなのだ。ただ、自分が付き合いたい人間の興味を持った部分だけ関わりを持つ、そう言う人だった。
ばあちゃんの孫と言う事を除いても何かが彼の興味を引いたらしく、来る時は必ず外国の奇妙な土産、大概はキッチュな安物の記念品を買って来た。何故か毎回それを手に入れる為の嘘くさい冒険話が付いてきており、初めの頃は興奮して、高校になると生暖かい目で、今は彼の話のお約束に突っ込むのを楽しみに聞いていた。
家族との関係が悪化し、さらに妹、両親と家族がこの家から消えて行く中で、社会生活もままならない俺にとってばあちゃん以外で時々の訪問者と言う立場ながら唯一親しいと言える存在となっていた。
居間まで出ると、勝手知ったる様子でそこまで入って来た彼が動きを止めていた。
「…」
「あの?」
「師匠は何処だ?」彼はばあちゃんをそう呼ぶ。
「…和室です。その…連絡しなかったのは申し訳ありません。」彼が大きく溜息らしきものを吐くのが分かった。俺の舌足らずの言葉で彼が事態を理解したのが分かった。
「そうか…寝室では無いんだな?」
「そっちの方が良かったですか?」
それには応えずに彼は和室に向かう。
ばあちゃんの遺体を一瞬凝視した後、彼は彼女の脇に正座する。それからずっと顔を眺めていた。ばあちゃんは相変わらずだ。死体を相変わらず、と言うのが良いのか分からないが相変わらず眠っている様だ。あの香りは落ち着いて来ている。あの女の持ち物に何か臭いの元が有ったのかな?
「どうして?」長い沈黙の後、磯上さんが問い掛ける。
「昨日、台所に倒れてたのを見つけて…心筋梗塞だって。」
「心筋梗塞?師匠が?…いや、そうか。他に変わった事は無かったか?」
変わった事…先程の過激な葬儀屋の事が思い浮かんだが、その事じゃないだろう。ばあちゃんの死因に関する…思い浮かばない。平穏な数日だった。
尤も、俺の行動半径は極狭く、彼女は活動的だったから何処かで何が有っても俺には分からない。そう言うと磯上さんは苦笑して居間に戻ろうと言った。
ソファーに腰を下ろすと俺は改めて昨日からの事を詳しく話した。所持金の事もばあちゃんの寝室の事も何もかも…あ、いや、葬儀屋の件は営業に来た事だけ話した。杉本の真意はまるで分からなかったがもう終わった事だ。もしかしたら、ばあちゃんは意外と物持ちで、彼女か彼女の背後の人間が知っていたのかも知れない。
「なるほどな。彦は…師匠の事について知っている事はあるか?…」
「知っている?」ばあちゃんに何かあるのか?ばあちゃんは底知れない、と俺は思う。でも、そう言った性格とか日常行動と言った部分以外で何か俺の知らない秘密とか世界を持っているのだろうか?磯上さんの言葉はそう言う聞き方に聞こえた。俺が思い切り不審な顔をしていると彼は話を変えた。
「うーん、いや、大した話じゃない。それなら良いんだ。…ところでどうだ?葬式は俺にさせてくれないか?」
「え?でも…」この答えは半ば予想していたが良いんだろうか?
「師匠の遺産については詳しくは俺も分からん。ある程度心当たりもあるし、整理する手伝いはするが、彦の話からしても時間は掛るだろう。ただ、遺体の事は待った無しだ。はやく決めなくてはならない。俺ならすぐに手配できるし、何より師匠の事で何か役立ちたい。」
「ですか。確かに夏場ですし、早くしなきゃとは思ってました。」
「…ああ、そうだな。では、良いか?やり方について頼まれてた事もあるしな」
「はい。分かりました、って言うのも偉そうですけど、お願いします。」
「ありがとう、彦」磯上さんは深々と頭を下げた。
「それにしても、あの南京錠の軍団は何なんですかね?金庫買った方が安上がりなんじゃ無いかと思うんですけど。謎の警報装置とかも意味不明ですし。」
「ふむ…その鍵を見せてくれないか?」俺は居間の戸棚から鍵を取り出した。キーホルダーは知恵の輪を組み合わせた様な金具で出来ていた。観ようによっては暖簾にあった籠目紋を三次元に展開させたようにも見える。ばあちゃんが好きなモチーフだ。そこに普通の鍵が二つぶら下がっている。
それを渡そうとすると磯上さんにしては珍しい事に一瞬吃驚したように手を引っ込めた。
「ええ?」
「すまん、貸してくれ」彼は真剣な様子で力を込める様にそれを受け取った。儀式じみた仕草に俺も緊張してしまう。暫く鍵を握り取った自分の拳を見詰めていたがやがて息を吐く。
「なるほど、師匠のものだ・・・こちらの鍵の錠が分からないんだな?」
「そうです。一応、家で確かめられる錠には全部試したんですけど・・・」
「なんとかなるかも知れん」
「心当たりですか?」
「そうだ。詳しく知りたいか?」後の文節に若干力を込めて応えた気がした。
「…」俺は沈黙した。多分、ばあちゃんと磯上さんしか知らない世界があるのだろう。あの底の知れない人とタフで世知に長け世界中を飛び回る貿易商を結びつける共通項が。
それは多分、単なる素人碁のネットワークではない。家に来た時の暗喩に満ちた二人の会話はそれよりももっと広く深い事に付いてのものだった様に思えた。なぜ、それを俺に隠したのかは分からない。ただ、安易な覚悟で臨める世界では無いのだろう。その世界を俺は覗き見たいのだろうか?それより、もっと、敢えて、飛び込んでみたいのだろうか?俺は自分の部屋とごく僅かな家の部屋からなる生活圏から飛び出して新しい世界を見たいのか?そうすれば変われるのだろうか?
思い切ってやってみろ、と仕事を勧められたときによく言われた。何とかなるものだから、と。しかし、力の無い者が、そのレベルで無い者がいきなりその世界に飛び込んでも結局傷つき消耗してゆくだけだ。躓きから成長出来るのは成長出来るだけのベースとなる能力があるからだ。
その人間にとってその世界がムリゲーであるのかそうで無いのかは予め決まっていると俺はそう思う。そう言った生きるための世界の全てに最低限のベースが無い人間も居る。俺は恐らく・・・そうなのだろう。
ましてその世界はばあちゃんと磯上さんの世界なのだ。覗き見る位なら磯上さんが助けて呉れる筈だ。でも、それで、その世界がとても魅力的なものだったら…どうでも良いファーストフードのカウンター裏や道路脇の工事現場だったら自信を持って自分の部屋に帰って来る事が出来る。PCを立ち上げれば一瞬でそこでの失敗や恥辱も忘れ去れる。どう言い訳しようと最低の人生だけど俺には帰る所があった。
でも、そこを知ったら…物理的に俺の部屋が消える前に別の意味で俺の生きる唯一つの世界が消えてしまう。俺は沈黙し続けざるを得なかった。
「彦、分かった。」磯上さんは本当に分かっている。長い付き合いだ。
「この鍵はちょっと預からせて貰っていいか?」
「…はい。」
この時の選択が俺の運命、とそして恐らく磯上さんの運命を変えることになったと思う。ここで彼とばあちゃんの世界を覗き込む事を選んだなら、俺が彼女の世界に自分の意志で入り込む事を決断したなら全ては変わっていた筈だ。
しかし、この時、俺も磯上さんも選ぶ事を選ばなかった。俺については生まれてこの方ほとんどそうであったやり方だったし、一方、磯上さんにとっては彼の優しさ故だったろう。彼は力に満ち、その庇護下にあると彼が思っていた俺の選択の意味はそれ程大きなものでは無かったのだ。どうとでもなる、と考えた事は傲慢であったのだろうか?
「多分、師匠は彦が困らないだけのものは残している。…それに俺が居る。心配するな。」磯上さんがここまで踏み込んだ言い方をするとは思わなかった。また俺も希望していた訳では無かった。それは余りにも虫が良すぎる。昨日から気持ちが落ち着いた後は俺は力の無いなりにある程度足掻いて、そして野たれ死ぬ事は仕方が無いと思っていた。
これは嬉しかった。ただ一方で俺は心に引き攣るような痛みを覚えていた。おそらく彼のこの心情は穢される。俺の泥沼の様な思考の迷宮から出てくる化け物共を受け流せるのは今まではばあちゃんだけだった。磯上さんにそれを期待するのは何かが違っている。ただ、俺は余りにも自信が無くその申し出を断る事も出来ず、ただ曖昧に頷くだけだった。
暫くすると磯上さんは気分を変える様に俺の方を見て眉をあげた。
「そうだ、土産がある。」
「ええ…」むしろ微妙な気分になった。
「毎回楽しみにして貰ってるからな。忘れる訳にはいかん」どこか嬉しそうに鞄から布の包みを取り出す。包みを開けると革の鞘の付いた木の柄のナイフが現れた。随分、今迄とは違う。鞘や柄に彫り込まれた紋様も精緻でかなり値が張りそうだ。
「へえ…」俺は思わずそれを覗き込んでしまった。やっぱり、刀剣類は男心を刺激するよな。この大きさだとブレイドもかなりゴツそうだ。俺が興味を示したのを見ると磯上さんは其れを俺の前に置いた。
「 これはフィンランドに行った時に手に入れた。いいものだろ?」
「正直驚きました。これには処分費寄越せ、って突っ込みは出来ないですね。と言うか、受け取れません。」
「受け取れよ。いや、それにこれは買ったものじゃない。原価ゼロだ。」
「それじゃ、相手は磯上さんに持って貰いたかったんじゃ無いですか?」
「拾った物かも知れないだろ!」
「そうなんですか?」
「…多分、手放したかっただけだ。」
「呪いのアイテム」
「違う!いいか、彦、人の好意は素直に受け取れ!」
「分かりました。折角のご厚意、此処は黙って受け取ります。」
「おう」
「…」
「…これを手に入れるのにな…」
「…」
「…せっかく…」
「…」
「…彦」
「…フィンランドって冬戦争の?」
「ああ!…例えの出し方がアレだがそうだ。そこにクオピオって街があってな、そこにお得意が居るんで偶に寄るんだが…」そのお客に頼まれてその支店の労務問題に首を突っ込んだらしい。
「相変わらず、物を売らない貿易商ですね。」なんか調子出て来た。今日もやるぞ!
「そう言うな。信用が有ると思ってくれよ。俺に頼めば揉め事が解決する、じゃあ彼奴を呼べ。序でに物も買うかと値段抜きで商売出来るんだ。上手いビジネスモデルだろう?…ともかく、そこの支店長が支店の従業員の個人情報を盾に会社を脅迫して来たんだ。」
「脅迫の種になる従業員の個人情報って …会社の偉い人の愛人だったとか、ブラックで鬱病ばっかりとか…邪神の信徒で社内で常習的に殺人儀礼を執り行ってたとか?」
「ちょっと違うが、そこはそう言う種類の個人情報だと思ってくれ。それで俺は支店長と交渉をしたんだが、奇妙な交換条件を突き付けられたんだ。そいつが命よりも大事にしてる先祖代々の絵を実家から取り戻して欲しいってな。」
「奇妙というか意味不明です。まさか会社への脅迫の条件もそうだったんだって訳じゃないんですよね?」
「違うな」
「要するに双方に磯上さんの揉め事に首を突っ込みたがる性格をうまく利用されたんですね。」
「話が早ければ良いってもんじゃないぞ、彦。だが、まあ俺だからそう言う話になった事は事実だ。確かに実家は国境の向こう側ロシア国内だったからな、法的にどうこうってのも難しいんだろう。で、俺は実家に向かったんだ。」
「…」
「所が、実家には何も無かった。というか、実家自身がもう誰も居なくなっていたんだ。ただ、そこの収蔵品はサンクトペテルブルクの美術館に買い取られた事が分かった。いきなりハードルが上がった気がしたよ。」
「それ最初から仕組まれてませんでしたか?実家の状態なんて幾ら何でも調べが付くでしょう?」
「上手いやり方だ。まず、うんと言わせてから引き返せなくなった所で本当の条件を明らかにする。」
「やられたのは磯上さん自身ですよね。」
「まあな。結局、あらゆるコネを使ってその美術館の職員に渡りを付ける事になった。それでその絵が何処の倉庫にあるかまでは突き止めたんだが…」警察の横槍が入ったらしい。それからコンゲームの末に見事絵を手に入れた顛末を語ってくれたが、余りにも嘘臭いので割愛する。
その後、絵と引き換えに個人情報のファイルを取り戻してその話は終わった。ナイフはその時、支店長がオマケで付けてくれた物らしい。
「でも、それってその支店長としては割の合う話だったんですかね?脅迫の目的が何なのか分からないけど、結局そっちは諦めたんでしょ?」
「もし、此方がその絵を勝手に探し出したら終わりだったからだろうな。」
「でも、こちらは絵がある事も絵が何もかもと引き換えにしても良い位に重要って事も分からない訳じゃ無いですか?」
「俺ならいずれ探し出したって事が向こうにも分かったのさ。ある種の連中には命と引き換えにしても守らなくてはならない物があるんだ。俺にはそれを嗅ぎ付ける鼻があるんだよ。」
「…ばあちゃんもその鼻って持ってたんですか?」思わず聞いてしまう。
「…ああ」磯上さんの説明は最後要領を得ないものになっていたが俺は話を止めた。俺はそちらには行かないと決めたのだ。
彼はやはり俺にもそちらの世界を見せたいのだろうか?この家に立ち寄る度話してくれたあの信じられないホラ話はばあちゃんに怒られないギリギリでの俺への誘いだったのか?でも、彼女は俺には全くそんな事は匂わせなかった。
「…本当に残念だよ。」ばあちゃんの言葉が蘇る。
やめておこう。
磯上さんは心当たりを探したら戻って来ると行って出て行った。出掛けに何か言いたそうにしていたが俺の萎れた姿を見て気の毒に思ったのかそのままドアを閉めた。何処からかあの華の香りが漂ってきた。
何にせよこれで本当に今日は終わりだ。そう思い部屋でPCを立ち上げた所で再びドアフォンが鳴った。11時過ぎだった。